床屋で番を待ちながら、Papasanが広げている新聞に目をやると、「カネミ油症被害に支援法成立」というような見出しを見た。「カネミ油症?いまごろ?何年?たしかPCBだったと思うよ」と言いながら、横から新聞の小さな解説を読んだ。起こったのは1968年(S43年)だ。44年経っている。放置されて、もう半世紀近い。新聞によると、カネミ油症の現存している被害者数は1300余人。被害者の現状はどうなんだろう。
私がPCBという言葉を覚えたのはこのカネミ油症事件からだ。結構、PCBは身の回りに使われていた。ビニール管の柔軟剤にも使われていたのではなかったっけ??いやあれはフタル酸エステルだったような気もする。当時私はガリ版で原稿を刷っていたのだが、そのインキにPCBが使われていて、廃棄処分にしたのを覚えている。もっとも廃棄処分されたPCBが海に捨てられていたのはずっと後になるまで知らなかった。PCBとダイオキシン類とのつながりも、その後知って行くことになるのだが、言ってみれば私たちの人生はこういう公害、人災と向き合ってきた時代だったといえる。
私の記憶が正しければ、この事件は、米ぬかから油をとり、その油を精製する過程で、脱臭だか脱色だか忘れてしまったが、PCBを使っていたのだが、そのPCBの管が腐食し、穴が開き、そこからPCBが食用油に紛れこんでしまったことから起こった中毒事件だった、と思う。何も知らずに、まさか食用油にこんなものが入っているなんて思いもしないから、食べてしまった。皮膚が黒ずんだり、ダークベビーと呼ばれた乳児も生まれたが、治療の方法もなく、大騒動になったのを覚えている。患者の症状の写真は記憶にある。辛い日々だったろう。
水俣病(水銀)やイタイイタイ病(カドミウム)といった4大公害病がクローズアップされていた時代と重なって、食品公害、薬害も取り上げられていた。森永ヒ素ミルク事件(1955年)、サリドマイド禍(1959年)などなど、記憶が生々しく蘇ってくる。
合成洗剤、食品公害、薬品公害などを取り上げ勉強し、生活学校運動を始めたのが1973年、カネミ油症事件よりあとのことである。