阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

桜開花の少し前 上野恩賜公園は外国人観光客も沢山いて賑わっていた。

2023年03月16日 | 東京あちこち

2023年3月14日上野恩賜公園の噴水と周囲の人々

 

 

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『中国 王朝の至宝 』展@神戸市立博物館は見応えがありました!       10年前の今日 2013年3月16日の本ブログに掲載

2023年03月16日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

午餐会の卓話が終わると、神戸駅近くの湊川神社から、三宮に近い神戸市立博物館まで歩きました。約30分ほどで辿り着きました。

展示品を見て、最初よくこの時期に貸し出したものだと思いましたが、企画自体は3年も4年も前にスタートしたであろうし、逆にこの時期だからこそ貸出たのかもと思い直しました。

ほぼ4000年間に中国大陸に住んでいた人類が制作した事物。ほどよい入場者数で一つひとつじっくり見ることが出来ました。

製作をオーダーした人間はこの世にはいませんが、兵馬俑の兵士の背中からは粘土を細工した工人の手の触感が、静かに伝わってきます。

どの一つの事物にもそれを作っている職人、工人の指や手先を掌が目の前に浮かんでくるような思いで会場を回りました。

 阿智胡地亭の諏訪の一族は江戸の昔から職人が生業(なりわい)だったせいか、芸術品を見るとそこが大英博物館であっても 

その血が流れる自分は 芸術品の中につい その作品を実際にこしらえた人間の生の手の跡を探す癖が直らない(笑)。
  

   

  

 


元町商店街の途中から海岸通りに抜けて歩いて行きました。




本展のHPはこちら

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横沢彪さんの死を悼む

2023年03月16日 | SNS・既存メディアからの引用記事
011年01月12日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

♪澤田隆治と横沢彪がテレビ業界にいなかったら、テレビの漫才ブームは起こらず、現在の笑いの多くの才能(タレント)は世に出ることもなかった。

新聞社は死亡記事を新人に書かせるためか、殆どがコピペで作られたステレオタイプの記事になり、鎮魂の気持ちが込められていない記事が大半だ。

 追悼文は、本来は新聞社のベテラン記者で亡くなった当人の功績を理解できる人が書くべきではないだろうか。

ようやく東京新聞に、悼みと感謝の心を持った人が書いた追悼文が出ているのを見つけた。横沢彪さん、良かったですね。

あなたが現役のころ、あなたが作る番組には意外性が含まれ、意表を突かれる楽しみがあって、チャンネルを合わせるのが待ち遠しかった。合掌。


テレビは 見せ物である 元フジ名プロデューサー横沢彪さん死去
  

2011年1月11日東京新聞web朝刊


「テレビは見せ物である」-これが、数々の人気バラエティー番組を世に送り出し、漫才ブームの火付け役ともなった

元フジテレビの名物プロデューサー・横沢彪(たけし)さん(8日死去、享年73)の哲学だった。

 一九五四年二月十九日、東京・蔵前国技館で行われた力道山・木村政彦組とシャープ兄弟のプロレスタッグマッチ。

当時高校一年生だった横沢少年は、「学習塾」に行くと母親にうそをついて外出し、横浜市神奈川区の広場に設置された街頭テレビで歴史的生中継に見入った。

画面の前に群がる人々。初のテレビとの出会いを「人々のやじ馬的好奇心を満足させてくれる格好の見せ物、まさに電気紙芝居のような光景でした」と述懐していた。

 空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒す力道山。その雄姿が脳裏に焼き付き、フジに入社後、「どんな番組にもヒーローが必要だ」と確信。

数々のお笑い界のヒーローを育て、送り続けた。

 しかし、最初から順風満帆だったわけではない。入社五年後の六七年、「お笑いたっぷり寄席」でディレクターデビューを果たしたが、現場で機敏な判断ができず、

自分には適性がないと思い悩んだという。初のプロデューサーは七四年の「ママとあそぼう!ピンポンパン」だった。

 飛躍の転機は、八〇年四月一日のゴールデンタイムに放送する「期首の穴埋め番組」の企画募集。軽い気持ちで出した「東西対抗漫才大会」が通ってしまう。

セットを作る美術デザイナーがスケッチに「MANZAI」と記しているのを見て、「体に電気が走るような衝撃」を覚え番組タイトルに入れた。

ツービート、西川のりお・上方よしお、B&Bらメッセージ性の高い若手芸人を大抜てき。スタジオの観客は百五十人の大学生だけという斬新な試みも断行した。

ファッション感覚、若者の生活感あふれた新しい「MANZAI」スタイルは、圧倒的支持を受けた。

 ここから横沢さんの快進撃が始まる。八一年に始まった「オレたちひょうきん族」ではビートたけし、明石家さんまの個性をコミカルに際立たせ、

アドリブを重視した斬新なコントで、強力な裏番組「8時だョ!全員集合」(TBS)に対抗。人気コーナー「ひょうきん懺悔(ざんげ)室」では神父役で出演し、

自らも「見せ物」の輪の中に入った。八二年スタートし、今も続く長寿番組「笑っていいとも!」では周囲の猛反対を押し切ってタモリを起用。

横沢さんは「ライブを見て、彼の知性にかけた。本人も当初は気が乗っていなかったけど、あの番組はよくできたと思います」と明かした。

 五年前に悪性リンパ腫と診断された後も、入退院を繰り返しながら、古巣のテレビ界、そしてお笑い界に最期まで歯に衣(きぬ)着せぬ発言を続けた。

TBSテレビ発行の雑誌「調査情報」最新号では、「コメンテーターがテレビを駄目にした元凶。テレビが動かなくなった」と述べ、

理想とする「見せ物」から程遠い現状を批判。「最近の番組は、つくってる人のハートが出てこない。

数字をとってやろうという心構えの方が多くて」と後輩たちに苦言を呈した。

 「人生そのものが遊び」と公言していた横沢さんは、こよなく愛したテレビとともに七十三年の人生をさっそうと駆け抜けた。 (安田信博)

 
 
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03月15日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年03月16日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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