駅と駅の間計4カ所で電車が立ち往生し、乗客計約5千人が線路上に下りて近くの駅まで歩いた。
この日阿智胡地亭は姫路城と書写山円教寺の旅行に参加するため、JR神戸線を利用してJR姫路駅改札口前午後1時集合に合わせて家を出る予定だった。
しかしネットでこの事故の発生を知り、阪神御影駅から山陽電車に乗ることに切り替え、家を予定より早く出た。
関東方面からの新幹線利用者は事故には関係なかったが、総勢17名の大半はやはり大阪や神戸からJRではなく山陽乗車に切り替えて、定刻前には全員が
揃ったのはご同慶の至りだった。
⇒11月に、行ったことのない国へ、格安で行こうと調べて見つけたのがフィリピン/セブ島。
3泊5日、朝食付き、18時のレイトチェックアウト、諸経費込みで51,000円。
最終案内で判明した航空会社はAIR BUSANで釜山経由だった。直行便は5時間だが、12時間かかった。
飛行機が1時間遅れ、同じツアーで行った2人が入国審査のシステムダウンで待ちぼうけ
等でホテルチェックインは早朝3時になってしまった。
当日はボホール島ツアーの予約を入れてあり、6時10分に迎えの車に乗った。
ボホール島はセブ島から船で2時間、フィリピンで10番目に大きい島で自然が残っている。
田んぼでは大勢の人で田植えをしていた。
教会ともう一か所を見学して、ランチ付きリバークルーズへ。
済んだ水、両岸には南国ムードのヤシの木、ゆったりした流れをタグボートに押された
浮船で上流へ向かった。折り返し点で上陸したが、原住民が蛇、イグアナを観光客に写真を撮らせて収入を得る
広場だった。
車で30分ほど行くとメガネザル/ターシャの保護区で観光客が大勢いた。
ターシャは体長10Cm,体重120g程の最小霊長類で、フィリピン、インドネシア、ボルネオ島に生息している。
この保護区で3匹のターシャを確認したが一匹は寝ていた(夜行性で昼に寝ているのは正常)、一匹は目を大きく開けて
頭をあちこちに動かしていた、残る一匹は葉の下で目は開けているが動かずにいた。
ここから車で1時間、チョコレートヒルズに到着。
石灰岩でできた円錐形の小山が1268山もあり、木が生えない山なので乾季には草が枯れて
チョコレート色になるという。今は雨期で緑が綺麗だった。
最後に寄ったスーパーでカットされたドリアンを購入、フィリピン旅行の目的の一つを果たして
フェリーに乗った。レストランで食事をしてホテルに着いたら10時だった。長い2日間だった。
JR姫路駅を出ると広い大手前通りの向こうに姫路城が真正面に見える。平成の大改修が3月に終わったので一度観に行きたいと思っていた。
弓道部OB有志が年に一度一泊旅行しているが、今年は姫路城を観て塩田温泉に泊まり、翌日書写山円教寺を拝観するツアーだった。
M幹事が前もってガイドさん(ボランテイア)を依頼してくれていたので、城のヒストリーや細部の説明、面白いエピソード
などなどほぼ2時間にわたり楽しい時間を味わうことが出来た。最近は美術館や博物館に行くと、以前は頼まなかった音声ガイドを
借りるようになったが、読めば書いてあることでも人ごみに押されて見逃すこともあるので、音声ガイドのおかげで展示のキモや
見どころを外さなくなった。今回もガイドさんのお蔭で多くの知見を得ることが出来た。
天守閣へ登る何段も何段もある階段は急で、前後に沢山の善男善女が張り付いている中を気を付けながら登った。
姫路城の特徴は西国の強力外様大名に対する徳川幕府の最前線軍事基地であったことだ。城の内部には敵兵が内部まで侵入した場合を想定した武者隠しや、
侵入した敵に発砲する内部に向けた狭間(さま)が作られていることを今回初めて知った。
姫路城は幕府の大政奉還後、これも日本人の手のひら返しの表れの一つだろうが、昨日まで尊重していた大切だったはずのものも、
お上が言えば、一夜明ければそれらを弊履の如く捨て去り「古いのんは打ち壊してまえ」ということで二足三文の値で売りに出された。
しかし、これを買った人も「ぶち壊すには費用が掛かりすぎる」と放置していたらしい。
⇒(明治6年(1873)、明治政府は全国にあった144城に廃棄を通達し、ほとんどが売却・破壊され、姫路城は市内の神戸某にわずか23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されたがですが、解体費用が捻出できないとかで、時間は流れ、いつのも間にやら陸軍所有となっちょったそうです。
そんな時、芸術的価値が高い美しい城を後世に残したいと明治11年(1878)陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐が、陸軍卿・山県有朋に「名古屋城および姫路城の保存を太政官(太政大臣・三条実美)に上申してもらいたい」という内容の意見書を提出し、意見書を本部内で検討した結果、保存される事になるがです。(引用先)
今回もまた、この大規模な軍事施設を完成するためにどれだけの期間、近隣の大量の百姓連中が動員されたのだろうか?
とか、あの巨大な多数の主柱のなどの材木や瓦や石垣の石などどう輸送し、建てていったのだろかとか、またまたこれから
知りたいことが城の石垣のように高くなってしまった。築城は今でいう一大プロジェクトだから、そこに総指揮をとるプロジェクトリーダーがいたはずだ。
彼の配下には土木や建築や輸送のサブプロマネがついて、分担かつ総合して設計と工事施工をやりとげるマネージメントがあった。
プロジェクトリーダーの使命は最短納期で城郭を完成させ、しかも実戦に耐える軍事施設の完成だった。今から400年前にも既に
わが民族には凄腕のプロマネと各分野のすぐれたエンジニア群がいた。このところ偶然ながら一か月以内に熊本城、島原城、姫路城の三城を観て
そんなことを思った。世界史的に見ても、城壁都市はアジア欧州に多々あるが、このような軍事施設としての城郭を作った民族は日本と欧州だけかもしれない。
大阪のノモトファーム産の蕪と蕪の葉もカレー全体によく馴染んで旨し!
楽屋ネタ。テレビドラマのロケによく利用される飯田橋の「カナル カフェ」だそうだ。
秋のバラも見事でしたがバラ園の噴水も風情がありました
大島の亀老山は来島海峡としまなみ海道大橋の景色が綺麗なスポットとして人気があります
亀老山から45km先の新居浜方面を望むがさすがに新居浜は見えません。天気が良ければ西条が見えるそうです
時折、小雨がパラつくが一瞬太陽の光が射すと絵のような風景となります
流れの速い来島海峡と向こう側には今治市内が見渡せる
お天気はイマイチでしたが天候の変化によりいろいろな表情が見れました。
子供たちの危機を救う、大活躍のパパ達をご覧ください。(キャプションはネットから引用)
この写真を撮ったあと、サトイモを小さくしてご飯とカレーとサトイモをしっかり混然一体になるまで混ぜて食べました。ほんにうまか!
頂いたサトイモとムラサキ山芋。
後で市になった茨城県のかしま市は「鹿嶋市」と島を異体字の嶋に変えて市の名前にしたそうです。
そして鹿島市に日本三大稲荷に数えられる「祐徳稲荷神社」があることも中尾さんの案内でお参りして初めて知りました。
三大稲荷と称される稲荷はいくつもの組み合わせがあるようですが。(本エントリーの写真は同行した野本さん撮影)
境内の池には大きな鯉が群れていました。余談ながら、佐賀県小城市に住む中尾さんの話では小城市の清水(きよみず)という地域には鯉を
食べさせる料亭が何軒もあり、小城市民は日常的に鯉の甘煮や洗い鯉こくを食べているそうです。鯉を食べるのは信州や山形、福島などだけかと
思っていましたが、九州にも鯉が普通に食べられている地域があることを知り嬉しくなりました。ネットで調べると明治時代になってから定着したそうです。
ネットから⇒清水(きよみず)の鯉料理の歴史
佐賀藩主・鍋島勝茂により観世音菩薩を勧請して再興した、清水山見瀧寺宝地院(清水観音)では隣接する清水(きよみず)の滝で滝受け行が行われていました。
明治時代清水観音にやってくる行者や信者の人たちの宿場として創業し、そのお客様達に鯉の刺身を水で洗いにしてふるまったのが小城市での鯉料理の始まりです。
いまでは十軒ほどの鯉料理店が軒を連ねる全国でも珍しい小城市の名所と名物料理です。
もう一つ余談ながら、神戸市灘区に鹿嶋歯科という歯医者さんがあります。
その看板です。このお医者さんは九州出身なんでしょうか。このセンス好きです。オリジナル写真のブログ掲載は2006年10月8日。
普通電車としては日本最速の最高速度130km/hで走る、JR西日本新快速の神戸線大阪~三宮前面展望。営業距離30.6kmを21分で走破。
電車の揺れに動じない線路巡回の保線員は、サスガ!
重力より芋の粘着力が勝って移すのに手間がかかるほどです。今回頂いた芋は掘る段階ではまだ収穫のとっかかりの産物とのことですが、本格的なものになれば擦るのも大変でしょう。
そのまま吸うと他のどんな味の物でも比較出来るものがない喉ごしと舌触り、そしてコクのある芋そのものの旨みに声も出ません。自然が造る物には
想像を越える本当に凄い物があります。
2015.11.08 ~ 2015.11.14、閲覧記事数:16792 PV、訪問者数:1879 IP、ランキング:2408 位 / 2315132ブログ
⇒瀬戸内しまなみ海道で今治から2つ目の伯方島に美味しいランチの店があると相方が友人から聞いてきました。
早速一人2千円のランチを予約して出かけましたが、これがビックリポンな店でした。
伯方島の木之浦港のフエリー乗り場付近。 いかにも島に来たという風景。↑トップの写真
しまなみ海道の伯方島インターを出て左折するとすぐに道の駅があります
道の駅からしまなみ海道の橋が見えます。 右側が今治で左側が尾道方面です。きれいな砂浜の海岸で海水浴シーズンは人気の場所です
ランチの部屋から外を見るとすぐ港がありとても眺めの良い部屋から食事を楽しんだ
先ず最初はカンパチと鯛の刺身が出ましたが新鮮なので美味!
かぶらとクラゲの酢物
生きた車エビを目の前で皮をむいてくれてえびのおどりを刺身醤油で頂く。 甘くてウマイ! (一人3匹)
ホゴのから揚げの甘酢あんかけ(新鮮で身がプリプリです)
新鮮で大きな車エビの塩焼き10匹と頭4個 (2人分) 頭~尻尾までポリポリ噛んで頂いた。(かなりのカルシュームが補給出来た)
大型の殻付き焼き牡蠣が6個(2人分)
あまりにも美味しいので撮り忘れていましたが車エビの天ぷら10匹とタコとピーマンの天ぷらもありました。
新鮮な車エビだけでも、おどり6匹、塩焼き10匹、天ぷら10匹と二人分で26匹ありました。ほんまにビックリポンですわ!!!
炊いたばかりの鯛めしがおひつにどっさり。 量的にも明らかに4~5人分もあり、しかも鯛がどっさり入ってアツアツでとにかく美味い!!
最後に柿と梨がデザートに出てきたがお腹はギブアップ状態です
美味しいので一生懸命に頂いたがさすがに量が多く店のおばちゃんがタッパーに詰めてくれてお土産ができた。
お勘定するまで一人2000円はなにかの間違いじゃないのか半信半疑でしたが二人分で4000円+消費税で計4300円でした。
ここは民宿もやっているので一度は宿泊する価値があると思いました。(一泊2食付き8000円/一人)
(鯛めしは冷めても十分美味しかったです)
☆Iさん!見れば見るほど、ィよいよ羨ましうていかんわね。そっちに住んどったら月に3回ほどは行きそうなかい。
一区画が大体90坪で統一されていて、住人はハイランク階層ではないので屋根は上部は藁葺でした。しかし立派な日本家屋で、山口県の長府に残っている
同じく下級武士であった乃木希典の生家とは全く違いました。以前に見学した乃木の家の住いはわずか一室で押入れもないため、一家の夜具はそれぞれ紐でくくって鴨居に
綱を通して天井に吊るされていました。毛利藩が安芸の国から徳川幕府に長州一国に押し込められたとき、もう雇えないと言われた多くの武家たちは殿さまに懇願して
配下の侍は全て毛利家に従い長州に移りました。侍の数が多すぎて、与えられる扶持や住まいは藩の石高の減少に従い、それまでの四分の一ほどになったそうです。
同じ武家でも暮らし向きは徳川側と反徳川側では大きな違いがあったようです。
この毛利藩の長州押し込めが徳川憎しの思いの藩全員の共有になり、後の長州藩の徳川幕府打倒の源流になったと言います。
道の真ん中には当時の生活用水が今も清流で流れている。
庭のツワブキがきれいだった。
野菜を食べていれば心臓や脳の血管にもいいし、本来人間は木の上で若葉や木の実を食べていた時期が長い動物だから植物繊維は
必要不可欠と聞きます。本当にありがたいプレゼントです。
ダイコンの一本には葉がたっぷりついていたので、それを全部使ったソース焼きそばが登場。大根の葉って本当においしいです!
夜は京都の錦市場で買ってきた「ハモの照り焼き」。明石・魚ん棚の「ハモの照り焼き」とは別の旨さがあります。
それにしても鯉の甘煮(うまに)の店がもう閉まっていて買えなかったのは悔しい。
十三で阪急神戸線から京都線に乗り換えて四条大宮駅下車。55番のバスに30分ほど乗り立命館大学へ。
写真家の大石芳野さんや新たに七人委員会のメンバーになった小説家の高村薫さんと、大学の先生をやってきた人の話は、有るべき姿を語る学者と、個人事業者というか現業者との違いをモロに感じました。小説や撮影の取材で生身の人間の生きるさまをその場で見て、実態を感知してきた人、そして同業との競争にさらされ、常に表現者の意図と志を問われ、しかもその結果は売れてなんぼの修羅場をくぐっている人と、基本的には研究室で文献を研究し論文を作り大学から決まった日に給料が口座に振り込まれてくる生活が長かった人。その差が人間やその語りに出るのは当然なんでしょう。その学者さんの中で「あるべき姿に近づける実践に王道はない、隙間を狙って声を上げて一つでも変えていく手立てを一人一人が考えるしかない。」と言う小沼通二さんは、七人の会の事務局長を長くされている物理学者だが、研究室を飛び出した行動する学者のようで、この人や会を支えるスタッフがいて七人委員会が続いているようです。
この人の話を聞きたくて行った高村薫さんは、野間宏の処女作「暗い絵」の紹介をされました。
この小説に描かれている時代といま現在の日本は、当時の特高や憲兵というカタチは今なくとも、物言えば唇寒しのところがよく似てきたことを一人一人が知るべきと。しかしまだ諦めることは全くない。最近動き出した若い主婦や学生のように自分の事と受け止め行動する人たちが出てきたと。我々年寄りは彼らをサポートしようと。写真家の大野さんは戦争が起きて一番先にえらい目に会うのは世界中共通で、女子供病人年寄りだと、彼女がこれまで撮影してきたスライドでまっすぐ見せました。講演が終わってから、バスでこんどは烏丸に出て、錦市場で鯉の甘煮を買おうとしたら六時前でいつもの店は終わって閉まっていて、やむなく開いてい居た別の店でハモの照り焼きを一串買って、烏丸から地下鉄でJR京都駅に出ました。
京都駅近くのホテルのロビーで、この講演会の為京都に来た東京の西郊に住む従兄と四年ぶりに会いました。80歳過ぎても現役の定期寄稿者である彼は全く老人ぽくなく、歩きぶりや物腰は六〇歳代でも通用するなあと思いました。五〇年来の玄米食のお蔭でしょうか?まだ元気で現役を続けるようで心強い。
2011年兵庫県篠山市で開催された「七人委員会講演会」はこちら(クリック)です。