それにしても野党が批判したとあるのは解せない。
さすがフエアーな総務省!国民のためを思って真実を追求するまとな部門も役所にはあるんですねと褒め殺しすればいいのに・・・
<山路昭雄氏の写真>
写真から想像すると昭和三十二年晩秋の早朝ではないだろうか
。
新しい駅がオープンして少し一段落した感がある。パイロット萬年筆の看板を揚げる新光堂書店が右に建っている。オカダヤはまだ姿をみせていない。近鉄ストア開店売り出しののぼりが、川伝いに並ぶ。この川はまっすぐ駅裏に抜けていて、現在駅西に川の続きを見ることが出来る。久保田町で三滝川からくみ上げられた水は、農業用水と下水の役割をしながら、あせち川へと流れていた。植えられたばかりの楠の木が、整備したての中央通りを物語っている。(注 新しい駅 近鉄四日市駅)。
近鉄ストア2階から中央通り東方向を見る。左にはすでにオカダヤが建っている。遠く左に商工会議所屋上の東芝ネオンが望める。←ブログ記事はここまで。
☆昭和32年晩秋の「四日市」なら中学生の自分もこの頃2回目に住んだ四日市にいた頃だなあと思って写真を見た。
目が写真の右上に行ったとき、見覚えのある懐かしいクレーンの小さいシルエットがあるのに気が付いた。そして工場の建屋も見える。
このクレーンは板ガラスの原料を溶解する窯を1日24時間燃やし続けるための石炭を船から陸上げする水平引き込み式クレーンだ。
昭和32年当時は近鉄四日市駅からクレーンが見えていたことになる。阿智胡地亭はあのクレーンの根元にある工場に付属する社宅で戦前に生まれた。
2017年10月に生まれた場所を訪ねた。⇒こちら。(click)
当時父親は24時間操業の工場の機械や窯全体のメンテ担当で、トラブルがあると夜中でもすぐに駆けつけるために社宅も工場に付随していた。
彼の勤務は三交代で夜間勤務が多かったのか、昼は大体寝ていて一緒に休日に遊んでもらった記憶はない。工場街だから住民は少なくそのせいか
近くに幼稚園はなく、幼稚園というものが世の中にはあることも知らず、団体生活の経験はないまま父親が次に転勤した九州若松の二島工場の社宅から
4キロの山道を歩いて若松市立島郷第一小学校へ入学し通学することになった。
このクレーンに近い工場の社宅にいた頃、自分がこのクレーンを製造納入した会社に将来就職することになろうとは思いもしなかった(笑)。
まして、クレーンが作られた愛媛県新居浜市に勤務することになることも当然知らなかった。
ちなみに水平引き込み式クレーンを、アメリカのミシッシピー河の河口に据えて、カオリンを艀から本船に積み替える用途にピッタリと言うことで
買ってもらった時に、営業担当でニューオリンズに数回出張する(クリック)ことになったのはまさにこのタイプのクレーンのおかげだ。
ところで2017年10月に四日市の現地を訪ねた時、窯を燃やすことが無くなった工場にもうクレーンは不要になっていてクレーンは撤去されていてどこにもなかった。
しかしもう2度と姿を見ることはないと思っていたクレーンの貴重な写真にネット上で巡り合うとはIT時代のおかげだ。