(ラオス・シェンクアン 店先に不発弾残骸を並べたレストラン)
【寒い!】
昨日、日本を出てラオスに来ています。
11年前に世界遺産の街ルアンパバンを観光して以来の2回目のラオスです。
今回の目的地は北部のシェンクアン。
昨日早朝に新幹線で鹿児島から福岡へ移動。ベトナム航空で福岡→ホーチミン(ベトナム)→プノンペン(カンボジア)→ビエンチャン(ラオス) いつもの一人旅です。
首都ビエンチャンは前回もほんの少し観光しましたが、今回は帰路でまた少し歩くことに。
空港から歩いて10分ぐらいのホテルに入り、今朝はそのままラオス航空でシェンクアンに移動。
ビエンチャンにしても、ラオス全体にしても、観光的に見るべきスポットはかなり限られています。
失礼な言い方ではありますが、「何もないところだね・・・」というのが前回旅行の正直な感想です。
他のラオス旅行者も同じことを言っていますので、まったく見当違いではないでしょう。
そんな何もないラオスの雰囲気が好きだ・・・というファンもいます。
そんなラオスになぜまた来たか・・・と言えば、航空券が安かったからというのが最大の理由でもありますが、シェンクアン近郊のジャール平原の“石壺”が点在する光景に惹かれたからでもあります。
そんなこんなで、とにかく今日昼前にシェンクアンに着きました。
小さなプロペラ機から降りて最初に感じたのは「寒い!」
天気はいいのですが、風が冷たく感じます。
ビエンチャンはこの時期の最高平均気温は28度ぐらい、最低平均気温は17度ぐらい。
実際、昨夜は夜でも半袖で十分で、室内では冷房を使いました。
シェンクアンはビエンチャンより気温は低いだろうとは思っていましたが・・・。
皆ジャンパーを着込んでいます。
薄手の長袖の上にマウンテンパーカーを羽織ってちょうどいいぐらいです。
ホテル室内では暖房を使っています。
改めて確認してみると、シェンクアンは標高が1200mぐらいの山岳地帯のようで、寒いはずです。
Tシャツを中心にした服装でやってきましたが、完全に間違えました。
【世界でもっとも激しい爆撃を受けた国】
(「MAG UXO ビジターインフォメーションセンター」展示写真より)
シェンクアンはベトナム戦争当時の不発弾に今も苦しむ場所でもあります。
当時、アメリカはベトナムだけでなく、ラオスにも大量の爆弾、それもクラスター爆弾を投下しました。
北部は、ベトナムと共闘する共産主義勢力パテト・ラオへの攻撃が目的で、南部はホーチミンルートへの攻撃が目的でした。
北ベトナムやラオス北部を爆撃してラオスの基地に戻る際に、落とし損ねた爆弾をラオス上空にばらまいていったとも言われています。(着陸時に爆弾を抱えていると危険なので)
最近は“ピンポイント爆撃”とか言っていますが、つい数十年前は民間人犠牲など全く考慮してもいなかったというのが本当のところで、近年のピンポイント云々もやや怪しいところです。
投下された大量の爆弾の30%が不発弾としてラオスに残されたため、今もその犠牲になる人・子供が絶えないようです。
***ラオスの不発弾被害と撤去の現状***
■世界一の激しい爆撃を受けた国 9年間8分ごとに1回、200万トン、1人当たり1トン以上
ラオスは世界でもっとも激しい爆撃を受けた国であり、人口一人当たりの落とされた爆弾の量が世界一になります。
ベトナム戦争中、大規模な地上戦が繰り広げられ、同時に激しい空爆を受けました。50万回以上のアメリカ軍による爆撃が、1964年から1973年の間に実行され、ラオス全土に200万トンを超える爆弾がシエンクアン県を中心としたラオス北部とホーチミンルートの通る南東部の県に集中して落とされました。
この9年間には、8分ごとに1度、米軍機1台に積載される爆弾が落とされてきたと言われます。また、1k㎡あたり約20トン、ラオス人1人あたり1トン以上の爆撃がされてきました。
■対仏独立戦争、旧日本軍、内戦での地上戦の不発弾、地雷も残る
アメリカ軍の爆撃に加えて、フランス植民地時代の独立戦争時代や、第2次世界大戦中の旧日本軍の進駐時、パテート・ラオとラオス王国軍の戦争を含む地上戦で使われた不発弾、例えば大型の爆弾、ロケット弾、手榴弾、大砲、迫撃砲、対人地雷、簡易爆発装置なども、ラオスの国土がさらに膨大な量の不発弾で汚染されている原因となっています。
そのような不発弾は地中に残り続け、人々を殺傷し続けるとともに、社会経済的発展と食料の確保を妨げています。
■全土の村の25%が不発弾で汚染…貧困地域と不発弾の存在の相関関係
こうしたすべての爆発物の30%は、爆発せず、地上や地中にいつ爆発してもおかしくない状態で残り続けているのです。
20年に及ぶ交戦状態が終了したあと、1996年から1997年にかけて、不発弾の社会経済的に与える影響の全国調査が実施され、ラオス全土の村の25%で不発弾の存在が報告され、17県中15県において深刻な不発弾汚染が判明しました。
ラオス全土が23万6,800平方キロメートルなのに対し、8万7,200平方キロメートル以上の土地が不発弾の危険にさらされていると推測されています。
1996年、国連は、ラオスの農村に残された不発弾は、約50万トンにも及ぶと推定しています。
ラオス政府の国家社会経済的開発計画は、貧困層地域と不発弾の存在には、明らかな相関関係にあると発表しています。貧困層地域は、ほとんどが不発弾によって影響を受けているのです。
■不発弾被害者の50%以上が子ども
1975年以降、ラオスの不発弾の犠牲者は、約1万3000人と見積もられています。1999年以降、UXO-ラオが活動した地域でも938人の被害者が記録されています。
これらの数字は、被害者の50%以上が子どもであることを示しています。
その事故のほとんどは、被害者の日々の日常生活のなかで起きています。ラオスでの不発弾事故のよくある原因には、農民が土を掘るために土壌表面にあった不発弾を、鍬や鋤などで打ってしまう場合があります。
その他のケースでは、隠れた不発弾の上で焚き火をして爆発する場合や不発弾を移動させたり、不発弾で遊んだりしているとき、もしくは金属や火薬を売るために不発弾をいじくっているときなどに事故が起きています。
■スクラップメタル問題
ラオスでは、不発弾を含めた金属回収(スクラップ・メタル)が大人、子ども問わず、行われてきました。
ほとんどは男性の仕事と思われますが、中には女性が金属探知機を使い金属を集める報告もされています。金属回収は、家族単位で一緒に行われている場合もあります。(中略)金属回収は、いかにいい収入になっているかということが分かります。(中略)
■不発弾の多くがクラスター爆弾の子爆弾 撤去できたのはわずか0.47%
ラオスでは、森林に覆われた山や田んぼなどがあるため、このような場所に落とされた爆弾は爆発しない確率が高く、実際の状況において、クラスター爆弾の子爆弾の不発率は30%と推定されています。
そこから爆発せずに残った子爆弾の不発弾の数はラオス政府の不発弾撤去機関UXO-ラオは、推定7800万個、クラスター爆弾の問題に取り組むNGOハンディキャップ・インターナショナルの2006年の報告書『フェイタル・フットプリント』では2090-6260万個と見積もっており、正確な数は分かりませんが、とにかく数千万個の単位で存在することは確かのようです。
ラオス政府の不発弾撤去機関UXO-ラオが1996年から2007年12月までに除去した子爆弾の不発弾の数は、371,869個、この数字は、不発弾として残っていると推定される子爆弾全体のわずか0.47%にしかすぎません。
今まで撤去された不発弾の内訳を見るとUXO-ラオでは、48%、MAGでは80%以上がクラスター爆弾の子爆弾だったとの報告があります。いかにクラスター爆弾の子爆弾の不発弾がラオスの土地を汚染しているか分かります。
【テラ・ルネッサンス】http://www.terra-r.jp/contents/index.php?itemid=189&catid=16
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クラスター爆弾は、ラオスの人々が「ボンビー」とテニスボールほどの大きさの子爆弾を数百個含んでいます。
****世界で最も多くのクラスター爆弾を落とされた国、ラオス*****
ベトナム戦争で当初米軍が使用していた主なクラスター弾は、対物・対人用の子弾を搭載したCBU- 2 /AやCBU-14でした。
しかし、これらの爆弾は低空から投下しないと子弾が効果的に散布できず、航空機が対空砲火に晒される危険があったため、より高い高度から投下可能なCBU-24が開発されました。
CBU-24は、対人用の子弾BLU-26を640-670発搭載しています。BLU-26には直径約6mmの鋼鉄球が300個入っており(全ての子弾で約20万個)、爆発により鋼鉄球が高速で周囲に飛散し人間を殺傷するのです。(中略)
米軍は、クラスター弾の使用が批判されることを懸念して、CBU- 2 /AとCBU-14の使用を秘密にせよとの指令を1965年に出しています。
1966年にCBU-24が配備された時も、米軍は、兵器使用の是非を巡る論争を避けるため、政府に対して使用の許可を求めることはせず、直ちに使用を開始しました。【プレマ株式会社HP】http://www.prema.co.jp/raos/cluster03.html
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こうしたラオスに残された不発弾とその除去作業、被害者への取り組みなどは、シェンクアンの県庁所在地ポーンサワン市街にある「MAG UXO ビジターインフォメーションセンター」などでも見ることができます。