蘭渓道隆や無学祖元と並べても違和感を感じない達磨大師にしたい。まずは禅画によくあるギョロ目はやめよう。あれのおかげで定型キャラクターになりがちである。だがしかし、並べても違和感ない達磨大師が出来たとしよう。そうなると今度、浮いてしまうの中国である僧の注文で描かれた怒目憤拳の臨済宗開祖、臨済義玄像。それが日本に伝わり、流布された。その顔が作りたくなって立体化したが、前頭部に向かって盛り上がった頭部その他、創作されたものであることは明らかである。その後まったく別人の義玄坐像を数種見つけた。そのうち元になったであろう座像が京都の大徳寺にある。こうなったら行きがかり上、これを立体化しない訳にはいかなくなる。 こうして、自分のしでかした?いや制作した物によって、道筋に変化が起きる。こうやって常に変化を続けて来た。明日はどっちだ?それで良い。目標とは感じる前に考えろ、だといえなくもない。とかく挫折の元である。
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