家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

自分で撮れない写真

2010-04-22 08:35:11 | Weblog

撮りたいが、どうしても撮れない写真というものがある。

自分の写真だ。

車を運転中のものは、ほぼ不可能だ。

先日のMECJミーティングからの帰り道2台で走った。

後から走ってくるH氏の隣にはS氏という助手がいて彼が私を撮ってくれた。

晴天で渋滞も無く適度なコーナーのある山道を疾走する快感時のもの。

モーガンに乗っているときには気持ち良い瞬間が持続する。

1枚の写真には、いろいろ思い出せてくれる力がある。

音や風や匂い対向車やバックミラーに写った景色などなど。

トンネルに入ると後続H氏のモーガンの音がひときわ大きく聞こえる。

我々は繋がっていると感じる。

少し気を使うコーナーではH氏は距離を置いてくれるから安心してブレーキをかけられる。

詰め寄らないし離れすぎない。

「複数でのツーリングに慣れているな」と感じる。

安堵感は楽しい走りの原則だ。

愛媛の友人からメールが届いた。

ネットで偶然見つけた私の姿を教えてくれた。

ある人物(赤の他人)が私を東名高速道路で見つけ写真を撮った。

そして御自分のブログに載せたのだ。

「ここまで逝っちゃってる方には頭を下げるほかはない」と書かれてあった。

誉め言葉であろうと勝手に解釈した。

帰宅するときに立ち寄った食事処(天小屋)でも写真を撮ってもらいブログに載せてもらった。

写真は楽しいものだが国家機関による制限速度を超えた記念撮影だけは嬉しくない。