はじめに
アンデスと言ったら、先ず思い浮かべるのは南アメリカを縦断する世界一長い山脈、アンデス山脈、そこを悠然と舞うコンドル、リャマ、アルパカetc. そしてフォルクローレとインカの歴史。こどもの頃、エジプト、インド、メソポタミア、中国の4大古代文明と習ったが、いまではそれにメキシコとペルーをくわえて6大古代文明というのだそうだ。ペルーにはインカ以前に栄え、消えていった文化の遺跡がたくさん残っている。まだ発掘途中のものも多い。ペルーといえば、世界遺産になっているマチュピチュの遺跡、ナスカの地上絵、ペルーとボリビア国境にまたがるティティカカ湖。
アンデスの旅は私には抵抗があった。というのは4000m近くを旅するので高山病の心配がある。チベットを旅したときのあの頭痛を思い出したのだ。アンデスには憧れはあったが、自分ひとりだったら諦めていたかもしれない。ところがこれが現実になったのは、papasanがアンデスに行こうと言ったからである。ケニアにもウズベキスタンにもイースター島にも頑として行かなかったpapasanがである。これはひとえに娘のフォルクローレに負うところが大きい。娘が惹かれてやまないフォルクローレの世界を垣間見たかったのだろう、言ってみれば親バカのなせるわざだ。なら体力が少しでも残っている今の方がいい。歳には勝てない。常時鍛錬している人は別にして、私のようにまったく運動しない人間にとっては、年々自然環境の厳しいところは体の対応が難しくなる。
計画は私が立てた。イースター島に行ったときガイドをしてくれた瓜生君がクスコに住んでいたことを思い出しメールを送ると、日系の旅行社を頼んだ方がいいと言ってNAOツアーを紹介してくれた。娘もボリビア旅行でちょっとだがNAOツアーのお世話になったと同じ名前が飛び出した。風の旅行社もNAOツアーと提携している。そこで風の旅行社を通してここにお願いすることにした。初めてのことだし、ペルーとボリビアの定番をまわることにした。ただし年寄り二人なので、ゆっくりとした日程でと頼んだ。風の旅行社のカタログを見ていたら下のほうに小さく、ペンション カンツータの紹介が載っていた。日本人の経営で安心、ご希望ならここに宿を取ることもできる、と。そこでリマでの宿泊をペンション カンツータにしてくれるように頼んだ。これは大正解だった。カンツータでは今の日本人が忘れているもてなしの基本に触れたようでうれしかった。リマで宿泊をする方はぜひペンション カンツータを利用してみてはいかが。人をもてなすとはどういうことか、思い出させてもらえるから。私は郷に入っては郷に従えで海外へ行って和食が食べたいとは思わない。しかも私の口はうるさい。しかし、今回カンツータで出された和食には感激した。作り手の気持ちにである。
高山病対策は、ダイアモックスを服用することにした。この薬は日本では医師の処方がなくては買えないので、町立診療所に行き薬を出してもらった。もしかしたらpapasanも飲むかもしれないと2週間分出してもらったが、結局私だけしか飲まなかった。処方には毎食後1錠となっていたが、経験者から教えられたとおり、朝晩半錠ずつ飲むことにした。初日、カンツータで会ったトレッキングに来た女性は全然効かなかったと言っていたが、私には効いたらしく、チベットの時のように、頭痛に悩まされることも胸苦しさもなかった。それに引き換えpapasanは大分参ったようである。夜中に息苦しい、死ぬかもしれない、と騒いでいたから。高山病の話をしても、僕はならない、モンブランでもツェルマットでも3500m近くまで上っているから大丈夫だ、と頑張っていた。滞在期間が短いのと長いのでは違うのだといくら言っても、頑として耳を貸さなかった。体験しなきゃ分からないことだ、仕方がない。
さて、いつものように支度は出がけ前の簡単なものだった。ペルーは冬であることを念頭には入れたが、ケニア(冬だった)のときを参考にしたのが誤算だった。ペルーにはフンボルト海流が流れている。「アンデスは寒かった」というのが一番の感想である。ジーンズの換えに夏物の綿パンを入れたが一度も使うことはなかった。寝巻用にしてもいいと長いズボン下を2枚持っていったがこれが役に立った。もっとも日中は暑くて困った。靴下はいつもハイソックスを持っていく。暑ければ折ればいいと言う考えからだ。下着類は1組。綿シャツは2枚、カシミアのスウェーター、それとケニアに持って行った薄手のコートだ。かさばるが裏つきのゴルフジャケットにすればよかった。
紫外線が強いからと、サングラスと日焼け止め(娘にもっらった)は用意したが、結局一回も使わなかった。
いつものように、鉛の袋に入れたポジは40本(コダックE100VS。E100Gの方がよかったかも)。使ったのは意外と少なく20本だった。サスケも変圧器も延長コードも充電器も袋に入れてある。余分なものはPapasanのスケッチ用の水彩ぐらいだ。今回は二人だがツアーなので、荷物を持って歩く心配はない。そこで機内持ち込み可能ではあるが、いつもよりしっかりした布製のケースに赤いベルトをつけた。
私の持分は、カメラはEOS1とEOS55の2台。強力ストロボ。レンズは重いが使い慣れている28~70mmF 2.8と100~300mmの望遠。Papasanのデジカメ。
PCやスリッパ、洗面用具、本は手荷物用のバッグに入れた。
トイレはペルーは他と同様、排水が悪いので使用した落とし紙は備えつけのゴミ箱に入れる。頭では分かっていても習慣とは恐ろしいもの、気を許すとぽいと便器に捨ててしまう。はっと気がついて、自分の排泄物だからと便器に手をいれ、紙をすくってゴミ箱に入れたことも数回あった。これが習い性になって、流してもよくても、その後しばらくは落とし紙の処置に苦慮した。
日本との時差 14時間 昼と夜を逆にして2時間ひくとペルー時間。
通貨 ソル 1ドル=3.2ソル
基本情報
面積 128万5,215km2
人口 2,754.7万人(2004年ペルー国立統計院推定値)
首都 リマ
人種 先住民47%、混血40%、欧州系12%、東洋系等1%
言語 スペイン語(他にケチュア語、アイマラ語)
宗教 カトリック教(89%)
2005年5月20日(金)
千葉で信号トラブルがあったとかで横須賀線が遅れている。横浜駅に入ってきたのは遅れているため私たちが指定席を買ってあるものよりひとつ前の成田エクスプレス。指定の電車では遅れてしまうのでそれに乗る。11両編成が6両しかついていない。指定席もへったくれもない。「空いているところにお座りください」という放送。空いていたので座ったのはいいが、東京駅でどやどやと乗ってきて一杯になって初めて気がついた。禁煙車両ではなかったのだ。しかし今から移っても席がないかもしれない、と我慢した。今どき喫煙車両があるとは思っていなかった。普通なら検札にくるのが、とうとう一度も検札にこなかった。乗客に文句を言われるからね。現にまわりのおばさんたちはぶうぶう言っていた。私も、もう電車はよそうよ、やっぱり車にしようよ、とぼやいた。Papasanは帰り眠くて辛いのだそうだけど。
エアーカナダは第2ターミナルだ。チェックインに行くと、団体チケットは航空会社の方で席を割り当ててくるから、好みの席は取れないという。真ん中の席だった。この飛行機は後ろは2、3、2。まぁ、寝ていくだけだからいいか。19:15発。トイレにたったPapasanが戻ってこない。そのうち飛行機は動き始めた。具合でも悪くなって、トイレにいるのだろうか。立ち上がってふりむくと、一番後の窓際にちゃっかり座っている。心配して損した。
太平洋上は真っ暗で何も見えない。窓から見えたのはさそり座。一度だけSKYMAPが映し出された。ちょうどロッキーを越えるあたりで。でも下は雲に覆われて山並みはみえなかった。それからだんだん地上が見え出した。広い広い、麦畑なんだろうか、それともジャガイモ用なんだろうか、長方形に耕された土色の畑が見える。あちこちに小さな湖が見える。
やがて大きな湖、五大湖に差し掛かった。五大湖はミシガン、ヒューロン、スペリオル、エリー、オンタリオって暗記したけど、どれがどこだか忘れてしまった。下の湖はどれだろう。しかし船の姿が見えない。トロント周辺は住宅地が並んでいる。ほとんどは低層住宅だ。
東京からのトロントまでのフライトは約12時間。第一ターミナルに着いた。トランジットでもいったん入国検査を受けなければならない。時間がたっぷりあるからいいけれど、バスで入国検査の建物まで延々運ばれ、またチェックインしてバスに乗り第一ターミナルまで戻ってきた。そしてさらに528番にゲートに行くためにバスに乗った。なんとも不便だなぁ、とぼやくと、目の前に目下改装中、2007年には新空港がオープンすると書いてあった。
528番ゲートから夕日が沈んでいくのがよく見える。カナディアン サンセットだ、なんていいながら歌を歌っている。20日を2回、20日の夕日を2回見たことになる。
Canadian sunset
23時55分発。トロント郊外の住宅はまるで光のじゅうたん。きれいだ。これもエアーカナダなのだが、マップを出してくれないので、とうとうどう飛んでいるのかわからなかった。トロントからリマまで時差はあるが、約8時間。リマ近くなって、曇って入るけど、山々が見え始めた。アンデスの山並みなのだろう。
機内で入国票を書く。この半券は帰るとき必要なのでとっておかなければならない。リマ6:55着。入国審査に時間をとられた。やっと終わって、荷物を持って外に出ると「風の旅行社」の黄色い旗を持った女性が待っていてくれた。金城さんである。車で、ペンション・カンツータに到着。金城さんは11時に迎えに来るからそれまで休んで、と言って帰った。シャワーを浴び、さっそく洗濯をする。
カンツータの中庭はきれいな花が一杯咲いている。小鳥がたくさん飼われていて雰囲気がいい。ペンションの1、2階部分が「ポコ ア ポコ」という民芸品のギャラリーになっていて、素敵な織物がいっぱい。3階が宿泊施設になっていた。部屋にはつっかけやぞうりが備え付けてあった。ご主人がお茶をいれてきてくれた。
「わぁ、美味しい。私は静岡県出身ですから、お茶は大好きなんですよ」
「ウチの家内も富士の出ですよ」
「あらまぁ、ご近所だ」
リマではNHKテレビが入る。
11時お迎えが来たので、車でリマ市内見物に行く。ガイドの金城さんは結婚してリマに来て35年という女性。ペルーの歴史から政治まで広範囲に話してくれる。12時に行われる大統領官邸の衛兵の交代を見に行ったのだが、交代式はなし。庭先を修理中だとかで、明日からまた交代式は行われるのことだった。ジャカランダの花を見た。紫の桐のような花がきれいだった。
大統領府と旗
大統領府の屋根に旗が二つ翻っている。一つはペルー国旗。もう一つは虹色の旗だ。「あれ、虹色の旗!」と指差すと「あれはインカの旗ですよ」「そうなんですか。以前、フィレンツェで大きなデモがあったんですけど、その時使用されていたのが虹色の旗、真ん中にPACE、平和って書いてあったんですけどね。ふ~ん、インカの旗だったんですか。なんでインカの旗を使ったのかな。どういう意味なんだろう。」
ボリーバル・ホテルに残る大理石のホール、その上には花模様のステンドグラスがある。昔の金持ちの家はこういう形式の家作りをしたとのこと。古い形式と言うと、広場に面して続くバルコニーのついた家並み。バルコニーは精緻な木彫りで模様で作ってある。単なる張り出しはなく、部屋の一部として作られ、そこから外を見ながら生活していたようだ。特に女性は外に出られないので、そこから外を見て楽しんでいたらしい。こんな話、どこかでもきいたな。インドのマハラジャの王妃たちの話だったかな。リマの古い町並みは世界遺産に指定されている。スペイン風の町並みである。
「ボリーバルというとシモン・ボリーバルを思い出しますけど、なにか関係あるんですか?」
「ええ、シモン・ボリーバルと関係があるんですよ。シモン・ボリーバル、よくご存知ですね」
「私が育てていたバラの花の名前だったんですよ。シモン・ボリーバルってどういう人だったんだろうって、それで教えてもらったのです。もともと南米にバラはなかったんですね」
「註:シモン・ボリーバル1783.7.24~1830.12.17。ベネズエラのカラカス出身のシモン・ボリーバルは、ベネズエラだけでなく南アメリカ北部諸国独立の最大の功労者とされる。ボリヴィアの国名は彼の名にちなんでいる」
大統領府、市役所、以前は市役所の前の噴水のところにピサロの騎馬像が設置されていた。しかし侵略者の像を市役所の前に置くのはどうかという意見で、現在は取り払われ、新しい公園に移されている。歩いてもすぐのところにある。ピサロの像が立つその後は建築廃材の捨て場になっている。面白い対称だった。リマの通りの名前は国名や都市名、そして有名人の名前が多い。そして教会が多い町でもある。もちろん教会は立派である。カトリックの神父さんは超富豪であったようだ。
ゴミをにらむピサロ
食事に行く。ペルー料理だ。ペルー料理は食材も豊富で美味しいとは聞いていた。だからぜひ食べたいと楽しみにしていた。なるほど、セビッチェは美味しい。生魚、カニ、エビ、タコ、貝、紫玉ネギなどなどが、レモンの酢であえてある。アロス コン マレス、魚介類をサフランではないが、黄色く色づけるものと炊き込んだご飯、カニの炒め物、カニやタコを煮込んだスープ、料理の付け合せにはタロイモのゆでたもの、この地ではユカという、揚げたものも美味しいといってわざわざ揚げてもらった。ほんと、ほくほくして美味しかった。真っ白な大きな実のとうもろこし、黄色い甘いサツマイモ、どれも美味しかった。飲み物は眠くなってはいけないので、アルコールは抜きにして、紫とうもろこしのジュースをとった。ブドウ液のようにきれいな紫だ。しかし、甘すぎて私にはどうも。Papasanは3種類のビールを飲み比べている。ピルセンとクリスタルとクスコーニャ。一番クスコーニャが気に入ったみたいだ。ここで5種類の芋を食べた。ジャガイモもとうもろこしもトマトもペルー原産だ。
「唐辛子の原産地をご存知?」と金城さんが聞く。
「メキシコと聞いていますけど」
「ペルーから行ったものだと思いますよ。食物はペルー原産のもの多いのですよ」
「ペルーかどうかはっきりしませんが、アマゾン原産のもの多いですね。パイナップルもそうだし・・」
「そうなんですよ」
ペルーでレモンと呼ばれているすだちに似た小さな青い柑橘、さっぱりした酸味だ。これがあるからペルーのセビッチェは美味しいのだと金城さんはいう。そうかもしれない。お腹一杯食べた。日本人向けに量を半分にしてもらい、それを3人で分けて食べたのだが、それでも残してしまった。
黄金博物館に行く。緑豊かな敷地に建つ博物館。このオーナーは武器や武具のコレクターだったのだそうだ。発掘されたおびただしい黄金の細工物、陶器や装飾品の見事な細工。金城さんが簡単に年表を作ってきてくれた。ペルーに起こったプレインカの文化をまとめてくれたのである。分かりやすい。ところがここに来て、いきなりふらっとしてしまった。あやうく倒れそうになってPapasanにしがみついた。気を失うと言うのはこういうことなのだろうか。眠気からである。車に乗っても眠くて眠くて、こっくりこっくり。海岸を案内されたあと、ホテルに帰り寝てしまう。
リマ海岸
8時から食事。
ここのオーナーの奥さんの香苗さんは美大出で、染色と織物を追及して、とうとうここに居ついてしまったと言っていたが、センスがいいのだろう、並んでいる作品はとても素敵だ。当然、ペルーの文化にも造詣が深い。実際に遺跡などにも行っている。カラル遺跡の写真もみせてくれた。カラル遺跡についてはテレビでみている。こりゃぁ、いいところに来た。めずらしいことに、買い物には興味のないオバサンがスウェーターやマフラーを買った。もちろん寒さを警戒してのこともあったが。
食事は和食を出してくれるとあったが、なるほど、てんぷら、うどん、アボガドの刺身、漬物各種、白いご飯、というものだった。ウドンは食べないし、てんぷらもよそではたくさんは食べない。ご飯も日本のものに比べたら、味は落ちるが、ジャポニカ米だしいける。ちょうどナスカへ行ってきたご夫妻と仕事で来ている男性二人にカンツータのご夫妻と私たちで、にぎやかな食事。デザートはチリモジャ。白い実の美味しい果物。
参考:金城さんが手書きしてくれたペルー共和国の年表
1821年7月28日 独立宣言
1532年 スペイン 植民地
インカ 9~13代
1400年 チムー文化 チャンカイ文化(天野)
1200年 シカン文化
ランパジェケ文化
1000年 ________
ワリ文化
600年 ________
モチカ文化 ナスカ文化
300年 リマ文化
0年
100年 チャビン文化 パラカス文化
2500年 コトシュ カラル遺跡
5000年 農耕文化
(註:農耕文化はリマの博物館ではBC8000年ごろと教わった)
NB:2004年12月5日の私の日記からカラル遺跡部分を抜粋
6時から遺跡ロマンで、アンデスのカラル遺跡を取り上げていた。私たちは古代文明を4大古代文明として教わっている。しかしそれにふたつ加えて6大古代文明というのだという。エジプト、メソポタミア、インド、中国、メキシコ、ペルーの6つである。
人類は食料とねぐらを求めてその日暮をしていた。それが都市を建設し、文明を築き上げるようになる。なぜ文明が生まれたのか。この都市建設の時点をGreat devide(大分水嶺)というのだそうだ。
文明の共通点は土器をや金属をもち、巨大建造物をつくっている。建造物をつくるにはリーダーがいなければならない。
多くの考古学者たちの共通の意見は都市を作る源には戦争の恐怖があったからだ、という。これにはちょっとひっかかった。狩猟民族の欧米人らしい発想だ。まぁともかくと、最後まで見ていた。それを証明するためにマザーシティと言われる古代の都市を発掘し、そこから証拠品を見つけて学説を証明しなければならない。多くの遺跡は、その上に新しい都市が築かれているので、古い遺跡を探し出すのは至難の業だ。その点、手付かずに残されているのが南米の遺跡だ。
カラルに残っている小高い丘、そこにはピラミッドが埋もれていた。カラルは5000年前に栄えた都市文明の後である。しかも繁栄した都市であった。いくら調べても、カラルには戦争の形跡は微塵もなかった。学者たちは戦争がなくても、都市が築かれ栄えた例として学説を変える。カラルの人々は楽しむことをしっていた。笛やコカや媚薬が見つかった。宗教儀式は行われ、コカで興奮状態になることがあったのだという。
カラルのまわりには川があり、アンデスをくだり、太平洋に注いでいる。この川から灌漑し、豊かな農村が出来ていたのだろう。海から遠いこの地で海の魚の骨が見つかっている。綿の実も布も見つかっている。それ以外に綿で出来た魚網も見つかっている。これから海の地域の人たちとも交易も盛んだったことがわかる。アンデスの山の奥地からの物質もある。交易のネットワークがカラルを中心にして広がっていたのだろうと、学者たちは推測する。そして、文明を作り出したのは、戦争ではなく、交易であった、と結論した。うん、これはうれしい結論だ。
5月22日(日)晴れ
早く起きた。空を見ると雲がたれこめている。天気が悪いとナスカへの飛行機は飛ばない、昨夜のご夫妻は4時間も待たされたという。とはいえ現地までは行ってみるしかない。
6時朝食。ご主人がご飯を温めてくれた。お味噌汁もできている。6時45分迎えが来る。昨日の運転手さんだ。チェックインして、空港使用料を払い、ゲイトを入る。ナスカへの中継点、イカ行きは8時発となっていたが、8時になっても飛ばない。係員に聞きに行くと、「8時半、maybe」ということだった。8時15分、バスに乗ってもいいという。Maybeどおりだ。
セスナに乗った。左側の前から二番目の窓を取った。しかし動き始めるとプロペラが煙のように視界の邪魔をする。飛行機は海上に出る。海岸線には打ち寄せる波が白く見える。やがて下は雲に覆われ、アンデスの山並みがまるで海に浮かぶ島のように見える。イカ(ICA)まで約1時間、やっと下に土作りの四角い家々が見え始めた。海岸線は降雨量が極端に少ないところなので、家のつくりは常に工事途中のような形で終わっているのだそうだ。その後に、お金ができたら、建て増ししていくのだとか。
イカ空港で、待つことしばし。目の前の木にハチドリが飛んできた。まもなくナスカへの飛行に出かける。私たちの飛行機は10人乗り位だ。一番後、左右に陣取る。眼下はすごい砂漠だ。まるで砂の中に山がかろうじて顔を出しているといった感じだ。山々の間を流れるのも氷河ならぬ土砂の川だ。砂、砂、砂、どこもここも砂ばかり。枯れた川の跡にそって、それでも植物が生えている。
飛行機が高度を下げた。ガイドのお兄さんがマイクを使って叫ぶ。「右、スペイスマン」。
と言われても、始めはなかなか見つけられない。「あつ、いた、いた!」
おなじみの線画がはっきりとそんなに大きくはなく見える。続いて、「モンキー」「スパイダー」ベルトを思いっきり伸ばして立ち上がる。「わかった~」飛行機は左右の客に見せるために旋回を繰り返す。そのときは子どものように歓声を上げて夢中で見ているからいいが、少したってから飛行機酔いだろうか、いささか頭が痛くなった。
イカ空港で休んでいると