65回目、もうそんなに経ったんだなぁ。しかし、まだ戦後は終わってはいない。
8月15日が近づくと、マスコミはいっせいに戦争体験を振り返る。もちろん、しないよりしたほうがいい。それができなくなることを恐れるから。
昨夜、「帰国」と言うドラマをちょこっと見た。英霊が65年ぶりに母国へ帰ってきた、という設定である。出征前のドラマは見なかったが、終盤の英霊が見た現代を見たくて、そこだけつけていたのだった。
痛烈な皮肉。
朝、町民センターに半旗が掲揚されているのを見た。な~んか、いつもより下の方に垂れ下がっている。半旗が弔意であることは日本に限らずそうだということも知っているが、掲揚にどういう規定があるものか、気になった。調べると、旗の長さの二分の一、ポールの二分の一、その範囲で、という決まりだった。
戦争に関するものは一切見ない。式典も見ない。
いろいろ思い出しながら、黙祷はサイレンが鳴る前にした。
敗戦時、私は国民学校2年生。
7月22日、海岸で妹と遊んでいるとき不意に「飛んできた2機の戦闘機から機銃掃射をうけた。
銃弾が岩に当たり、キーンという音をたて、水中に射こまれた銃弾はプシュプシュと水面を切った。この音は今も覚えている。この飛行機は私たちを脅した後、初島沖で漁をしていた網代の漁船を襲い、漁民22人を死傷させた。この船を曳航して連れ帰ったのは真鶴の石船。血だらけの船を真鶴港で子どもたちも見ていた。Papasanもその1人だった。一連の事実が私の経験とつながるのは、何十年も経ってからである。情報がない時代、この飛行機がどこから来てどこへ行ったのか、いまだもって分からない。調査は頼んでおいたのだが。
真鶴に住んでいても、海岸に人間魚雷のために穴が掘られていたことなど、知らなかった。浜松の社会科の先生に、調査を頼まれたので、郷土史に詳しい人に聞いて、そうだと分かったのだった。
機銃掃射は映画「禁じられた遊び」の冒頭、機銃掃射の弾丸が道を這うようにして伏せている人々の上をわたっていく、(当然、銃弾に通られた人は射殺されて死ぬ)、そのシーンと重なって思い出す。そんな怖い経験があるくせに、遊びに行ってしまっていたらしく、玉音放送は聴いていない。