この国はどこへ これだけは言いたい ノンフィクション作家・石川好さん・72歳 国民は「被支配」を自覚せよ
石川好さんといえば、1987年に始まった頃の「朝まで生テレビ!」が浮かぶ。レギュラー陣の大島渚さんや野坂昭如さんはよく大声で怒鳴り、議論下手の日本人を象徴していたが、石川さんは決してがならず、冷静な雰囲気をまとっていた。それでいてインテリ臭もない。舛添要一さんのように鋭敏さで相手をねじ伏せるところもなく、当時40代なのに、長老のような語り口が印象的だった。
「ノンフィクション作家」という肩書もあの頃は斬新で、レギュラー陣には同じ肩書に猪瀬直樹さんがいた。猪瀬さんが綿密な取材と頭脳で作品を量産していたのに対し、石川さんの大宅壮一ノンフィクション賞受賞作「ストロベリー・ロード」(88年)は米国の日系移民としての青春物語であり、汗がほとばしるような臨場感があった。
石川さんの作品群を読んで気づくのは、未来を占う直感の鋭さだ。95年出版の佐高信さんとの対談録「辛口甘口へらず口」では、二人で散々日本人をくさした末、この国の問題は笑い、ユーモアがないことと語り、その一因に「天皇」を挙げた。
そもそも天皇が笑いを抑えられた存在であるため、日本人の笑いも突き抜けたものにならず、薄笑い、くぐもった下卑た笑いにしかならないと指摘し、こんなふうな石川さんの発言が続いた。「ただ、お二人の結婚で、少しは変わってくるかな。というのはお二人とも相当な英語を話される。するとお二人の英語の善しあしが必ず外側で議論される。つまり、天皇が初めて国境を突破し、外側に向いた存在、国際的な商品性を持ってきたということになる」
それが日本が変わるきっかけとなり「日本人もそこそこの世界的な国民になれるんじゃないか」と石川さんは見通した。「お二人」とは、5月に即位された天皇陛下、そして皇后雅子さまのことである。
「そこそこの」と言ってはいるが、要は卑下もせず尊大にもならず、異文化とも隣国とも偏見なく接することができる柔軟な人を指しているようだ。
先の発言から24年、東京の仕事場でこの点を聞くと「よく、そんなところを読んでくれたね」と表情を崩した。
「陛下も英語を話されますが、雅子さまの英語のほうがネーティブに近い。幼少期にロシアという不思議な国で暮らし、のちに米ハーバード大を卒業された、まさに日本の外にいた人なんです。日本人が内にこもらず、より外を見なくてはいけない、国際化しなきゃいけないと言われているこの時期に皇后になられたのは、絶好のタイミングという気がします」
伊豆大島の大工の家に生まれた石川さんは、家を助けるため渡米した兄を頼って18歳で米国に渡った。外交官の家に生まれた雅子さまとは違い、いわば底辺から米国に分け入った人だが、10代で異国に同化せざるを得なかったという点は同じだ。
「成人前の外国経験は単に外国語が堪能になるということを超えた何かがある。皮膚感覚というか、内側と外側の2方向から日本を見ることができる。陛下が雅子さまに好意を持った理由は、そこだと思いますね」
ただし、それはあくまでも外国育ちの雅子さまの資質であり、日本人全般が「そこそこの世界的な国民」になることにどうつながるのか。石川さんはその答えとして、象徴天皇制の「象徴」としての役割が、以前よりもより身近になり分かりやすくなった点を挙げる。
「93年のご結婚前の会見で、皇太子時代の陛下が『雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』と求婚されていたことが明らかになった。あのご発言で天皇、皇后両陛下の存在は少し下に降りてきた、つまり、庶民に近づいたと思うんです。普通どこの国でも次の国王になる人が『嫁さんを一生守る』とはなかなか言わない。ご発言は皇室が庶民に近づく新たな時代の幕開けだった。その前提があったから、お二人は国民のウケもいいんです」
つまり、ずっと上にいる「お上」よりも一段下りたことで、象徴としての影響力が増し、国民は二人にあやかり「そこそこの世界的な国民」になろうとする、ということなのか。いぶかっていると「全く別の話だけど」と他の事例を持ち出した。
「来日したローマ教皇が陛下と会いましたが、教皇は滞在中、核廃絶を徹底的に訴えました。そこに天皇の象徴としてのあり方がうまく一致した。長く憲法に規定された象徴という言葉は日本人にも謎でしたが、平成の天皇が絶対的な平和主義を宣言し、戦争の被害者を弔い、災害の被害者に寄り添ってこられたことで、国民は象徴の意味を理解するようになった。代替わりした今年も水害は続き、天皇、皇后両陛下は被災者に寄り添うことで象徴の役割を踏襲した。そんなときにローマ教皇が訪れたことで、天皇制の持つ意味が非常に分かりやすくなった」
つまり核廃絶を訴える教皇となごやかに会見されている陛下を目にした人々に、核に対する意識でなにがしかの影響を与え得るということだ。「米国に遠慮して核廃絶の先頭に立てない政府と違う形で、お二人が国民に影響を与えていくと思います」
敗戦後の占領期を経て、日本人は常に「米国という義眼をはめて世界を見てきた」と石川さんは言う。米中貿易摩擦にしても中国の視点はなく、常に米国側の立場で見ていると。だが、こうした一辺倒に「象徴」の目が加味されることで、日本人の世界観も相対化されるという期待が石川さんにはある。
かつて石川さんは「新堕落論」(91年)で、日本人の気質は豊臣秀吉が16世紀に農民から武器を奪った刀狩りに起因していると説いた。徹底的に武装解除された人間には抵抗という観念がひとかけらも残されていない、と。95年、物書きでは飽き足らず、石川さんは参院選に出馬。敗北を喫した経験を経て、日本の政治の問題は有権者にあるのではないかと思うに至った。
「国には統治者と被統治者がいる。本来『我々は統治されている』という自覚をもって政治権力と付き合うのが国民のあるべき姿。でも日本の場合、その感覚が極めて薄い。政治家について文句は言っても、支配されている意識がないから政治に緊張感が生まれない。政治家にもそれがなく、桜を見る会とかモリ・カケ問題など、ばかげたことを平気でやるわけです」
では、国民が「被支配」を自覚するには、どうすればよいのか。
「月並みな言い方だけど教育です。例えばこのところ2代続けて文部科学省の大臣がしょうもない人になっているのは、教育が軽んじられているからです。明治期の文部大臣は花形のポストで、厚生労働相がどの国でもそうであるように、行政の中で最も重要な位置づけでした。ところが二つとも軽量になって、制度をいじくりまわしては問題を起こしている」
日本人が鍛えられる可能性は「移民」、増え続ける外国人居住者にかかっているという。「日本の最大の課題は外国人がどう暮らせるかです。日本は世界中の政治、経済難民にとって最後のフロンティア。移民という言葉を政府が使いたくないだけで、とっくに始まっている。受け入れ態勢を整えるには国民的なエネルギーがいるのです」
この先、外国人との摩擦が起こるだろうが、それが日本人を鍛えると石川さんは言う。「外国人は日本に打ち解けてきている。越境者の方が同化力があり、日本人が気にする以上に彼らは平気なんです」
50代で初めて中国を訪ねた石川さんは人脈がみるみる広がり、習近平国家主席ら多くの政府関係者に会ってきた。「中国のお偉いさんは日本を桃源郷だって言います。来日した途端、ゆったりでき、おかしなことが起きないからですね」。中国人に限らず、国をまたぎ、二つ以上の文化を経験してきた人たちから日本人は学べると石川さんは言う。そうすれば私たちもいずれ「そこそこの世界的な国民」になれると。【藤原章生】
■人物略歴
石川好(いしかわ・よしみ)さん
1947年、東京都大島町生まれ。大島高卒後の65年に渡米し69年に帰国後、慶応大を卒業し再度渡米。83年に「カリフォルニア・ストーリー」で作家デビュー。
2007年まで秋田公立美術工芸短大学長。近著に「南京大虐殺記念館からはじまった 漫画家たちのマンガ外交」がある。=宮武祐希撮影
毎日新聞2019年12月13日 東京夕刊
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