阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

昭和50年代の海外あちこち記    その12  インド・ムンバイでお世話になった商社駐在員の家族

2023年02月14日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(ムンバイ)によく行った昭和55年頃は中印紛争の余韻が残っている時期でした。

中印紛争のあおりでボンベイ市内に数多くあったという中華料理屋はみんな店を閉めてしまい、

オーナーの中国人は国外に出てしまっていました。そのため、中華メシは海外のどこに行っても食えるという

安心感がこの都市では無くなっていました。

 これで困ったのが日本からメーカーの人間を印度の商談に呼ぶ日本の商社です。日本メシ屋は当然ない、中華メシ屋もなくなった。

ホテルの西洋料理屋では牛肉を使ったメニューはハムステーキくらい。メーカーの出張者に一日三食何を食べさせたらいいのか。

 インド料理のスパイシーなおいしさに、その日からはまった私などは例外中の例外らしく、殆どの日本人はインド料理=カレー料理=辛い→とても口に合わない、

というイメージが強く、はなから敬遠してしまいます。実際は辛いといっても、辛さそれ自身は知れているし、

辛いというのではなくスパイスの旨みであり、スパイスも種類が豊富で野菜の使用量も多く健康食の一つなのですが、日本人に長年CMなどで刷り込まれた

<インド料理は、辛い料理>という既成観念は凄いものだと驚きます。


 ボンベイのオベロイホテル滞在も何日か過ぎ、毎食、果物とパンとコーヒーだけしか口にしない人も出て来たある朝、

東京から同行した商社・M商事の長谷さんが「皆さん、今晩は楽しみにしてください。カツドンと味噌汁と漬物を食べてもらいます。」と言いました。

「おおーっ」と皆どよめきましたが、雰囲気はどこでそんなもん食えるんやと半信半疑でした。その夜、機械担当駐在員の車でオフィスを出ました。

5人のメンバーは結局、彼の自宅のアパートに招待されたのです。


 ダイニングキッチンのテーブルにはもう日本の家庭料理の皿が沢山並んでおり、奥さんに挨拶して全員ニコニコ顔で、席につき次々おいしい日本食を堪能しました。

狭い台所の横のテーブルですから奥さんとインド人の料理人が大車輪でコロッケやポテトサラダなどを作っているのが見えます。


 さすがに日本酒はなかったけど、インドでいいものが出来るジンやスコッチ類は飲み放題で、久しぶりにゆっくりとした頃、家の中を見るとも無く見ると

前に住んでいた千葉県南柏の3DKの社宅のアパートとよく似た間取りで、時々小学生くらいの娘さんが台所の隅を通ってトイレに行っているのが見えます。


 大阪支店から数年前にボンベイ勤務になったと聞いていましたが、旦那も奥さんも大阪出身の「ジュンカン」

 (純粋の関西弁を喋る人を表す言葉)で、ボンベイで聞く大阪弁は耳に心地よく響きました。

奥さんにも話の輪に入ってもらい、日頃の生活ぶりを伺いました。

料理をしているインド人は代々の機械担当駐在員が引き継いでいる料理人だそうです。

彼は日本の家庭料理は何でも出来ます。私よりレパートリーは凄いンですと笑っておられた。

彼の家はここから半日ほどバスで行く町で、半年に一度休みで帰るくらい。普段は住み込み。

見た目50歳くらいの温和な白髪交じりの人で、恥ずかしそうに少し日本語をしゃべりました。

 買物などにもついてきてもらう。最初のうちはとても一人で買物は出来ない。

お嬢さんは小学5年と中学一年の二人、確かアメリカンスクールへ通っていると言われたような記憶。

 二人は、はにかみながらも最初にきちんと挨拶してくれた。

奥さんは「商社やからどこへ行け言われても、いかなあかんけどボンベイとは思いませんでした。

まだしばらく帰してもらわれへんと思うから、もう少しここで頑張らんとネ、ハハハ」と笑って言われた。


 こうして旦那の会社の仕事のためとは言いながら、夜、自宅を取引先のいろんな会社の人に提供して

(担当者だから決して広いアパートではなかった)

酔っ払って遅くまで帰らぬ客の為、子供さんも影響されながら頑張っておられる日本人商社マンの家族。

申し訳ないがお名前を忘れてしまったけど、こうするのは当然の事という感じで自然体で遇してくださった

奥さんとあのご家族のことは忘れられません。


 後で長谷さんに聞くと、インドの華僑がインドを出てしまい中華料理屋がなくなってから、

ボンベイの駐在員の家族には悪いけど、ああして自宅での接待を頼んでいると。

 外人が住めるような住まいが少なく、家賃が恐ろしく高いので狭いアパートしか会社も借りてくれない。

コックの給料と食事の材料費と酒代は当然会社持ちだが、奥さんと家族の貢献代は給料のうちで会社は持ってくれない。

機械担当は商談数が一番多く、納入業務も多くいろんなメーカーからいろんな人間がボンベイに来ます。

エライさんからペイペイまで、グループ各社のVIPも含めて。

ウ~ンできんこっちゃと正直思いました。あのクーラーも効きかねる暑さのボンベイの日本飯、感謝感激でありました。

 ついでながら、いま、神戸に生まれ神戸で育った人たちに神戸に数おおいインド料理屋を紹介したり、

(代々の神戸人は意外に保守的で、新しいものに手を出さない人も多い)

正月の初詣の後はインドレストランで飯を食う事を習慣にしている我が家は、やはりこの私のボンベイ出張がインド料理好きの初めの始めです。


    ◎オベロイホテルのロビーで。3回目?くらいのボンベイ出張で。

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   阿智胡地亭便り#91<ボンベイから出した手紙> 2005年9月6日 記

自分の子供時代の品物を整理していた長女が、「お父さんがインドから送ってくれた手紙が出てきたよ」と言って、その手紙を私の所へ持ってきました。

 読んでみると、長女の小学校の入学式のことが書いてありました。それからすると昭和55年(1980年)の4月ごろに、インドのボンベイから、

当時住んでいた茨城県北相馬郡藤代町(現取手市藤代町)の自宅に出した手紙です。(当時のボンベイは今はムンバイという名になっています。)


     泊まったホテルはオベロイホテル。

「Y子へ

 おとうさんは おしごとで たいわんから また べつのひこうきにのって いんどの ぼんべいというところへ きています。

ままに ちづでどこか みせてもらいなさい。いんどの人ひとはいろが みなくろく にほんじんとは かおやからだつきが ちがっています。

 Y子のにゅうがくしき おめでとう。おとうさんが いえへかえってから にゅうがくしきのときの ようすを

おはなししてください。おとうさんの にゅうがくしきのときは きゅうしゅうの わかまつ ふたじま というところに いました。

がっこうのさくらのはなが まんかいで きれいでした。

これから あたらしいことを たくさん べんきょうして よくかんがえるこどもになってください。そしてじぶんのかんがえを はっきり いえるようにしよう。

 M子と なかよくしていますか。ときどきはけんかしてもいいけど(M子がわがまましたりするとき) ままと M子と みなで なかよく

ぱぱのかえりを まっていてください。では げんきで まいにちがっこうへ かよってください。 ぱぱより。」



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神戸の南京町は春節の彩り             10年前の今日 2013年2月14日の本ブログに掲載

2023年02月14日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

湊川神社・楠公会館の午餐会の講話を聞いてから、乗り物に乗らずに歩いて元町商店街まで行きました。
 商店街の東端にある南京町を覗いてみました。
ウィークデイの午後で、いつもよりわずかに人が多いかなという感じでした。


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川柳パワーは嬉しい!

2023年02月14日 | 俳句、川柳
2010年11月20日(土)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 
親は無理だけど夫は選べたが          半田 さらはな

仕方なくたまに落語もやる師匠         八尾 立地骨炎

「無理しない」「努力しない」は紙一重     奈良 サクラモチ

そのうちになんとかなるで古希になる      神奈川 カトンボ

結婚し嫁さんしだいになる息子         宮崎 十河三和子

同窓会「ジイさんばかり」言うバアさん     いすみ 野原咲子

検察官にも弁護士が付くんだね         さいたま 館野志穂

    いずれも「毎日新聞 万能川柳」から引用。
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02月13日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年02月14日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

少数異見  聞いても聞かない、見えても見ない     No.211(2023.2.14)から引用

 ★縁故は続くよどこまでも

電通には東大卒も多いがそれは同期の官僚がしかるべきポストに就いた時に対応させるため。大企業各社経営者の御曹司も多い。

新聞各紙幹部子弟も。変わったところでは、かつて福沢諭吉の孫(曾孫?)、松本清張の息子、任天堂の息子も居た。

安倍昭恵も、巨人軍を辞めた時の長嶋茂雄も籍を置いていたことがある。元「嵐」の桜井翔君の父親は総務省事務次官から電通の副社長。

翔の兄弟は妹がテレビ局、弟は大手広告代理店とのこと。

電通幹部の子弟はテレビ局に。新聞社は人気が無いようだ。安倍晋三君は裏口入学裏口卒業(成蹊大教授の表現)の後、神戸製鋼に入社している。

弟の息子・岸信千代は慶応卒でフジテレビ。

どの電力会社にも地元県市町の首長議員子弟がごろごろ居る。

高級官僚は退職後、系列の公団、公社、事業団、財団に天下ったり、関連業界に入ったり(禁止されたはず?)、国会議員になって関連業界との密接な関係を保持する。

企業は業界団体を通じて、あるいは直接に政治献金を提供し、見返りに各種補助金、税制優遇などを享受する。

また若いうちに企業経営者の子女との婚姻を斡旋されたりもする。これって「越後屋」と「お代官様」が親戚になるということなのだが。

また法律はおおかた官僚が作り、また運用もする。予算も同様にさまざまな仕掛けを作り込む。

例えば泥棒の手先が大工に居て塀や壁に細工をして置くようなものではないか。インサイド情報もダダ漏れる。

ある代議士が大臣になるとその担当する省では、新大臣の地元選挙区にお土産として特別に補助金や、特別の政策を割り当てるということをする。

首相が出た県ではそこの地方紙が潤うほど、地元への予算の投入があるという。

安倍晋三は親しい人たちには大変親切だったと言われている。官僚も政治家も、基本的にお仲間にはとことん親切なのだろう。

どうせ自分の腹の痛むことではない。

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