明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



空想ばかりしていた鍵っ子時代の私は、頭に浮かんだイメージを友達にでも話さないかぎり、何処かへ消えていってしまう。私の制作動機の原点は、それを頭から取り出し可視化し、”やっぱり在った”と確認することである。 長い間、まるでこの世の物であるかのように光を当て陰影を与えていた訳だが、それでは届かないものがあった。長らく続けて来たそんな作風が良い、といっていただくことは多いが、私本人としては、陰影を排除することにより、何とか間に合った。と思う今日この頃である。 タイムマシンでもあれば葛飾北斎に、西洋風陰影なんて娘にまかせて、晩節を汚しなさんな、といってやりたい。あんた後世にドラマ化され西洋画見て「見たまんま描いていやがる。」っていってたんだぜ?ちょうど陰影を排除しようって時だったから、その後に続けて私には”この野暮な野蛮人が!”と聴こえたんだが。

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『月下達磨図」に多重塔を加え完成。『蘭渓道隆面壁坐禅図』と『蘭渓道隆天道山坐禅図』にようやく蘭渓道隆を配した。明日中には完成するかもしれない。 天童山は2メートル超、面壁坐禅は長辺約150センチになる予定である。大きなプリントをするようになったのは、サンデイエゴ写真美術館館長だったデボラ・クロチコさんにアドバイスされたのがきっかけだが、その時は拡大したら粘土感丸出しの粗が目立つだろう、とその真意は判らなかったが、小さな人形を人間大、あるいはそれ以上に拡大してみると「私が意図したのと別の何かが迫ってくる。」という”フランケンシュタイン博士の感慨”を味わうことが出来る。

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陰影を排除した石塚式ピクトリアリズムはどうせなら、この手法でなければ手掛けられないであろうモチーフを手掛けたい。生来出無精ではあったものの、コロナや酷暑、坐骨神経痛により外出し難い状況も、この手法がそうさせたのではないか?と疑いたくなる。 完成まじかの達磨大師、中国人だと思い込んでいる人が多いので、インド人を意識してみた。少林寺の岩窟内にいるのに照明を当てたように明るい。我が国の絵画にはかつて月が昇っていたり行燈があれば夜である、というルールがあった。最近まで実行していた作家に蛭子能収がいたけど。 見たまんま、それがまことであり世界だ、などとは野暮というより野蛮である。もしかしたら私は生まれた時からずっとそう思って生きて来たのではないのか?そう考えると私に関しての、全ての説明がつくような気がする。


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フィルム代のかからないデジタルカメラの時代になったというのに最近の手法は、撮影の段階で構図など決まっていなくてはならず、従って、だいたい5、6カット撮れば終わる。モニターで確認して撮り直すことはあっても、シャッターを切る回数は極端に少ない。偶然が入り込む余地もほとんどない。眉間にレンズを向ける念写となればそういうことになる。今回やってみて判ったことは、ずっとアイデアスケッチなどしないできたが、これからはやることにした。おかげで二日間でおおよそ背景が出来た。もっとも、精度を高めるためには、そこから手直しの時間が必要だが、やればやるだけ頭に浮かんだイメージに近付いていく。そろそろ蘭渓道隆の法衣に着彩をして完成させたい。


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長辺2メートル超になる予定の『蘭渓道隆天童山坐禅図』の背景完成。数百メートルの絶壁、石ころで作ったとはお釈迦様でも気が付くめえ。『月下達磨図』は、少林寺の岩窟という設定なので、多重塔を作って配せば完成となるだろう。達磨大師はすでに座っている。満月に多重塔がシルエットとなって、それが当初のイメージであったが背景と月の高さの都合でどうなるかは多重塔が出来てから考える。 『蘭渓道隆面壁坐禅図』はるか背後の上空に龍を配し、禅師の頭上から法の雨を降らせているかのように。これはさすがにクド過ぎの気がしている。洞窟の開口部の形は、禅師が背負う光背に見立てているし。もっともモニターで見るのとは違って長辺150センチほどになる予定なので、そうなるとまた違うかもしれない。難航すると思っていた半僧坊の嵐の夜空は不穏な感じが出ていて満足。浮世絵のように雨を線で描こうと考えていたが、綺麗に直線で降る雨は悪天候感はあまりない。 

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先日、武道の番組で、日本人はなぜ盾を持たないのだ、と海外ではいわれるらしいが、日本刀は重く、両手で扱うので盾など使わないのだ、といっていた。円覚寺の開山となった無学祖元の喉元に刀を突きつける蒙古兵。ちょっと持たせたくなった。陰影がないとオブジェ同士が干渉し合わないので、撮影後に足しても問題ない。 浜松は方広寺の禅師、中国修行からの帰途嵐に遭う。雷鳴轟くシナ海、そこへ3メートルはあろうかという袈裟をつけた異形の者が現れ、無事日本に導いたという。天狗、あるいは猿田彦的。船の帆柱の先にスックと立たせる予定。不穏なムードの悪天候を作った。後で雷を加えよう。

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『蘭渓道隆天童山坐禅図』の背景は、数十年ぶりにアイデアスケッチなどしたせいで、頭の中で熟成され、実にあっけなく、滝を加えれば完成となる。そびえる山も禅師が坐禅する岩も、全て実景ではなく、手のひらサイズの石である。となると実景の滝のデータは合わないだろう、以前から考えていた方法で作ろう、と考えていた。肝心なのは虚実のバランスである。ところがある方法で作った『慧可断臂図』の岩窟と違って、今回は本物の石ではある。 虚実の間で“夜の夢こそまこと““眉間にレンズを当てる念写が理想“を標榜し、別なカットでは、禅師の頭上から龍により法の雨を降らせようとしているのに立ち止まる。こんなことで悩む人がおらず「あんたはこういう時どうしてる?」なんて話相手が相変わらす皆無な私である。

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幼い頃、本を読ませておくか、紙に鉛筆、クレヨン与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれた私だったが、この二日間、オリンピック中継のテレビこそ着け放なしであったが、私自身はシャッター切る音を30回くらいと、炊飯器の蓋の開け閉めの音をさせたぐらいで実に静かであった。まる2年、散々待たされたご馳走に、ようやくかぶりついている。『蘭渓道隆天道山坐禅図』『蘭渓道隆面壁坐禅図』『月下達磨図』の背景が集中力のせいでおおよそ出来上がった。 ダラダラと余計なことをして自分を焦らし、創作の快感をより高めよう、という昔から治らない悪癖があるが、蘭渓道隆師はあまりに私に我慢を強いた。おかげで集中力が昂まり、残念なくらい制作が進んでしまった。 ※集中しすぎて時間感覚がおかしくなり一回多くブログを書いてしまったらしい。昨日書いたが本日分とする。さっき寝たと思ったら起きてるし。

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約2年ぶりのフォトショップ。随分忘れている。といっても、切り抜いて色と形の調整ぐらいで、特に難しいことをする訳ではないので、昼過ぎぐらいから少しづつ思い出してきた。 臨済宗は壁を背にして坐禅をする。袈裟は着けないとも聞いていた。一番肝心な表情を見せられて良い、とそのつもりでいたが、蘭渓道隆の七百数十年前はどうだったのか?と思い始め、関係者の方に伺うと、果たして開祖達磨大師同様面壁だったという。ここから面壁問題?をどうするか、が一つのテーマとなった。すでに『慧可断臂図』で達磨大師を振り向かせていたが、蘭渓道隆の生けるが如き頂相のリアルさを思うと同じ様には扱えない。まずは2メートル超になる予定の『蘭渓道隆天道山坐禅図』から始める。元々寝る寸前まで起きている私は“ピストルに撃たれたように“寝るといわれるが、おそらく10秒以内に寝ている。


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縮緬石をろくろ台の上で少しづつ動かしながら撮影。「月下達磨図』『蘭渓道隆面壁坐禅図』『蘭渓道隆大童山坐禅図』用に、あらかじめシュミレーションしたイメージに基づいて撮影する。今回はただ陰影が出ないように、平面的に撮るのではなく石の亀裂であるとか、デイテールを拾うように意識した。この辺りのテクニックは実に面白いのだが、相変わらず私にはテクニックについて話し合う相手がいない。  一歩も外へ出ることなく、中国の仙人が住まうが如き風景を。鍵っ子の私がアマゾンやエジプトの探検記を読んで想像した世界。あんなものが実際あるわけがない。寺山修司がいうように、どんな鳥だって、想像力より高くは飛べる訳がないのである。 すでに痛みはないものの坐骨神経痛の余波にこの酷暑である。どこにも出かけたくない。と書いたところで、昨日買ったアイスが冷蔵庫にあるのを思い出した。母明日退院とのこと。いくらか食欲が出て来たそうである。

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建長寺開山蘭渓道隆の、国宝である唯一の寿像(生前に制作された像)を私が立体化すると、建長寺の重文の木像と明らかに別人になってしまう。七百数十年の間、拝されてきた寺宝に対し異を唱えているかのような、罰当たりなことをしている、という気分が作りながらずっと拭えずにいた。しかし臨済宗の、師の姿に込める想いに打たれ、立体化の後七百数十年ぶりに、真正面の尊顔を拝してみたい、という想いを抑えることが出来なかった。場合によっては発表不可の可能性も考えないではなかったけれど、何のために、私にカラの米櫃を突きつけるような存在を排除して来たのか。作りたければ需要は関係ない。 とはいうものの、未完成の開山像を持って建長寺の門をくぐる二日前、寝ていたら胃液が上がってきて目が覚め吐いてしまった。幸いなことに、その後建長寺の関係者にお叱りを受けることもなく。これも禅宗の許容度の広さというものか。

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一日  


ホームの母は、ついこの間会った時はお腹が空いて仕方がない、といっていたし、幸せだ、というから、終わり良ければ全て良しだ、とブログに書いたばかりだったが。その後食事を取らなくなり、同じ敷地内の病院に入院となった。認知も進んでいるようだが、精神科医の友人に、楽しそうにしている患者が、その内実は、必ずしもそうではないのだ、と聞いたことがあるが、母の幸せ、にもそんな事情があるのだろうか。もっとも彼のいっているのは分裂病患者の話だったが。 担当医師の話では、向精神薬と食欲不振の関係はバランスがあって、ということだそうである。心臓が大きくなっているのが気になるが、来週には退院できそうな感じである。ずっと96歳だと思っていたが、従姉妹によると「おばちゃん95でしょう?」「そうなの?まあどっちでもいいや。」 小学校の後輩ウルフ・アロン、個人戦では怪しい判定が惜しまれるが混合団体戦では良くやった。結果はフランスの競技人口の差が出たということか。

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水石を霧吹きで濡らしては拭いながら、使いたい所を撮影していく。書斎派という言葉があるが、中国の仙人が住まうが如き深山風景も、キャベツ大から手の平サイズの石で作る予定である。雪舟など、中国で絵を学んだ連中の中には、中国の山水画が創作ではなく、そのままだと驚いた人間もいただろう。仙人や寒山拾得など、超俗の存在を理想とした世界があった。おそらく中国に行って実景を撮ったところで、もはや私の作品には合わないだろう。 陶芸家を志望していた工芸学校時代、写真家志望の友人と飲んでいて口ゲンカ。「お前みたいな雑な奴に良い器なんか作れるか!」こちらも「お前があの娘を可愛くした訳じゃないし、あの山だってお前が雄大にした訳じゃないだろ!」彼の予言の正しさは証明され、口は災いの元。と手の平の上の石を見つめる私。.

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ブログでさも制作中のように書いているが、頭に浮かんだことを書いているだけで、今月早々には、まず背景用の石ころの撮影から始める。その間に蘭渓道隆の語録『嵐渓録』をもう少し読み進めたい。中国語を訳したといっても、元々が難解であり、私には荷が重過ぎるが、少しでも触れ、向かい合うことが大事である。独学我流者は、こうして忍耐さえも、自分の成そうとすることから学ぶことになる。 凡人で能力のないものは、たった一つのことに注力し、それでせいぜい描いたイメージに届くかどうか、ということは初めから知っていたが、様々なことに手を出し、有限の時間を使い散らかすのが凡人の特権だ、とばかりの人達を見ると、まあそれも一理あるかな、と思ってみたり。 オリンピックを見ていて、どんなに努力し万全を期していても、相手に負ければ泣くことになる。親戚の子供にオセロを挑まれても対戦を拒否する私は、対戦相手は自分だけで沢山である。

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