阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

日本文学研究者  ドナルド・キーンさん死去 96歳 このアメリカ人の存在は私にアメリカの多様性を教えてくれた。

2019年02月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・ 1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれた。コロンビア大の学生だった18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、

みやびな世界に魅了された。太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事。彼らが残した日記を解読するうちに、日本への関心をより深めていった。


画像クリックで本文に飛びます。

 

今も続いている国民への忍耐押しつけ  

2015年2月26日 毎日新聞

ドナルド・キーンさんインタビュー

 お国のために我慢すること、お国のために死ぬことが、日本の伝統なのだろうか。若き日に「源氏物語」と出合った感動を抱き続け、日本国籍を取得した日本文学研究者のドナルド・キーンさんに聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 米国海軍の日本語将校として、太平洋戦争に従軍しました。武器は取りたくなかった。だから、語学の能力を生かそうと思ったのです。1943年2月に海軍日本語学校を卒業し、日本軍から押収した文書の翻訳任務に就きます。ある日、小さな黒い手帳の山に行き当たりました。同僚たちは避けていた。なぜか。悪臭が立ちこめていたからです。それは死んだ日本兵たちが所持していた日記でした。血痕がついていたんです。軍事機密が漏えいする恐れがあることから、米軍は兵士が日記をつけることを禁止していました。日本軍は違いました。部下が愛国的かどうか、上官が検閲する目的があったのでしょう。

 「軍紀旺盛なり」。部隊が内地にいるころはまだ、勇ましい言葉で埋まっています。ただし、やがては南洋の最前線に送られる。輸送船団の隣の船が突然、雷撃を受ける。乗船していた部隊もろとも、海の藻くずとなる。戦争の現実に日記の調子が変わってきます。上陸したガダルカナル島(1942年8月〜43年2月の戦いで日本兵約2万800人が戦病死)はもちろん、南の楽園ではなかった。食糧はない、水はない。マラリアは流行する。米軍の爆撃は激しい。覚悟したのでしょう。最後のページに英語でつづっているものもありました。「戦争が終わったら、これを家族に届けてほしい」

 我々と同じ人間なんだ。戦時プロパガンダが伝えるような「狂信的な野蛮人」などではないのだ。胸を打たれました。従軍前はコロンビア大学で日本人教授(故・角田柳作氏)に師事し、日本の文化を学んでいました。それでも、中国大陸における日本軍の蛮行を聞くにつれ、日本は怖い国だと思うようになっていました。それが皮肉にも、自分が戦争に参加することによって、一般の日本人を知った。心から、彼らに同情しました。日本文学において、日記は一つの伝統的なジャンルを形作っています。平安朝の昔から、優れた日記文学が残されています。しかし、無名の日本兵たちが残した日記ほど、感動的なものはめったにありません。

 最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にしました。沖縄戦(1945年3〜6月)では乗船した輸送船をめがけ、特攻機が突入してきました。なぜ、日本人は死を選ぶのか。ハワイ・真珠湾に設けられた捕虜収容所で出会ったのは、文学、映画、音楽を愛する日本人たちでした。彼らのためにレコード鑑賞会を開いたとき、敵も味方もなかった。ところが、そんな彼らは「日本には帰れない」という。ホノルルのハワイ大学の図書館で、日露戦争の資料を探し回りました。実はロシア軍の捕虜になった日本軍将兵は数多かった。それを教えたかった。「俺は将校だから、ロシア軍将校と同じようにウオッカを飲ませろ」などと要求したケースもあったそうです。

 捕虜になることは恥−−などということは軍部が強要した大うそです。戦争なのだから、命のやり取りは仕方がありません。しかし、相手に敬意を払うことはできる。能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実は平氏の武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を弔うことを選ぶことになります。

 熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしいことです。京都には(豊臣秀吉の朝鮮出兵で)切り落とした敵の耳を埋めた「耳塚」が残っています。これが武士ですか。「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張があります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。改めるべきなのですか。

 政府と軍部は都合良く、日本人の美徳である我慢強さを利用しました。作家の高見順(1907〜65年)は昭和20(1945)年の日記で「焼跡で涙ひとつ見せず、雄々しくけなげに立ち働いている」国民の姿を記しました。彼は敗北であっても、戦争の終結を望んでいました。戦争指導者は国民に愛情を持っているのだろうかと疑っていました。何やら、東日本大震災(2011年3月11日)に重なるものがあるように思えてなりません。あれほどの地震と津波に見舞われながら、互いに助け合う日本人の姿に世界が感動しました。けれども、国民は理不尽に忍耐を押し付けられてはいないでしょうか。

 杜甫(712〜770年)の有名な詩「国破れて山河あり」について、松尾芭蕉(1644〜1694年)は反論しています。山も河も崩れ、埋まることもあるではないか。それでも残るのは人間の言葉である、と。終戦直後の日本文学も言論統制が解かれ、一つの黄金期を迎えました。谷崎潤一郎、川端康成らに加え、三島由紀夫、安部公房などの新しい才能が咲き誇ります。

 東日本大震災の福島原発事故では放射能によって、国土の一部が汚染されてしまいました。しかし、国民の半数が反対しているにもかかわらず、世界中を震撼(しんかん)させた事故がまるでなかったかのように、原発再稼働の動きは進んでいます。戦後70年を迎え、言葉の力が再び試されています。

NHK NEWS web  2月24日

ロバート・キャンベルさん語る キーンさんの存在とは

 

ロバート・キャンベルさん語る キーンさんの存在とは

 

ドナルド・キーンさんと同じアメリカ・ニューヨーク出身の日本文学研究者で晩年に交流を重ねていた、国文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんは、キーンさんが亡くなったことについて「世代や立つ土俵は違いましたが、どこかで戦友のような気持ちがありました。去年のクリスマスの直前に入院していた病室を訪ねてお目にかかったのが最後でした。もう一度、元気な姿を見られるんじゃないかと思っていたやさきのことで驚きました」と心境を語りました。

キーンさんとは5年前の平成26年の春に東京都内で開かれた花見の場で出会って以降、交流を続けてきたということで「立ち話をすると、いつも何かひと言励ましのことばを下さったのが印象に残っています。キーン先生は非常に多くの優れたお弟子さんを育ててきていますが、直接教わったことのない私のことも気にかけて、アドバイスを下さりました。とても懐が深く視野の広い方でした」とその人柄をしのんでいました。

そのうえで、キーンさんが日本文学研究者として果たした役割については「終戦直後の荒廃した日本に降り立ち、その時代の現状だけでなく、江戸時代の文楽や能などの芸能にもさかのぼって日本人の精神文化を見いだし、刺しゅうを編むような丁寧さで優れた翻訳を積み上げてきました。国際社会の中で日本が地位を築いていなかった時代に、戦前・戦中の悲しい敵対関係を超えて普遍的な日本人の精神文化を西洋世界に送り出したことは、非常に大きな業績だと思います」と語り、「キーンさんは、自分と同世代の作家や戦前から活躍する谷崎潤一郎や川端康成のような優れた作家たちと交わり、座談を重ねました。翻訳家であり、研究者でもありながら、戦後の文壇の当事者でもあるという非常に特異な地位にいて、キーンさんほど一人一人の作家と向き合って関係性を持った人物はいなかったと思います」とその存在の大きさを振り返っていました。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帝劇地下街の東京六甲クラブの集まりに出ました。

2019年02月24日 | 東京あちこち
某日、2カ月に一回の襄山三水会例会に参加した。今年最初の集まりだった。今回の講話は「行動経済学」についてIさんからお話があった。
自然科学系のノーベル賞は受賞者も何となく記憶にあるが、社会科学系のノーベル賞については関心がなく数年前に[行動経済学]の受賞者が
あったことを今回はじめて知った。
従来の経済学では人間は合理的に思考し行動するという前提で理論が組み立てられてきたが、この前提をひっくり返し、人間は目先の損得などを優先し、
不合理な判断のもとに合理的でない行動をするという前提で学説を作ったのが評価されたそうだ。
 なるほどその方が現実に合っているかもしれない。何しろトランプさんが大統領に選ばれ、その讃美者がもう一期一国の首相に居座ろうという時代だから(笑)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノーベル経済学賞は、1968年にスウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞である[3]。
「ノーベル経済学賞」は通称[注 1]として広く用いられているが、ノーベル財団は、同賞は「ノーベル賞ではない」[注 2]として後述の正式名称を用いるか、
単に「経済学賞」(典: ekonomipris[6]、英: Prize in Economic Sciences[7])と呼ぶ。スウェーデン王立科学アカデミーにより選考され、
ノーベル財団によって認定される。授賞式・その他一般はノーベル賞と同じように行われている。
王立科学アカデミーは新しいノーベル賞として設立を承認したものの、アルフレッド・ノーベルの子孫やノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーは賛成していない[2]




クラブは有楽町の帝劇ビルの地下街という便利なところにある。



帝劇の前は相変わらず人が多い。





会が終わってからお堀端を少し歩いた。



東京会館が長いリニューアル期間を終わって営業を開始していた。

昭和50年代のはじめ、南柏の会社のアパートに住んでいた時、あいかたの両親が西宮市の夙川から上京し帰られるとき、
奮発して東京会館で幼児だった長女も入れて食事をしたことがあるが、廊下で司馬遼太郎さんとすれ違ったことを今も覚えている。
その日何かの文学賞の授与式があって司馬さんも上京していたようだった。きれいな白髪の司馬さんはすぐに彼とわかった。

ぐるっとまわってJR有楽町駅に向かった。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身内でお祝いのケーキ 

2019年02月24日 | 身辺あれこれ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする