明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


母の入っている施設にしばらくコロナが出続けていて中々顔を見に行けない。母も2度目の陽性となった。棟続きで病院なので対応は早い。幸い今回も無症状で、元気で歌を歌っているという。こういう時、電話の相手は笑っているので、様子が想像でき、また調子に乗っているのだろう。ご迷惑かけて、といいたくなってしまう。長らく商売をやっていたせいで、息子の言うことは聞かないくせに、外ズラは良い。おかげで楽しげにやっているから、その点に限れば助かっている。 私は外出をあまりしないわりに、咳が続くので、冷凍食品や調味料もアマゾンで取り寄せ、外出をさらに控えている。どうせ取り寄せるなら、聞いたことがない、地方のメーカーを選んでいる。便利になった。 どうせやるなら、死ぬ寸前までやれる仕事が良いと昔から思っていたが、足腰立たなくなっても、玄関までたどり付ければ、何とかなりそうである。火災にでも巻き込まれたら、何を置いても、作品から首だけ引っこ抜いて逃げようと、それだけは決めている。

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私が死の床でアレを作れば良かった、コレを作るんだった、と後悔に苦しむのをことさら恐れた理由が、死にそうだった父が退院して来たら、スポーツ新聞広げて水戸黄門を観ていてショックを受けたのが原因だと昨日書いたが、これは間違いないだろう。年齢と共に気になって来た。私の場合、作りたい物がまったく途切れずに常にある。ということは、死の床で、作れなくなった時も、何かはある訳で、それを想像してはウンザリしていた。父はどうだったのだろう。 しかし考えてみると、ほとんど外に出ず作ってばかりいる私は、人には退屈な生き方に見えているかもしれない。頭に浮かんだイメージが形となって目の前に現れる快感がどれほどのものか、これは私にしか判らないことであろう。大谷がパスタに塩のみと聞いて「人生つまんなくね?」 といった選手がいたらしいが、わかんねえだろうなあ、と大谷は思ったろう。 父と共通の話題はプロレスだけであった。ありがちなことだが、保守的な父はジャイアント馬場を嫌い大の猪木ファンだった。これもありがちなことだが、私は好き勝手な猪木を嫌ったのだが、父はそれを知らずに死んでいった。

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大谷翔平、手術後の経過も良く、新天地での活躍が楽しみである。私は普通の人と視点がちょっと違っていて、野球をすることによって湧き出る快感物質に取り憑かれた男の躍動する姿、笑顔を見たいのである。こんなあからさまな人間を始めて見た。 かつて、一時の性欲や手料理如きに胃袋捕まれ、結婚していく友人らに、友情を持って止めることを常としていた。それというのも、全ての人が、あの快感物質が湧き出ていると思い込んでいたからである。私にとって家庭生活=快感物質の湧き出るのを阻害するものでしかない。 学生時代の昼休み、小説を読んでいる間中、映像が浮かび続ける私は、他の連中がそうではない、と知って、びっくりしたのを覚えているが、そんな訳で〝お前ら頭おかしいんじゃないか?“と言わんばかりに説得していたことを、今では反省している。アレが湧き出ないなら、火中に身を投じる虫の如き行動も判らないではない。もっとも、全員アレに取り憑かれたら、人類の滅亡は間違いない。酒場でぐずぐず、なかなか家に帰ろうとしない男達は自業自得と思っていたが、滅亡を防いでいるのはああいった男達であろう。

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来年1月の古石場文化センターの小津安二郎生誕百二十年紀年関連行事で販売する小さなプリントを作り、その足で母のホームへ。同居していた時、急車車のサイレンを聴くとKさんじゃないか?とよくいってたKさん連れて面会。酔っ払って頭ぶつけ、ここの病院だけで3回運び込まれている。昔生傷男と呼ばれたレスラーがいたが、シワと傷が混ざっている。喜ぶ母。今日も喋りっ放し。 恒例行事としては唯一となった工芸学校時代の友人5人との忘年会。血糖値や尿酸値が測れるという中華製スマートウォッチの数値がいい加減だ、という話しから始まった。佳境近くで先輩がなんだかおかしい、といいはじめ顔面蒼白、脂汗をかき始め、救急車を呼ぶことに。心配顔の両サイドに座る2人が脳梗塞経験者である。どこも一杯ということで都心の病院に運ばれ点滴したらしい。私も無事だったとはいえ慢性膵炎を疑われたばかりである。妙な目標が生まれたおかげで、来年は健康に気をつけない訳にはいかなくなった。



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最近の怪獣が気に入らないのは大き過ぎて、自然災害の怖さになっているところである。大魔神やサンダ対ガイラの怖さに欠ける。それは近代兵器に合わせてそうなるのだろう。であれば話を昔に設定するしかない、とずっと思っていた。ネットで知って友人に「震電が飛ぶらしいぜ。」先日メールした。 ゴジラ第一作のオマージュなのだろう。残念だったのはアナウンサーに「いよいよ最後です、さようなら皆さんさようなら!」を何で言わせなかったのか?私が怪獣映画で最も怖かったセリフがあれだったのだが。 その後コロナが出て面会出来なかった母のホームへ。市川猿之助の騒動の最中だったが、今のホームへ転院したのだが、転院前から食が細くなりだいぶ弱り、転院後も話しかけても返事もせずボーッとしており、実のところ年は越せない可能性も、とちょっと思っていた。前のホームで職員全員が引っかかった母オリジナルのジョーク、真面目な顔して「どちら様ですか?」というボケたフリ(私にも一度かました)も懐かしく感じていたが、何がどうしたのか会いに行くたびに元気になり。今日はずっと喋りっぱなしであった。この調子なら、こちらでも必ずアレをやるだろう。

 

 



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千秋楽、宇良が勝ち越し新三役が期待である。以前、たまたまテレビを着けた際、取り組みを終え、花道を引き上げて来て、落ちているパンフを拾って着物姿の女性客に渡すのを見て、誰だ?と思って以来のファンである。逆に物言いが付いた際、盛んに髷を触って髷を掴まれたアピールしているのを見て、3度目の綱取り逃した大関を嫌いになった。そんなものである。宇良が膝を痛める前だったが、解説の北の富士が、膝を痛めなければ相撲が変わって化けるかもしれないといっていたが、軽量の異能力士から地位と体重アップとともに相撲が一変した栃錦をイメージしたのではないか?。 所有する60年代の国産ビザールギター、グヤトーンは、チャーが兄のお下がりで弾いた最初の機種であり、中学生の時に、親戚の納屋に壊れて打ち捨てられているのをもらって来た、私にとっても初めてのエレキギターで、捨てられたり壊したりして3台目なのだが、ボディが小さいくせにヘッド部分がやたら大きく〝栃錦の髷じゃあるまいし“いつか小さくカットしたい。



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ジャカルタで、線路に横たわる民間療法が流行っているそうで、年寄りから子供まで横たわっていた。線路に流れる微量な電気が良いという。糖尿病が良くなった、なんていっている。日本では考えられないが、昭和30年代の葛飾区某所では可能であった。テレビでは良く、線路上で縛られたオリーブがポパイに助けを求めていた。 忍者の真似して線路に耳を着け来た!なんてやっていたし、汽車や電車に五寸釘を轢かせて手裏剣を作ったが、磁力を帯びた、帯びないの意見は未だに別れる。汽車の煙が家の方までたなびいて来る所に育つと案外、鉄道マニアにはならないものである。化成ソーダのタンク車両が停まっていると、タンクの中では緑のソーダ水が波打っていると思い込んだ洟垂れ小僧供は、蛇口がないか探したものである。あの連中は、鉄道事故で死ぬことだけは100パーセントないだろう。 すぐ側に鉄道事務所があり、遮断機用などの竹竿が沢山並んでいて、竹馬作ったりチャンバラをしたが、ロバート・アルドリッチ『北国の帝王』の鬼車掌みたいなオヤジがいて、見つかると発砲こそしなかったが、空気銃を持って追いかけて来た。64年の東京オリンピック以降の東京に愛着はまったくない。



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溢れる快感物質に取り憑かれていると、その魔薬効果によりよほどな状態でも笑っていられる。2011年1 回目の『三島由紀夫へのオマージュ男の死』展を前に、友人に喫茶店で、色々な意味で止めろと説得されたことがある。ハッキリと覚えているのだが、私にはその言葉が妙なる音楽に聴こえた。相手からすれば、多幸感に満ちた私の様子はまさに中毒者のそれであったろう。 午前中、痛風で苦しんだ友人が酒を止めたという。私は止めたのに結婚をし、さらに酒を止めるようでは、もはや友情を育む手段は絶無である、と伝えた。私にとって家庭とは、快感物質に耽溺するのを阻害する物でしかない。両立出来るのは〝芸のためなら女房も泣かす、それがどうした文句があるか‘’タイプの人物であろう。我が妹以外、女性を呼び捨てしたことがないような人間には無理である。 件の友人は、カミさんと電話していると〝電話の向こうにいるのはパットン将軍か?‘’と思うので、ただの二等兵が、将軍の目をかすめて飲酒など難しいだろう。 人生ゲームから結婚の項目が削除されたそうである。



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室内で腐敗を疑われている間に、2回蕎麦屋のカレーを食べた。食べ物というものは、必ずしも美味いから食べる訳ではなく、食べたいから食べるのである。その蕎麦屋のカレーは最近お目にかかれない、小麦粉とカレー粉をとにかく炒めまくった挙げ句の、という昭和30年代にはお馴染みであったカレーなのである。店主に、その間、多少、創意や工夫については頭をよぎらなかったのか聞いてみたいくらいである。あの炒めた小麦粉の味が記憶にない人間が食べるとどう感じるのかはわからないが。2回目にカツカレーにしてみたが、カツが冷たいままで、それはもういらないが、すでに3回目食べたくなっている。 初めての蕎麦屋で、何故、蕎麦でなくカレーを食べたのか。以前都内某所で、老夫婦がやっているいかにも味がある食堂の見た目に騙され、今までのワーストワンといえるカレーを食べたことがある。まるで噂話だけを頼りに作ったかのような不味さであった。これで商い続けて来られたと思うと、ずいぶんぬるい地域である。しかし食べ物は必ずしも美味いから食べる訳ではない。頭の隅に、あの記憶がちょっとよぎった気がする。

 

 

 

 


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15日、鎌倉まで行く用事があった。行きのタクシーのドライバーが若い娘で、本日は縁起が良い、と思ったら、車中にスマホを落としたらしい。最近WiFiが繋がらず、スマホは普通に使えたので、まぁいいか、と何でもやっていたので、ブログの更新も滞った。結果、私が一人室内で腐敗しているのではないか、と生存確認に来た知り合いもいた。携帯ショップの無愛想な娘から、腹の立つことばかりだが、無くしてパスワードを忘れた私が悪い。スマホは出て来ず。おかげでメールは使えない。使えたとしても12日後だという。ならばWi-Fiを復旧してパソコンでと思うが、同じ設定を使っていると不都合が起きるとかで、ネットには出来るだけ繋げないで欲しい、という。 ところで鎌倉への電車内、モニターの広告で横尾忠則さんの『寒山百特展』の宣伝を眺め、世の中何が起きたっておかしくないな、と奇妙な気分で眺めた。おかげで寒山拾得の認知度が盛大に上がった。少なくとも〝何で今時、寒山拾得?という輩は、拾得のホウキで一掃されたことだろう。 たまたまブログにはアクセスできたが、電話番号はわからないし、メールも不通だが、ショートメールは届きますので生存確認はそちらで。



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最近はショートメールくらいしかしないが、同じ幼稚園、小学校の同級生に「八岐オロチじゃないけど龍作ってる。それとあの時企画だけで終わった鳩も作ってる。」八岐のオロチは私演出の学芸会の出し物で、鳩は、やはり学芸会の出し物だったが、何かとてつもなくくだらないゲームめいたものだった気がするが、彼と実物大の鳩を作ることになり、今のように材料が潤沢ではなかったので、新聞紙を煮て紙粘土を作ろうとして上手くいかず挫折した。粘土で鳩というと、我々の当時のバカさ加減の象徴として二人の記憶に残る。 別な幼稚園からの同級生の家の洗濯機が壊れ、庭に置いてあった。回転部分を取り出し、陶芸家のようにロクロをやろうぜ、と。その時は紙粘土を買って来て、スイッチを入れたとたん高速回転。紙粘土で庭が一瞬で真っ白になった。 ついでに思い出した。小学一年の時、油粘土でゴジラを作った。翌日学校へ行くと、ゴジラの腹の中から死んだフナが出てきた。どうやら私のゴジラの出来が良すぎたらしい。



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早朝目が覚めたら懐かしのドラマ『おやじ太皷』(68〜9年)をやっていた。元祖ジャニーズのあおい輝彦が出ている。矢吹ジョーの吹き替えが印象に残るが『冬の旅』(70年)で錆び釘踏んで破傷風になり、痙攣しながら死んで行くのがやたら怖かった。というのも、丁度その頃、ボーイスカウトのキャンプで錆び釘を踏んだ。キャンプには、世話役の父兄が同行することがあったが、その中に大工がいて「俺たちはこうするんだ。」といって、私の傷口に蝋燭の蝋を垂らし、金槌でトントン叩いた。あんたのツラの皮みたいな足の裏と小学生の足の裏を一緒にするな、という話で案の定、帰宅後夜中に父に連れられ、救急病院へ、さらに痛い目にあった。陶芸家を目指していた頃、粘土屋の奥さんが破傷風で、あっという間に亡くなった時も、思い出したのは痙攣するあおい輝彦であった。両ドラマとも木下恵介だったから、やはりその筋に好かれたのかもしれない。ついでにタイトルをキャッチーにしてみた。



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介護ホームの母の顔を見に行く。一目見てふっくらしていて安心するが、10数年前に父は亡くなっているのに忘れてしまったらしく、毎日どうしてるか心配だ、という。手術の後、目を覚さないまま死んで墓に入れたじゃないか、というと思い出して、そうだったボケたね。ずっと心配してた。これで安心した、と笑った。あの父が母なしで生きて行ける訳がない。何年前の何日に亡くなったか覚えていないし、墓参りにも最近行ってない。 私は昔から一人工作する男のイメージにツンと来る所があり、友人の部屋にマッチが井桁に積まれたのを見てさえ、私の知らない彼の孤独を思ってツンと来る。父が亡くなり数ヶ月後に、父がよく通った日曜大工センターに材料を買いに行き、一人工作する男のイメージは父の背中だった、と突然気が付き、葬式でも涙一つ出なかったのが、滂沱の涙で買い物どころでなくなり帰った。私とは正反対の人間だったが、どうやらその背中だけは受け継いでるようである。なので私はただ何か作ってさえいれば、墓に手を合わせずとも構わない、と考えている。 母は一時はボーッとこちらを見たまま黙っていて、これは長くないと覚悟したが、すっかり元気で、良く喋るようになっていた。例によって今何作ってるの?と聞くから、明日からまた一休さん作る、といったら笑っていた。



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一休和尚制作開始せず。私の〝悪癖”の一つが、ご馳走を目の前に、グズグズなかなか取り掛からず、自分を焦らして創作における快感をより高めよう、とすることである。もちろん依頼され期限があるような場合は、この悪癖は発動しない。しかし、もういい加減作らせろ、とヨダレを垂さんばかりに取り掛かれば、集中力がより高まった状態で、ご馳走に齧りつけるのは間違いない。独身者の部屋はノックせずに開けるな、と言うが、一人で何を企んでいるか判ったものではない。 そう考えると、頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのだ?なんて考えたのも鍵っ子時代の妄想である。父が脱サラして共働きとなり、一人にしていたらロクなことはない、と託児所がわりに塾に通わされた。仕事から帰ると、まさかテレビを観ていたんじゃないでしょうね?真空管時代のテレビの後ろの温度を確認する母であった。未だにカミさんに、そんな目に合っている友人には、だから俺は友情をもって止めただろ?



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相変わらず暑い。今日は何もする気が起きず、寝たり起きたりを繰り返す。世界陸上。最近は日本人が活躍するようになり楽しみが多い。64年の東京オリンピックであらゆる人種の肉体の躍動に釘付けになった。陸上では、メキシコオリンピックのフォズベリーの背面跳び以上に驚くことは無さそうだが、大谷翔平の大リーガーを凌駕するパワーを観ると、今後何が起きても不思議はないように思える。できる物なら、女子が男子の記録を破る所を死ぬまでに一度見てみたいものである。男ばかり作っている私だが、私のような渡世に生きていると、生きにくさの原因にも思え、一度くらい「ザマアミロ」と言いたいのである。最近は格闘技で、男女が戦って女子が勝ってる動画を観ては喜んでいる。男性の筋肉の優位性を信じて疑わなかった三島由紀夫が生きていたら、長生きはするもんじゃない、と嘆いただろうけれど。



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