【まくら】
大阪落語「高津(こうず)の富」の舞台を江戸に移した噺で、大筋は殆ど原作のまま。
今では様々な用途の宝くじがあるが、江戸時代の富くじは、もっぱら寺社の修理に使った。
幕府や大店が寺社へ寄付をしなくなり、寺社はみずから資金を集めて修復を続けなければならなかったのである。
もともとは、当選者にお守りをさずけたのが始まりだったという。
が江戸末期では、最高額九〇両から、大きな富になると三〇〇両の当たりくじが複数出た。
それでも寺社は利益があるのだから、よほど多くの人が購入したのだろう。
庶民にとって富くじは決して安くない。
そこで、数人が集まって一枚の富くじを買う。
富くじには組の印、番号、そして興行の日付と場所が書かれていた。
当選者を選ぶのを「興行」と言っていたのだ。興行日には群衆が会場を取り囲み、箱に入れた木札をきりで突いて出すのをじっと見守った。興行は厳正に行われたようである。
出典: TBS落語研究会
【あらすじ】
「ちょいと、おまえさん」
「なんだい?」
「なんだいじゃないよ。二階のお客さんだよ。もう20日も逗留しているよ」
「結構じゃぁねえか」
「喜んでちゃ困らあね、おまえさん。茶代一つ出さないじゃぁないか。なんだか様子がおかしいよ。きっと無いのかもしれないよ。深みぃはまらないうちになんとかしたほうがいいんじゃぁないかい?ねえ、おまえさん。様子ぅさぐっておいでよ」
(そこで、主人は客の様子を探りつつ、宿代を払ってもらう交渉に行く。客は大名に金を貸しているお大尽で、金を返されると蔵に金がいっぱいになってあふれるので返さなくていいと大名に断りに来ているのだ、と事情を説明する。この辺のやり取りが実に面白い。離れを建てたのだが歩いて7日もかかるので見に行っていないのだそうである。そんな御大家の旦那様とわかたので、宿の主人はアルバイトで売っている千両が当たる富札を買ってもらうことにした。この富は本日これから突くのであり、ここで売れなければ自分で買うことになる富札である。そして当たった場合には半額分けてもらうことを約束する。しかし、このお客は、実は金が無い。外に出てくるといって逃げ出した。だが、一応は富突きの結果を見に行って、ダメならそのままということで富突きを行なっている「椙森(すぎのもり)稲荷」に出かける。そして確認したところ千両が当たっているのである。夢にも思わない事態に寒気が生じ震えが来る。急いで宿に帰った。)
「まぁ、どうしたんでございます、お顔の色がお悪い・・・お加減でも悪いんでございますか?どうなさい・・・」
「ど、ど、どうもこうもねえや。あんだか知んねえけど気持ち悪くてなんねぇ。おらここんとこへちょっとまぁ休ましてもらうだから・・・」
(そこへ宿の主人も帰ってくる。おかみさんに客の富が千両当たったことを伝え、半分の五百両もらえることを教える。)
「神棚へお燈明をあげてな・・・確かに頂戴できるか、おれぁちょいとな、旦那に念を押してくるからな」
「ちょいとお待ち、お待ち、おまえさん・・・なんだねぇ、下駄ぁ履いて上がって来たんだね。冗談じゃぁないよ」
「あ、そうかい、あんまりうれしいもんだからね・・・どうも座ってて痛えと思ったい」
(・・・・・・布団を被って寝ている旦那のところにやってきて、・・・)
「ぇぇ、もし旦那さま、布団をおかぶりになって・・・・どっちが頭だかわかりませんが・・・布団をはぎますよ。さあ起きて・・・」
と、亭主が布団をまくると、客は草履を履いて寝ていた・・・・。
【オチ・サゲ】
途端落ち(最後の一言で結末のつくもの)
【語句豆辞典】
【馬喰町(ばくろうちょう】
江戸時代も現在と同じ位置。江戸時代には郡代屋敷に接し、また日本橋(商業中心地)に近い土地柄、大、小の宿屋が約80軒ほど軒を並べていた。馬喰町の由来はその名の通り、徳川家康が関ヶ原出陣の際、馬工郎(馬喰)高木源五兵衛に命じて厩舎を作らせ、数百頭の馬を飼うために、配下の馬喰(馬方)を住ませたことによる。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰(博労とも書く)が明治維新まで住んでいた。
この辺の宿屋は俗に公事宿と云い、客の多くは幕府直轄領の農民で、郡代屋敷や寺社奉行所へ訴訟のために来た原告・被告及び付添い人だったため、いずれも長逗留するので、素性の知れぬ客が長い間滞在するからといって、別に怪しまなかったのである。
【噺の中の川柳・譬(たとえ)】
『運は天にあり、ぼた餅は棚にあり』
【この噺を得意とした落語家】
・五代目 古今亭志ん生
・三代目 桂三木助
・五代目 柳家小さん
・立川談志
【落語豆知識】 板(いた)
高座の事。
大阪落語「高津(こうず)の富」の舞台を江戸に移した噺で、大筋は殆ど原作のまま。
今では様々な用途の宝くじがあるが、江戸時代の富くじは、もっぱら寺社の修理に使った。
幕府や大店が寺社へ寄付をしなくなり、寺社はみずから資金を集めて修復を続けなければならなかったのである。
もともとは、当選者にお守りをさずけたのが始まりだったという。
が江戸末期では、最高額九〇両から、大きな富になると三〇〇両の当たりくじが複数出た。
それでも寺社は利益があるのだから、よほど多くの人が購入したのだろう。
庶民にとって富くじは決して安くない。
そこで、数人が集まって一枚の富くじを買う。
富くじには組の印、番号、そして興行の日付と場所が書かれていた。
当選者を選ぶのを「興行」と言っていたのだ。興行日には群衆が会場を取り囲み、箱に入れた木札をきりで突いて出すのをじっと見守った。興行は厳正に行われたようである。
出典: TBS落語研究会
【あらすじ】
「ちょいと、おまえさん」
「なんだい?」
「なんだいじゃないよ。二階のお客さんだよ。もう20日も逗留しているよ」
「結構じゃぁねえか」
「喜んでちゃ困らあね、おまえさん。茶代一つ出さないじゃぁないか。なんだか様子がおかしいよ。きっと無いのかもしれないよ。深みぃはまらないうちになんとかしたほうがいいんじゃぁないかい?ねえ、おまえさん。様子ぅさぐっておいでよ」
(そこで、主人は客の様子を探りつつ、宿代を払ってもらう交渉に行く。客は大名に金を貸しているお大尽で、金を返されると蔵に金がいっぱいになってあふれるので返さなくていいと大名に断りに来ているのだ、と事情を説明する。この辺のやり取りが実に面白い。離れを建てたのだが歩いて7日もかかるので見に行っていないのだそうである。そんな御大家の旦那様とわかたので、宿の主人はアルバイトで売っている千両が当たる富札を買ってもらうことにした。この富は本日これから突くのであり、ここで売れなければ自分で買うことになる富札である。そして当たった場合には半額分けてもらうことを約束する。しかし、このお客は、実は金が無い。外に出てくるといって逃げ出した。だが、一応は富突きの結果を見に行って、ダメならそのままということで富突きを行なっている「椙森(すぎのもり)稲荷」に出かける。そして確認したところ千両が当たっているのである。夢にも思わない事態に寒気が生じ震えが来る。急いで宿に帰った。)
「まぁ、どうしたんでございます、お顔の色がお悪い・・・お加減でも悪いんでございますか?どうなさい・・・」
「ど、ど、どうもこうもねえや。あんだか知んねえけど気持ち悪くてなんねぇ。おらここんとこへちょっとまぁ休ましてもらうだから・・・」
(そこへ宿の主人も帰ってくる。おかみさんに客の富が千両当たったことを伝え、半分の五百両もらえることを教える。)
「神棚へお燈明をあげてな・・・確かに頂戴できるか、おれぁちょいとな、旦那に念を押してくるからな」
「ちょいとお待ち、お待ち、おまえさん・・・なんだねぇ、下駄ぁ履いて上がって来たんだね。冗談じゃぁないよ」
「あ、そうかい、あんまりうれしいもんだからね・・・どうも座ってて痛えと思ったい」
(・・・・・・布団を被って寝ている旦那のところにやってきて、・・・)
「ぇぇ、もし旦那さま、布団をおかぶりになって・・・・どっちが頭だかわかりませんが・・・布団をはぎますよ。さあ起きて・・・」
と、亭主が布団をまくると、客は草履を履いて寝ていた・・・・。
【オチ・サゲ】
途端落ち(最後の一言で結末のつくもの)
【語句豆辞典】
【馬喰町(ばくろうちょう】
江戸時代も現在と同じ位置。江戸時代には郡代屋敷に接し、また日本橋(商業中心地)に近い土地柄、大、小の宿屋が約80軒ほど軒を並べていた。馬喰町の由来はその名の通り、徳川家康が関ヶ原出陣の際、馬工郎(馬喰)高木源五兵衛に命じて厩舎を作らせ、数百頭の馬を飼うために、配下の馬喰(馬方)を住ませたことによる。その後も隣町の大伝馬町・小伝馬町に幕府の伝馬役を勤めた大勢の馬喰(博労とも書く)が明治維新まで住んでいた。
この辺の宿屋は俗に公事宿と云い、客の多くは幕府直轄領の農民で、郡代屋敷や寺社奉行所へ訴訟のために来た原告・被告及び付添い人だったため、いずれも長逗留するので、素性の知れぬ客が長い間滞在するからといって、別に怪しまなかったのである。
【噺の中の川柳・譬(たとえ)】
『運は天にあり、ぼた餅は棚にあり』
【この噺を得意とした落語家】
・五代目 古今亭志ん生
・三代目 桂三木助
・五代目 柳家小さん
・立川談志
【落語豆知識】 板(いた)
高座の事。