第 118話の「南京虐殺も追及」や第 120話の「いよいよ南京虐殺」で朝日のもう一つの捏造がいよいよ追及される雰囲気が整ってきたように思え てきました。
第 492回の「朝日新聞プロパガンダ小史」で戦前から朝日が反日だったことを取り上げましたが、戦後の捏造が どこから始まったのかを何時もの赤嶺さんが書いてくれていました。
赤峰和の「日本が、日 本であるために」より 2014-09-23
放 談(122) 中国の罠におちる――諸悪の根源としての朝日新聞(7)
…略
朝日新聞出版の『新聞と「昭和」』にはこう書かれています。
秋岡【※1】は67年11月、 前任の野上と交代。北京赴任に際し、社長の広岡知男から指示を受けた。『それを書けば国外追放になるという限度があ るだろう。そのときは一歩手前でとまりなさい。極端にいえばゼロでもいい。』
【※1】秋岡:当時の朝日新聞社北京支局長、秋岡家栄 氏。日中友好99人委員会創設者兼総代表。
その後の朝日新聞の中国関連報道は、人民日報日本支社かと思うほどの中国寄り報道 になってきます。
1970年04月22日 広岡知男社長が記事「中国訪問を終えて」で文化大革命を礼賛
1971年08月26日 本多勝一記者が「百人斬り」「万人抗」等、日本軍の残虐を印象付ける捏造コラム「中国の旅」を31回 連載
1971年09月13日 林彪【※2】事件を否定・隠蔽報道
【※2】林彪(りんぴょう):文化大革命で失脚した劉 少奇に代わって毛沢東の後継者に指名されるが、「反革命集団の頭目」と指弾され、逃亡の途中、墜落死した。世界のマ スコミも林彪が失脚したことを報じた際にも、朝日新聞は「変化はない」と報じた。
1985年08月05日 加藤千洋記者「中国『日本的愛国心を問題視』」という記事で、靖国問題に火をつける
また、中国のチベット弾圧に関しても、基本的に中国の立場に立った報道を展開して います。
1989年10月07日 社説【※3】でダライ・ラマ14世 がノーベル平和賞に選ばれた際に中国の意見を代弁。
【※3】社説:中国は"内 政干渉"だと強く反発しており、平和賞が対立を助長させ る原因ともなり、そうなれば"平和賞"の 名が泣くことになる。ダライ・ラマ陣営はこれを機に和解のために行動することを願う
…以下略
南京虐殺については新聞で読んだことも無く、ネットで知るまでは全く知らなかった のですが、この年譜を見ると、1970年に就職した年で、夜遅くまで必死で仕事をしていた頃だったので世間の動きに 一番鈍かった時のようです。
それにしても、戦後の朝日新聞の反日の元凶はどうやらこの広 岡知男社長のようですね。何と学生時代は野球選手として活躍していたのだそうです。やはり、健全な体に 健全な魂が宿るは嘘のようですね。アマチュア野球に貢献して殿堂入りまでしているそうです。高校野球を利用したのも もしかしたらこの人かも。
水間さんが声を挙げてくれた南京事件の捏造写真について何時ものくっくりさんが詳しく取り上げてくれています。 画像も良く分かります。
第 4559回の「南京事件」で取り上げたように4回もあったと言われる事件を支那人が書いたと思われるも のにそっくりだそうです。
ぼやきくっく りより 2014.09.22
本 多勝一が“誤用”を認めた南京事件捏造写真&「中国の旅」と支那人体験記の残虐記述がそっくりな件
・・・略
以下、近現代史研究家の阿羅健一さんが、現在発売中の「正論」2014年10月 号にちょうど「中国の旅」をテーマにした記事を書かれていますので、それを引用しながら書いていきます。
「中国の旅」は1971年(昭和46年)8月 から12月まで朝日新聞に掲載されました。
支那人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、残虐で非人道的な日本軍の姿が語られました。
ところがそこで語られている日本軍の行為は、日本人の感覚からは考えられないもの でした。
南京戦に参加した元日本兵でご健在の方々がまだ多くいた時期ですし、朝日新聞読者 も含めて「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社社史」)そうです。
それどころか社内でも批判が上がりました。
当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とでは全く違っていたからです。
日本軍が南京城内に入ったのは1937年 (昭和12年)12月13日 です。
14日の南京の中心の様子を朝日新聞はこう報道し ていました。
「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路 を走る自動車の警笛、車の音 を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数 万の避難民が残留する。ここにも又南京 が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(東京朝日新聞12月16日)
・・・中略
実は、本多勝一は「正論」1990年9月 号で、前号の田辺敏夫氏の記事への反論という形で、このように述べているそうです。
「問題があるとすれば中国自体ではありませんか」
この言葉から、本多自身が「中国の旅」が虚偽に満ちていることを知っていたことが 分かります。
そして、支那人が本多に語ったことは、自分たち支那人が行ってきたことをオウム返 しに語っているだけではないか、ということに気づかせてくれます。
たとえば、「中国の旅」と李圭の「思痛記」という本を比較すればそれは明らかで す。
「思痛記」は1879年(明治12年) に書かれた本で、李圭は清朝の役人でした。
1850年に広西で長髪賊の乱(太平天国の乱)が 起こり、3年後には南京を落とし、支配した地域を太平天国 と称しました。
太平天国は清と戦い続けましたが、1864年 に敗れて滅びます。
南京郊外の豪族の家に生まれた李圭は、1860年 に長髪賊に捕まり、2年以上軟禁されて逃れたあと、清朝の役人となり ました。
そして軟禁されていた頃の体験談をまとめました。
それが「思痛記」です。
この本の中で、李圭は周りで起こった悲惨な出来事を記述しています。
「中国の旅」の記述と比較して下さい。
・・・以下
もしかしたら、これも広岡社長が中国と組んで捏造して、本田氏に書かせたものなんてこともありそうな気がします。 とんでもない悪党かも。