明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



夢野久作を作るにあたり入手した『九州帝國大學醫學部寫眞帖』(昭和六年の卒業アルバム)は、久作がドグラ・マグラ執筆中の物だけに、書くに当たって取材したり、モデルにしたり、出版記念祝賀会に招待した教授などが、直筆サイン入りで貼り付けてあるのだが、14年後に起こる、悪夢のような米軍捕虜生体解剖事件にかかわった教授までいる。しかし昭和六年といえば、この捕虜の生体解剖を母校に持ちかけた、そもそもの発案者、後の軍医見習士官が卒業した年なのである。この男は終戦間際に焼夷弾の直撃を受け、右足切断手術の後、破傷風により死んだらしい。享年41歳。上坂冬子の『生体解剖事件』では仮名になっていた。どうにか本名は調べたが、アルバムの中にない。実に残念だと思っていたのだが、昭和六年の九州帝国大学一覧、「三月学士試験合格」の欄に「(元藤田)小森拓 佐賀」とあった。この男だったか。名前が換わっていたのである。 生きて裁判の場に引っ張り出されていたら、事件はさらに広がっていたに違いなく、死んでホッとした連中もいたはずである。731部隊関係者と違い、こちらの関係者は、占領軍側に医学的成果を何ももたらさなかったため、戦犯としての扱いも違っていたようである。

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