阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

愛媛県西条市の永田浩さんが聞き書きした「市之川茶話  その二  塗装屋 吉岡さんの話」

2022年12月09日 | にんまり話
2010年05月20日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

吉岡さんのお話の「聞書き」の続きです。

その三 洋式ゴム銃の話

ある時期に、魚屋を始めた。店は嫁さんに任せて、自分は外商に出て行く毎日だった。仕入れは僕の役目。その日は大きな太刀魚が入っていた。

多分売れないだろうが、そのときは自分の酒の肴だと2匹仕入れた。外商から帰ってきて、一匹売れたんだなと奥に声をかけたら、売れてませんよ、ちゃんと二匹あるでしょうという答え。

しかし店先には1匹だけが残っている。猫だ。

このところ猫に大分やられている。300メートル先で猫がくわえているのを見て追っかける気もしなくなった。

猟銃を持っている友人に相談したところ、店先で猟銃をぶっ放すわけには行かないが、坂上の銃砲店に洋式ゴム銃を売っていたよと。

早速買ってきて、魚を狙っている猫を狙ったがとんでもないところに飛んでいって、とてもあたらない。

一念発起して、10メータ先のたまご大の的に八割の確率で命中するまでになった。自信を得て、猫を狙った。簡単だ。あたると猫は、1メータ近く飛び上がった。

ギャッと悲鳴をあげて。何度かギャッと言わすと猫は来なくなった。

この話しを銃砲店で聞きつけて、大会に出ないかという誘いを受けた。しかし僕にはその気は全くなく、逆に、そうだと思い立ったのはスズメを採ることだった。

スズメを数羽ずつ討取って、その場で肉にして持ち帰って、ヨメサンに焼いてもらって酒の肴にした。嫁さんもうまいなあといった。

スズメは小さいので、山に入ってキジバトを狙った。これも簡単だった。スズメよりうんと食べでがあって美味しさも格段に違う。嫁さんも喜んでくれた。

そこで、気合を入れて、10数羽採ったが、さばく暇が無かったので持ち帰ってさばいていると、嫁さんが血相を変えて止めてくれという。

本体を見てしまうと、気持ちが悪くて・・・子供の教育にも良くないという。

それで、ゴム銃とも別れた。

その四 猪の話

魚屋だけでは売上が知れているので、肉屋も始めました。肉は徳島まで仕入れに行きました。

牛や豚の堵殺現場も知っています。頭のところをこつんとやると簡単にひっくり返るので、すぐ頚動脈を切って血抜きをし、逆さに吊って真っ二つに割ります。

その片割れを仕入れてきて細かく分けるのです。

 ある人が、豚を愛玩用に飼っていて、大きくなりすぎて困っていると聞き、みんなでもらってきました。解体して、酒盛りしようというのです。

吉岡は肉屋だから、彼が解体できるだろうというのでみんなで連れてきました。なーに簡単さ、と軽く引き受けました。何しろ僕はと殺場で頭こつんを見ていますから。

ところがこの豚君、頭の急所を探っていると「ぶぃーっ」と鳴いてすり寄ってくるのです。気を取り直して、頭に手をやると「ぶぃーっ」です。

これには参りました。こっそりと、養豚屋に持っていって事情を説明し、引き取ってもらいました。代金は2万円です。

 この2万円で皆で酒盛りをしました。
 
そう猪の話でしたね。

猪を獲ったことは、前にも先にも一度だけです。猪は銃でしとめる方法もありますが、罠にかける方法もあります。ワイヤーでつくったワッカに引っ掛けるのです。

罠をかけるのも鑑札がいります。鑑札つきのものは正式ですが、無いものはもぐりです。

 あるとき、罠に猪がかかっている。鑑札は無いよ。獲りに行こう。無鑑札だから失敬して良いというものでもありませんが、良心の痛みは和らぎます。

三人ですから集団心理も手伝って、行こうという事になりました。

 こつんの要領を知っているつもりでしたが、さんざんてこずってそれでも何とかしとめて帰ってきました。帰ってきますと、10人あまりが待ち構えていました。

中に解体を良く知っているやつもいて、みなで山分けです。一抱えのブロックを持ち帰りました。これぐらいあったかのー。嫁さんが小さな声でうなづかれました。

☆吉岡さんと私のことも書いておきます。

○2004年の市之川大災害で我が家が基礎の一部を流され、床を含めた一部が流され、家が傾き半壊の被害を受けた。

 復旧工事は伊藤建設が請け負ってくれたが、最終塗装をこの吉岡さんがしてくれた。吉岡さんと伊藤さんの関係は良く知らないが、僕が印象的だったのは、次のことである。

吉岡さんが、軽トラで帰っていくのを伊藤さんが見送っていた。

なんだか車がもたもたしているようです。その内車が止まりました。それを見ていた伊藤さんが走り出しました。

僕はあっけにとられて見ていました。何が起こったか分からなかったのです。

伊藤さんが苦笑いしながら、帰ってきました。吉岡さんが散歩に来ていた人に声をかけて車に乗るよう促していたのだそうです。

散歩する人は迷惑らしく断っているのだそうです。伊藤さんの心配は、あの車の調子では、体調が悪くなって徐々に何とか止めたのではないかと判断したというのです。

最悪脳溢血ではと疑ったのだという。お二人の人柄が出ていてとてもとても僕は感心したのです。

この話しを吉岡さんにしました。 すると吉岡さんはこう言いました。

そんなことがあったのですか。僕はよく人を乗せるのですよ。嫌がる人もありますが、大抵は喜んでもらえます。

最近で一番印象的だったのは、女の子二人が、ヒッチハイクをしていて車をとめたので乗せてあげた。

東京の大学生でした。種子島まで無銭旅行をするのだそうです。

風呂はどうするの、宿はどうするのなどの質問にニコニコして、答えるには、川で体拭いています。神社や民家の軒先を借ります。

今晩はどうするの。これから探します。それじゃうちに来いよ。連れて来て風呂に入らせ、すき焼きを食べさせた。

なーに嫁さんもなんも文句言わんでやってくれる。手紙がちょくちょく来るのー。

岡山の子は毎年年賀状送ってくるのー。嫁さんが小さくうなづいている。
 
○伊藤建設が、工事完了した時に、僕は、秋刀魚会をしてお礼に皆を呼ぶことにしました。

いろいろな人からお見舞いをいただいたり片づけを手伝ってもらったりで。

勿論伊藤建設社長にも来てもらいました。


吉岡さんは最後の塗装をしていただいたので、たまたまその日におられたこともあり声をかけました。

秋刀魚会と言うのは、秋刀魚を屋外で焼いて、ビールを飲むというささやかな会です。
 ところが、吉岡さんは当日、俺は昔魚屋をやっていたのだと大きな鰤を一本持ってきて解体して提供してくださった。10数人では食べきれず、ブロックをお土産に持って帰っていただいた。
 そんな気のいい人です。

腰椎の手術があまり成功とはいえない結果なので、「会社の方はどうしているのですか。息子さんが後引き継がれるのですか」、と聞いてみました。

 「いやまだまだ息子に任せられません。息子はまだ欲がのうて、中々一人前には行かんのですわ」という答えでした。

「欲が無いのは、家系だから仕方がありませんよ」と、僕は合いの手を入れました。

吉岡さんの話を聞きながら、づっと大笑いしていたら、ここまで3時間ほどがあっという間に過ぎていました。

♪永田さん、まったく宮本常一さんの聞書きの本を読んでいるように、いよいよ、つつ一杯楽しませてもらいました。

 ありがとうございました。吉岡さんと奥さんにどうぞよろしくお伝えください。

☆宮本常一「忘れられた日本人」 こちら

文字で記録されなかった数多い無名の日本列島人の歴史。

「忘れられた日本人」は、読み出したら止まらないこと間違いありません。


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