第3シリーズともいうべきモチーフに転向することになったのは、人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている。と長らく考えて来たが、仏は己の中に在るということに、結びついたのかもしれない。独学我流者であることも大いに関係している気がする。というのも、特に肝心の頭部、顔を作るとき、40数年間、ただひたすら完成を祈る、としかいいようのない方法で作って来た。これは比喩でもなんでもない。なので私が人形の首を作っているところを見た人はいないはずである。実に泥臭く、完成する気がしない。ただ結局は祈りが通じて完成して来た、という経験が後ろ盾になっているだけに過ぎない。創作のことだけを考えると自分と向きあい、面壁修行の如き趣きである。難があるとすれば、制作していない時の修行僧の対局にある、生活態度にあるかもしれない。なので欠点がなるべく出ないよう、制作ばかりしている。 しかしながらこのグウタラしている時にこそ、上からぼたもちのように何かが降ってくるので、達磨大師のイメージもおおよそ。
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