はじめに
もう一昨年になるだろうか。JOCSから派遣されてチャンドラゴーナ病院で医療活動をしている宮川先生がちょうど帰国していて、活動報告のために真鶴にいらしてくださった。そのとき先生が出席者に「バングラデシュにいらっしゃいませんか」と誘った。調子よく「行きましょう」と言う声が多かった。Fさんは研修でドイツにいたとき、仲良くしていたのがバングラデシュ人で、ラーマンという名前だというと、「そのラーマンさんを尋ねる旅をしては」とこれまた誘われた。そんなことで、その場にいた人たちにバングラへ行こうという同意が出来たのである。
宮川先生は翌年の9月ごろまで日本にいて、バングラデシュに帰るのは9月過ぎになるというので、自分たちの日程を取り入れてくれる旅行社、ということで西遊旅行社に頼んでみた。最初のコンタクトは私がしたが、スケジュールを組む段になってからは現地を知っている青木さんに丸投げしてしまい、ツァーの一員よろしく、任せっぱなしにしていた。バングラ旅行のシーズンを聞くと11月以降というので、一番忙しい青木さんに予定を合わせ、12月中旬からの冬の旅となった。その青木さんが出発寸前、新インフルエンザにかかって行けなくなってしまった。おやまぁ、かわいそうに。尤も青木さんはバングラには仕事とはいえ、3回足を踏み入れているから、まぁいいとしてもらいましょう。
JOCSの紹介は:http://www.jocs.or.jp/jocs/index.html
バングラデシュを旅するのは初めてだが、バングラデシュその国はしらないわけではない。タゴールの詩は愛読していたし、ガンジーやタゴールと親交のあった故高良とみさんがタゴールの詩を翻訳しているし、高良宅には精神性の高いタゴールの写真が飾られていた。20年ぐらい前になるだろうか、シャプラニールとの付き合いで、ベンガル人を家に招いたこともある。
子どものころからどういうわけかサリー姿のインド女性に惹かれていた。そこで高校生のときマドラス(現チェンナイ)の同い年の女の子と文通を始めた。彼女は良家の娘で、女子寮に入っていたが、もとより英語は達者、同い年といえども英語力には雲泥の差があった。それでも辞書を引き引き、つたない英語で、日本の紹介をせっせと送った。「あ~許すまじ原爆を」の詩まで翻訳した。
その彼女が、私がタゴールの詩「チャンパの花」が好きだと言うと、送ってくれたのが英語の「ギータンジャリ」だった。「ギータンジャリ」は内容が難しく、高校生の私には読めなかった。当時はまだ日本語訳がでていなかった。現在では出版されたので、今は翻訳本も持っている。そのタゴールがベンガル人だったのである。今回の旅でタゴールがバングラデシュで「ギータンジャリ」を書いたと知った。インド国歌も、バングラデシュ国歌もタゴールの作だそうだ。
バングラデシュの国歌「黄金のベンガル」 タゴール作詞作曲(英語訳)
国歌の演奏:http://hukumusume.com/366/world/pc/all/135.htm
My Bengal of gold, I love you.
Forever your skies, your air set my heart in tune
As if it were a flute.
In spring, O mother mine, the fragrance from your mango groves
Makes me wild with joy
Ah, what a thrill!
In autumn, O mother mine,
In the full blossomed paddy fields
I have seen spread all over sweet smiles.
Ah, what a beauty, what shades, what an affection
And what a tenderness!
What a quilt have you spread at the feet of Banyan trees
And along the banks of rivers!
O mother mine, words from your lips
Are like nectar to my ears.
Ah, what a thrill!
If sadness, O mother mine, casts a gloom on your face,
eyes are filled with tears!
中学生だったか、さだかではないがネール首相とインデラさんが來日し、そのとき両親についていってお二人にお会いした。インデラさんは若くてきれいだった。そのインデラ・ガンジーさんの姿を、彼女が暗殺される1ケ月ほど前、偶然テレビで見た。あのきれいなインデラさんがぞっとするような怖い顔をしていた。混沌とした国政を首相として預かることがいかに大変なことか痛いほど感じ、気の毒に思った。あの暗い厳しい表情はすでに暗殺を予感していたのかもしれない。マハトマ・ガンジーの暗殺も、東西パキスタンの分割も、バングラデシュの独立も、またクーデターでラーマン初代大統領暗殺も(実際ニュースで聞いていた)、私が生きている間に起こった歴史的事実である。背景もよく理解しているつもりだ。
帰ってきて、お腹をこわして、寝正月となってしまった。そんなわけで旅日記をまとめるのも遅れてしまった。年末もあって、写真の現像も年明けとなった。
あらためて、走馬灯のように過ぎてしまったバングラデシュでのひとこまひとこまを思い浮かべ、思いをはせている。バングラデシュはこれからの国だ。万感の思いを込めて、幸せを祈る。
基礎データ(外務省より)
1.面積 14万4千平方キロメートル(日本の約4割)
2.人口 1億4,450万人(2008年7月、暫定値 バングラデシュ統計局)、年平均人口増加率:1.39%(2008年 7月、暫定値 バングラデシュ統計局)
3.首都 ダカ
4.民族 ベンガル人が大部分を占める。ミャンマーとの国境沿いのチッタゴン丘陵地域には、チャクマ族等を中心とした仏教徒系少数民族が居住。
5.言語 ベンガル語(国語)、成人(15歳以上)識字率:52.5%(Human Development Report 2008年度)
6.宗教 イスラム教徒89.7%、ヒンズー教徒9.2%、仏教徒0.7%、キリスト教徒0.3%(2001年国勢調査)
旅の始まり
12月16日(水)
荷物は先に送っておいたので、カメラバッグだけ持って7時55分発の前泊のホテルバスに乗った。集合時間は8時半。荷物を受けだしたりしているとその時間になってしまうだろう。バス組みは7時半には到着しているはず。検問で、私はパスポートをヴィザのために預けてあるので、西遊旅行のしおりを見せ、Papasanは持参したパスポートを出して「あれ、これ期限切れのだ」と叫んだ。古いパスポートも記念にとってあったので、間違えて持ってきてしまったのだ。ま~、見送りだけで出かけるわけじゃないから、と言うと身分証明になればいいんですと係りの答え。とんだ笑い話でした。
![Ca3hiau0 Ca3hiau0](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/61/19b7e19d1cc7ef54e42fe6a6ec9ee84b.jpg)
出発ロビーにはもうみんなが並んでいた。頼まれた宮川先生宛のダンボールと私のスーツケースをまず受けだした。マレーシア航空は第二ターミナルなので、一番近いABC宅配に頼んだ。ここは日通が引き受けている。電話で申し込みの時、「帰りもお願いしたいんだけど、ABCカウンター、到着ロビーの近くにある?」と聞くと「わかりません」という返事。なら降りたとき一番近いカウンターで頼むからいいわ、と片道だけ頼んだ。すると「帰りもお使いになられますか」と聞く。「カウンターが到着ロビーの近くにあれば使いますよ、それを聞いたんだけど係りが分からないと言ったので」というと出口のすぐ近くにカウンターはあるという。なら願ってもないこと、「お願いします」と予約した。
みんなの分の荷物を集め、チェックインするとき、自分のスーツケースの重量を見た。11kgだった。はて、中身はいつもと代わらないはずだが、何が重かったんだろう。フィルムは在庫分、いい加減に数えもしないで鉛の袋に入れたが、これが50本は越えているはず。これが重かったかな?他の人に比べたら、少ない方だが、今回は荷物持ちがいないから一人で行動するには荷物は出来るだけ軽い方が便利。
いつもは下着は一組しか替えを持たないのだが、スケジュールを見ると連泊が1ケ所しかない。洗濯が乾くかどうか心配なので今回は2組にした。ランニング、ショーツ、ブルマーの組み合わせである。ブラウスは厚手のものを現在着ているものもふくめて4枚。暑ければパンジャビを買えばいいと割り切って。でもパンジャビを買うことはなかった。ジーンズも替えを1本。靴下はハイソックスを2足。帽子がひとつ。洗面道具、最近は固形石鹸をおいていないところが多い、で、洗濯用にお気に入りのオリーブ石鹸を持参したが、どこにも石鹸は常備されていたので、これもつかうことはなかった。ウォッシュタオルを数枚、薬類はサイドに、テッシュも多めにサイドに入れた。小型の物干しハンガーは何時も持参。電気類は百円ショップのふたつきのポリケースに変圧器、複数の口のついたコード、サスコム、サスコムにないプラグ、デジカメの充電用とアダプター2台とそれぞれの予備のバッテリー、パワーステーション用の充電アダプターを入れた。ポリ袋にパワーステーションと電子辞書、サングラスも入れたが、サングラスも使うことはなかった。結構使わなかったものが多い、見直しが必要。でも小型のPCは持っていくべきだったと悔やんでいる。
機内持ち込みは、カメラバッグ。フィルム専用一眼レフ2台。愛用のレンズが重いので、今回は軽いレンズ、28~105mmともう一台には望遠100~300mmをつけた。デジカメはEOS Kiss。マクロもストロボも置いてきた。サイドには「バングラデシュを知る60章」これがちょっと重い。裏のポケットにはスケジュール表。
改めて、西遊旅行の松沢さんから挨拶とクアラルンプールでのトランジットの説明がった。ついでだから自己紹介をした。全員9人のメンバー。常連さんに加えて4人が初めて。と言っても全然知らない人じゃないから、すぐ打ち解けた。Papasanはかわいそうだがここで一人家に帰っていった。
マレーシア航空は乗ったことはあるが、バンコクからペナンまで、しかもそのときはビジネスだった。いよいよ出発。席はなんと真ん中。仕方がない、本でも読むしかない。ところが私の席のリモコンが壊れていて、モニターは見えないし、電気もつけられない。あらまぁ、ツイテてないこと!ときどき隣のスカイマップを眺めて位置を確認していた。
乗り継ぎは1時間、移動している間に時間が過ぎ、搭乗口につくともうチェックが始まっていた。前にいた若い女性が「バングラデシュになにしにいらっしゃるんですか?」と声をかけた。「観光ですよ」と答えると「えっ、バングラデシュに観光に行かれる方がいらっしゃるんですか?」と驚かれてしまった。「あら、世界遺産が3つもあるんですよ。じゃ~あなたは何しに?」「仕事です」「仕事って、アパレル関係?」「いいえ」「なら携帯電話関係?それともNGO?」と日本が進出していそうな業種を探している。「大学関係者です。先生のお供でバングラデシュに行くのです」もう少し聞きたかったが、そこで機内に入ってしまったのでそれ以上はきけなかった。彼女はビジネスクラス。「お供がいい席ですね。観光はエコノミーよ」と皮肉ると「先生はファーストクラスにいらっしゃいます」と恐縮していた。
機内食がでた。さっきのワインが美味しくなかったので、ジュースで我慢している。チキンカレーが美味しかった。日本時間で11:30pm、現地時間21:00、ダカに到着。日本から通算13時間かかったことになる。イミグレイションには長い人の列。Foreignersの列に並んでいる。欧米人がいるが日本人はいない。壁には各国語で歓迎の言葉が書いてあるのだが、日本語がない。なんで日本語がないのよう、とわめいている。すこしづつ前にすすんで、ようやく私たちの番になりかけたとき、係員が隣のバングラデシュの列から、私たちの前に数人連れてきた。「ここはForeignersだ。私はさっきから並んで待っているんだ。割り込むな」と英語で怒鳴ると、移って来た人たちが私の剣幕にたじろいで、元の列に戻った。係りも驚いた様子で私を見たが、後は何も言わなかった。戻っても、隣の列の方が早く終わった。こうなると、要領のいい私はさっさと隣のカウンターに行ってパスポートと入国票を提出した。もちろん「アッサラーム・アレイクム」とにこやかに言いながら。係員も挨拶を返したが、審査には時間がかかった。入国票とヴィザとを見比べてPCに打ち込んでいるから時間がかかるわけだ。入国審査で時間を食ってしまった。
荷物が受け取る人もなく回っていやしないかと心配した。機内にいた人が右にいくのを見たので右にいくが、どのレーンがクアラルンプールからのかわからない。やたらと聞いている。なんと右ではなく左だった。ちょうどそのころ、ようやく他の人たちも入国審査を終えて出てきた。左、左と指図して荷物を集める。なるほど、こういうとき西遊旅行のマークは目印になる。9ケのスーツケースとダンボール1ケ、無事拾い上げた。荷物を台車に載せ、出口に向かう。入国審査にかれこれ1時間かかってしまった。出口を出ると、真夜中だと言うのにあふれんばかりの人、車も混雑してすさまじい騒音。なんで~??まるで初めて訪れたときのネパールの喧騒だ。ガイドはすぐに私たちを見つけてくれた。「メッカから巡礼が帰ってきているのです。だから親戚こぞって巡礼を迎えに来ているのです」イスラムの親族の結びつきの強さは知っているが、それでもへ~。
ホテルまでは15分程度。ホテル リージェンシー。3Fがフロント。部屋割りをし、荷物に部屋ナンバーを書くと届けてくれる。もちろんチップはいる。いつも自分で運んでしまうからベルなど頼んだことがない。でもラク。私とKさんが同室。初めてだが、気さくな人。そこへFさんから電話が入った。時差は3時間となっているが、現地時間では2時間だ、と。夏時間なのかなぁ、と言いながら時計を直した。先にお風呂に入り、彼女のために湯をためながら、彼女が出て来るのを待っていようと思いつつ、いつしかおやすみなさいも言わずに寝てまった。真夜中、寒くて目が覚めた。
12月17日(木)
5時には目が覚めた。旅行に出ると決まって5時には起きる。万が一があるからと同室者はモーニングコールを頼んだが、私には万が一はない。
外は暗い。Kさんも目を覚ましたので、起き出して片付けをし始める。今日は移動。スーツケースは6時半までにドアの外に出しておくことになっている。ドアの外にスーツケースを置いておけばいいようなツァー、これで2度目。支度が出来たので窓から外を見ている。アザーンが響く。まだ暗いのに人人人。これから仕事に向かうのだろう。列車が運河沿いに走っていく。窓から人ごみを撮ったが、暗いから撮れているかどうか。ここはイスラムの国。バングラデシュは北海道と東北を合わせたくらいの小さな国、面積14万4千k㎡(日本の約4割)だが、人口は1億4千万人と多い。その85%がムスリムだから、イスラム人口としては最大の国と言える。この国ではイスラムは国教である。
ロビーで迎えを待っていると、フロントの横の土産物屋に白頭のタカのバードカービングに気が付いた。あんな鳥がいるんだ。会えるかな、と思いながら眺めている。
まずはオールド・ダカ。ショドルガートの船着場、スター・モスク、ダケシュワリ寺院、ラールバーグ・フォートを見学。
バスが走り始めると、辺りはあふれんばかりの人。そして車道は車、車、車。その間をリキシャが分け入る。渋滞もいいところ。だからなおさら分け入ろうとする。クラクションの喧騒、交通ルールなどあってなきが状態。カイロでもこんな経験したっけな。満員のバスの外壁はこすり傷だらけ。ガイドはサデクさんとファルクさんの二人。説明は専らサデクさん。宇都宮大学に語学留学し、鬼怒川温泉やフレンチレストランでシェフの修行をしたとかで、日本語は流暢。
ぞろぞろと仕事に向かう若い女性たちの群集を見た。「あの女性たちは縫製工場へ行く人たちです」「バングラデシュは世界のアパレル産業の縫製工場だからね。フランスの新聞記者が彼女たちの劣悪な労働条件をスクープしたのを読んだことがあるよ。いま彼女たちの賃金はどのくらいなの?」「2500TK(月額)~です。前はもっとひどかったんですが、これでも政府の肝いりでこうなりました」「約35ドルね。それで生活していけるの?」「ダカは物価が高いですから、苦しいと思います」「労働時間はどのくらいなの?」「10時間~です」「女工哀史だなぁ。戦前の日本だってそうだったんだ。バングラデシュは人件費が安いから、体のいい労働力の搾取だよ。日本だって韓国、中国、ベトナムそしてバングラデシュにも来ているね。一方日本国内は空洞化で仕事がなくなってしまっているよ」「公務員の給与は?」「5000TK~です。でもこちらは特別収入がありますから」「あはは、賄賂だね。じゃ~、一般市民の平均収入は?」「3500TKです」
(註:TKはバングラデシュの通貨タカ。1US$ =70TK)
かくかくしかじか、バスの中では常に質問が入るし、それに付随して会話がはずむ。これが実におもしろい。サデクさんはガイド歴も長いし、よく勉強しているから、シビアな質問にもまじめに応えてくれる。しかしこのやりとりを書いていたら果てしない物語になってしまいそうだ。で、割愛。おしゃべりオバサン、出掛け前からやや風邪気味だったのが、声を張り上げ続けたせいで、旅行中は美声がしゃがれ、それもさらにふり絞るからますますしゃがれた声になってしまった。ただしこれは自業自得。
![Lrg_181112271 Lrg_181112271](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/fc/15873b69bb40a446307b4f2c596d910f.jpg)
ダカの歴史をこと細かく説明してくれた。いつものことながら切れ切れのこの国の歴史を頭の中で再構築させている。「ねぇ、私たちの地図にはこの町はダッカと表記されているけど、ものの本ではダカと書いてある。どっちが本当なの?」「どちらも本当です。現在はDhaka と表記しますが、Daccaと表記した時代もあります」「誇り高きベンガル人としてはどっちを使ってほしい?」「表記のとおりダカです」「わかった、じゃ~これからダカを使うことにするよ」
ショドルガートに着いた。ここはたくさんの船が停泊する船着場である。ゆったりと流れるブリコンガ川。この時期、朝晩と日中の温度差が大きいのだろう、水平線は靄でかすんでいる。「もう、2~30年前のことだけど、シャプラニールの現地スタッフがバングラデシュ紹介をしてくれたとき、川の向こうに落ちていくきれいな夕日の写真をみせてくれた。私も川に沈む夕日の写真、撮りたいんだけど」というと「心がけておきます」とサデク君。
![Lrg_181112281 Lrg_181112281](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/62/681e8df217c436313c8c46fdabc6b368.jpg)
続いてスター・モスク。タイルがきれいなモスクだ。入り口で靴を脱いで入る。女性はスカーフをかぶるか、帽子ならかまわないというので、帽子をかぶったままにした。日本から輸入したタイルを使用したとかで、富士山のタイルもある。
![Lrg_181112291_2 Lrg_181112291_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/d3/73ca103364cf700cb0e2ae494fb2cfd7.jpg)
サデク君がイスラムの説明をした。「ラ イッラハ イル アッラー ムハンムドラスール アッラー」と唱えるとびっくりした様子。「イスラム教、よくご存知ですね」「うん、コーランも読んだことはあるよ。この言葉はイスラムでは重要な言葉だよね」「はい、とても重要な言葉です」といって、日本語に訳しはじめた。「きれいに訳された日本語訳だとね、『アッラーは唯一絶対の神にして、ムハンマドはその使徒なり』っていうんだよ」「でもその日本語、むずかしいです」「そうかもね。帰るまでに紙に書いておいてあげるよ」と言ったけど、忘れてしまった。