品川宿は東海道53次の宿場町で一番規模が大きかったそうだ。日本橋を出立し京都や伊勢を目指す旅人を送って親戚や仲間が品川宿まで
送ってきて、一緒に泊まることが普通だったとか。当然その晩は送る側と旅人は宿でどんちゃん騒ぎとなる。
そういうお客様のご要望に応えているうちに宿場の規模が最大になっていったとか・・・。
(wikipediaから一部引用 西沢一鳳の江戸見聞録『皇都午睡』(1850)では、幕末当時の賑わいを「高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り
、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、
夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。 (中略) 女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。
岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より
行く旅人ども、参宮・金ぴら・大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。
表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、
道中女郎屋の冠たるべし。」と書いている[5]。
この整備された商店街が昔の宿場だったようだ。
途中荏原神社に寄ってお参りした。梅が見どころで奇麗だった。
4時半ごろから喉が渇き店を探したがやはり5時開店の店が多く、ようやく提灯が出ている店を見つけた時には嬉しくて
店の名前がわかる外観の写真を撮る余裕もなかった(笑)。
三人で牛もつ鍋2人前と鴨肉炙り2人前に黒霧島ボトル。ゆっくりのんびり楽しむことが出来た。
請求が三人で8千円。ついみんな口を合わせてまた来ますね、と言ってしまった。
帰りはJR品川駅まで歩いた。距離はあったが酔いがさめてちょうどよかった。
映画『幕末太陽傳』予告編