作っている物が嘘八百のせいで、本物の風景が合わなくなり、ついに中国の深山も、自分で作ることになった。泉鏡花 を抱えて滝を撮りに行き、暗くなって雨に降られ、滑って転んで眼鏡をなくしたりしていたのが懐かしい。 必要のない物は身につけるべきではない、学べば学ぶほど良いというほど人には時間はない。 若い頃、田村写真の田村氏のプリント作業を観て、私には田村氏に何が見えているのかさっぱり判らなかった。これは向いていない。すぐプリントは辞めた。また私が写真的技術、教養を身に付けたなら、いつかそれが私の足を引っ張ることになる。こういう勘はヘソ下三寸のもう一人の私は鋭い。まさか陰影を削除することになるとは思わなかったが、結局写真という文脈ではイメージを頭の中から取り出すのは無理だったということであろう。 先日YouTubeで某和尚の法話で、寺が不便な山深いところに作られるのは、宗教が時の権力と結びつくとロクなことがないからだ、と聞いた。
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