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チェルノブイリ キエフ1993年

2014-09-20 10:08:27 | チェルノブイリ
チェルノブイリ1 キエフ

                                                 

チェルノブイリ原発の事故が起来たのは1986年4月26日。事故が起きた日、テレビで旧ソ連邦で大事故が起きたようだ、原発事故らしいと報じていた。そして時間が経つに従って原発事故であるともわかった。チェルノブイリ原発はウクライナにあり、ベラルーシは隣接した国である。しかしまだベラルーシという国名ではなく、白ロシアといったネイミングで報道していた。もちろん見ている私だって、そこらへんの地理に詳しいわけではなかったから、旧式の白ロシアの方が分かりやすかった。死の灰が広がってウクライナからベラルーシ、ロシアにまで達しているらしい。そういった情報を知るにつけ、被爆したであろう人びとの将来を慮った。とはいえ、直接、私自身と係わり合いができようとは思ってはいなかった。

                                              

1993年、 「チェルノブイリ子ども基金」がベラルーシの被爆した子どもたちを10人、日本に招いて空気のいいところで1ケ月滞在させ、免疫力を回復させようという計画をした。その話に乗って、4月2日、わが家で4人の子どもと通訳さんの計5人を預かった。それがベラルーシとの係わり合いの始まりだった。

                                               

翌1994年5月、「チェルノブイリ子ども基金」のメンバーといっしょに私はウィーンからウクライナの首都キエフに入った。チェルノブイリ原発はベラルーシ国境に近いウクライナにある。キエフにはプリピャチで被爆した人たちの団体がある。プリピャチ市は人口5万人のチェルノブイリ原発で働く原発労働者の町であったが、事故後住民は退去させられ、今は人住まぬ町になってしまっている。ベラルーシとはプリピャチ川で分かれている。プリピャチ川は途中で合流し、大河ドニエプル川となってキエフを流れ、黒海にそそぐ。

                                              

その大河、ドニエプル川はキエフの町を割って、ゆったりと流れていく。広い通りのところどころに公園があって、緑のスポットになっている。感じがいい。
キエフでは支援団体の事務所を訪ね、彼女たちの案内で、クリニク1と子ども病院を訪ねた。代表者の女性も旧プリピャチ住民で被爆者である。クリニク1の方は個室で、重症の子ども達がベッドに横たわり点滴を受けていた。私の仲間達がいっしょに作ってくれた段ボールにいっぱいのミルクキャラメルとディズニーのハンカチをわけて配った。未来のある子供たちが、原発事故の放射能をあびて、十分な医療も受けられず死んでいく姿、この子達にカメラを向けるのが、どんなに心が痛んだことか。

                                                  

アメリカ帰りだという医師は英語で、「アメリカからもヨーロッパからも視察はたくさん来た。しかし何にもしてくれなかった」と声をあらげて惨状を訴えた。この薬がほしいと言われても、薬のことはわからないので、必要なものを書いてもらい日本へ持ち帰った。さっそく、子ども基金がその薬を送った。

                                                

子ども病院はきれいな病院だ。日本の小児病院を知らないが、各部屋のドアの上に飾り皿が飾られ、あちこちに観葉植物の緑がやさしく、レースのカーテンもフリルつきで、実によく気配りされている。まるで幼稚園か学校のようだ。日本の学校はももう少しこんなゆとりがほしいと思った。
それにしても入院している子どもたちは多い。入院できない子どもたちはもっといるだろう。ウクライナの将来を考えずにはいられない。
わざわざ日本から持って行った車椅子を届けに、男の子のアパートへ行った。母親が私たちのために、コンデンスミルクをキャラメルにしたクリームを入れたお菓子を作って待っていてくれた。

                                                

ついでリエシャのアパートを訪れた。リエシャの父親は被爆がもとで亡くなっていた。兄は兵役で、今は母親とふたり暮らし。リエシャは室内でいつも白い毛糸の帽子を被っている。「この子は顔もかわいくて、ダンスが上手だったのに」と言って母親が泣き崩れた。リエシャが帽子をとった。思わず息をのんだ。リエシャの黒髪はすっかり抜け落ちていた。これのために、みんなからいじめられるので、学校へ行きたくないとリエシャが言った。

                                                 

町に出ると、有名な教会の前のベンチに日向ぼっこをする年寄りたちに気がついた。写真を撮っていると、中年の女性がやってきて、彼らになにやら配り始めた。そしてやっと、この年寄りたちは物乞いで、ベンチにたむろしているのだということが分かった。その1人が私にもなにやら話し掛けてきたが、「ニパニマーユ」(わからない)と答えたのだった。たぶん恵んでくれといったのかもしれない。

                                               

ソ連崩壊後、働き口もなく、年金もままならない年寄りたちのウクライナの現実を感じる場面であった。
夕食はちょっとしゃれた木造のレストランへ行った。ボルシチ、キエフ風カツレツ、キノコのスープ、どれも美味しかった。生演奏がつく。客はと見ると、若者であふれている。どこでも取り残されるのは年寄りだ。

僧院など、観光スポットも訪ねた。入場者は多い。観光か信仰か、そこら辺は分からなかったし、この客がどのから来たのかも分からなかった。

                                              

キエフからベラルーシのゴメリまで車で行けば近いのだそうだが、原発事故で遠回りをしなければならない。列車で向かった。寝台車のコンパートメントは二段ベッドが両側にふたつずつ。私達は二人で一部屋を左右に分かれて使った。列車はゆっくりとウクライナの平野を進む。子どものころ学校で、ウクライナは穀物の宝庫で、黒土が肥沃であるとも習った。白樺林がつづく。ずっと見ていようと思ったのだが、すぐ眠くなって寝てしまった。

                                               

しばらくするとノックをする音。あわてて飛び起きる。ドアを開けると二人の男性が立っていた。パスポート・チェックだった。これはウクライナの出国のパスポートチェック。そして次にはベラルーシの入国のパスポートチェックがきた。ノックにドアを開けると今度は男性が一人。「ベラルーシ?」と聞くとにっこり。
ゴメリについたのは夜明け前。星がきらめいている。チェルノブイリ子ども基金の代表で、写真家の広川隆一さんが待っていてくれた。 

                                                  

                                                    

                                                 

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スコットランド

2014-09-19 17:51:14 | 日記
スコットランド独立投票の結果が出た。独立は否決された。どちらにしてもスコットランド住民にとって、これは歴史的選択であったろう。
賛成派、反対派、双方とも、住民に問題提起をし、呼びかけ、話し合いをしていた。もっと公開公表してもいいとも思ったが、それにしても民主主義の国だなぁ、と見ていた。


それにひきかえ、国民の未来にとって重要なことを、国民に内容説明もせず、数の論理で押し切っている政府とは大違いだ。それを黙っている国民も民主主義が育っていない。
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帰ったのかな

2014-09-19 09:44:29 | 動物記
ここ数日、ツバメが群れているのを見た。すいすいと飛ぶツバメらしくなく、若鳥が飛ぶ訓練をしているみたいに羽ばたいている。


昨日、眼科で湯河原へ行ったとき、やはり羽ばたくように飛んでいるツバメの群れを見た。南の国へ帰る準備をしているんだね。
今朝は一羽のツバメもみない。もう帰っちゃったのかな。まだ9月半ば過ぎたばかりなのに、だとしたら今年は早い。


かぽも羽が抜けてボサボサしていたが、どうやら頭の羽毛がそろった。もっともまだ伸びきってはいないので、頭が一回り小さくなった感じ。
「お前、かぽか」と声をかけたほど。でもえさをねだりに来るんだから、かぽだろう。
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スコットランド独立投票

2014-09-18 19:23:47 | 日記
住民の決めることだが、やはり気になる。

歴史も知っているし、旅したこともある。
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秋の恵み

2014-09-16 19:32:11 | 
台所の窓から外を見ると、もう紅く色づいたハゼの葉の間から、たくさん実が見える。今年は生り年なのだろう。野鳥たちが喜ぶ。
ハゼの実を目当てに来る野鳥たちを眺めて私も喜ぶ。
                                                                               
                                                                   
我が家のクリも今年は収穫だった。しかも早い。9月1日、栗が落ちていたといって、papasanが両ポケットに栗を詰め込んできた。いっぱい落ちているから、Yちゃんに電話してあげて、と。例年だと栗拾いは中旬なのだが、今年は夏は暑かったし、ここのところ涼しいしと、気候の変化にクリも対応したのかもしれない。
翌日雨だったにもかかわらず、yちゃんは完全武装でクリ拾いをして、デジ袋に詰め込んでいった。その翌日、papasanが味見ようだと言って2件分、20個位拾ってきてくれた。茹でてみた。本来美味しい栗だが甘い。モンブランを作ってよ、というので、これっぽっちじゃ~、手間の方が大変だ、というと、もっと拾ってきてくれた。ただしいがつき。仕方がなく、久しぶりに靴でイガから栗を出した。くたびれたが2~3kgはとれた。さすがにいっぺんにこれだけ処理するのはしんどい。それで半分にして、2日かけて処理をした。

たっぷりの湯で30分ほど茹で、「papasan、手伝ってみる?」と声をかけると「いいよ」という返事が返ってきた。
茹栗は熱い方が鬼皮も渋皮も剥きやすい。しかし熱いとやけどをするので、ちょっと冷まし、お風呂に入れておくと作業がやりやすいんだよ、と言って、栗の先に包丁を入れた。鬼皮は先端から下に向かって剥くと剥きやすい、渋皮は下から一気に剥くと取れる、などと説明する。先端に包丁を入れるのが怖いというので、予め私が包丁を入れた。papasanは初めての作業である。爪で剥いた方がラクだという。どっちでもいいよ。そのうち、渋皮は剥きにくい、小さな包丁はないの、というのでアジ切りを出してやった。
大変な作業だねぇ、手が痛くなった、とpapasanはgive up。手作りっていうのは、手間、暇、労力がかかるものだよ、プロはこういう作業はしないだろうけど、とにかく売っているケーキは人件費を食べているようなものだよ。できない人は高くても仕方がないんだ。

皮をむいた栗をさらに柔らかく茹で、ミキサーでペースト状にして、さらにこしきで漉し、火にかけて砂糖を加えて練った。ケーキには生クリームなど加えるので固めのペーストに練り上げた。明日もう一回分作業がある。

2回目は生栗のうちに先端に包丁を入れた。この方が茹でている間に鬼皮がはがれて扱いやすい。2回目はなれも手伝って、作業は早く終わった。スポンジも焼いてあることだし、ブランディをたっぷり使ってモンブランを作ってもいいのだが、先週つくったばかり。で、ペーストは容器に詰めて冷凍した。
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