東京大空襲(紙芝居) 東京大空襲マッちゃんの思い出
これは真鶴在住の、現在74歳になるMおばさん(マッちゃん)が6年生の時に実際に体験した3月10日の東京大空襲を紙芝居にしたものである。1983年、神奈川県立図書館が主催する紙芝居コンクールで最優秀賞をとった作品である。
① 昭和20年2月27日。いま、マッちゃんは疎開先の新潟からなつかしい我が家へ帰るところです。 第二次世界大戦、または太平洋戦争とよばれている戦争の話は、おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんから聞いたことがあるでしょう。その戦争も終わり近く、東京は空襲が激しくなりました。そこで、都市に住む子どもたちは先生に連れられて、家族と別れ、あちこち安全な場所に集団でくらしていました。それを学童疎開というのです。マツちゃんは六年生、もうじき卒業式です。そこで、マツちゃんたち六年生だけが、雪深い新潟から東京に帰ってきたのです。
② 電車の窓から見ると、あちこちに焼け野原が目立ちます。空襲で家が焼かれてしまったのです。「私の家は?」「ぼくの町は」心配そうにみんなの目が窓の外に注がれています。
③ マツちゃんの家は東京の深川にありました。深川は隅田川の側の材木業の多い、活気のある下町でした。お父さん、お母さん、マツちゃんと3歳になる妹のえみちゃん、と2歳の弟のくにちゃんの5人家族で、お父さんはお寿司やをしていました。帰ってきたマツちゃんを家族は喜んで迎えてくれました。でも、東京は毎日のように空襲警報がなりひびいています。火事の時のあのサイレンの音です。「敵の飛行機が爆撃に来たから避難しなさい」という知らせです。サイレンが鳴ると、どこにいてもあわてて防空頭巾をかぶり、防空壕へ逃げ込みます。
空襲は恐いけど、お父さん、お母さん、妹も弟もいます。ごうごうと不気味に響く飛行機の爆音に怯えながらも、そばに家族のいることにマツちゃんはほっとしていました。
④ 裏の路地で、仲良しの秀子ちゃんと石蹴りをしています。「マツちゃんは女学校に行くの」「うん。大きくなったら先生になるの」「マツちゃんは勉強が好きだから。私は看護婦さんになりたいな」
⑤ 空襲警報です。急いで家にかけこむと、防空頭巾をかぶり、空き地に作ってある防空壕に入ります。深川は土地が低いので、少し土を掘ると水がでます。そこで防空壕は土を盛り上げてつくってあります。防空壕の中には大切なものが入っていました。
空襲は夜もあります。眠い目をこすりながら、枕元においてある防空頭巾をかぶって、真っ暗な防空壕にとびこみます。空襲は毎晩のことなので、マツちゃんは疎開から帰って、寝間着で寝たことがありません。
⑥ 3月9日、今日は学校で卒業記念の写真を撮りました。前から3人目のおかっぱ頭がマツちゃんです。お姉さんぶってすましていますね。お友達もみんな気取っています。 この卒業記念写真がマツちゃん達の手元にとどくのは、25年ほど経ってからです。いえ、まだ手元に届けたくても届けられない人が多勢います。この写真に写っている友達の三分の二以上が、この日以来、いまだに消息がわからないのです。
⑦ その夜また空襲です。サイレンの音がけたたましく鳴り響きました。飛び込んだ防空壕の入り口から見ると、焼夷弾が花火のように炸裂し、燃え上がった炎で空は真っ赤です。「風向きが変わったぞ。危ない、逃げるんだ」と言うお父さんの声に、お母さんは弟を、マツちゃんは妹のえみちゃんをおぶって防空壕をでました。
「荷物は持つな」「洲崎の遊郭は火の手がないわ。あそこへ逃げましょう」「いや、だめだ。高射砲陣地へ逃げるんだ」お父さんとお母さんは関東大震災を体験しています。関東大震災のとき、最後に洲崎に火が入り、たくさんの人が死んだことを知っていたのです。
⑧ お父さんの指示で、高射砲陣地の方へ走り始めました。高射砲は飛んでくる敵の飛行機をサーチライトでつかまえて、地上から打ち落とす大砲です。ここは広い敷地で、砲台はその一隅にありました。
来る人、行く人、たくさんの人が思い思いの方向へ、こっちが安全だと信じて走っていきます。マツちゃんはえみちゃんを背中におぶって、お父さんやお母さんに遅れないように一生懸命走りました。
⑨ 火が風をよび、風がさらに火をあおります。火の粉が容赦なく、逃げまどう人々の上にふりかかります。マツちゃんも走ります。しかし六年生のマツちゃんには三歳のえみちゃんは重すぎます。次第に遅れがちになるマツちゃんをみかねて、お父さんがえみちゃんをおぶってくれました。
ごうごうとB29の爆音が空一杯に響き、ヒューンと空気を切り裂いて焼夷弾が落ちてきます。いつ頭の上に落ちてくるかわかりません。炎と火の粉が渦巻いて、人影をのみこんでいきます。恐くて恐くて、マツちゃんは無我夢中でひた走りに高射砲陣地へ走りました。
⑩ 広い高射砲陣地の行き止まりはコンクリートの堤防です。その向こうは海に続く川で、燃えるものは何もありません。かわりに正面からもろに強い風が火の粉を吹き付けます。こぶしほどもある、大きな火のかたまりが、ごろんごろんと、マツちゃんたちに襲いかかります。火の粉を浴び、逃げまどっている間に乾ききった衣類は、小さな火の粉でもつくとぼっと燃え上がります。お母さんがすばやくたたき落とします。毎晩の空襲でろくに寝ていないので眠気がおそいます。「マツちゃん、眠っちゃだめ」お母さんが怒鳴ります。
⑪ 風にあおられてトタン板がとんできました。お母さんとマツちゃんはトタン板を捕まえて火をよけました。強い風に必死になっておさえていないと、すぐもっていかれてしまいそうです。
少し離れた所から、女の子の泣き声が聞こえます。「あっ、えみちゃんだ」その時、えみちゃんは火の粉でおでこに火傷をして、泣いていたのです。でもお母さんもマツちゃんもトタンを抑えているのが精一杯で動くことが出来ませんでした。
⑫ 高射砲陣地から兵隊さんたちがばらばらと駈けてきて、堤防を越えていきます。堤防を越えて、向こう側に行けたら、大きな火の粉を浴びなくてすむのに、堤防は高すぎて、マツちゃんたちには乗り越えられません。
その時、兵隊さんのひとりが自分の鉄兜を脱いで、マツちゃんの頭にかぶせてくれました。「がんばれよ」と兵隊さんは言いました。「ありがとう」兵隊さんの顔も、もちろん名前も知りません。
⑬ 夜が明け始めました。空襲は終わりました。しかし陣地からは、まだドカンドカンという音が止みません。弾薬庫に火が入り、爆発しているのです。お腹の底まで響く音が恐ろしさをつのらせます。恐ろしさに顔を引きつらせながら見た日の出をマツちゃんは今もはっきり思い浮かべることが出来ます。
昭和20年3月10日の日の出です。この空襲で、東京の下町はほとんど灰となりました。何万人と言う人たちが死に、何十万人という人たちが焼け出されました。私たちに生命を与えてくれている太陽は、どんな気持ちで人間達の行いをみたのでしょう。
⑭ みんなの顔はすすけ、衣類は焦げてぼろぼろ。煙で目をやられて、目は真っ赤。ふつうに開けていることが出来ず、それぞれつかまりあって、目をつぶって歩いている状態です。逃げているうちに、どこかで靴をなくしてしまったのでしょう。マツちゃんははだしです。 あちこち小さな火傷を負い、疲れ果ててとぼとぼと自分の家の建っていたところまで歩いていきました。
見渡す限りの焼け野原、建っているものはなにもありません。チロチロと炎の見える燃えがらの原。立木が焼けこげ、鉄骨は曲がり、動いているのは煙だけです。マツちゃんの家も防空壕もぺしゃんこになって、ぶすぶすとくすぶっています。
⑮ 「正雄がいない。正雄がいない」飛び込んできたのは隣の食堂のおばさんです。おんぶしていた赤ちゃんが、火に追いつめられて川に入っているうちに、気がついたらいないんだと、半狂乱です。
「正雄が見つからないよう、あちこち探したのに」と大泣きです。マツちゃんは口もきけず、ただただ大声で泣き叫ぶおばさんの姿を見つめていました。
⑯ 左隣のふとん屋の小さい兄さんが両手に大やけどをして戻ってきました。青鼻が口まで垂れているのに、手に火傷をしているので拭くことが出来ないのです。火傷の痛みより小さい兄さんははぐれた家族の方が心配です。足が棒になるほど探してもみつからなかった、とその場にへたへたと座り込んでしまいました。
「待ってみよう、ここに帰ってくるかもしれない。それより火傷の手当をしなければ」というお父さんの声が聞こえます。でも、ふとん屋のおじさんもおばさんも、大きい兄さんも、仲良しの秀子ちゃんも、とうとう帰って来ませんでした。 後で知ったことでしたが、マツちゃんの家のように、一家全員が無事だったのは、隣組には他にありませんでした。
⑰ お父さんの知り合いの家を頼って行くことになりました。
道に真っ黒に焦げた大きな人形がふたつ、転がっていました。でも近づいてみると、それは人形ではなく、空をつかむかのように両腕をあげて死んでいる人間だとわかりました。
はじめて見る黒こげの人の死体に足がふるえ、マツちゃんはお母さんの袖を握りしめました。そこからお父さんの知り合いの家まで行くうちに何十、何百という死体を見たでしょう。真っ黒に焦げた姿。まるでつるんとして生きているような姿。煙にやられて目はみんな鬼のように真っ赤です。
⑱ 子どもをかばうように覆い被さっている母親。防火用水に上半身だけ突っ込んでいる死体。何時間か前までは、笑ったり、泣いたりしていた人たちの、火と煙に追いつめられ、変わり果てた動くことのない、無惨な無惨な姿です。
⑲ 川向こうの隣町にはマツちゃんのおじいさんとおばあさんが住んでいました。焼け落ちた橋の焼けぼっくいの上をこわごわ渡って、隣町に二人を捜しに行きました。火の勢いが強かったのでしょう。おじいさんとおばあさんは防空壕の中で、白骨に近い状態で死んでいました。体の悪いおじいさんをおいて逃げずに、おばあさんは焼け死にを覚悟で座っていたのでしょうか。鉄骨を拾ってきて防空壕にわたし、燃えかすを拾い集め、火をつけて、おじいさん、おばあさんをもう一度焼きました。
白い煙が高く青い空にのぼっていきます。優しかったおじいさん、おばあさんを思い、マツちゃんの顔は涙でぐしょぐしょになりました。声をあげたくとも声にならず、 黙ってじっと煙を見守るだけでした。同じように、あちこちからあがる白い煙は、同じように肉親を自分たちの手でダビにふす煙。いくすじもの煙。
⑳ それから毎日毎日、お父さんは親戚を捜しました。でも、マツちゃんのいとこのつね子ちゃんはとうとう見つかりませんでした。もちろん、死体も分からずじまいです。そのうち死体処理班が来て、トビ口という先がかぎになっている道具で、死体をひっかけ、トラックに積み込んでいきました。何回も、何回も。死体をどこへ運んで、どうしたのか、知りません。大人達の話では、公園に大きな穴を掘って、ただ埋めただけだとききました。黒こげの死体は名前はもちろん、男か女かもわかりませんでした。
21 初めて黒こげの死体を見た時の怖さ、その後二、三日は ごはんがのどを通りませんでした。でもそのうちにみんな平気になりました。死体をまたいで通ったあと、その話をしながら食事をするようにもなりました。人の死にも、無惨な死体にも、心を動かすことのなくなる馴れ、そのおそろしさ。こんな異常なことがあっていいのでしょうか。
22 これは六年生のマツちゃんが体験した東京大空襲のほんとの話です。親しかった友達、クラスのほとんどの人も死んでしまったのでしょう、未だに消息がわかりません。 疎開から死にに帰って来たようだと、生き残った人はいいます。
私たちの平和な今は、こういう多勢の人の死の上にできあがったものです。これを忘れてはいけません。大きくなったマツちゃんの願いは、世界中のだれもが、こんな悲しい異常な経験をしない平和な世界であってほしいということです。でも、世界のあちこちではまだ戦争が起こっています。悲しいことです。 この世から戦争をなくすために、私達みんなが力をあわせて、戦争のない平和世界を築いて行きましょう。
1983年制作
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参考:まだ行ったことはないけれど、
東京大空襲資料センター http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/
アクセスがあった中から
◇3月10日は東京大空襲の日 http://kyudan.com/column/kuushuu.htm
◇東京大空襲 http://www.interq.or.jp/green/mj23/peace/daikusyu.htm http://www.asahi-net.or.jp/~QT7K-NGC/index4.htm
◇3月10日は風が強い日らしいですね http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html
◇学童集団疎開の記録 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-0-3.htm
◇カーチス・ルメイ http://sidenkai21.cocot.jp/m363.html
◇朝鮮人被災者を記録する http://www4.ocn.ne.jp/~uil/45310-4.htm