阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「人間みなチョボチョボや」    知ってからずっと好きでいつも自分の身体の底にある言葉   

2024年05月30日 | にんまり話

東京新聞・中日新聞掲載(2004年6月28日号)


人間みなチョボチョボや  小田実

 これから何回か随論を書く。気のむくままによしなしごとを書く随筆があるなら、考えのおもむくままにことを論じ、論を進める随論があっていい。

そう考えて、「老いる」ことについて随論を書く。なぜ「老いる」ことについてか。私も今年72歳、「老いる」さなかにいるからだ。

 私には「人間みなチョボチョボや」の持論がある。「人間古今東西みなチョボチョボや」と少し大げさに言うときもある。

 人間はおたがい、対等、平等、自由に生きている――この私の人間の根本認識が持論の底にある。

これに従えば、英雄、偉人もいつも英雄、偉人ではない。ときには、タダの人になる。逆に、タダの人がときに英雄、偉人顔負けの偉業をなしとげる。

 「老いる」ことで決定的なのは、誰しもが「人間みなチョボチョボや」のタダの人になることだ。

いくら強がりを言ってみたところで、それぞれに足腰が弱る、眼がかすむ、ボケる。こうしたことはかつてのオリンピック選手にも、大知識人にも起こる。

これは決してわるいことではない。

 大哲学者として世に知られたバートランド・ラッセルに私が会ったのは、1960年代半ば、彼はもう90歳代に入っていたか。

ウェールズの田舎町の自宅まで行き、私も彼も参加していたベトナム反戦運動のことで会い、話した。

ベトナム反戦運動と言わず、反戦運動のとりえは元来が「反戦」の一点で人間がつながる運動だから、

その一点において、大知識人も私のようにタダの人も同じになる、なれることだ。ことにラッセルは年を取っていた。

 何を話したかは忘れたが、とにかく私は彼とよくしゃべった。そのうち私の日本英語でまくしたてられたのに閉口したのか、

彼は「この若者の話を聞け」と夫人を呼び出した。夫人はたしかラッセルが当世風に言えば「不倫の恋」を派手にやらかして結婚した夫人だ。

たいへんな美女だった―はずだが、たしかもう70歳代半ばの老女だ。もともとがタダの人の私と、老いてタダの人になった二人の老人はしゃべった。あれはいい記憶だ。

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毎日新聞阪神版「きらり 阪神な人」欄掲載(2004年1月26日号)

ひとりでもやる1

戦争体験生かさぬ愚行に怒り「行動する作家」へ

 自宅マンションの一室にしつらえたこぢんまりした書斎。作家の小田実さん(71)=西宮市=は、原稿を書く手を休め、壁の写真を見上げた。

1945年6月、ニューヨークタイムズ紙に掲載された、大阪空襲の航空写真だ。黒煙に覆われ燃え上がる市街。「おれはこの煙の下にいたんだ。

この写真が鳥瞰図なら、こっちは“虫瞰図”や。」以来、地をはって物事を見極める姿勢を貫いてきた。

 連載小説や論評で、一日の大半は書斎にこもる。わずかな合間に、阪神大震災での国の無策ぶりを嘆き、アフガン空爆以来、更に軍事大国化が進む米国と、

それに追随する小泉政権に怒りの声を上げる。「行動する作家」と呼ばれて久しい。

 大阪市出身。9歳の時、真珠湾攻撃のニュースに喜んだが、弁護士だった父元吉さんに「日本は負ける」と言われ、がっかりした。

やがて、空襲は激化。焼夷弾が自宅の屋根を突き破り燃え上がった。街は異様なにおいがした。なにもかも焼き尽くされ、戦争は終わった。

 平和は劇的に訪れた。通っていた男子校の旧制中学と近くの旧制女学校の生徒を半数ずつ入れ替え、男女共学の新制高校が誕生。

「バンカラ」校から、「お嬢様」校へ転校した。「学校の標語は『質実剛健』に決まっとると思ってた。それが『温雅貞淑』や。こりゃ革命だよ」

 その象徴が新憲法だった。「日本はとことん戦ってとことん負けた。戦争はこりごり。その実感が形になったのが憲法や。」もう戦争はないと思った。

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毎日新聞阪神版「きらり 阪神な人」欄掲載(2004年1月27日号)

ひとりでもやる2
米留学から世界ほっつき歩き旅の著書売れ、一躍、時の人に

 作家の小田実さん(71)は少年時代から「ほっつき歩く」のが好きだった。

大阪市天王寺区に住んでいた小学3年のころ、遊郭に出くわし、あやしい気分を味わった。戦後の焼け野原のかなたに見た夕日は今も平和の原風景だ。

 しかし、平和もつかの間、朝鮮戦争が始まった。府立夕陽丘高校2年の夏、この衝撃をテーマに最初の小説「明後日の手記」を出版。

東京大に進学後も小説を書き続けたが、生き詰まりも感じた。持ち前の好奇心と放浪癖が抑え切れなくなった。

東大大学院入学後の1958年、米ハーバード大大学院に留学。「山の向こうはどうなってるか。気になったら行きたくなる。おれはそういうタイプや」

 米国中を見て回った。南部で人種差別の根深さに気が滅入り、国境の橋を渡ってメキシコに入ると、水も出ない貧しさに驚いた。

まるで違う世界だった。「世界中を見ないと」。一日1ドル。背広一枚で高名な文化人に会い、路上で寝た。欧州、中東、インドと計22カ国を訪れた。

 60年に帰国。新たな小説を出版社に持ち込んだが相手にされず、「旅のことを書け」と勧められた。一気に原稿用紙800枚を書き、あぜんとする担当者に題名を問われた。

 「何でも見てやろう」です。

 「そんな本売れるか」と怒られたが、世界を舞台に「ほっつき歩いて考えた」著書は、61年に出版されるとたちまちベストセラーに。

「地球は青かった」「巨人、大鵬、卵焼き」とともに、流行語になった。テレビにも引っ張りだこ。一躍、時の人となった。

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