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☝ 好天に恵まれて Kさん夫妻は 対馬の展望台から約50㎞の距離の韓国釜山の街を眺めることが出来ました。
シリーズ(2)開始 ☞ 対馬北東部の上対馬西泊地区に日本海海戦記念碑があります。
1kmほど離れたホテルに宿泊したが時間がなくて行けてはいません。
日本海海戦記念碑(Webより)
1905年5月27日対馬と壱岐島の海峡を進んだロシアバルチック艦隊と、
韓国鎮海の軍港を出港した連合艦隊は対馬沖で激突し連合艦隊が大勝した。
この日本海海戦記念碑は撃沈された バルチック艦隊のウラジミル・モノノフ号の水兵143名が
ボート4隻でたどり着いたところを地元民が水、食料、宿を提供し保護したことの記念碑という。
以下に今まで旅してきた中で日ロ戦争に関わる旅先を纏めてみたい。
a. ウラジオストク
バルチック艦隊の目的地であったが連合艦隊に撃破され3隻だけがウラジオストクにたどり着いた。
1893年には鉄道が開通しており、1912年には現在の駅舎が完成している。
ウラジオストク港
ウラジオストク駅
bポートバイカル
日ロ戦争が開戦した1904年2月の時点でシベリア鉄道はモスクワーポートバイカル、スリジャンカー満州間が開通していた。
バイカル湖南岸のポートバイカルースリジャンカ間90Kmは断崖、絶壁の難工事で未だ工事中であった。
この区間はバイカル湖上を夏は船で、冬は砕氷船で輸送を確保していた。
ポートバイカル駅舎は2005年に100周年を記念して建て替えられ現在は駅舎、ホテルとして機能している。
ポートバイカル駅
ポートバイカル駅構内にて
日本軍は軍資金不足や準備不足もあったがシベリア鉄道が全線開通すると輸送力が格段と上がり
不利となることから開戦に踏み切ったということらしい。
ロシアは開戦の翌日氷上鉄道の起工式を行っている、氷上鉄道は開通したが何度か氷が割れて
機関車、貨物、人も沈んでいる。
シベリア鉄道が全線開通したのは1904年9月、日ロ戦争の終戦は1905年9月である。
ポートバイカルからモスクワ方向に60kmほどのところにイルクーツク駅がある。
イルクーツク駅
この駅は1998年にモスクワからの開通鉄道が開通、駅舎は1906年に建て替えられその後増築され現在に至っている。
c.旅順
2006年6月大連へアカシアを見に行った、旅順への1日ツアーがあったので参加した。
当時旅順は重要な軍港であり外国人の立ち入りは規制されていたが、日露戦争の関連施設の一部は
立ち入りが認められていた。ただし見学場所、ルートは当局より指示されていた。
現在は規制が解除され旅順駅、旅順監獄なども自由に行けるらしい。
まずは水師営会見所、1905年1月ロシア軍が降伏して停戦条約が締結された後、乃木将軍と
ステッセル将軍が会見した場所です。
水師営会見所
次は203高地、旅順要塞総攻撃の激戦地です。
頂上には慰霊碑、大砲などが有りかすかながら旅順港を見渡すことができた。
203高地より旅順港を望む
203高地にて
最後は東鶏冠山北堡塁、203高地を占領しても旅順港を守るロシアの堡塁は3か所健在であった。
そのうちの一つが東鶏冠山北堡塁であった。
強固な堡塁に対して地下に坑道を掘り爆破する作戦をとり、1905年1月1日爆破。
これによりロシアの旅順要塞は爆破され日本が占領した。
東鶏冠山北堡塁
d.対馬旅行で新たな日ロ戦争に関わる場所を通過した。
日清戦争で勝利した日本は三国干渉を受け日本軍はいずれロシアとの戦争は避けられないと判断、
対馬の西入江の浅茅湾の水雷艇の基地から東へ抜けるためダイナマイトで山を爆破し瀬戸を作り1901年に完成した。
日本海海戦では水雷艇がこの瀬戸を通り東側へ移動している。
ここには橋を作り万関橋とよばれ、近くには瀬戸を守る陸軍の砲台も設置された。
伊藤博文はこの水雷艇の基地を視察していることから外国から日本を守る重要な場所と認識していたのだろう。
万関瀬戸
敵の大将、、、ステッセル
、、乃木大将をたたえる歌を子供の頃
お手玉しながら歌って育ちました。