安倍晋三の行政の私物化・政治関与による加計学園獣医学部認可であることを首相秘書官柳瀬唯夫の参考人招致答弁から証明

2019-10-07 11:39:59 | 政治
 2016年末に情報公開された加計学園に関わる今治市の文書のうち情報開示請求で一旦公開され、のちに非公開とされた2015年4月2日付の「復命書」と題した今治市の文書は企画財政部企画課長秋山直と課長補佐波頭健が今治市長菅良二宛に、〈平成27年4月2日(木)に、内閣府国家戦略特区(大学獣医学部)の協議のため東京に出張いたしましたが、その状況は次のとおりでありました。〉と書かれている。

 「相手方」と「当方」と書いてあるそれぞれの人物名は黒塗りにされている。つまり秘密を要する人物ということになる。さらに「復命書」の2枚目と3枚目と4枚目は全て黒塗り。「協議」の内容も秘密にする必要があったということであろう。

 「別紙」があって、そこには東京での訪問先が記載されていて、都道府県会館東京事務所と内閣府、首相官邸の3箇所となっている。この3箇所の用件共に「獣医師系養成大学の設置に関する協議」と記入してあるから、獣医師系養成大学の設置のための「協議」を面会目的としていたことが判明する。「復命書」も、面会目的を「内閣府国家戦略特区(大学獣医学部)の協議のため」としているから、当たり前のことだが、「復命書」と別紙は一体のものであることが分かる。
 
 3箇所の訪問場所と住所は「東京都千代田区平河町2-6-3都道府県会館」、「東京都千代田区永田町1丁目6-1内閣府」、「東京都千代田区永田町1丁目6-1首相官邸」となっている。

 重要な点であるから、改めて断っておくが、面会目的はあくまでも「獣医師系養成大学の設置に関する協議」、いわば設置に向けた何らかの働きかけであって、その一点であることを頭に入れておかなければならない。

 首相官邸での面会応対者は当時の首相秘書官柳瀬唯夫だと目されていて、それを質すために2017年7月24日の加計学園衆院予算委員会閉会中審査と翌日2017年7月25日参議院予算委員会閉会中審査に柳瀬唯夫を参考人招致して質疑が行われたが、柳瀬唯夫は面会を「記憶にない」の一点張りでかわし、安倍晋三自身も無関与を主張、野党は満足な追及はできずじまいとなった。

 安倍晋三「獣医学部新設について働きかけや依頼は全くなかったということをまず明確に申し上げたいと思います」

 安倍晋三(今治市獣医学部新設提案に関して加計学園に便宜を図るように指示したことはあるかの問いに)「私がこの獣医学部新設について指示をしたことは全くございません」

 清廉潔白の証明となっている。

 2018年4月9日、愛媛県がこれまでないとしてきた加計学園獣医学部新設関連の文書の存在を確認、詳しい事実関係は調査中であることをマスコミが報じた。翌2018年4月10日、「asahi.com」記事が愛媛県が調査中で、政府関係者に渡っていた文書をスクープし、その文書の題名は「獣医師養成系大学の設置に係る内閣府藤原次長・柳瀬首相秘書官との面談結果について」となっていると紹介、〈2015年4月、愛媛県や今治市の職員、学園幹部が柳瀬唯夫首相秘書官(当時)らと面会した際に愛媛県が作成したとされる記録文書が存在することがわかった。〉と報道。記事添付の画像には2015年4月2日に首相官邸で三者と面会した際の柳瀬唯夫の発言として「本件は、首相案件となっており」の文字が記されている。

 「首相案件」とは安倍晋三の指示を受けた加計学園獣医学部新設・認可に向けた動きであることを意味することになる。

 同2018年4月10日午後5時、中村時広愛媛県知事が県庁で緊急記者会見して、「文書そのものは県庁内には確認できていないが、会議に出席した担当職員一人一人に聞き取りを行った結果、報告するための備忘録として職員が書いた文書だと判明した」(NHK NEWS WEB)と発言。

 中村時広愛媛県知事は「asahi.com」記事が報じた愛媛県文書は2015年4月2日に今治市職員と共に愛媛県職員、さらに加計学園関係者が首相官邸を訪問した際の県への報告書作成のための備忘録であると出所根拠を明らかにしたことになる。つまり、ガセネタでもない、怪文書でもない、真正な文書だと証言したことになる。

 中村時広愛媛県知事は1ヶ月11日後の2018年5月21日に記者会見して、「参院の与野党合意で国会から関連する文書やメモをすべて出してほしいと要請があった。関連部署や個人ファイルを含めて探し、出てきたものを国会の要請に基づいて21日午後に提出した」と発言。それらの文書が次々に報道されることになったが、この提出は元首相秘書官柳瀬唯夫が2018年5月10日午前中の衆院予算委員会に、午後の参院予算委員会に参考人招致されて受けることになった追及には間に合わなかった。

 柳瀬唯夫はこれ以降、中村愛媛県知事や加計学園理事長加計孝太郎も含めた柳瀬唯夫本人の参考人招致にしても、証人喚問にしても、野党の求めに対して自民党が受け入れなかったために全面的に公表された愛媛県文書に基づいた新たな追及を免れることになった。

 例えば柳瀬唯夫は今治市職員が2015年4月2日に首相官邸を訪問した事実は記憶にないとしてきたが、2018年5月10日午前中の衆院予算委員会では加計学園関係者以外に大勢いて、今治市や愛媛県の職員が混じっていたのか記憶にない、さらに名刺交換しなかったのかと問われて、保存してある中には加計学園関係者以外の名刺はなかったからと暗に名刺交換はしなかったかのように答弁、追及を凌いでいるが、愛媛県がのちに柳瀬唯夫の名刺を載せた文書を公表、当然、面会者側からしたら首相秘書官相手に渡さずに貰うだけの名刺交換は儀礼上考えられないないから、愛媛県文書に基づいた新たな追及を免れることができたことはウソを剥がされる危険性を避けることができたことになる。

 但し前出の「asahi.com」記事を含めて、マスコミが5月10日の衆参予算委員会前にいくつかの愛媛県文書を掘り出していたから、これまでのように「記憶にありません」だけで済ますことができなくなって、掘り出された愛媛県文書で明らかになった新事実に関係する追及を受けることになった。

 マスコミ報道の愛媛県文書に対して中村時広愛媛県知事が出所根拠を明らかにし、文書の正当性を証明した2018年4月10日と同じ日に柳瀬唯夫はコメントを発表している。

 平成30年4月10日
 経済産業審議官 柳瀬唯夫

 朝日新聞等の報道に関しまして、以下のコメントをさせていただきます。

 国会でも答弁していますとおり、当時私は、総理秘書官として、日々多くの方々にお会いしていましたが、自分の記憶の限りでは、愛媛県や今治市の方にお会いしたことはありません。

 自分の総理秘書官時代には、国会でも答弁していますとおり、50年余り認められていなかった獣医学部の新設がどうなるかという制度論が議論されており、制度を具体的にどこに適用するかという段階ではありませんでした。実際、その後、獣医学部新設を追加規制改革項目として、取り上げるかどうかについては、いわゆる「石破四原則」の決定により、検討が開始されることになり、翌年の平成28年11月に、獣医学部新設が国家戦略特区の追加規制改革事項として、決定されたと認識しています。

 具体的な地点の選定手続きは、私が総理秘書官の職を離れてかなり時間が経ってから始まり、今治市が特区を活用して、獣医学部新設を行う規制改革が決まったのが平成29年1月だったと認識しています。

 したがって、報道にありますように、私が外部の方に対して、この案件が首相案件になっているといった具体的な話をすることはあり得ません。

 もし加計学園獣医学部認可が安倍晋三の行政の私物化・政治関与を受けた賜物――便宜供与であったなら、「獣医学部の新設がどうなるかという制度論が議論」されていた段階であろうとなかろうと関係ない。何しろ今治市は2007年から加計学園を事業主体とする「大学獣医学部設置による地域再生」を掲げて、今治市への構造改革特区指定を2014年までに14回とか、15回申請し続け、全て却下されたのだから、このような却下の流れを受けて裏側で「首相案件」としていたなら、「獣医学部新設を行う規制改革が決まったのが平成29年1月だった」といった表向きのスケジュールは意味をなさない。

 改めて「asahi.com」記事がスクープし、中村時広愛媛県知事が県職員が備忘録として書いたものだと証明した愛媛県文書の題名を見てみる。太字、蛍光ペン等の文飾は当方。

 題名は「獣医師養成系大学の設置に係る内閣府藤原次長・柳瀬首相秘書官との面談結果について」(27.4地域政策課)

 そして既に触れたように記事は、〈2015年4月、愛媛県や今治市の職員、学園幹部が柳瀬唯夫首相秘書官(当時)らと面会した際に愛媛県が作成したとされる記録文書が存在することがわかった。〉と解説しているから、2015年4月2日の首相官邸面会者がこれまで扱われてきたように今治市職員だけではなく、愛媛県職員、さらに加計学園関係者が加わっていたことが判明する。そして文書の題名が「獣医師養成系大学の設置に係る内閣府藤原次長・柳瀬首相秘書官との面談結果について」となっている以上、面会目的は「獣医師養成系大学の設置」に向けた何らかの働きかけであることを示していて、この面会目的は今治市文書「復命書」に記載されている面会目的と一致する。一致は当然であって、一致しないと奇妙なことになる。

 改めて触れるが、その文書には首相秘書官柳瀬唯夫の「主な発言」として、〈本件は、首相案件となっており〉との文言が記されている。この発言を柳瀬唯夫がどう否定しようとも、今治市と愛媛県、加計学園関係者の柳瀬唯夫に対する面会目的が「獣医師養成系大学の設置」に向けた何らかの働きかけであることに何ら変化を与えない。

 今治市が国家戦略特区活用目的に「国際水準の獣医学教育特区」を提案したのが2015年6月4日。その2ヶ月前の2015年4月2日の午前中に国家戦略特区を用いた規制改革の所管部署である内閣府地方創生推進室の次長である藤原豊と面会、さらに午後に首相官邸で首相秘書官の柳瀬唯夫と面会して、「獣医師養成系大学の設置」についての要望を行い、柳瀬唯夫からは「本件は、首相案件となっており、何とか実現したいと考えている」と鬼に金棒のお言葉を頂戴した。

 勿論、これらは今治市文書や文科省文書、そして愛媛県文書等に現れている事実であって、現実世界で実際に起きた出来事であることの証明を受けた事実でない。

 少なくとも2018年5月10日午前中の衆議院予算委員会柳瀬唯夫参考人招致の質疑を、午後に参議院予算委員会柳瀬唯夫参考人招致の質疑を迎えることになったとき、野党側はその時点までに自らの発掘によるか、あるいはマスコミ報道によって知り得た各文書に現れている数々の事実を頭に入れて臨んだはずだ。

 そしてそれらの事実に基づいて組み立てた加計学園獣医学部新設・認可に関わる全体像は全面的に「首相案件」であることの疑惑によって黒々と塗り込められていたに違いない。

 では、衆参の柳瀬唯夫参考人招致から柳瀬唯夫への面会目的が「獣医師養成系大学の設置」に向けた何らかの働きかけであることは動かし難い事実であることのみに絞って、質問と答弁を見てみる。そして最後に上記「asahi.com」 記事が伝えた愛媛県文書を愛媛県が参院に提出後に公表された画像からテキスト化して記載することにする。

 最初に衆議院予算委員会(2018年5月10日)

 自民党後藤茂「平成27年4月2日に愛媛県、今治市が官邸を訪問したことについて、愛媛県のメモが公表され、また、農水省も愛媛県の文書を保有するなどの事実が明らかになっております。4月10日、柳瀬元秘書官は、自分の記憶の限りでは、愛媛県や今治市の方とお会いしたことはないとコメントを出していますが、国民の中で、事実関係についての疑念は拭えておりません。

 4月2日に柳瀬元秘書官は愛媛県、今治市、加計学園関係者と会っていないのか、まず最初にしっかりと説明してください。

 柳瀬唯夫「御質問の点でございますけれども、加計学園の事務局の方から面会の申入れがありまして、4月ごろに、その後の報道などを拝見すると恐らくこれが4月2日だったのではないかと思いますけれども、加計学園の方、その関係者の方と面会をいたしました。

 その面会のときには、相手方は、10人近くの随分大勢でいらっしゃいました。そのうち、加計学園の事務局に同行されました獣医学の専門家の元東大教授とおっしゃっている方が、世界の獣医学教育の趨勢は感染症対策にシフトしているのに日本は全くついていっていないという、獣医学教育に関するお話を情熱的にとうとうとされた覚えがございます。あわせまして、加計学園の事務局の方から、国家戦略特区制度を活用する方向で検討しているというお話がありました。

 面会では、メーンテーブルの真ん中にいらっしゃいましたその元東大教授の方がほとんどお話しになっていて、それと、加計学園の事務局の方がお話しになっておりました。そのために、随行されていた方の中に愛媛県の方や今治市の方がいらしたかどうかという記録は残ってございません。

 ただ、その後の一連の報道や関係省庁による調査結果を拝見しますと、私は、今でも愛媛県や今治市の職員の方が同席者の中にいたかどうかはわかりませんけれども、十人近くの同席者の中で、メーンスピーカーでない方の随行者の中に愛媛県や今治市の方たちがいらっしゃったのかな、かもしれないなというふうに思います」
   
         ・・・・・・・・・・・・・・・

 柳瀬唯夫「(元東大教授の方から)獣医学部が過去50年余り新設されていないこと、四国には鳥インフルエンザなどの感染症対応の獣医が不足していること、過去、構造改革特区で今治市から何度も獣医学部新設を申請してきているが実現していないことというふうなお話があったと思います。その際に、従来の構造改革特区とは別に、新たに国家戦略特区制度が始まったという話も出たようにも思いますけれども、そのときには特に具体的な話にはならなかったように思います。

 このときに、50年以上も獣医学部が新設されていないというお話を伺いまして、強く違和感を覚えました。しかし、私自身、獣医学部新設については詳しくなかったので、基本的に、聞きおいたということだったと思います」

 柳瀬唯夫の答弁は加計学園関係者である元東大教授が、「獣医学部が過去50年余り新設されていないこと、四国には鳥インフルエンザなどの感染症対応の獣医が不足していること、過去、構造改革特区で今治市から何度も獣医学部新設を申請してきているが実現していないこと」という獣医学部新設に向けた加計学園が置かれている状況を説明しに来ただけという説明になっている。

 三者側の面会目的があくまでも「獣医師養成系大学の設置」に向けた何らかの働きかけである以上、状況説明だけで終わらずに、このような状況だからこそ、獣医師養成系大学の設置に何らかの助力をお願いしたいを結語として初めて面会目的は完成する。

 もし三者側が状況説明だけで終えて首相官邸を辞したとしたら、面会目的を果たさなかったことになるだけではなく、この衆院予算委開催前に表沙汰になった愛媛県文書はそこに現れている通りの内容とはならない。このことは今治市文書「復命書」についても言えることで、この矛盾を突かなければならないが、他の質問者も同じような質問をし、同じような答弁を柳瀬唯夫に許している。

 つまり面会目的を省いているところに柳瀬唯夫の答弁は虚偽そのものとなる。午後の参院予算委員会で立憲民主党の蓮舫が「面会は午後3時から始まって3時40分に関係者全員が退室している」と発言しているが、大の大人たちは面会の40分間を状況説明のみに費やして、面会目的に触れずじまい、柳瀬唯夫の方も、面会目的についての何らかの要請に耳を傾けもしなかったことになる。門前払いでない以上、特段の理由がない限り、そのような面会など存在はしない。

 立憲民主党長妻昭「柳瀬さんにお伺いいたしますけれども、2015年の4月2日の会談は認められましたが、それ以降、加計学園関係者にお会いしたことはありますか」

 柳瀬唯夫「総理に御一緒した際に、加計学園の方とお会いしたことがございました。その後、2015年の2月から3月頃に一度、官邸にアポイントをとって来られましたので、そのときにお話を伺いました。そして、同じ2015年年4月に、今話題になってございます面会をさせていただきました。それで、その後、今治市が戦略特区の提案を出すということをお話しに一度来られたという記憶がございます」

 長妻昭「そうすると、2015年4月2日以降は、今治市と加計学園に一度しか会っていないということですか」

 柳瀬唯夫「まず最初に、申し上げ忘れましたけれども、申しわけございませんが、私の国会の答弁をきっかけとして大変御迷惑をおかけして、申しわけございませんでした。これは、与党も野党にもどちらにも御迷惑をおかけしましたので、おわびをさせていただきたいと思います。
 
 その上で、お答えさせていただきます。

 その意味で、官邸でお会いした3回は覚えてございます。それ以外はちょっと覚えが、官邸でお会いした覚えは、それ以外はございません」

 長妻昭「そうすると、加計学園とは首相官邸で三回お会いをした、四月二日とその以前一回と四月二日以降も、三回、加計学園関係者とお会いしたと。官邸でですね」

 官邸以外でこれまで、期限を区切らずに、加計孝太郎理事長を含めて加計学園関係者とお会いしたのは、会食、ゴルフもあったのかもしれませんけれども、何回ぐらいですか。

 柳瀬唯夫「私が記憶していますのは、一度ゴールデンウイークに、総理の別荘が河口湖にございまして、そこにお供をしたときに、たくさん総理の御親族の方や御友人の方が集まっておられまして、そこで、総理の御自宅というか別荘でバーベキューなどを、これはいつもよくやってございますけれども、やったときに、加計学園の理事長さんと事務局の方がいたという記憶がございます。それと先ほど申しました官邸でお会いした三回と、私が総理秘書官時代、お会いした記憶は以上でございますけれども、それ以外にお会いしたかどうかは、ちょっと今覚えているものはございません。

 長妻昭「そうすると、加計学園関係者と会ったのは、官邸で三回、そして、官邸以外では一回しかないと。(柳瀬参考人「一回はお会いしています」と呼ぶ)一回は覚えている、それ以外もあるかもしれないけれども、覚えていないということだと思います。

 これは、多分、今、バーベキュー云々かんぬんという話は、2013年の5月6日、平成25年ですね、ゴルフのコンペではないかと思うんですけれども、ゴルフはされましたですか」

 柳瀬唯夫「その当時、私、ちょっと首を痛めてからはやらなくなりましたけれども、そのころ、お供をしたときには御一緒に、総理が大体友人の方たちとやっておられて、秘書官は緊急連絡要員ですので、その後のパーティーで追っかけていくということがありましたので、多分そのときも、バーベキューを前の日にやって、翌日ゴルフをやって、いつものように総理がやっておられて、そのパーティーの後ろの方で秘書官たちでついていったということだと思います」

 長妻昭「そうすると、ゴルフもされたということですね」

 柳瀬唯夫「多分、ちょっと首を痛める前だと思いますので、そのころであればしていたと思います」

 長妻昭「ゴルフの代金はどなたが払ったんですか」

          ・・・・・・・・・・・・・・・

 柳瀬唯夫「私、総理秘書官になりまして大変違和感を覚えましたのは、本当に外の話が聞けなくなる、だんだんもう、自分は世の中からどんどんずれているんじゃないかということを強く思いまして、できるだけ、外の方からアポイントがあれば時間が許す限りお会いするようにしていました。別に総理の親友だからということではございませんで、私は、都合がつく限り、どなたであってもアポイントのあった方はお会いしたというふうに覚えております」

 加計学園と何回会ったのかだとか、ゴルフを一緒にしたのかだとか、ゴルフの代金は誰が払っただとか、どうしようもない質問ばかりを続けて、愛媛県、今治市、加計学園側の面会目的は何だったのか、一言も尋ねていない。 

 柳瀬唯夫は二度「アポイント」という言葉を使っている。相手側がアポイントを取るについては先ずアポイントの目的(=面会目的)を伝えて、アポイントを受ける側の了承を得る手続きが必要となる。柳瀬唯夫は最初に加計学園の方が「2015年の2月から3月頃に一度、官邸にアポイントをとって来られましたので、そのときにお話を伺いました」と答弁している。当然、どのような面会目的を伝えられたのか、相手のどのような面会目的に応じて官邸で応対したのか聞いていたなら、これまでの状況説明に来ただけで、面会目的には触れない答弁の矛盾を突くことができたかもしれないが、そのまま遣り過している。

 長妻昭「安倍総理は、昨年の1月20日に加計学園の獣医学部新設の計画を知ったというふうにおっしゃっているんですね、国会で。でも、今の話を聞いていると、柳瀬さん本人は相当前に知っていますよね。

 初めて獣医学部新設の計画を加計学園が持っているというのを知ったのはいつでございますか」

 柳瀬唯夫「平成27年の2月から3月に官邸にお越しになったときにこの獣医学部の話をされていまして、そのときに、これは、このときは国家戦略特区ではなくて構造改革特区として今治市が申請しているということを加計学園の方がおっしゃっていましたので、その時点で、加計学園は獣医学部の新設というのを今治市と一緒にやろうと考えているんだなということを認識しておりました」

 長妻昭「そうすると、2015年ですよね、平成27年。2月か3月というと、日にちは覚えていないですか、いつ来たかというのは」

 柳瀬唯夫「申しわけございませんが、4月より1、2カ月前だったなというぐらいの印象しか残っておりません。済みません」

 長妻昭「私は、実は首相経験者にもお話を聞いたし、首相秘書官関係者にもお話を聞きました、これまで経験した方に。やはり首相と秘書官というのは一心同体で、目となり耳となって、いろいろな報告はまめにしている、勝手に外部の事業者と会うということは基本的にはないと。

 そうすると、柳瀬さんは2015年の2月か3月に加計学園の獣医学部新設の計画を知ったということで、総理は去年なんですよ。すごく、2年弱空白期間があるんですけれども、その間に何にも、総理大臣に一切、加計がこういう計画があるとか、加計と会ったことすら何にも、雑談も含めて何にも報告しなかったということですね」

 柳瀬唯夫「私、いろいろな方とお会いしましたけれども、きのうこういう会社の人とお会いしましたとか、こういう市町村の方とお会いしましたと総理に一々報告したことは、別にこれに限らず、ございませんし、私は、平成27年の8月の4日だったと思いますけれども、総理秘書官を退任していますので、今、長妻先生が29年とおっしゃいましたけれども、私は、4月2日から、あるいは2月から、3月からしても、その後、半年足らずで官邸を出ていますので、その後総理が、今、認識された年は29年の初めですか、その1年半ぐらいの間、総理がどこでどう認識されたかというのは、私にはちょっとわかりません」

 柳瀬唯夫は加計学園が2015年の2月か3月に首相官邸に来た際に「獣医学部の新設というのを今治市と一緒にやろうと考えているんだなということを認識した」と答弁している。長妻昭は「考えていることを認識させることだけが相手の面会目的であったのか」と柳瀬唯夫に問い質さなければならなかった。

 子供の使いでなければ、「考えていることをぜひ実現したい。つきましてはご助力をお願いします」までいってこそ、今治市文書の「復命書」別紙の面会目的を「獣医師系養成大学の設置に関する協議」と記載することの整合性を取ることができ、愛媛県文書の「獣医師養成系大学の設置に係る内閣府藤原次長・柳瀬首相秘書官との面談結果について」と面会目的を記載する正当性を得ることができる。

 そもそも首相官邸で柳瀬唯夫と面会するアポイントを取る際に面会目的を伝えているはずで、面会した以上、その面会目的に添った話し合いが行われなければならないが、その面会目的について一言も話し合わなかったと見せかける国会答弁は虚偽の事実によってしか成り立たせることはできない。

 午後の参院質疑で立憲民主党の蓮舫のみが面会目的を尋ねている。但し深く考えもせずに横道に逸れてしまった。

 蓮舫「何の案件でお会いをしたんですか」

 柳瀬唯夫そのときに具体的な案件の申入れがあったかどうか、ちょっと記憶にありませんけども、まあ上京されてお会いしたいということでしたのでお会いをしました」

 蓮舫「具体的な案件が分からないけれども、上京したのでお会いをしたい、つまり、首相秘書官である柳瀬さんと加計学園関係者はそれぐらい密接な関係ということでしょうか」

 柳瀬唯夫「元々、総理の別荘のバーベキューでお会いして、まあ面識はありました」

 それから、私は総理秘書官時代、まあちょっと相当時間タイトでありましたが、時間がある限りは外の方のアポイント、申入れはお会いするようにしていましたし、私の記憶ではアポイントの申入れをいただいてお断りをしたことはなかったと思います」

 蓮舫「このバーベキュー等でお会いをした、どなたから紹介されたんですか、加計理事長、学園関係者は」

 柳瀬唯夫「これはですね、総理はよく河口湖の別荘に行かれて、御親族の方や御友人らをいっぱい集めてバーベキューをやるということはよくやっておられました。そのときに、秘書官も緊急時対応でいつも何人か御一緒をしてございました。

 したがって、御紹介いただくとかいうそういう場ではございませんで、わあっとそこのお庭に総理の御親族やお友達の方がいて、秘書官がいて、まあ総理の、政府の何人かの方がいてと、そういう場で何十人もいるところでお会いをしたということで、特に誰かに紹介されたわけではございません」

 蓮舫「つまり、全く紹介されていなくて、何十人もいる、たくさんいる中でお会いをしたその人からアポイントの連絡が来て、案件も分からないで、それでお会いをする間柄なんですか」

 柳瀬唯夫「先ほど申し上げましたように、私は基本的にアポイントの申入れがあれば、政府の外の人、お会いするようにしていましたので、まあこれも例外じゃないということでございます」

 蓮舫「3月24日の面会、先ほどあなたは4月2日に学園関係者側から国家戦略特区という提案があったと言いましたが、3月の会合時点で既にあなたから加計学園関係者に国家戦略特区でいこうと助言していませんか」

 柳瀬唯夫「そこの具体的なやり取り、記憶がクリアではありませんけども、その三月の、その最初にお会いしたときも、構造改革特区で何度もやっているけどうまくいかないという話がございまして、そのときにはもう国家戦略特区制度がスタートしていましたし、安倍政権として大事な柱でございましたので、それは、当時、その戦略特区をPRするというのは……」

 蓮舫「3月に言いましたか」

 柳瀬唯夫「ええ。それで、そのときに国家戦略特区の話になったと思います。ただ、そのときどこまで具体的な話になったかは、そこはよく分かりません」

 蓮舫「つまり、もうそこで既にもう国家戦略特区の話題が出たら、その後の4月2日のアポイントのときに、国家戦略特区でいくと事業者ではないから愛媛
県、今治市も行った方がいいだろうと、それを呼ぶように加計学園に提案していませんか」

 柳瀬唯夫「ちょっと、私の方から呼ぶようにと言った記憶はございませんけども」

 蓮舫は「何の案件でお会いをしたんですか」と面会目的を尋ねた。対して柳瀬唯夫は「そのときに具体的な案件の申入れがあったかどうか、ちょっと記憶にありませんけども、まあ上京されてお会いしたいということでしたのでお会いをしました」と答弁。それに応えて蓮舫は「具体的な案件が分からないけれども、上京したのでお会いをしたい、つまり、首相秘書官である柳瀬さんと加計学園関係者はそれぐらい密接な関係ということでしょうか」といとも簡単に横道に逸れてしまった。

 既に明らかになっている今治市文書と愛媛県文書には面会目的が「獣医師系養成大学の設置」についてのことだと記載されていることを踏まえていたなら、「上京してお会いしたいということ」だけで面会に応じたとしたら、「例の件で」という言葉が最初にあって、「例の件」が何なのか、その意味を両者間が共通認識としていることが条件となる。

 当然、「例の件」とは「獣医師系養成大学の設置」に関してのことだとしなければならない。蓮舫としたら、「今治市文書にしても愛媛県文書にしても『案件』は『獣医師系養成大学の設置』となっているのだから、その案件での面会だったはずだ」と追及しなければならなかった。

 今治市文書と愛媛県文書が面会目的を記載しているのだから、それを根拠に同じ面会目的を柳瀬唯夫の口から引き出さない限り、「3月の会合時点で既にあなたから加計学園関係者に国家戦略特区でいこうと助言していませんか」とか、「つまり、もうそこで既にもう国家戦略特区の話題が出たら、その後の4月2日のアポイントのときに、国家戦略特区でいくと事業者ではないから愛媛県、今治市も行った方がいいだろうと、それを呼ぶように加計学園に提案していませんか」と尋ねようと、素直に「ハイ、そうです」と答えるはずはない。

 引き出したとき初めて、面会目的に添う会話が交わされたはずだと追及できる確かな手がかりを手にすることができる。

 柳瀬唯夫は一貫して面会目的に触れるのを避ける答弁か、面会目的とならないような言葉を並べる誤魔化しの答弁に終始した。面会目的を明らかにしたなら、交わされた会話の中身までが知れることになるからなのは断るまでもない。このことだけを取り上げても、加計学園獣医学部新設と認可が安倍晋三の行政の私物化・政治関与の産物であることを証明することになる。

 でなければ、面会目的を隠す必要は何もない。この証明を元にした場合、「asahi.com」記事が伝えた以下の愛媛県文書は題名に現れている面会目的と内容が一致していて、全て事実を記していると見ることができる。

 「獣医師養成系大学の設置に係る内閣府藤原次長・柳瀬首相秘書官との面談結果について」

                       27.4
                      地域政策課   
                    
 《藤原地方創生推進室次長の主な発言(内閣府)11:30》

  ・要請の内容は総理官邸から聞いており、県・今治市が
   これまで構造改革特区申請をされてきたことも承知。
  ・政府としてきちんと対応をしていかなければならないと考
   えており、県・市・学園と国が知恵を出し合って進めてい
   きたい。
  ・そのため、これまでの事務的な構造改革特区とは異なり、
   国家戦略特区の手法を使って突破口を開きたい。
  ・国家戦略特区は、自治体等から全国レベルの制度改革提供
   案を受けて国が地域を指定するものであるが、風穴を開
   けた自治体が有利。仮にその指定を受けられなくても構
   造改革特区などの別の規制緩和により、要望を実現可能。
  ・今年度から構造改革特区と国家戦略特区を一体的に取り
   扱うこととし、年2回の募集を予定しており、遅くとも
   5月の連休明けには1回目の募集を開始。
  ・ついては、ポイントを絞ってインパクトのある形で、2、
   3枚程度の提案書案を作成いただき、早い段階で相談さ
   れたい。
  ・提案内容は獣医大学だけでいくか、関連分野も含める
   かは、県・市の判断によるが、幅広い方が熱意を感じる。
  ・獣医師会等と真っ向勝負にならないよう、既存の獣医学
   部と異なる特徴、たとえば、公務員獣医師や産業獣医師の
   養成などのカリキュラムの工夫や、養殖魚病対応に加え、
   ペット獣医師を増やさないような卒後の見通しなどもし
   っかり書き込んでほしい。
  ・かなりチャンスがあると思っていただいてよい。
  ・新潟市の国家戦略特区の獣医学部の現状は、トーンが少
   下がってきており、具体性にかけていると感じている。

 《柳瀬首相秘書官の主な発言(総理官邸) 15:00》
 
 ・本県は、首相案件となっており、内閣府藤原次長の公式
  のヒアリングを受けるという形で進めて頂きたい。
 ・国家戦略特区でいくか、構造改革特区でいくかはテクニ
  カルな問題であり、要望が実現するのであればどちらで
  もいいと思う。現在、国家戦略特区の方が勢いがある。
 ・いずれにしても、自治体がやらされモードではなく、死
  ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件。
 ・四国の獣医大学の空白地帯が解消されることは、鳥イン
  フル対策や公衆衛生獣医師確保の観点から、農水省・厚
  労省も歓迎する方向。
 ・獣医師会には、直接対決を避けるよう、既存の獣医大学
  との差別化を図った特徴を出すことや卒後の見通しなど
  を明らかにするとともに、自治体等の熱意を見せて仕方
  がないと思わせるようにするのがいい。
 ・加計学園から、先日安倍総理と同学園理事長が会食した
  際に、下村文科大臣が加計学園は課題への回答もなくけ
  しからんといっているとの発言があったとのことであり、
  その対応についての意見を求めたところ、今後、策定す
  る国家戦略特区の提案書と併せて課題への取組状況を整
  理して、文科省に説明するのがよいとの助言があった。

  ついては、県としては、今治市や加計学園と十分協議を行
  い、内閣府とも相談しながら、国家戦略特区の申請に向けた
  準備を進めることとしたい。 
   また、これと併行して、加計学園が構想する事業費や地元
  自治体への支援要請額を見極めるとともに、今治市新都市への
  中核施設整備の経緯も踏まえながら、経費負担のあり方につ
  いて十分に検討を行うこととしたい。  

 

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安倍晋三の行政の私物化・政治関与による加計学園獣医学部認可は事実そのものであることをシンプルに証明

2019-09-30 11:18:59 | 政治
 
 朝日新聞報道の加計学園獣医学部認可に関しての行政の不正行為を想起させる文科省の文書の存在に対して文科省側は当初はそのような文書の存在は確認できなかったとしていたが、文科相松野博一が2017年6月15日午後の記者会見で民進党が調査を求めていた19の文書のうち14文書の存在、未確認が2文書、3文書は「法人の利益に関わる内容」として「現時点では存否を含め明らかにできない」と公表した。

 民進党議員が公表した国会質問の際の参考資料や新聞記事等から当方が集めることができた、メールを含めた文科省文書を参考のために以下に記載、次に愛媛県今治市の国家戦略特区での獣医学部新設提案と国家戦略特区指定等の経緯に簡単に触れて、そのあと、このブログを書き進めるに当たって文科省文書の中から必要な文書を適宜抜き出すことにする。文飾は当方。

 「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」

○平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュール
 を作成し、共有いただきたい。成田市ほど時間は掛けられない。

 これは官邸の最高レベルが言っていること。山本大臣も「きち
 んとやりたい」と言っている。文科省メインで動かないといけない
 シチュエーションにすでになっている。

○国家戦略特区における獣医学部新設に係る方針については以
 下2パターンが考えられる。(今週、来週での対応が必要)

 ・内閣府・文科省・農水省による方針を作成(例:成田市「医学
  部新設」)

 ・国家戦略特区諮問会議による方針の決定(例:「民泊」)※諮問
  会議には厚労大臣も出席。

○今治市分科会において有識者からのヒアリングを実施すること
 も可能。
 
 (成田市分科会では、医師会は呼んでいないが、文科省と厚労省
 で選んだ有識者の意見を聴取(反対派は呼んでいない)。)

○獣医学部新設を1校に限定するかは政治的判断である。

 義家副大臣レク概要(獣医学部新設)

○平成30年4月開学で早くやれ、と言われている。手続きはちゃ
 んと踏まなければいけない。

○(国家戦略特区諮問会議決定について、)教育と民泊は違う。
 一緒にされては困る。

○農水省や厚労省は逃げているのか。

○官邸はどうなっているのか。萩生田副長官に聞いてみる。

やれと言うならやるが、閣内不一致(麻生財務大臣反対)をどう
 にかしてくれないと文科省が悪者になってしまう。

○農水大臣にも需給はおたくの話でしょ、と話してみる。

○本件は預かる。また連絡する

 大臣ご指示事項

以下2点につき、内閣府に感触を確認して欲しい。

◯平成30年4月に開学するためには、平成29年3月に
 設置認可申請する必要があるが、大学として教員確保や施設設
 備等の設置認可に必要な準備が整わないのではないか。平成
 31年4月開学を目指した対応とすべきではないか。

◯麻生副総理、森英介議員など獣医学部新設に強く反対して
 いる議員がいる中で、党の手続きをこなすためには、文科・
 農水・内閣府の部会の合同部会もしくはPTを設置して検討を行う
 べきではないか。少なくとも、衆院福岡6区補選(10月23
 日投開票予定)を終えた後に動くべきではないか。

※鳩山二郎氏(鳩山邦夫元総務相次男、全福岡県大川市長)、蔵
 内謙氏(日本樹医師会長長男、林芳正前農相秘書が候補者)

 義家副大臣のご感触

◯斎藤健農林水産副大臣は「そのような話は上がってきていない。
 確認をしておく」ということだった。

◯萩生田内閣官房副長官にも話をしたが、あまり反応がなかった。

◯大臣のご指示どおり、(内閣府への確認を)進めてほしい。

 大臣ご確認事項に対する内閣府の回答

◯ 設置の時期については、今治市の区域指定時より「最短距離で規
 制改革」を前提としたプロセスを踏んでいる状況であり、これは総理の
 ご意向だと聞いている。

◯ 規制緩和措置と大学設置審査は、独立の手続きであり、内閣府は
 規制緩和部分を担当しているが、大学設置審査は文部科学省。大学設
 置審査のところで不測の事態(平成30年開学が間に合わない)ことは
 あり得る話。関係者が納得するのであれば内閣府は困らない。

◯ 「国家戦略特区諮問会議決定」という形にすれば、総理が議長なの
 で、総理からの指示に見えるのではないか。平成30年4月開学に向
 け、11月上中旬には本件を諮問会議にかける必要あり。

◯ 農水省、厚労省への会議案内等は内閣府で事務的にやるが、前面
 に立つのは不可能。二省を土俵に上げるのは文部科学省がやるべ
 き。副長官のところに、文部科学省、厚生労働省、農林水産省を呼ん
 で、指示を出してもらえばよいのではないか。

◯ 獣医は告示なので党の手続きは不要。党の手続きについては、文科省
 と党の関係なので、政調とよく相談して欲しい。以前、官邸か
 ら、「内閣」としてやろうとしていることを党の部会で議論するな、と怒ら
 れた。党の会議では、内閣府は質疑応答はあり得るがメインでの対応
 は行わない。

◯ 官房長官、官房長官の補佐官、両副長官、古谷副長官補、和泉
 総理大臣補佐官等の要人には、「1、2ヶ月単位で議論せざるを得ない
 状況」と説明してある。

 10/4義家副大臣レク概要

◯ 私が萩生田長官のところに「ちゃんと調整してくれ」と言
 いにいく、アポ取りして正式に行こう。シナリオを書いてくれ。

◯ 斎藤健農水副大臣に、「農水省が需給部分、ちゃんと責任を持っ
 てくれないと困るよ」と話した際には「何も聞いていない。やば
 い話じゃないか。」という反応だった。

◯ 私が萩生田長官のところに「ちゃんと調整してくれ」と言
 いにいく、アポ取りして正式に行こう。シナリオを書いてくれ。

 10/7萩生田副長官ご発言概要 (取扱注意)

◯ 再興戦略改訂2015の要件は承知している。問題は、「既存の
 大学・学部では対応が困難な場合」という要件について、例えば
 伝染病研究を構想にした場合、既存の大学が「うちの大学でも
 できますよ」と言われると困難になる。

◯ 四国には獣医学部がないので、その点では必要性に説明が
 つくのか。(感染症も、一義的には県や国による対応であるとの
 獣医師会の反論を説明。)

◯ 平成30年4月は早い。無理だと思う。要するに、加計学園が
 誰も文句が言えないような良い提案をできるかどうかだな。構想
 をブラッシュアップしないといけない。

◯ 学校ありきでやっているという誤解を招くので、無理をしない
 方がいい。

◯ 福岡6区補選選挙(10月23日)が終わってからではないか。

◯ 文科省だけで、この案件をこなすことは難しいということはよ
 くわかる。獣医師会や農水関係議員との関係でも、農水省など
 の協力が必要。

◯ 私の方で整理しよう。

 10月19日(水) 北村直人元議員(石破元大臣同期)→専門教育課牧野

◯ 18日、石破元大臣と会って話をした。ご発言は以下の通り。
 ・ 党プロセスは今後どうなるのか。党プロセスを省くのはおかしい。
 ・ 総務会に上がってくるマターではないのか。もし話題に上がってこない
  なら、私が総務会の場で持ち出すことはやぶさかでない。タイミングを教えてく
  れ。
 ※総務会には、村上誠一郎議員や北村誠吾議員(自民党獣医師問題議連事務局長)が在籍。

◯ 政治パーティーで山本国家戦略特区担当大臣と会って話をした。ご発言は以下の通り。
 ・ 4条件きちんと守られるようウオッチする。ただ、(新設のための)お金が
  どうなるのか心配している。
 
◯ 麻生大臣は野田秘書に以下のように話をしていたとのこと。
 
  ・ 自分は総理から本件関係で何も言われていない。この話を持ち出されたこ
  ともない。だから、(もうやらない方向で)決着したのだと思ったくらいだ。
  ・(野田秘書から最近の状況を話し、)そうか・・・。

 「加計学園への伝達事項」

◯先日、ご説明いただいた構想につき、文部科学省として懸念している
 事項をお伝えする。
◯まず。公務員獣医師養成や人獣共通感染症研究、医学部との連携
 などは既存の獣医学部でも取り組まれでおり、日本再興戦略改訂201
 5との関係で、「既存の獣医師養成でない構想を具体化」や「既存の大
 学・学部では対応が困難な場合」という観点から、差別化できるよう、
 よく検討していただきたい。(表現ぶりの工夫が必要。その際、ハード
 ルを上げすぎないように注意)

◯「国際教育拠点」を形成する旨区域方針に書かれているが、先日の
 ご説明では国際性の特色を出す具体的な取組が十分に示されていな
 かったので、再検討いただきたい。

○需要について、先日の説明資料では、公移員獣医師の需要にしか言
 及がなかったが、毎年定員160名の学生の輩出に見合う応用ライフ
 サイエンス研究者等、獣医高度臨床医の具体的需要も説明が必要で
 あり、ご準備いただきたい。

◯獣医学部のない四国へ設置することにより、公務員獣医師の確保や
 地域の防疫・危機管理拠点を形成するとのことであるが、既存16大
 学では自地域内入学率・就職率ともに低いことから、四国における
 「具体的な需要」と、地元定着・活用のための具体策も検討が必要で
 ある。

◯設置申請に向けて、必要な教員確保や施設整備、資金計画など、万
 全な準備を行っていただきたい。特に資金については、確保できる額
 によって、構想の内容も変わってくると考える。確保できる資金と「既
 存の獣医師養成でない構想」の実現との関係で、十分な検討を行っ
 ていただきたい。   `

 10/21萩生田副長官ご発言概要
◯(11月にも国家戦略特区諮問会議で獣医学部新設を含む規制改革事項
 の決定がなされる可能性をお伝えし、)そう聞いている。

◯内閣府や和泉総理補佐官と話した。(和泉補佐官が)農水省とも話し、以
 下3点で、畜産やペットの獣医師養成とは差別化できると判断した。

 ①ライフサイエンスの観点で、ハイレベルな伝染病実験ができる研究施設
  を備えること。また、国際機関(国際獣疫事務局(OIE)?)が四国に設置
  することを評価している、と聞いたので、その評価していることを示すもの
  を出してもらおうと思っている。
 ②既存大学を上回る教授陣(72名)とカリキュラムの中身を増やすこと、ま
  た、愛媛大学の応用生物学と連携すること。
 ③四国は水産業が盛んであるので、魚病に特化した研究を行うとのこと。

◯一方で、愛媛県は、ハイレベルな獣医師を養成されてもうれしくない、既存
 の獣医師も養成してほしい、と言っているので、2層構造にする。

◯和泉補佐官からは、農水省は了解しているのに、文科省だけが怖じ気づ
 いている、何が問題なのか整理してよく話を聞いてほしい、と言われた。官
 邸は絶対やると言っている。

◯総理は「平成30年4月に開学」とおしりを切っていた。後期は24ヶ月でや
 る今年11月に方針を決めたいとのことだった。

◯そうなると平成29年3月に設置申請をする必要がある。「ハイレベルな教
 授陣」とはどういう人がいるのか、普通の獣医師しかできませんでし
 た、となると問題。特区でやるべきと納得でされるよな光るものでないと、で
 きなかったではすまない。ただ、そこは自信ありそうだった。

◯何が問題なのか、書き出してほしい。その上で、渡邉加計学園事務局長を
 浅野課長のところにいかせる。

◯農水省が獣医師会を押さえないとね。

 「藤原内閣府審議官との打合せ概要(獣医学部新設)」 ※取扱注意
1.日 時:平成28年9月26日(月)18:30~18:55
2.対応考:(内閣府)藤原審議官、佐藤参事官、(文科省)浅野専門教育課
長、■■補佐
3.概 要:
◯平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、
 共有いただきたい。成田市ほど時間はかけられない。これは官邸の最高レ
 ベルが言っていること(むしろもっと激しいことを言っている)。山本大臣
 も「きちんとやりたい」と言っている。
◯成田市の医学部新設の際には3省方針を作成したが、これは東北新設時に
 復興庁と方針を作成していたため、同じ形でやることとなったもの。内閣
 府としては方針作成が必要だと考えていないが、文科省として審査する際
 の留意点を出す必要があることは理解。
◯クレジットは、内閣府と直接の規制省庁である文科省がマスト。関係省庁
 が入らないとできないわけでもなく、農水省・厚労省を入れたいのなら、
 文科省が動く必要あり。ドライに、両省が協力しないなら「彼らがやらな
 かった」と責任を負う形に持って行けぱよい。いずれにしても第2回分科
 会で方針原案を決めるスピードでやる必要。
◯(今治市構想について、獣医師会から文科省・農水省に再興戦略を満たし
 ていないと指摘する資料が届いており、簡単ではない旨の指摘に対し、)必
 要であれば分科会に獣医師会を呼ぶ。成田市分科会に医師会は呼んでい
 ないが。有識者を呼ぶ回を作った方がよけれぱやる。
◯「できない」という選択肢はなく、事務的にやることを早くやらないと責
 任を取ることになる。早く政治トップの判断に持って行く必要あり。文科
 省メインで動かないといけないシチュエーションにすでになっている。
◯(他の新設提案者はどうするのか、との問に対し、)成田市の際には、3省
 方針に「1校」と記載。諮問会議としては3省が決めたことなど知ったこ
 とではないが、方針を出さないと省として持たないということで作った。
 裏では政治的なやりどりがあった。
◯3省方針ではなく、「民泊」(9月9日諮問会議資料2-2)のように、留
 意点や手当てを記載した1枚程度の方針を諮問会議として出すことも可能。
 ただ、当該会議の場には厚労大臣も出席して決定している。この方法は総
 理や山本大臣の負担になるが、こちらの方が手続きは簡単。要素さえもら
 えれば、内閣府はすぐこの資料を作れる。今週来週でペーパーワークしな
 いといけない。
◯今週とかそういう世界で早めに上に相談してくれ。

送信元: ■■■■/文部科学省
宛先:  ■■■■/文部科学省(文科省内のその他の部局)

日付:2016/11/08 11:59
件名:【情報共有・追加あれば】本日加計学園に伝達する事項ペーパー

設置室、私学部 御中 ← 高等教育局専門教育課 ■ (■)

 先日に加計学園から構想の現状を聴取したことについて、
昨日、大臣及び局長より加計学園からに対して文科省としては
現時点の構想では不十分だと考えている旨早急に厳しく伝えるべき、
というご指示がありました。
(局長からは先ほども、早く連絡して、絶対今日中、と言われたところです)

 そこで、私から先方の事務局長に添付内容をお伝えしようと思っておりますところ、
追加で指摘すべき事項や修正があれば、本日13時半までに教えて下さい。
14時に先方から電話が来る予定です。

 大臣レク3枚ものの懸案事項を引く形で作成しております。



よろしくお願いいたします。


D立証できないと、記載するのは難しいのではないか、と指摘あり。
修正案の前提については、
 (1)→了承。
 (2)→文科省と農水省で要相談。
 (3)→同上。
という状況です。
打合せの後の原委員とのWGについては、添付概要の通りとなります。

修正文案途中なことを踏まえた上で、あくまで惰報共有のためのWGといった体です)
その後、藤原審議官から再度文科省とのみ打合せ依頼がありましたので、
そのまま別室で打合せして、添付PDFの文案(手書き部分)で直すように指示がありました。
指示は藤原審議官曰く、官邸の萩生田副長官からあったようです。
現在、専門教育課は修正の通りに文章を修正し、15:00から文科大臣レクの模様です。
-応、レク後の修正文案を内閣府に報告するようにするとのことです。
 (浅野課長の感触では、文科省としてはこれでOKだと思うとのこと。)
【農水省の対応状況】(※農水省に内々に確認しただけなので、厳秘)

 2015年6月4日、今治市は国家戦略特区での「国際水準の獣医学教育」を志して、その提案書と資料を内閣府に提案。そして2015年12月15日の「第18回国家戦略特区諮問会議」で国家戦略特区の指定を受けることになる。

 2016年3月30日の「広島県・今治市国家戦略特別区域会議(第1回)」、2016年9月21日の「今治市分科会(第1回)」等で、「獣医学教育空白地域である四国への国際水準の大学獣医学部新設」の必要性について議論が行われ、2016年10月4日の「第24回国家戦略特別区域諮問会議」で民間議員全員の「異議なし」を受けて、今治市への獣医学部新設に向けた認定の手続きを進めることになった。

 あくまでも今治市への「獣医学部新設」であって、加計学園が獣医学部の事業主体として初めて顔を出すのは2017年1月4日の内閣府地方創生推進事務局による今治市新設の「獣医師養成系大学・学部」の事業主体公募に対して2017年1月10日に応募したことによってであり、10日後の2017年1月20日の「第27回国家戦略特別区域諮問会議」で「異議なし」とされ、加計学園を事業主体とした今治市への獣医学部新設に向けた「認定の手続き」に入ることになった。

 このことが安倍晋三の国会答弁に繋がることになる。例えば2017年7月25日の加計疑惑閉会中審査。

 安倍晋三「私は国家戦略特区諮問会議の議長として、国家戦略特区諮問会議にかかる際に、事務方から説明を受けるわけです。国家戦略特区制度が誕生した2年前の11月の段階で、私が議長を務める国家戦略特区諮問会議において、今治市の特区指定に向けた議論が進む中で、私が今治市が獣医学部新設を提案していることを知った。しかしその時点においても、またその後のプロセスにおいても、事業主体が誰かという点について提案者である今治市から説明はなく、もちろん事務方からも説明がなかったのであり、加計学園の計画は承知していなかった。1月20日の特区諮問会議で認定する際に、事務方から事前に説明を受けたわけでございます」

 安倍晋三は「事業主体が誰かという点について提案者である今治市から説明はなく」と言っているが、2017年8月6日付「asahi.com」が2015年6月5日開催の「国家戦略特区ワーキンググループ」(座長八田達夫)で獣医学部の新設提案について愛媛県と今治市からヒアリングした際、加計学園幹部が出席していたにも関わらず、名前も発言も議事録に記載されていないと報じたのに対してWG座長の八田達夫(大阪大学名誉教授)がその日のうちに早速反応、「説明補助のために加計学園関係者(3名)を同席させていました。特区WGの提案ヒアリングでは、通常、こうした説明補助者は参加者と扱っておらず、説明補助者名を議事要旨に記載したり、公式な発言を認めることはない」と、国家戦略特区サイトにPDF記事で反論している。

 確かに獣医学部新設に関わる議論が行われた国家戦略特区諮問会議全体を通して、加計学園が内閣府の事業主体公募に応じて応募したあとの今治市への加計学園を事業主体とした獣医学部新設に向けた「認定の手続き」に入ることになった2017年1月20日の「第27回国家戦略特別区域諮問会議」でさえも、加計学園の名前は最初から最後まで一度たりとも議事要旨に載っていないし、出席者の誰一人として口にしていないが、2015年6月5日の「国家戦略特区ワーキンググループ」に加計学園の幹部3人が出席して、新設を目指す獣医学部の規模・内容等について説明を行っている以上、このWGに事務方である内閣府地方創生推進室の室長代理や次長、参事官等5名が出席していたこと、次長の藤原豊が議事進行の役目を担っていたこと、さらに獣医学部の最終認可は文科省が関わることになる以上、少なくとも2015年6月5日開催の「国家戦略特区ワーキンググループ」以降、内閣府も文科省も、関係者全員が事業主体が加計学園であることは承知していたことになる。承知していながら、加計学園の名前は一度たりとも出さなかった。

 安倍晋三が裏で関わっていた加計学園への獣医学部新設認可だったからこそ、その不正行為が表に現れないようにする用心が過ぎて、最初から最後まで加計学園の名前を伏せることになったと疑うことができる。

 いわば表向きは事業主体は抜きに今治市への獣医学部新設で議論を進めて、最後の最後になって内閣府がその事業主体を公募、加計学園のみが応募して、初めて事業主体が加計学園であることを知るという経緯を取っているが、このことは2014年5月1日に関西圏(京都府、大阪府、兵庫県)が国家戦略特区の指定を受けると、京都府は規制改革に添う事業の提案を募集し、その募集に対して京都産業大学が2016年3月に獣医学部の開設を申請し、認められると、2016年10月17日の「国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング」に京都府農林水産部の幹部職員と共に京都産業大学副学長と教授が獣医学部の事業主体として出席、「獣医学部設置構想について」ヒヤリングを受けているが、このように最初から事業主体として顔を出しているケースと明らかに異なっている。京都産業大学は途中で獣医学部新設を断念しているが、常識的には後者が正しい認定の進め方であり、前者は異常な進め方にしか見えない。

 先ず以下の文書を見てみる。

 「大臣ご指示事項」

以下2点につき、内閣府に感触を確認して欲しい。

◯平成30年4月に開学するためには、平成29年3月に
 設置認可申請する必要があるが、大学として教員確保や施設設
 備等の設置認可に必要な準備が整わないのではないか。平成
 31年4月開学を目指した対応とすべきではないか。

◯麻生副総理、森英介議員など獣医学部新設に強く反対して
 いる議員がいる中で、党の手続きをこなすためには、文科・
 農水・内閣府の部会の合同部会もしくはPTを設置して検討を行う
 べきではないか。少なくとも、衆院福岡6区補選(10月23
 日投開票予定)を終えた後に動くべきではないか。

 ※鳩山二郎氏(鳩山邦夫元総務相次男、全福岡県大川市長)、蔵
 内謙氏(日本樹医師会長長男、林芳正前農相秘書が候補者)

 この大臣とは文科相松野博一を指す。”>「松野博一文部科学大臣記者会見」(文科省/2017年6月16日)

 記者「14の文書のうち、大臣ご指示事項という文書があったのですが、それについて、御自身でお話になった記憶があるかとか、紙について、お伺いします」

 松野博一大臣「今から相当前のものでございますので、自分が話した内容が、全てあそこにあったとおりであったかどうかというのは、正直、記憶が確認できませんけれども、おそらく、多くの様々な事案に関して、指示、お話をした中で、聞き手の方が選択をして、あの字句を選んで残っているということではないかと思います」

 全体的には自分の発言は事実だとしている。発言自体は「平成30年4月に開学」は準備不足で間に合わない恐れがあるから、1年伸ばすべきではないか、「内閣府に感触を確認して欲しい」と部下に求めている。と言うことは、この文書作成時には開学のための準備不足を知っていたことになる。

 この松野博一の「感触確認」に対する内閣府からの返事が次の文書に当たる。

 「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」

○平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュール
 を作成し、共有いただきたい。成田市ほど時間は掛けられない。

 これは官邸の最高レベルが言っていること。山本大臣も「きち
 んとやりたい」と言っている。文科省メインで動かないといけない
 シチュエーションにすでになっている。

○国家戦略特区における獣医学部新設に係る方針については以
 下2パターンが考えられる。(今週、来週での対応が必要)

 ・内閣府・文科省・農水省による方針を作成(例:成田市「医学
  部新設」)

 ・国家戦略特区諮問会議による方針の決定(例:「民泊」)※諮問
  会議には厚労大臣も出席。

○今治市分科会において有識者からのヒアリングを実施すること
 も可能。
 
 (成田市分科会では、医師会は呼んでいないが、文科省と厚労省
 で選んだ有識者の意見を聴取(反対派は呼んでいない)。)

○獣医学部新設を1校に限定するかは政治的判断である。

 松野博一の「平成30年4月に開学するためには、平成29年3月に設置認可申請する必要があるが、大学として教員確保や施設設備等の設置認可に必要な準備が整わないのではないか。平成31年4月開学を目指した対応とすべきではないか」との内閣府への感触確認に対して内閣府から、「平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい。成田市ほど時間は掛けられない」との伝達を受けた。つまり「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」「大臣ご指示事項」に対する回答となっていて、当然、前者が指摘している内容は後者が指摘している内容に対応させた関係を取っていることになる。

 であるなら、「大臣ご指示事項」が指摘している内容は松野博一が全体的には事実であると認めている以上、この事実に対応させている関係にあることになる「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」が指摘している内容にしても、ウソの事実ではない、全体的には真正な事実ということになる。

 と言うことなら、内閣府側の「平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい」にしても、「これは官邸の最高レベルが言っていること」にしても、全体的な事実の中の一つ一つの事実と見做さないと、「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」「大臣ご指示事項」に対する回答という関係が崩れて、回答の目的を失い、内閣府から意味をなさない「伝達事項」を文科省に伝えたことになり、奇妙な事態を曝け出すことになる。回答としての整合性を保つためには双方の文書の内容を全体的には事実とする以外に方法はない。

 この「大臣ご指示事項」「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」の両文書が作成された日付は文科省内で遣り取りしたメールに添付してあった以下の文書から伺うことができる。

 「内閣府審議官との打合せ概要(獣医学部新設)」※取扱注意 

1.日 時:平成28年9月26日(月)18:30~18:55
2.対応考:(内閣府)藤原審議官、佐藤参事官、(文科省)浅野専門教育課
長、■■補佐
3.概 要:
◯平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、
 共有いただきたい。成田市ほど時間はかけられない。これは官邸の最高レ
 ベルが言っていること(むしろもっと激しいことを言っている)。山本大臣
 も「きちんとやりたい」と言っている。
◯成田市の医学部新設の際には3省方針を作成したが、これは東北新設時に
 復興庁と方針を作成していたため、同じ形でやることとなったもの。内閣
 府としては方針作成が必要だと考えていないが、文科省として審査する際
 の留意点を出す必要があることは理解。
◯クレジットは、内閣府と直接の規制省庁である文科省がマスト。関係省庁
 が入らないとできないわけでもなく、農水省・厚労省を入れたいのなら、
 文科省が動く必要あり。ドライに、両省が協力しないなら「彼らがやらな
 かった」と責任を負う形に持って行けぱよい。いずれにしても第2回分科
 会で方針原案を決めるスピードでやる必要。
◯(今治市構想について、獣医師会から文科省・農水省に再興戦略を満たし
 ていないと指摘する資料が届いており、簡単ではない旨の指摘に対し、)必
 要であれば分科会に獣医師会を呼ぶ。成田市分科会に医師会は呼んでい
 ないが。有識者を呼ぶ回を作った方がよけれぱやる。
◯「できない」という選択肢はなく、事務的にやることを早くやらないと責
 任を取ることになる。早く政治トップの判断に持って行く必要あり。文科
 省メインで動かないといけないシチュエーションにすでになっている。
◯(他の新設提案者はどうするのか、との問に対し、)成田市の際には、3省
 方針に「1校」と記載。諮問会議としては3省が決めたことなど知ったこ
 とではないが、方針を出さないと省として持たないということで作った。
 裏では政治的なやりどりがあった。
◯3省方針ではなく、「民泊」(9月9日諮問会議資料2-2)のように、留
 意点や手当てを記載した1枚程度の方針を諮問会議として出すことも可能。
 ただ、当該会議の場には厚労大臣も出席して決定している。この方法は総
 理や山本大臣の負担になるが、こちらの方が手続きは簡単。要素さえもら
 えれば、内閣府はすぐこの資料を作れる。今週来週でペーパーワークしな
 いといけない。
◯今週とかそういう世界で早めに上に相談してくれ。

 この文書が「平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい」と指摘している点は「大臣ご指示事項」「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」が開学に関して触れている事実と関連し、「これは官邸の最高レベルが言っていること」と指摘している点は後者の「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」が触れている事実と見事に符合する。

 と言うことは、前2文書は後者が作成された2016年9月26日近辺に作成されたことが判明するだけではなく、国会答弁で誰がどう否定しようとも、3文書共に共通する内容を抱えていることから、「大臣ご指示事項」が事実であることを出発点として、相互に事実を反映し合った文書、共通する事実によって貫かれている文書であることを証明することになる。

 2016年9月26日という日付は「獣医学教育空白地域である四国への国際水準の大学獣医学部新設」の必要性について議論が行われた2016年9月21日の「今治市分科会(第1回)」から5日後である。既にこの時点で「官邸の最高レベル」の指示で「平成30年4月開学」を目指していた。

 要するに「大臣ご指示事項」「獣医学部新設に係る内閣府からの伝達事項」、さらに「取扱注意」となっているメール添付文書である「内閣府審議官との打合せ概要(獣医学部新設)」の3文書に目を通しさえすれば、加計学園獣医学部認可が安倍晋三の行政の私物化・政治関与によって成し遂げた、安倍晋三がいいこと尽くめのように口にしていた岩盤規制打破であったことをシンプルに証明することができる。

 「10/21萩生田副長官ご発言概要」なる文書についても安倍晋三の腰巾着、当時副官房長官だった萩生田光一は2017年6月20日公表の「コメント」で「いわゆる加計学園に関連して、私は総理からいかなる指示も受けたことはありません」、「具体的に総理から開学時期及び工期などについて指示があったとは聞いていませんし、私の方からも文科省に対して指示をしていません」、「加計学園の便宜を図るために和泉補佐官や関係省庁と具体的な調整を行うとか、指示を出すことはあり得ません」等々否定しているが、文書に「官邸は絶対やると言っている」、あるいは「総理は『平成30年4月に開学』とおしりを切っていた」といった発言が記されている点は前記3文書と共通している指摘でありながら、コメントどおりに否定を認めることになると、否定することができない指摘の共通性まで否定するあり得ない事態を招くことになる。

 3文書に記されている指摘が事実を共通させている以上、「10/21萩生田副長官ご発言概要」に記されている萩生田光一の指摘にしても、3文書と共通している指摘であるという関係から、3文書と事実であることを共通させなければならない。「総理のご意向」のもと、「平成30年4月開学」に向けで内閣府と文科省の関係者が暗躍して実現させた、行政の私物化・政治関与の産物としての加計学園獣医学部認可であることは事実そのとおりだということである。

 以下2文書からも、加計学園獣医学部認可が安倍晋三の行政の私物化・政治関与の産物であることが事実そのものであることを証明してみる。

 「加計学園への伝達事項」

◯先日、ご説明いただいた構想につき、文部科学省として懸念している
 事項をお伝えする。
◯まず。公務員獣医師養成や人獣共通感染症研究、医学部との連携
 などは既存の獣医学部でも取り組まれでおり、日本再興戦略改訂201
 5との関係で、「既存の獣医師養成でない構想を具体化」や「既存の大
 学・学部では対応が困難な場合」という観点から、差別化できるよう、
 よく検討していただきたい。(表現ぶりの工夫が必要。その際、ハード
 ルを上げすぎないように注意)

◯「国際教育拠点」を形成する旨区域方針に書かれているが、先日の
 ご説明では国際性の特色を出す具体的な取組が十分に示されていな
 かったので、再検討いただきたい。

◯需要について、先日の説明資料では、公移員獣医師の需要にしか言
 及がなかったが、毎年定員160名の学生の輩出に見合う応用ライフ
 サイエンス研究者等、獣医高度臨床医の具体的需要も説明が必要で
 あり、ご準備いただきたい。

◯獣医学部のない四国へ設置することにより、公務員獣医師の確保や
 地域の防疫・危機管理拠点を形成するとのことであるが、既存16大
 学では自地域内入学率・就職率ともに低いことから、四国における
 「具体的な需要」と、地元定着・活用のための具体策も検討が必要で
 ある。

◯設置申請に向けて、必要な教員確保や施設整備、資金計画など、万
 全な準備を行っていただきたい。特に資金については、確保できる額
 によって、構想の内容も変わってくると考える。確保できる資金と「既
 存の獣医師養成でない構想」の実現との関係で、十分な検討を行っ
 ていただきたい。   `

 送信元: ■■■■/文部科学省
宛先:  ■■■■/文部科学省(文科省内のその他の部局)

日付:2016/11/08 11:59
件名:【情報共有・追加あれば】本日加計学園に伝達する事項ペーパー

設置室、私学部 御中 ← 高等教育局専門教育課 ■ (■)

 先日に加計学園から構想の現状を聴取したことについて、
昨日、大臣及び局長より加計学園からに対して文科省としては
現時点の構想では不十分だと考えている旨早急に厳しく伝えるべき、
というご指示がありました。
(局長からは先ほども、早く連絡して、絶対今日中、と言われたところです)

そこで、私から先方の事務局長に添付内容をお伝えしようと思っておりますところ、
追加で指摘すべき事項や修正があれば、本日13時半までに教えて下さい。
14時に先方から電話が来る予定です。

大臣レク3枚ものの懸案事項を引く形で作成しております。

 上の「加計学園への伝達事項」の作成日付は下の件名「【情報共有・追加あれば】本日加計学園に伝達する事項ペーパー」のメールによって、2016年11月8日の「13時半までに」作成されことがわかる。「14時に先方から電話が来る予定」だから、「追加で指摘すべき事項や修正があれば、本日13時半までに教えて下さい」と高等教育局専門教育課から文科省内の他の関係部署に「2016/11/08 11:59 」にメールを送信している。

 2017年7月25日参院予算委員会閉会中審査

 松野博一「繰返し答弁させて頂いておりますが、国家戦略特区に於いても大学の設置の事前審査相談は、これは受け付けております。しかしその中に於いてですね、当然前提であるとこが国家戦略特区がクリアできるところでございますから、その国家戦略特区をクリアするということは、先程来ございますけれども、4条件についての文科省としての考え方をお伝えをし、かつ大学の設置に向けてですね、事前に相談を受けたことに関してアドバイスをしているということで適切なものであると考えております。

・・・・・・・・・・・・

 今回公表した文書(「加計学園への伝達事項」のこと)およびメール(件名:「【情報共有・追加あれば】本日加計学園に伝達する事項ペーパー」というメールのこと)はあくまで事前相談であるということは答弁させてもらったとおりだが、加計からこの時期に国家戦略特区を活用した設置についての問い合わせがあった。担当者にヒアリングをしたところ、そういった状況の中で、どうして今、指摘があったような表現になったか、確たることは記憶にないが、11月8日の状況を勘案すると11月9日に追加規制改革事項が決定されることが見込まれるところ、たとえ追加改革事項が決定されても獣医学部の新設に関しては別途、設置認可のプロセスが必要であると。そのためにさまざまな課題をクリアする必要があることをこの時点で伝えることが必要あるということが事務方から、こういった意識が私に伝えられたので、そういう判断ならばそのようにしたらといったと思う」

 しかし加計学園が表に顔を出したのは2017年1月4日の内閣府地方創生推進事務局による今治市新設の「獣医師養成系大学・学部」の事業主体公募に対して2017年1月10日に応募したときが初めてである。このことは先に触れた安倍晋三の国会答弁が証明している。その国会答弁を再度、ここに記載してみる。

 安倍晋三「私は国家戦略特区諮問会議の議長として、国家戦略特区諮問会議にかかる際に、事務方から説明を受けるわけです。国家戦略特区制度が誕生した2年前の11月の段階で、私が議長を務める国家戦略特区諮問会議において、今治市の特区指定に向けた議論が進む中で、私が今治市が獣医学部新設を提案していることを知った。しかしその時点においても、またその後のプロセスにおいても、事業主体が誰かという点について提案者である今治市から説明はなく、もちろん事務方からも説明がなかったのであり、加計学園の計画は承知していなかった。(2017年)1月20日の特区諮問会議で認定する際に、事務方から事前に説明を受けたわけでございます」

 安倍晋三のこの国会答弁はほかの日も、あるいは他の委員会でも何度も発言しているが、この発言を事実そのものと解釈すると、当然、2016年11月8日の時点で文科省が加計学園に対して「大学の設置の事前審査相談」などできるはずはない。だが、今治市新設の獣医学部の事業主体が加計学園であることを前提に「事前審査相談」に応じていた。応じることができたのは、既に触れたように2015年6月5日の「国家戦略特区ワーキンググループ」(座長八田達夫)に加計学園関係者3名が出席していたにも関わらず、その名前と発言を「説明補助者名を議事要旨に記載したり、公式な発言を認めることはない」との理由で伏せていただけのことで、内閣府も文科省も事業主体が加計学園であることを知っていたからである。

 国家戦略特区諮問会議議長の安倍晋三が知らずに内閣府や文科省は知っていた。この矛盾を安倍晋三は2017年11月30日の参院予算委員会で明快に解消している。

 安倍晋三「この件についても閉会中審査で既に申し上げているところでございますが、今治市のこの提案についてはまさに今治市が提案者であったわけでありますが、最終的にこの公募に応じて、加計学園が公募に応じた段階で、我々が知る立場になる本年一月に、事業者の公募を行い、加計学園から応募があったその後、1月20日に諮問会議で認定することになりますが、まさに私が出席をするのは諮問会議でありますから、ワーキンググループ等に私は出席をしないわけでありますし、一々その状況について報告を受けることもありません。

 ですから、加計学園から応募があったその後、1月20日に諮問会議で認定することになりますが、その際に私は初めて加計学園の計画について承知をしたところであります」

 新設する獣医学部の事業主体がどこになるかは最重要な問題である。にも関わらず、「ワーキンググループ等に私は出席をしないわけでありますし、一々その状況について報告を受けることもありません」から、例えワーキンググループに加計学園関係者が出席していたとしても、国家戦略特区諮問会議議長である安倍晋三にまで報告が届くことはない。

 但し安倍晋三がこのように主張する“事実”は上に挙げた文書中の「官邸の最高レベルが言っていること」、「平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュール
を作成し、共有いただきたい」、「総理のご意向」等々の共通する事実と矛盾することになって、どちらかの事実を虚偽の事実と看做さないことには整合性が取れないことになる。

 もう一度、2016年11月8日11時59分送信で、件名が「【情報共有・追加あれば】本日加計学園に伝達する事項ペーパー」のメールに目を通して貰いたい。そのメールによると、「先日に加計学園から構想の現状を聴取した」ことになっている。いわば文科相松野博一の国会答弁によると、「大学の設置の事前審査相談」の一環として文科省の関係部署が加計学園が構想している獣医学部について聴取を行い、その構想では「不十分」だと指摘していた。

 その「不十分」な状況に対してメールの日付の2016年11月8日の「昨日」2016年11月7日」に「大臣及び局長より」「現時点の構想では不十分だと考えている旨早急に厳しく伝えるべき、というご指示があり」、「14時に先方から電話が来る予定」に合わせて「追加で指摘すべき事項や修正があれば、本日13時半までに」纏めるよう文科省内の関係部署に11時59分にメールで送信、纏めた内容を相手からの電話に対して「加計学園への伝達事項」として伝えたということになる。

 加計学園に対する構想聴取は何日なのかは不明だが、構想の不備の改善点を纏める時間の余裕は11時59分のメール送信から「本日13時半まで」のたった1時間半であり、「14時に先方から電話が来る予定」だから、30分の余裕は見ることができるが、余りにも慌ただしい遣り繰りとなっている。

 この余りにも慌ただしい遣り繰りは文科相の松野博一が部下に指示した「大臣ご指示事項」には、「平成30年4月に開学するためには、平成29年3月に設置認可申請する必要があるが、大学として教員確保や施設設備等の設置認可に必要な準備が整わないのではないか。平成31年4月開学を目指した対応とすべきではないか」との指摘が叶わなかったことに対する状況を示していることになる。松野博一の指摘どおりに「平成31年4月」の開学を目指していたなら、さらに1年の余裕が出て、たったの1時間半の間に構想の不備を纏める慌ただしい思いせずに済む。

 当然、この慌ただしさは安倍晋三の意向によって「平成30年4月に開学」とお尻を切られていた、いわば「平成30年4月開学」を絶対としていたことによる慌ただしさであって、加計学園に関わる文科省文書の全てが事実であることを証明することになる。

 文科省文書が事実であることは愛媛県文書も事実であることを証明することになる。

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徴用工韓国大法院判決は日本側が「日韓請求権協定」を日韓併合と戦争の悪事隠しをカラクリに成り立たせたしっぺ返し

2019-09-23 11:05:43 | 政治
  
 太平洋戦争中に日本及び韓国で徴用工として過酷な労働条件下で強制労働に従事させられたことから4人の韓国人が使用者側の現在の新日鉄住友金属(旧日本製鉄、現在名日本製鐵)を相手に損害賠償を求めた裁判で、韓国の二審に当たるソウル高等法院による控訴棄却を受けて原告が韓国の最高裁判所に当たる大法院に上告、大法院の原審差し戻しを受けてソウル高等法院が一人当たり1億ウオン(約1000万円)の賠償金の支払いを認め、これを受けて2018年10月30日に大法院が原告の訴えを正当とする判決を下して、原告の勝訴が原審通りに確定するに至った。

 大法院は原告の訴えの正当性を、原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権の行使に置き、その請求権を認めている。

日本政府が日本が韓国との間で1965年6月22日に締結した「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との聞の協定」(日韓請求権協定)の「第二条 財産・権利及び利益並びに請求権に関する問題の解決」、その1項で「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と規定している通りに「韓国人の請求権問題は協定により全て解決済み」との立場を取っていることに対して大法院判決は個人請求権に関しての解決済みは未払賃金や補償金問題であって、慰謝料の請求権は「日韓請求権協定」の外に置かれていたと見ていることになる。

 どちらに正当性があるのか、ネットで紹介されている交渉過程等のいくつかの資料を漁ってみることにした。

 外務省は「個人の請求権問題も含めて韓国人の請求権問題は協定により全て解決済み」とする日本の主張の正当性を裏付ける根拠とするためにだろう、2019年7月29日になって1965(昭和40)年6月22日に締結された日韓請求権協定の交渉過程で韓国政府が日本側に示した「対日請求要綱8項目」と請求に関わる日韓政府の「交渉議事録」の一部をマスコミに公開している。

 先ず韓国が第1次日韓会談 (1952年2月15日~1952年4月21日)に於ける請求権分科委員会(1952年2月21日)で「韓日間財産及び請求権協定要綱韓国側提案」、のちの「対日請求要綱」所謂「8項目」を提出しているが、その内容を見てみる。以下文色は当方。

 正式名「韓日間財産及び請求権協定要綱」

第1項 朝鮮銀行を通じて搬出された地金と地銀の返還を請求する。
     本項の請求は1909年から1945年までの期間中に日本が朝鮮銀行を通じて搬出していったものである。
 第2項 1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債務の弁償を請求する。
     本項に含まれる内容の一部は次のとおり。
1.逓信局関係
   ⒜ 郵便貯金、振替貯金、為替貯金等
   ⒝ 国際及び貯蓄債券等
⒞ 朝鮮簡易生命保険及び郵便年金関係
   ⒟ 海外為替貯金及び債券
   ⒠ 太平洋米国陸軍総司令部布告第3号によつて凍結された韓国受取金
   ⒡ その他
  2. 1945年8月9日以後日本人が韓国内銀行から引出した預金額
  3. 朝鮮から収入された国庫金中の裏付け資金のない歳出による韓国受取金関係
  4. 朝鮮総督府東京事務所の財産
  5. その他
 第3項 1945年8月9日以後韓国から振替又は送金された金員の返還を請求する。
     本項の一部は下記の事項を含む。
  1. 8月9日以後朝鮮銀行本店から在日本東京支店へ振替又は送金された金員
  2. 8月9日以後在韓金融機関を通じて日本へ送金された金員
  3. その他
第4項 1945年8月9日現在韓国に本社、本店又は主たる事務所があつた法人の在日財産の返還を請求する。
    本項の一部は下記の事項を含む。
  1. 連合軍最高司令部閉鎖期間例によって閉鎖清算された韓国内金融機関の在日支店財産
  2. SCAPIN1965号によつて閉鎖された韓国内本店保有法人の在日財産
  3. その他
 第5項 韓国法人又は韓国自然人の日本国又は日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓人の未収金、補償金及びその他の請求権の弁済を請求する。
     本項の一部は下記の事項を含む。
  1. 日本有価証券
  2. 日本系通貨
  3. 被徴用韓国人未収金
  4. 戦争による被徴用者の被害に対する補償
  5. 韓国人の対日本政府請求恩給関係その他
  6. 韓国人の対日本人又は法人請求
  7. その他
第6項 韓国人(自然人及び法人)の日本政府又は日本人(自然人及び法人)に対する権利の行使に関する原則。
 第7項 前記諸財産又は請求権から生じた諸果実の返還を請求する。
 第8項 前記の返還及び決済は協定成立後即時開始し、遅くとも6ヵ月以内に終了すること

 第1項で返還を請求している「朝鮮銀行を通じて搬出された地金と地銀」は「1909年から1945年までの期間中に日本が朝鮮銀行を通じて搬出していったもの」としていることからすると、日本の韓国併合は1910年8月29日の「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)締結に基づいた大日本帝国による韓国併合から1945年9月9日の朝鮮総督府による対連合国降伏までの35年間ということだが、それ以前から日本は韓国に進出していて、1905年の第2次日韓協約で日本は韓国を保護国とし、韓国の外交権を掌握し、内政に深く干渉する関係を構築、日韓併合の前年の1909年から日本は朝鮮銀行から地金と地銀を搬出していたということなら、第2次大戦中の補償だけではなく、日韓併合時の補償をも含めて請求していることになる。

 今回の韓国大法院判決に関係して日本政府が解決済みとしている「請求要項」は「第5項3」の被徴用韓国人未収金と「第5項4」の「戦争による被徴用者の被害に対する補償」ということになる。

 既に触れたように「第5項3」も「第5項4」も、両問題は大法院も日本政府同様に解決済みと見ている。

 外務省が一部マスコミに公開した「対日請求要綱8項目」関連の「交渉議事録」は1961年(昭和36)5月の交渉のものだという。

 日本側代表「個人に対して支払ってほしいということか」
 韓国側代表「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」

 韓国側からこのような要請を受けて、何度かの協議を重ねた上で最終的に韓国政府に日本政府が無償3億ドル・有償2億ドルの供与を行う内容の「日韓請求権協定」を締結、徴用工に対する未収金及び補償は韓国政府が無償3億ドル・有償2億ドルのうちから国内措置として行うべき問題であって、これを以って徴用工に関わる個人的な請求権の問題は全てが「完全かつ最終的に解決された」のであると、前記公開文書を用いて、日本政府の正当性をマスコミに対して訴えたということなのだろう。

 これを受けて、マスコミの殆どは「完全かつ最終的に解決された」との政府の立場を踏襲した報道となった。だが、これでは韓国大法院の「被徴用韓国人未収金」と「戦争による被徴用者の被害に対する補償」は「日韓請求権協定」によって解決している、いわば徴用に関わる補償は無償3億ドル・有償2億ドルに含まれているが、「慰謝料の請求権」に関しては「日韓請求権協定」は触れていないとする主張に対する答とはならない。

 当然、日本政府はかつての徴用工が経験した過酷な強制労働に対する慰謝料名目のカネにしても無償3億ドル・有償2億ドルの中に入っていると証明しないことには解決している・解決していないの平行線をいつまでも辿ることになる。ネットで調べてみると、「慰謝料」とは、「精神的苦痛を慰謝するための損害賠償」のことであり、「補償」とは、「損害賠償のために支払われる金銭のこと。補償金」のことだと出ていて、「被徴用韓国人未収金」にしても、「戦争による被徴用者の被害に対する補償」も後者の部類に入る問題ということになる。

 韓国側は1960年11月10日の第5次韓日会談第1次一般請求権小委員会で「対日請求要綱」8個項目それぞれの金額を提示、徴用工に関わる金額のみを見てみる。

 3.被徴用韓人未収金 約2億4千万円(推算)要求根拠確実(日本側も同調)
 4.戦争に因る人的被害補償 約132億(要再検討)

 韓国側からの「対日請求要綱8項目」を受けて、日本は在韓旧日本財産の請求権を主張、その相殺を狙ったが、韓国側はサンフランシスコ平和条約第2条(a)「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」を楯に在韓旧日本財産の請求権の消滅したこと、日韓併合による長年の日本支配で被った経済的損失と苦痛に対する膨大な補償を請求する予定だったが、在韓旧日本財産の消滅を考慮して「対日請求要綱8項目」に絞ったのであり、この「8項目」は在韓旧日本財産の消滅に何ら影響を受けない正当な請求だと主張、双方が長いこと対立することになる。

 そのような中、1953年10月15日の第3次韓日会談第2次請求権分科委員会で韓国側が「日本の請求権の要求は多分に政治的であり、もし日本がそのような政治的な要求をするのなら、韓国としては韓国併合36年間の賠償を要求する」と発言したのに対して日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎が「すなわち韓国が(韓国併合時の)賠償を要求するなら日本はその間、韓人に与えた恩恵、即ち治山、治水、電気、鉄道、港湾施設に対してまで、その返還を要求する。日本は毎年2千万円以上の補助をした。日本が進出しなかったらロシア、さもなくば中国に占領され現在の北朝鮮のように、もっと悲惨だったろう」(韓国側文書97)と発言、歴史論争に発展して、日韓会談自体が4年半の間、中断することになった。「新規開示文書を参考にした日韓請求権問題の考察」 (李洋秀/2014.1.20補筆)から。 

 日本が「治山、治水、電気、鉄道、港湾施設」等の各種インフラ整備にしても、「毎年2千万円以上の補助をした」としていることについても、名目上は韓国のため、韓国民のためを装ったのだろうが、直接的に韓国や韓国民のためではなく、韓国を日本の支配下に置いた植民地経営を通して韓国から様々な利益を獲得、日本の産業規模の拡大や鉱工業生産の拡大を図り、日本を大国化すること、日本の発展を策すことが直接的な目的だったはずだ。

 しかも久保田が言っている公共事業は何も日本のカネだけで行ったわけではない。1961年3月22日の第5次韓日会談予備会談一般請求権小委員会第7次会議で次のような遣り取りが行われている。「第5次韓・日会談予備会談一般請求権小委員会会議録」 

 韓国側-その当時韓国の郵便超過金を集めて日本大蔵省に集中させた。内容は郵便貯金、郵便換金、為替、逓信関係の税入金、逓信事業の収入金等、収入と支出の差額を超過金として大蔵省に集中させたので、これを請求するのである。

 日本側-当時大蔵省では超過金を貰い受け、これを還元させようと公共事業をした。そしてこのような貯金は総督府の債務ではなく、対個人との問題だと思うが、どう思うか。

 あるいは次のように発言している。

 日本側-大蔵省に預金されれば一般部に預金され、このようなお金は還元投資として公共事業で韓国の各地方に公共事業に投資されたのだが、これに対するものはどう考えるのか。

 韓国内の公共事業費として消費されたのだから、差し引きされてもいいのではないかとの日本側の趣旨だが、日本のカネだけを原資として行った公共事業ではないことが以上の発言に現れている。

 確かに日本は韓国の植民地経営を確かなものにするために優秀な韓国人を各役所や各企業で重要なポストを与えたが、一般的な韓国人に対しては二等国民扱いをし、支配者の立場に置いた日本人の、被支配者と目した韓国人に対する差別は目に余るものがあった。

 だから、韓国人労働者を日本に送り出すために逃げ回る韓国人を追いかけ回して拉致同然に送り出したり、食糧供出の際、相手の貧しさを考えずに殴打等の暴力を用いることができた。朝鮮人固有の姓を廃止して日本式の名前を名乗らせる、皇民化政策の一環としての創氏改名は任意だとしながら、1940年8月までに改名しない者には公的機関不採用、食糧配給対象からの除外の罰則を科してまで、先祖代々の固有の姓を奪うことができた。

 最終的には日本の発展を策すことが目的の韓国に対する各種インフラ整備を「韓人に与えた恩恵」だとする日本側首席代表の外務省参与久保田発言は頭から日韓併合性善説に立っていることになる。だが、この手の日韓併合性善説は安倍晋三以下、多くの保守政治家が抱えている。

 民主党政権時代の首相菅無能が2010年(8月10日)に日韓併合100周年を記念して発表した韓国に詫びる談話は安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得たと「Wikipedia」が紹介していて、その説の出典となっている「【コラム】「複合骨折」の韓日関係(1)」 (中央日報/2014年08月13日10時22分)記事が、〈2010年8月、外務省副大臣として当時の菅直人首相の韓日併合100周年謝罪談話文作成に関与した日本民主党国会議員は「事前に歴代自民党首相の了解を求めたし、安倍現首相以外は全員同意してくれた」〉との事実を明かしていることが安倍晋三の日韓併合性善説を証明することになる。  

 この日韓併合性善説は歴史認識の連続性の観点からして、日本の戦争が侵略戦争ではなく、自存自衛の戦争であり、アジア解放の戦争だったとする歴史認識(=大東亜戦争性善説)と一体をなしている。そしてこのような歴史認識は日本民族優越意識をバックグランドとしている。安倍晋三にしても然り。

  「戦後70年談話」で安倍晋三は冒頭次のように述べている。

 「終戦70年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第1次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、1千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたり得なかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして70年前。日本は、敗戦しました。

 以上の発言には自存自衛の戦争・アジア解放の戦争であるとする大東亜戦争性善説の歴史認識を埋め込んでいる。

 もし日韓併合性悪説に立っていたなら、自存自衛の戦争・アジア解放の戦争とする大東亜戦争性善説は導き出し不可能な歴史認識の非連続性となる。戦前ばかりか、戦後に於いても、日本国民を一等国民とした支配下に韓国民を置いて二等国民扱いし、差別と蔑視の対象とすることができたこと自体、自存自衛の戦争でも、アジア解放の戦争でもないことを証明している。実際に韓国民に対してだけではなく、日本人が同じアジア人種でありながら、他のアジア国家の国民を一段低く見ていた。

 日韓併合性善説と大東亜戦争性善説を歴史認識に於いて連続性を持たせ、一体としている以上、韓国側の「韓国併合36年間の賠償の請求」に対しても、日本の戦争によって被った被害の補償請求に対しても、自ずと拒絶反応を以って対応することになる。

 「韓国併合36年間の賠償の請求」に対する日本側の拒絶反応の代表例が久保田発言に現れているということなのだろう。但し日韓請求権協定協議に於いて議論のもつれから韓国側が「韓国併合36年間の賠償の請求」を持ち出すことはあっても、公式的には在韓旧日本財産の消滅と相殺する形で戦争で受けた補償の請求、「対日請求要綱8項目」のみに絞っていたから、拒絶反応は主として韓国側の日本の戦争によって被った被害の補償請求に対して現れることになる。

 上出「新規開示文書を参考にした日韓請求権問題の考察」が公開された「日本側文書1556」に記されている「在日韓人の処遇問題」に関わる「補償金問題に関する日韓間話合いの経緯(1959年)9月9日伊関、柳私的会談」での伊関局長の私見を取り上げている。

 「日本としては補償金を支払うが如きことはできないが、韓国帰還と直接関連する形ではなく、例えば住宅の建設の如き間接的に帰還者のresettlement(再定住)の援助になる事業に対しては韓、日、米が3分の1ずつ金をcontribute(提供)する。ただし日本は日韓会談がまとまり、国交を正常化してからでないと支払わないからそれまでは米国側で日本の分を立替え支払うという構想」

 この私見は「在日韓人の処遇問題」に関係してのことだが、「日本としては補償金を支払うが如きことはできないが」としている「如きことはできない」なる言葉は「そんなことはできるもんか」との意を含んでいて、補償金の支払い根拠に対する拒絶反応が明らかに強度に現れている。でなければ、普通に「支払うことはできない」の表現で済ますことができたはずだ。

 日韓会談は久保田発言による4年半の中断を含めて、1951年(昭和26年)10月20日から約14年間に亘って交渉が続けられたが、当初は日韓の事務方によって韓国側が少しでも補償金を多く支払わせよう、日本側が少しでも支払いを少なくしようとする駆け引きの中で被害額や被害人数の算定根拠に関して議論を戦わせていたが、次第に韓国側の日本の戦争に関わる被害の補償請求権そのものに対して拒絶反応を徐々に露わにしていく経緯を公開された「日本側文書」と「韓国側文書」をベースとした解説文書、《日韓会談と[請求権問題] 》(日韓会談文書・全面公開を求める会 事務局次長 李洋秀〈イー・ヤンス〉)を適宜引用する形で見てみる。 

 上記1960年11月10日の第5次韓日会談第1次一般請求権小委員会で提示した「対日請求要綱」8個項目のうち、最初の日本政府当局が約5億6千万円の代金を国債等で支払って搬出し韓国の地金・地銀に関しては韓国が前記代金を払い戻して返還受けなければならないとしていることを除いて記してある請求金額を合計すると、305億2千万円となる。

 この金額は交渉の過程で変化することになるが、「韓国側文書786」にある、「朴正煕国家再建御前会議議長日本訪問」の228頁に、「韓国側が請求しているのは賠償的性質のものではなく、充分に法的根拠がある請求権であると説明し、地金銀、郵便貯金、保険金、徴用者に対する未収金、戦死者に対する補償金、年金等、相当な金額の請求権を韓国は持っているのに、日本側は5,000万ドル云々と言うのだから不当だと言ったところ、池田首相は小坂外相がそう言ったようだが、それは自分自身の意図ではないというような趣旨を話した」との記述を紹介している。

 池田勇人と朴正煕との会談は1961年11月12日に行われた。当時の円相場は1ドル360円の固定相場制で、5,000万ドル✕360円=180億円は305億2千万円の提示に対して60%程度を満たすだけとなって、韓国側にとって「不当」な金額ということになる。これも日本側の駆け引きの一つだろうが、朴正煕側が「賠償的性質のものではなく、充分に法的根拠がある請求権である」との表現で、日本の戦争で受けた被害に対して単に賠償を求めているのではなく、被害に関わる補償の請求に向けた正当な権利であるとしている。

 但し補償の支払い請求は日本が起こした戦争被害に対する韓国政府及び韓国民の正当な権利とした場合、自ずと日本の戦争を悪とする答が導き出されることになる。単にこれだけの被害を受けたから、その分の賠償を要求するとされた方が、日本の戦争を悪とする答を見えづらくすることができる。例えば「対日請求要綱8項目」の第5項で徴用工の未払金の請求と同時に戦争による被徴用者の被害に対する補償を請求しているが、未払金が広範囲で発生した状況は民間がしたこととして政府としての罪を免れることができたとしても、後者に関しては日本政府制定の国民徴用令が関わっている上に韓国内の徴用に於いて日本の官憲に命じられた韓国の官憲による暴力的な拉致・誘拐紛いの強制連行で日本に渡ることになった例もあって、そういった例を混じえたそのような結果としての未払い賃金や過酷な長時間労働、満足に与えられなかった食事等々を議論された場合、日本が起こした戦争の悪事が浮き彫りにされることになり、その悪事は大東亜戦争性善説に立つ日本の多くの政治家や役人にとっては不都合な事実となり、是が非でも避けたい議論ということになる。

 「韓国側文書に見る日韓国交正常化交渉第4回(大村収容所、北朝鮮帰還事業、そして個人請求権)」(翻訳・解説/李 洋秀)に徴用工に関して次のような記述が載せられている。  

 「第6次韓日会談請求権委員会会議録」(1961、10、27―1962、3、6)

 韓国側「そしてもう一つ指摘したいのは、日本側は戦時中動員した韓国人労務者を官斡旋、徴用等に区分しているが、官斡旋であれ徴用であれ当時韓国人労務者を日本に連れて行く方法はとても残酷だったということを知ってくれるように願う」

 日本側「行き過ぎた点があったかも知れないが、韓国人労務者だといってその当時特別に差別待遇したとは思わない」

 「行き過ぎた点があったかも知れないが」、日本人労務者とほぼ平等に待遇したと頭では信じている。日本側のこ発言は韓国併合性善説と同時に大東亜戦争性善説をまぶしている。

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災時にその混乱に乗じて不逞朝鮮人が放火して回っている、井戸に毒を投げ込んでいるといったデマだけで一般民衆の日本人が数千人にのぼる朝鮮人と数百人にも及ぶ中国人を虐殺できたのは差別意識からごくごくつまらない者と過小評価している朝鮮人や中国人の不逞行為が飛んでもない大それた行為と映ったことへの怒りと共に、もしかしたら差別していることに対する復讐の可能性への恐れを不逞行為に見て、その恐れと相まっていたずらに掻き回すことになった虐殺という爆発的なエネルギーの放出だったはずだ。

 そしてこのような過酷な差別意識は、特に朝鮮人に対するそれは戦後も日本社会全般に亘って色濃く息づいていたのだから、韓国併合性善説や大東亜戦争性善説なくして、「韓国人労務者だといってその当時特別に差別待遇したとは思わない」といった朝鮮人差別を抹消する発言は出てこない。

 上記「韓国側文書786」で「韓国側が請求しているのは賠償的性質のものではなく、充分に法的根拠がある請求権である」と主張しているのに対して、この韓国側文書に対応する公開された日本側文書には、〈請求権という言葉がすべて黒塗りされています。〉と翻訳・解説の李洋秀氏は記している。韓国側が正当な権利であるとしている「請求権」という文字を日本側が黒塗りにして隠すこのような拒否反応は日韓間の議論の過程で日本の戦争を悪とされる事実が露出しかねないことに対する警戒感からであろう。

 かくこのように日本側は韓国側が正当な権利としている「請求権」を認めまいとしている姿勢を窺うことができる。この手の姿勢に対する答は韓国併合性善説、あるいは大東亜戦争性善説に立っている以外に答を見つけることはできない。逆に性悪説に立っていたなら、金額の決着は別問題として、韓国側の「請求権」に応える対応を取るはずだし、その言葉を黒塗りにする必要性も生じない。

 「第6次韓日会談第2次政治会談予備折衷本会議第1回会議」(1962年8月21日)に関わる「韓国側文書 736」

 杉道助日本側首席代表「請求権のみを使うのなら外相会談で言ったように7千万ドルになるが、この数字も大蔵省は1千5百万ドルにしかならないというのを、外務省がさまざまな理由をつけそういう数字を出したものだ。(中略)もし請求権と無償供与を同時に使う場合には、請求権には推定数字を入れることができないので、その金額が極めて少なくなるだろうし、3~4千万ドルにしかならないが、これは韓国側としても困難なものだと思う」

 発言者不明「日本側」「請求権で日本側が支払いを認められるのは、戦後の混乱や朝鮮動乱で関係書類を失くした等の事情を考慮して、納得が行く限度内で推定の要素を加味したとしても、やっと数千万ドルにとどまり、韓国側が期待していると伝えられる数億ドルとは、とても遠い距離にあります。(中略)日本側が到逹した結論を一言で言うと、請求権の解決とするとどうしても数千万ドルしか支払いできない。しかし請求権の解決からは離れて、韓国の独立を祝い、韓国においての民生安全と経済発展に寄与するための無償もしくは有償の経済援助という形態ならば、相当な金額を供与することについて、日本国民の納得を得ることができるだろう

 「日本側が到逹した結論を一言で言うと、請求権の解決とするとどうしても数千万ドルしか支払いできない。しかし請求権の解決からは離れて、韓国の独立を祝い、韓国においての民生安全と経済発展に寄与するための無償もしくは有償の経済援助という形態ならば、相当な金額を供与することについて、日本国民の納得を得ることができるだろう」の言葉に日本側の姿勢の全てが現れている。韓国側が正当な権利と主張している戦争補償に対する「請求権」には満足に応えることはできないが、「無償もしくは有償の経済援助」なら、韓国が満足する形で応えることができると、「請求権」への補償支払いから、経済援助の形での支払いへと巧みに誘導している。「ほ、ほ、ほたるこい、こっちのみずはあまいぞ」と呼びかけている。

 日本側はかくまでも「請求権」への補償支払い(戦後補償支払い)に対して拒絶反応を見せている。

 金鍾泌(キム・ジョンピル)韓国中央情報部長が1962年10月20日から22日まで日本を訪問、当時の大平正芳外相や池田首相と会談している。

 「大平・金鍾泌会談記録-1962年秋」(「人文研紀要」第65号抜刷2009年9月10 日発行)

 第1回目の会談は10月20日。

 「大平大臣・金鍾泌部長会談における太平大臣の発言要旨(案)」

1.一般請求権問題解決に関する日本側最終案
(1) 「金額」 無償供与2億5000万ドルとする。

(注)
(Ⅰ)先方が焦付債権4573万ドルの問題にふれてきた場合は,「これは別個の問題であるから,当然支払ってもらうものと考えている」との建前で応答する。
(Ⅱ)先方が「金額」に関連して「方式Jについて質問した場合は,「日韓双方が受諾し得る表現により解決することとし,具体的には今後の予備交渉において決定したい」と応答する。
(2) 支払方法 日本の資本財および役務の供与による。
(3) 支払期限 年2500万ドルずつ10年間均等払いとする。(年2500万ドルは,現在日本が支払っている賠償において年額最高のフィリピンと同額である。)
(注)先方が年額を増やし期間を短くしてほしいと希望した場合は,「無償供与のほか,国交正常化後には当然行なわれると考えられる各種の経済協力とともに,韓国の外貨消化能力をも考慮して検討してもらえば,年2500万ドルは決して少額に過ぎるものではないと思う。日本のみならず欧米諸国よりの援助も考慮に入れるときに特に然りである」と応答する。

 (4) 長期低利の借款(わが方よりは進んでふれざることとし,先方がとりあげた場合にのみ討議する。)

 無償供与の「金額」を大巾に増額することになるので,日本の国内与論をも考慮し,長期低利の借款は請求権問題の解決とは切り離すこととし,この際は論議しないこととしたい。しかしながら,国交正常化実現の暁には当然政府ベースの経済協力が実現するものと考えている。

 また,国交正常化前といえども,コマーシャル・ベースによる具体的事例があれば,延払いその他の面でできるだけ好意的に考慮する用意がある。

(注)先方が是非とも話し合いをしたいと強く主張する場合は, 「請求権の解決とは切り離すという建前をくずさぬ限度においてならば,今後話し合いをすることに異存はない」と応答する。(以下略)

 「一般請求権問題」に関しては「無償供与2億5000万ドル」の中にひとくくりにまとめている。日本側としては「被徴用韓国人未収金」にしても、「戦争による被徴用者の被害に対する補償」も、「無償供与2億5000万ドル」の中にひっくるめてしまおうというのだろう。ひっくるめることによって、韓国人徴用工に対する暴力的な拉致・誘拐紛いの強制連行も、低賃金労働も、過酷な長時間労働も、粗末な食事も、その他日本が戦争によって演じた残虐行為等の数々の悪事を隠すことができる。

 悪事を隠してこそ、日韓併合性善説にしても、大東亜戦争性善説にしても、保護することができる。

 金鍾泌韓国中央情報部長は1962年11月12日に再度来日、大平外相と二度目の会談を行っている。その会談の席で「無償3億ドル,長期低利借款2億ドル,民間信用供与1億ドル以上」のメモ(所謂「大平メモ」)を渡されたと言う。

 但し上記PDF記事の〈外務省アジア局「大平大臣・金鍾泌韓国中央情報部長第2回会談記録」〉には次のような記述がある。

 (2) 金額
(韓国側の提案は,真面白なものであるとは認められたが,本件に関しては未だ彼我の間に相当の懸隔があるので,日韓双方において各々総理および議長の指示を待つこととし,それまでは大臣および金部長問限りの宿題とし,双方の代表にも内容を明かさないことを約束した。)

 要するに「無償3億ドル,長期低利借款2億ドル,民間信用供与1億ドル以上」は隠したということなのだろう。但しこの金額で韓国側は日本側が素通りさせたい「請求権問題」で引き下がったわけではなかった。

 1.請求権問題

(1) 方式
韓国側の案として,「韓日間の請求権問題を解決し,かつ,韓日間の経済協力を増進するため,次の措置をとるものとする。、、、、、、、、、」との提案があり,予備交渉において討議を進めることとなった。

 「会談記録」でありながら、韓国側提案の「次の措置」を、「、、、、、、、、、」で表す辺り、「請求権問題」を如何に誤魔化し、如何に素通りさせたいか、日本側の気持が如実に現れている。

 「日韓請求権協定」が署名されたのも、この協定に関する「韓国との請求権・経済協力協定 第一議定書の実施細目に関する交換公文」が署名された日付も1965年6月22日である。この日を遡る2年5ヶ月前の1962年11月12日の「大平・金第2回会談」で日本側は既に協定の内容を決めていた。

 上記PDF記事の〈外務省アジア局「大平大臣・金鍾泌韓国中央情報部長第2回会談記録」〉の記述。

 〈冒頭,大臣より,予め準備した別添トーキング・ペーパーを提示した後,概要つぎのような討議を行った。

(2) 方式

国交正常化に関する取極等のうちに下記の趣旨の条項をおくことにより解決することを提案する。

第1項日本国は,日韓国交の正常化を祝し,両国間の友好親善を祈念し,韓国における民生安定と経済発展に寄与するため,◯億ドルに等しい円の価値を有する日本人の役務および日本国の資本財を供与することとする。

第2項両締約国は,平和条約第4条に基づく韓国または韓国国民の日本国または日本国民に対するすべての請求権が完全にかつ最終的に解決されたことを確認する。〉

 勿論、「完全にかつ最終的に解決された」とする「韓国または韓国国民の日本国または日本国民に対するすべての請求権」の中に「対日請求要綱8項目」を含む意図を有していたはずだ。1965年6月22日締結の正式の「日韓請求権協定」の正式文書には「1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と触れているのみだが、確認のためか、念押しする意味でか、同日締結の「韓国との請求権・経済協力協定 第一議定書の実施細目に関する交換公文」の中で、「完全かつ最終的に解決されたこととなる両国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題には、日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる8項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがつて、同対日請求要綱に関しては、いかなる主張もなしえないこととなることが確認された」との一文を入れている。

 しかも「日韓請求権協定」の本文に入れずに、「第一議定書の実施細目に関する交換公文」に「対日請求要綱8項目」の解決を記載する。これも「請求権」の問題を限りなく背景に退かせようとする姿勢の働きがあるはずである。

 いずれにしても、韓国側は日本からの経済協力問題とは別に「請求権」への補償支払いを求める姿勢を維持し、日本側は「請求権」問題を排除し、無償・有償の経済協力を以ってして、「完全かつ最終的に解決された」とする地点に向けて駆け引きすることになった。

 「請求権及び経済協力委員会第6次会議」(1965年5月14日)

 「韓国側文書1468」

日本側西山代表 : 韓国に対するわが側の提供は、あくまでも賠償のように義務的に与えるのではなく、それよりは経済協力という基本的な思考を持っている。
韓国側金代表 : 李・椎名合意事項を見れば、請求権及び経済協力となっていて、経済協力というのもあるが、請求権的な考えが厳然と表現されている。
西山 : われわれは賠償とは違い、経済協力という面が強いという考えだ。
韓国側李圭星首席代表 : われわれも提供が賠償ではなく、特殊なものという考えだが、その表現は請求権及び経済協力という表現にならなければならない。
西山 : 協定案文を作成する時には、二つ皆含まれるようになるが、ここで今しているのは経済協力に関するものだ。
金代表 : 経済協力のみをするというのはおかしい。請求権及び経済協力に関する導入手続きを討議しているのだ.
西山 : 請求権の意味が含まれてはいるが、韓国側では請求権の対価という意向があるようだが、わが側ではそのように考えていないし、したがって基本的な思考の差があるが、これは是正調整されなければならないと思う。日本の一方的な義務に立脚して提供することになったら困る。韓国側でこのお金はわれわれが貰わなければならないものだから、勝手にすると言ったら困難だ。
金代表 : 全然義務がないというのは話にならない。最小限度、請求権解決に経済協力という考えが加味され、結局請求権及び経済協力ということになるのではないか? 国民の感情が請求権を受け入れるという考えで一貫しているので、万一請求権という表現が変わったら、これは重大な問題が起きるだろう。
西山 : それなら韓国に対する提供は、政治的な関係が深い日韓両国間の友好的な関係のための経済協力だと言うのか?
李首席 : 請求権という言葉が入らなければならない。
金代表 : 日本側の考えは理解しにくいが、賠償ではなく、しかし請求権に縁由(由来)するということは認めなければならないのではないか?
日本側柳谷補佐 : 日本側の考えは、あくまで経済協力という考えだ。
韓国側鄭淳根専門委員 : 問題の始祖が請求権から始まったのであって、韓国の事情が苦しくて助けくれということから始まったのではないではないか?
柳谷 : それは知っている。
李首席 : 結局、日本側の立場は、純粋な経済協力というのか?
西山 : そうだ。
韓国側呉在煕専門委員 : そのように言うが、元来経緯を見たら請求権問題を解決するために交渉が始まったし、請求権を解決するにおいて経済協力という言葉が出るようになった。したがって政治的な経済協力として提供するというのはあり得ない。
西山 : この問題はあまり触れないで次に移ることにして、とにかくわれわれとしては早く協定文を作り上げるのが重要ではないか?

 日本側はなおも韓国側が主張する「請求権」を排除すべく、巧みに誘導しょうとしている。

 日本側西山代表が「賠償のように義務的に与えるのではなく」と言い、「日本の一方的な義務に立脚して提供することになったら困る」と言っていることは、「請求権」という形を取った戦争補償への支払い(戦後補償)への拒絶を示しているものであって、「韓国及び韓国民が日本の戦争で受けた被害に対しての補償支払いの義務は我々にはない」と言っているも同然である。そして最後には「この問題はあまり触れないで次に移ることにして、とにかくわれわれとしては早く協定文を作り上げるのが重要ではないか?」と逃げて、時間をかけて、日本の思い通りの形に持っていこうと策している。

 このことの成功が日本の戦争がもたらした数々の悪行を「経済協力」の背後に隠すことができて、日韓併合性善説と大東亜戦争性善説の破綻を防ぐことであろう。

 だが、協定署名まで1ヶ月少し残すだけとなった。勿論、日を切られていたわけではないが、結局は韓国側は押し切られることとなり、(無償3米ドル+有償2米ドル、民間融資3億米ドル)の経済協力支援で決着をつけることとなり、韓国側からしたら、「請求権」の問題はこれらの経済援助の背後に隠されることになった。日本側からしたら、背後に消したといったところなのだろう。日韓併合と大東亜戦争を通じて韓国や韓国民に行った数々の悪行を協定文の行間に隠して、滲み出てくるのを防いだ。「日韓併合性善説」と「大東亜戦争性善説」を無事な状態に置くことができた。

 だが、徴用工大法院判決は、「まず、本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」 という)であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである」、「旧日本製鉄の原告らに対する行為は、当時の日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した反人道的な不法行為に該当し、かかる不法行為によって原告らが精神的苦痛を受けたことは経験則上明白である」等々の日本の戦争の悪行を記録し、後世に残すことになった。

 安倍晋三を筆頭に安倍政権の面々は「大法院判決は韓国側によってつくり出された国際法違反」だと非難、徴用工等の「個人請求権」にしても、「日韓請求権協定」で「完全にかつ最終的に解決された」としている条文どおりに戻すことを狙って、韓国政府に問題解決を求めたが、韓国政府は三権分立を楯に無視している。

 安倍晋三としては日本が対韓協定交渉で折角守り通した「日韓併合性善説」と「大東亜戦争性善説」を壊す大法院判決は安倍晋三の歴史認識を逆撫でする悪夢として決して受け入れることができないだろうから、韓国に対する輸出管理強化と韓国の「ホワイト国」からの除外の報復に出た。

 徴用工大法院判決は安倍晋三たちの「日韓併合性善説」と「大東亜戦争性善説」に対する見事なしっぺ返しである。

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台風15号大規模停電:安倍政権の真の意味で「国民の命と生活を守る」とは言えない自衛隊を停電復旧に活用しない危機管理

2019-09-16 11:51:07 | 政治

 台風15号が2019年9月9日午前5時前に風速25メートル以上の強風を伴って千葉市付近に上陸し、関東を北上、千葉県を中心に広い範囲で停電を引き起こした。
千葉市では最大瞬間風速が57.5メートルにも達したという。

 この地域を電力供給エリアとしている東京電力の情報として「NHK NEWS WEB」が2019年9月9日午後3時現在の停電戸数を千葉県で約61万3300戸、神奈川県で約7万7900戸、茨城県で約7万2400戸、静岡県で約2万7700戸、東京都で約2000戸、合計、79万戸余りだと伝えていた。

 「経産相世耕弘成記者会見」(経産省記者会見室/2019年9月10日午前10時41分~)

記者「台風15号の影響について伺います。現時点でも62万戸余りの停電が続いていると言われています。また、今日も猛暑で熱中症の懸念も指摘されております。大臣の現状の認識と経産省としての対応をお聞かせください」

世耕弘成 「まず、台風15号で被害に遭われた皆さんに、心からお見舞いを申し上げたいと思います。

東京電力は、今、昼夜を徹して復旧に向けた作業を行っています。ただ、これは一つ一つ、電柱を建て直し、電線を確認し、安全を確認して通電をするという手作業的なことになりますので、残念ながら今朝9時の時点でも、いまだに62万件の停電が残っています。そのうち千葉県が57万件ということになっています。

東京電力には、これは私も指示をいたしまして、小まめに復旧計画をしっかり出すようにと、今、市町村単位で今日復旧するのか、明日なのかというようなことは、今ある程度わかるようにホームページ、ツイッターなどでしてもらっていますけれども、今日中に配電設備の修復を進めることで、少なくとも33万件の停電が解消される見込みであります。

残り27万件分は、複数の電柱の倒壊や倒木による電線の切断といったことによりまして、復旧に少し時間が掛かるものと見られますけれども、東京電力は早期復旧に向けて、他の電力会社の協力を得ながら最大限の取組を進めていただきたいというふうに思います。

これは私も関西、地元和歌山で去年の台風で停電が長期化した経験がありますが、例えば倒木の処置とか、そういったことに関しては、例えば電力事業者の手に余ることがあれば、これは関係機関、自治体ともしっかり連携をしたいというふうに思いますし、経産省としても、その間を取り持って、ともかく早く回復できるように頑張っていきたいと思います。

 「NHK NEWS WEB」は9月9日午後3時現在で約79万戸の停電、世耕弘成は東京電力の情報として9月10日午前9時時点で62万件の停電と伝えているから、差引き17万戸の停電は解消したと見ることができる。復旧率は約22%。

但しその62万件のうち千葉県が57万件ということだから、「NHK NEWS WEB」が伝えていた9月9日午後3時時点での千葉県で約61万3300戸の停電数から57万件を差し引くと、約4万件の復旧ということになり、復旧率は約6.5%のみとなる。

全体の復旧率が約22%であることに対して千葉県に限ると、約6.5%のみの復旧率。この復旧の遅さの原因を世耕弘成は「電柱を建て直し、電線を確認し、安全を確認して通電をするという手作業的な」復旧工事になっているからだとしている。それだけ電柱や架線を巻き込んだ強風による倒木が多かったということなのだろう。大木の種類に入る背の高い樹木が山際の道路上に散乱しているだけではなく、倒木の直撃を受けた形で電柱が根本から折れて、道路上に横たわっていたり、架線で持ちこたえて、倒れずに済み、斜めの状態になった電柱、あるいは倒木が架線にもたれかかった状態で、架線自体を地面に近い高さに押し下げている場所、倒木に関係なしに単独で根元近くから折れている電柱、真ん中よりも高い場所で折れている電柱などをニュースなどで見かけた。

つまり停電復旧には倒木関連の不通箇所は倒木の撤去から初めて、電柱を建て直しし、倒木に関係しない単独で電柱が倒れた不通箇所は電柱の交換から、架線が切れた不通箇所は架線の交換から始めなければならないから、その数が多くて、早急には復旧はできないということなのだろうが、いずれにしても、9月10日中には「33万件の停電が解消される見込み」であり、残り27万件は「復旧に少し時間が掛かる」と東電は見ていた。「少し」という時間は電気なしの不便な生活を強いられる生活者の感覚からしたら、二、三日ということであるはずだ。二、三日が伸びたとしても、四、五日でなければならない。

「復旧に少し時間が掛かる」残り27万件は全体の復旧率約22%と比較して復旧率が約6.5%と低い千葉県が中心ということになるが、その復旧率の低さからみても、時間の「少し」が二、三日ではなく四、五日の日数と「手作業的な」復旧工事を頭に置いていたとしても、残り27万件の停電を解消できると計算していたことになる。

ところが、2019年9月11日付「NHK NEWS WEB」記事によると、東電は9月11日夜の記者会見で、9月11日午後11時現在の停電戸数は千葉県の約38万100戸で、千葉市を含むエリアは12日中、成田市と木更津市を含む残りのエリアは13日以降になるという見通しを発表したと伝えている。

 世耕弘成は9月10日午前10時の記者会見で、9月10日中には「33万件の停電が解消される見込み」であり、残り27万件は「復旧に少し時間が掛かる」と東電の情報を伝えていた。9月10日時点で33万件の停電解消・残り27万件の予定が9月10日と9月11日の2日をかけて千葉県では依然として停電戸数が約38万100戸も残っていて、9月10日時点の残り予定戸数27万件よりも約11万件も多い停電戸数となっている。

これは停電解消が早く片付くことを印象づけるために解消戸数を多めに言ったものの、現実はそんなに甘くなかったということなのか、単純にそんなに日数はかからないだろうと軽く見た見通しの悪さからの計算違いなのか、どちらとも取ることができる。

 いずれにしても「復旧に少し時間が掛かる」日数は四、五日以上ということになる。

記事は〈東京電力は当初、11日中の全面復旧を目指していた〉と解説しているが、この予定が世耕弘成の9月10日午前10時41分からの記者会見発言「今日中に少なくとも33万件の停電の解消、残り27万件分は復旧に少し時間が掛かる」に反映されていない食い違いに説明をつけるとしたら、台風上陸・大規模停電発生の9月9日の1日を経過させただけで、全面復旧の予定日を投げ出してしまったと見るほかない。投げ出した結果が、世耕弘成の9月10日午前10時41分からの記者会見での東電情報となって現れ、さらにその東電情報が修正されて、2019年9月11日付「NHK NEWS WEB」記事での東電情報となって現れた。
 
つまり東電は日を追うごとに自らの停電解消情報を訂正していった。勿論、いたずらに情報を訂正したわけではない。電気不通箇所の復旧工事にかかるたびに復旧の困難さに直面して、復旧の停滞を余儀なくされ、情報を訂正せざるを得なかったのだろう。

 と言うことは、最初に採用した復旧の工事方法を何らかの手を打たずにそのまま採用し続けたことになる。NHKテレビが架線に引っかかって、それを大きく垂れさせている倒木や抱き重なる形で電柱と共に傾いている倒木を高所作業車のバスケットに乗った電気工事業者が二人か三人がかりしてチェンソーを使って、レッカーのワイヤーで吊り支えた樹木を邪魔になる枝を伐り払い、頭方向から幹を順次短くしていく伐採作業の映像を流していたが、伐採班はそういった場所を一箇所終えては次の場所に移って、同じ手順で伐採を行い、伐採を終えた場所は別の班が損壊した電柱の撤去と新しい電柱の取り付けを行い、二箇所終えたところで、その間の破損した架線の撤去・取替を行って、そのような繰返しで前に進んでいく方法を採り、この方法が予想外に時間がかかったために復旧の遅れを生じさせたということなのだろう。

官房長官の菅義偉が9月12日午後の記者会見で今後の復旧の見込みと自衛隊の追加派遣、復旧の遅れに対する検証の実施を発言したと、2019年9月12日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えていた。

菅義偉「千葉市、八千代市、四街道市、印西市、市原市の一部などはきょう中の復旧を見込んでいる。他方、千葉東部の成田市周辺や木更津、南房総などの電線の損傷が激しい地域は、さらに時間を要する。

 きょう中に可能なかぎりの復旧を進めるべく、成田市、木更津市など復旧作業が難航する地域には、自衛隊を追加で派遣する。また、千葉県庁や県内22の市や町に経済産業省の職員を常駐させ、自治体との連携を強化している。今後も、東京電力とともに一刻も早い復旧に全力を挙げていきたい。

今は何よりも、一刻も早い停電の復旧が重要で、今回の停電や復旧プロセスについては厳格に検証を行ったうえで、正すところは正していく必要がある。初動対応も含め復旧プロセスはしっかり検証すべきだ」

 確かに初動対応を含めた復旧プロセスの検証は必要だろう。だが、「今は何よりも、一刻も早い停電の復旧が重要」と言っているとおりに基本は停電の一日も早い復旧なのだから、復旧を現在以上に加速させる自衛隊の追加派遣でなければならない。当然、そのことを念頭に置いた9月12日午後の記者会見発言なのだろうが、基本を停電の一日も早い復旧に置いている以上、停電発生当初の9月9日から復旧の遅れが生じているのに対して9月9日から4日後の復旧の遅れに対する自衛隊の追加派遣云々は後手の対応に見えてくる。

もしこの間、追加派遣を何度か行っていて、さらに追加派遣の必要性が生じたと言うなら、同じ手順の復旧工事を繰返した結果、復旧の進捗度が見えてきて、初めて復旧の見通しが立つようになった東電とさして変わらない、追加派遣の結果を見て、新たな追加派遣の見通しを立てることになる、その場を見て分かる政府の判断ということになる。

但し停電復旧加速化のために自衛隊の追加派遣を何度か行っていたとすると、迷彩服の自衛隊員と薄いブルーの作業服を身に着けた電気工事業者が混じって倒木の伐採撤去や電柱の建て替え工事をしているニュース映像やニュース記事を目にしてもいいはずだが、一度も目にしていない。自衛隊が単独で道路を塞いでいる倒木を撤去している記事とニュースはお目にかかっている。

果たして停電の一日も早い復旧に資する自衛隊の派遣、さらに追加派遣となっていたのだろうか。既に触れたように基本はあくまでも停電の一日も早い復旧なのだから、検証を云々する前に一日も早い復旧に資する方策を見い出すことを優先させなければならないはずだが、そのような方策に則った自衛隊の追加派遣ということなのだろうか。

 このことを検証できる2019年9月14日付の「NHK NEWS WEB」記事がある。
  
 国交相の赤羽一嘉が台風15号の影響で停電が続く千葉県南部の地域を視察し、館山市では金丸市長から台風による倒木が復旧作業の妨げになっていることや電柱や電線が壊れる被害が相次ぎ、停電が復旧するには約2週間かかるという説明を受けてからの視察後の記者会見での発言。

赤羽一嘉「倒木を撤去する建設業者が不足していて復旧作業ができないケースが起きている。経済産業省とも連携して電力事業者に建設業者を紹介するなど、スピード感をもって復旧を進めたい」

 同じ内容を扱った「asahi.com」記事には、〈復旧現場では倒木が電線に絡まっている場所が多くあ〉り、〈東電だけでは倒木を撤去できる装備がなかったり、逆に建設業者だけでは電線に触れることができず、片付けが難しかったりするケースが相次いでいて、国交省と経産省は東電と建設業者がそれぞれどこの現場で連携し合う必要があるか情報を集約し、連携を強める。赤羽氏は「東電と建設業者のマッチングを進め、倒木の処理を加速化できるように取り組む」と話した。〉と伝えている。

但し赤羽一嘉のこの発言には電気工事業者と共同して復旧工事に携わっている自衛隊員の姿は見えてこない。菅義偉が9月12日午後の記者会見で、「きょう中に可能なかぎりの復旧を進めるべく、成田市、木更津市など復旧作業が難航する地域には、自衛隊を追加で派遣する」とした発言は停電復旧工事の電気工事業者と連携させる意味での自衛隊追加派遣ではなく、自衛隊が単独で倒木や土砂撤去・処理を行う目的の、停電復旧とは関係しない「復旧作業が難航する地域」への追加派遣ということになる。

勿論、自衛隊でなくても、建設業者の派遣であっても構わないが、東電と建設業者の連携は9月15日以降ということになる。東電は全面復旧の見通しを9月27日に置いているそうだから、9月15日以降でも遅いとは必ずしも言えないが、もっと早くになぜ気がつかなかったのだろうか。気づいていたなら、全面復旧の見通しを9月27日よりも前倒しができる。

とは言っても、「倒木を撤去する建設業者が不足していて復旧作業ができないケースが起きている」状況からすると、停電復旧工事向けに建設業関係からの人手をたいして手当できないことになる。十分に手当できるなら、建設業者が不足していることと矛盾することになる。

電気工事業者と連携させる形で自衛隊員を派遣することをなぜしなかったのだろう。上記「asahi.com」記事は、〈東電だけでは倒木を撤去できる装備がなかったり、逆に建設業者だけでは電線に触れることができず、片付けが難しかったりするケースが相次いでいる〉と伝えているが、自衛隊はこれまでの災害派遣で重機を扱うことは勿論、チェンソーを扱った倒木伐採に従事していて、電気工事業者よりも倒木の扱いと伐採処理に手慣れているはずで、その技術力は自衛隊員の方が上であるはずで、建設業者の不足を云々せずに十分に人手を手当できるはずである。

 総務省消防庁発表の2012年12月から2013年3月4日午前7時までの雪の被害で死亡が89人、内69人が雪降ろし中の屋根からの転落、あるいは除雪作業中の転倒のケースで、全体の6割に当たる53人が65歳以上の高齢者という記事を見て、2013年3月6日の当ブログ、「ブログ」に豪雪時の東北・北海道の屋根の雪降ろしになぜ自衛隊を派遣しないのだろうかと書いたが、それ以降もその目的に自衛隊を派遣したという記事を目にしていないから、公共施設以外の住宅などの個人の施設には自衛隊の派遣は禁止しているのかと思っていたが、2019年9月15日付「NHK NEWS WEB」記事が9月15日夜から16日明日朝にかけて大雨が恐れがあるということで15日午前9時頃から自衛隊員と屋根修理の専門業者と合わせて30人程が連携して、台風で損壊した屋根にブルーシートを固定するための土嚢を運んだり、ブルーシートで屋根を覆ってロープで固定する作業に従事したと伝えているから、住宅などの個人の施設であっても自衛隊を派遣する発想があるなら、より公共的な意味を持つ停電復旧工事に電気工事業者と連携させる形で自衛隊を派遣する発想があってもいいはずである。

 もし最初から自衛隊を派遣して電気工事業者と連携させて停電復旧工事に当たっていたなら、このようにも復旧の遅れが生じただろうか。遅れが生じたなら、その場その場の臨機応変の対応で復旧を加速することも自然災害に関わる危機管理に入る。こういった危機管理は停電や復旧プロセスに関わる検証よりも優先させなければならない。

 いくら正確な検証ができたとしても、役に立つのは次の同様の、あるいはそれ以上の自然災害が発生してからで、現在の被災者の生活の不自由を少しでも和らげる足しには何もならないからである。

 安倍晋三は9月13日の閣僚懇談会で停電の全面復旧に全力を挙げるよう関係閣僚に指示したというが、その場その場に応じた臨機応変の対応で復旧を加速化させる発想を発揮できなければ、真の意味で、「国民の命と生活を守る」危機管理とは言えない。

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安倍晋三の戦争を美化する特攻隊論:戦前の愛国心は天皇の名によって洗脳された精神的産物

2019-09-09 11:31:51 | 政治
 米国のタブロイド紙ニューヨーク・ポストが伝えたトランプ自身が紹介した安倍晋三との遣り取り。トランプが2019年8月9日にニューヨーク郊外で行った選挙資金集会で安倍晋三の訛りのある英語をからかいながら話したのだという。

 トランプ「(安倍晋三の父、安倍晋太郎が神風特別攻撃隊のパイロットだったことに)魅了された。神風特別攻撃隊のパイロットは酒に酔っていたのか、薬物を使用していたのか?」

 安倍晋三「違う、彼らはただ自分たちの国を愛していたのだ」

 トランプはここで選挙資金集会の聴衆に信じられないこととして語りかける。

 トランプ「想像してみてほしい、彼らがただ国を愛するがゆえに、タンク半分しかないガソリンで飛行機に乗り込み、軍艦に飛び込むということを!」

 特攻隊員たちが「ただ国を愛するがゆえに、タンク半分しかないガソリンで飛行機に乗り込み、軍艦に飛び込む」云々の知識はトランプが安倍晋三によって吹き込まれてモノにした感動的な歴史認識と言うことになる。つまり愛国心を唯一の精神安定剤として冷静沈着に軍艦に体当りしていき、愛国心と引き換えに自らの命を桜の花びらのように潔く散らしていくことを特攻隊の使命としていたという安倍晋三自身の歴史認識をトランプも共通項とすることになった。

 単細胞なトランプでさえ感動したのだから、単細胞であることから免れている人間にしても、安倍晋三から受け継いでいた場合の感動的な歴史認識を披露する際、涙を流しさえしたかもしれない。安倍晋三にしても、この感動的な歴史認識を同じ日本人にではなく、外国人に、しかもアメリカの大統領に刷り込んで、その単細胞の頭に国を愛するがゆえに自らの命を犠牲にすることによって輝きを放つ特攻隊という存在を共通項とさせることに成功したのだから、外国に於ける日本の戦前の戦争の悪評判を拭い去って、見直させる機会になった外交上の相当に高度な情報伝達になったと誇らしい気持になったに違いない。

 安倍晋三とトランプの以上の感動的なエピソードは《「酒もドラッグもなしに特攻するなんて!?」トランプ大統領が安倍総理の英語をネタに神風特攻隊を揶揄!旧日本軍が人間を兵器にするためシャブ漬けにした史実を安倍総理は「愛国」とすり換え!》(Independent Web Journal/2019.8.16)の記事から得た。

 記事題名は「トランプ大統領が安倍総理の英語をネタに神風特攻隊を揶揄!」となっているが、それが「揶揄」なら、安倍晋三自身が美しい歴史認識としている特攻隊論はガセネタだと、つまり安倍晋三はウソをついたと聴衆に披露したことになる。あくまでも安倍晋三に吹き込まれて、トランプは特攻隊に関わる歴史認識を同じくしたと見なければならない。

 ガセネタなのは安倍晋三が愛国心だけを頼りに特攻隊員たちが死地に赴いたとする特攻隊に関わる歴史認識、特攻隊論である。「旧日本軍が人間を兵器にするためシャブ漬けにした史実を安倍総理は『愛国』とすり換え!」と記事題名にあり、記事の中でも、〈人間を単なる兵器として扱う「特攻」という、無謀で非人道的で馬鹿げた作戦を遂行するためだけでなく、旧日本軍は兵士や軍関係の工場労働者を覚醒剤漬けにしていたのである。安倍総理は大日本帝國を賛美するために「違う、彼らはただ自分たちの国を愛していたのだ」と、トランプ大統領相手に虚構を語り、大統領自身はそれを虚構だと、実のところ見抜いていた、と考えるのが妥当ではないだろうか。〉と書いているが、特攻隊員たちが体当たりの任務を与えられた際、ヒロポンなる覚醒剤を前以って与えれて、恐怖心を麻痺させていた情報はネット上にいくらでも転がっている。

 だが、安倍晋三はガセネタであるという思いはこれポッチもなく、特攻隊員たちは愛国心のみを精神の糧として恐怖に打ち克ち、天皇陛下のため、お国のために自らの命を引き換えに軍艦に体当りしていったとする特攻隊論を信じて疑わない自らの神聖にして真正な歴史認識としている。

 記事は「wikipedia」の項目「特別攻撃隊」からの引用として戦後の参議院の予算委員会で特攻隊員だけではなく、軍の工場の工員も使っていたとする答弁が行われたことを紹介しているが、脚注からその質疑に行きつくことが出来たから、安倍晋三の特攻隊論、感動的な歴史認識がガセネタであることの証明としてここに書き出してみる。

 第6回国会 参議院予算委員会(1949年(昭和24年)11月30日)

 井上なつゑ「ちよっと厚生省の薬務局長さんに伺いたいのですが、実はこの頃浮浪者の少年の中で問題に可なりなっておりましたヒロポンでございますが、これは厚生省と大蔵省に伺わなくちやならんかと思うのでございますが、伺いますところによりますと、ヒロポンは製造上大変抑圧しておるように伺いますが、戰争中にヒロポンが可なり多く用いられて、それが貯蔵されておったというような話を聞いたのでございますが、これは厚生省としてどういうように譲り受けになりましたか。

 又それは大蔵省の国有財産の一部として拂出し(払い出し)になったのでございますか。その点明らかにして頂きたいと思います。実は製造を禁止いたしましても、この頃子供一人を掴まえると、40本、50本打っておるので、何処からか流れ出しておるのではないかという懸念がございますので、このことにつきまして厚生省並びに大蔵省から承りたいと思います」

 説明員慶松一郎「只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戦争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかったと私は記憶いたしております。

 そうしてその終戦当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になっておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよっと今分らないと思います。しかしいずれにいたしましても、今日問題になっておりました製薬は当時殆んどなかったということが言えると思います」

 ヒロポンの効能は眠気を去り、疲労感をなくし、気分を高揚させて多弁になり、行動的となることができるということだから、出撃前の特攻隊員に飲ませた場合、不安や恐怖を押し殺すことができて、「天皇陛下のために、お国のために」と愛国心一色で意気揚々と特攻機に乗り込むことができ、意気揚々と飛び立ち、全てを捧げる気持で敵艦に体当たりすることができたのだろう。
覚醒剤――ヒロポンは禁止薬物外として戦前は錠剤の形で軍兵士だけではなく、軍需工場などに勤労動員された大学生やその他の若年男女が過酷な長時間労働の疲労や眠気を取り去ってくれる有り難い薬として上層部から与えられ、利用されことはヒロポンの別名が「突撃錠」であり、「猫目錠」となっていることに名は体を表す言葉さながらに十二分過ぎる程に現れている。

 特攻隊員にとってはまさに「突撃錠」という名前にあやかったはずであり、一般兵士が夜襲に出かけた際に暗闇の中で敵兵を探すのに「猫目錠」の役目を果たしてくれたはずだし、勤労動員に駆り出された者にとっても、「猫目錠」は名前どおりの効き目を与えてくれたはずだ。

 ヒロポンは戦後は注射液に姿を替えて、広く利用され、幻覚症状や妄想を伴うヒロポン中毒患者を広く見受けるようになり、ときにはヒロポンを買うカネ欲しさから、あるいは禁断症状から突発的に犯罪を犯す者が現れ、反社会勢力の資金源にもなっていて、ヒロポンが製造禁止の他、売買禁止の薬物指定を受けることになったのは、〈覚醒剤製造業者がその業務の目的のために製造する場合及び覚醒剤研究者が厚生労働大臣の許可を受けて研究のために製造する場合の外は、何人も、覚醒剤を製造してはならない。〉とする覚醒剤取締法が1951年(昭和26年)6月30日に公布されてからだった。

 だが、法律で禁止されて、それで幕を引くということにはならない。現在の脱法ドラッグのように密造品が広まり、1945年(昭和20)から覚せい剤取締法公布4年後の1955年(昭和30年)を期間とした第1次覚醒剤乱用期には患者が最高5万5千人を記録したとされている。第2次覚醒剤乱用期、第3次覚醒剤乱用期と迎えることになるのだが、戦争中は軍に所属して服用していたことが戦中だけではなく、戦後の使用に対する抵抗感を希薄にさせ、戦後、軍がヒロポンを横流ししたことが簡単に手に入る要因にもなっていたというから、安倍晋三の特攻隊員を簡単に感動話に仕立てる歴史認識はまさに狂っているとしか言いようがない。

 大体が戦前の「愛国心」なる心情は天皇の名によって洗脳された精神的産物に過ぎない。このことは1937(昭和12)年3月刊行の「国体の本義」を見れば、簡単に理解できる。

 「国体の本義」は先ず西洋の個人本位の思想を排斥する。天皇全体主義を善とするためにである。そして次の一節が戦前の「愛国心」の性格をよりよく表していて、「愛国心」なるものが天皇への忠節=奉仕であることを説いている。

 〈敬神崇祖(神を敬い先祖を崇める)と忠の道との完全な一致は、又それらのものと愛国とが一となる所以である。抑々(そもそも)我が国は皇室を宗家とし奉り、天皇を古今に亙る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。故に国家の繁栄に尽くすことは、即ち天皇の御栄えに奉仕することであり、天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し国の隆昌を図ることに外ならぬ。忠君なくして愛国はなく、愛国なくして忠君はない。あらゆる愛国は、常に忠君の至情によつて貫かれ、すべての忠君は常に愛国の熱誠を件つてゐる(件のとおりに示している?)。固より外国に於ても愛国の精神は存する、然るにこの愛国は、我が国の如き忠君と根柢より一となり、又敬神崇祖と完全に一致するが如きものではない。〉

 天皇は日本国家の中心であり、中心の天皇と国民が一体となった一大家族国家を構成していて、国民が先祖を敬うように一大家族国家の中心である天皇を敬い、忠誠を尽くして天皇の繁栄のために奉仕する精神こそが「愛国心」であるとしている。

 つまり天皇の名のもとに国家によって洗脳された愛国心となっている。その結果の「天皇陛下バンザイ、日本バンザイ」であって、自らの自律的な判断に基づいた愛国心とは縁がない。

 「国体の本義」の〈「教育ニ関スル勅語」に「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼(助け守ること)スヘシ」と仰せられてあるが、これは臣民各々が、皇祖皇宗の御遺訓を紹述し給ふ天皇に奉仕し、大和心を奉戴(ほうたい―恭しく戴く)し、よくその道を行ずるところに実現せられる。これによつて君民体を一にして無窮に生成発展し、皇位は弥々栄え給ふのである。まことに天壌無窮の宝祚 (ほうそ―天子の位)は我が国体の根本であつて、これを肇国の初に当つて永久に確定し給うたのが天壌無窮の神勅である。〉云々と、天皇の位は国体の根本であるからとの理由付けで天皇への奉仕と天皇と国民との一体を求めている下りも、天皇への奉仕を通じた天皇と国民の一体が皇室繁栄の礎であることの説諭となっていて、「教育ニ関スル勅語」の本質がここに示されている。

 安倍晋三や稲田朋美が「教育ニ関スル勅語」に描かれている優れた道徳観は現代の道徳教育にも利用できると発言しているが、天皇への奉仕を目的とした道徳観であることは上記一節で明らかとなる。

 かくこのように安倍晋三が感動的な歴史認識としている特攻隊員が体していたとする「愛国心」一筋の敵艦体当たりなるものは天皇と国家から洗脳された精神的産物に過ぎない愛国心に塗りつぶされた行動であって、例えヒロポンの錠剤を飲まないままに特攻出撃に向かったとしても、洗脳された愛国心を頼みにしていたとなると、物悲しさだけを催すことになる。

 ましてや覚醒剤のヒロポンに頼った愛国心の発露となると、桜が散るように命の散り際が潔いとされている特攻隊員像はたちまち虚像化する。

 このような特攻隊員の愛国心の本質とその行動を可能にし、拠り所としていた糧が何であるかに気づかず、特攻隊員の行動を「愛国心」の発露とのみ決めつけることができる感動的な歴史認識は戦争の美化そのものと歴史の改ざんに当たり、恐ろしいばかりで、ガセネタのみとして排斥することはできない。

 安倍晋三が戦前の戦争を侵略戦争と認めず、国家存亡を賭けた自衛の戦争としている歴史の美化に繋がる一端が以上の特攻隊論からも見えてくる。

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鹿児島出水市4歳女児虐待死:安倍政権の虐待防止対策不徹底と野田市10歳女児虐待死から何も学ばなかった市と児相と警察

2019-09-02 11:56:41 | 政治
 【追記】(2019年9月3日 8:20)

 このブログ記事で親の虐待を受けて幼い子が死亡する事件について新聞で大きく扱われた範囲内でのことだが、今回の2019年8月31日の鹿児島県出水市での4歳の女児の虐待死が2018年3月2日の東京都目黒区で5歳女児が両親から虐待を受けて死亡した事件と2019年1月24日に千葉県野田市の小4の10歳女児の虐待死に続いての事件のように扱ったが、昨日9月1日夜のNHKニュースで、最近の虐待死事件として目黒区の事件と野田市の事件に続いて、2019年6月の札幌市での虐待死事件について伝えていた。

 札幌市の虐待死についてはすっかり頭から抜け落ちていた。そんな事件があったっけかという思いでPCに保存してある新聞記事を探してみると、この事件を取り扱った記事が確かに残っていたが、それでも思い出すことができなかった。21歳の母親の交際相手の24歳の男が母親の2歳の長女に日常的に暴行や食事を与えないなどの虐待を繰り返して衰弱させ、死なせてしまい、2019年6月5日に逮捕されている。

 当方の記憶から抜け落ちていたとしても、児童相談所や警察の虐待事案取扱部署の生活安全課は過去の虐待事案の全てを学習して、新たな虐待事案の参考資料としなければならない。札幌市の逮捕された24歳の男が21歳の母親の交際相手であったこと、死なせた2歳の長女と血が繋がっていなかったことは今回の鹿児島県出水市の逮捕された21歳の男が20代の母親の交際相手であり、死なせた4歳の女児とは血が繋がっていなかったことと両関係性は似ている。

 血が繋がっていない子供に対して父親の立場にある男、あるいは母親の立場にある女が全て虐待を働くわけではないが、そういった関係性で虐待を疑わせる事案が持ち上がった場合は、よくある例として特に気をつけて対応しなければならないはずだが、出水市の虐待事例では市や児童相談所、警察の動きからはマスコミ報道を見る限り、そういった注意深い対応を見て取ることができない。少なくとも虐待事案が持ち上がった際、実の父親なのか、母親なのか、特に注意して確認しなければならない。

 札幌市の事案では虐待通告受理から原則48時間以内に安全確認をする「48時間ルール」は守られていなかったし、虐待の緊急性を評価する「リスクアセスメントシート」も作成していなかった。児童相談所は北海道警が母子と面会した際、同行要請を断ってもいる。こういったことだけではなく、他の虐待事案での対応不足をも含めて、子どもの命というものを考えた場合、決して二度と繰り返してはならない反省材料としなければならないはずだが、今回の出水市の事案では過去と同様の対応不足が多々見受けることになる。

 マスコミが報道する虐待死事件を見る限り、市も児童相談所も警察も、一通りの仕事をこなすのみで、それ以上の、過去の虐待事案を参考にした臨機応変な対応への心がけは持ち合わせていないように見える。このことを裏返すと、一通りの仕事をこなすだけの市や児童相談所や警察では、虐待を把握しても、その虐待が度を越していた場合、虐待死にまで進んでしまうのを止めることができないように思える。

 親の虐待を受けて児童が死亡する事件が再び起きた。虐待死が起きるたびに政府は対策強化を叫ぶ。虐待の有無や程度の緊急点検を行う。政府の虐待防止対策が手ぬるいのか、対策は立派だが、虐待関係機関が立派な虐待対策どおりに十分な機動性(状況に応じて素早く活動できる能力。「コトバンク」)を発揮し得ないのか、政府が自らの虐待防止対策通りに関係機関を動かすだけの権威を欠いているのか、いずれなのだろうか。

 東京都目黒区で5歳女児が両親から虐待を受けて死亡した2018年3月2日から約3ヶ月半後の2018年6月15日、政府は「児童虐待防止対策の強化に向けた緊急総合対策」を題目に「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」を首相官邸4階大会議室で開いている。

 但し「時事ドットコム 首相動静」で見ると、午前7時56分から同8時7分までのたった11分間に過ぎない。

 安倍晋三「僅か5歳の結愛(ゆあ)ちゃんが死の間際どんな思いでノートにあの言葉をつづったのか。虐待を受けながらも両親の思いに応えようとする幼い心の中を思うとき、私は本当に胸が潰れる思いであります。

 虐待によって多くの幼い命が奪われています。こんな痛ましい出来事をもう繰り返してはならない。子供の命を守るのは私たち大人の役割であります。政治の責任にお
いて、抜本的な対策を講じます。子供たちの命を守ることを何よりも第一に据え、全ての行政機関があらゆる手段を尽くすよう、加藤大臣を始め、関係大臣は緊急に対策を講じてください」

 「こんな痛ましい出来事をもう繰り返してはならない」。当然、「もう繰り返してはならない」対策を講じる責任を政府は負う。

 なぜ「繰り返してはならない」かと言うと、上記2018年6月15日の「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」に引き続いて2018年7月20日に開催した「児童虐待防止対策に関する係閣僚会議」「児童虐待防止対策に関する係閣僚会議」の議事録には、〈児童相談所への児童虐待相談対応件数は2016年度には12万件を超えており、5年前と比べて倍増している。また、児童虐待により年間約80人もの子どもの命が失われている。〉と記載されていて、それ程にも深刻な事態となっているからだろう。

 〈年間約80人もの子どもの命が失われている。〉とすると、マスコミ報道されるのはほんの一部ということになる。

 最初に挙げた関係閣僚会議では、〈児童相談所間・自治体間の情報共有の徹底や児童相談所・警察・学校・病院等の関係機関の連携強化〉を謳っている。

 「もう繰り返してはならない」謳い文句も虚しく、目黒区の事件の2018年3月2日から約11ヶ月後の2019年1月24日、千葉県野田市立小4年10歳の女児が父親の虐待を受けて殺害された。この事件を受けて、2019年2月8日、安倍政府は「児童虐待防止対策に関する取組について」と題して、「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」を開いている。

 残念ながらと言うべきか、怠慢と言うべきか、7ヶ月も経過するにも関わらず、厚労省の「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」開催日記載ページには当該会議の「議事録」はまだ載っていない。「議事次第」には、「千葉県野田市において女児(10歳)が虐待により死亡した事案の経緯等について」、「千葉県野田市における児童虐待事案への対応状況等」と題した資料等、具体的には「配付資料1」、「配付資料2」、「配付資料3-1」、「配付資料3-2」、「参考資料1-1」、「参考資料1-2」、「参考資料2-1」、「参考資料2-2」と、8点も提出されている。

 8点の資料とその他を議論するのに「時事ドットコム」の2019年2月8日の「首相動静」を見ると、「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」は午前7時58分から同8時6分までのたったの8分。これだけの資料をもとに8分も議論したとすれば、相当熱のこもった遣り取りができたはずだ。でなければ、「こんな痛ましい出来事をもう繰り返してはならない」、「子供の命を守るのは私たち大人の役割であります」、「政治の責任において、抜本的な対策を講じます」は全て空回りしたことになる。

 政府も児童虐待に関わる専門家も、警察の役割の重要性、関係機関と警察との連携、時と場合に応じて警察が前面に出ること、その主導性への期待を頻繁に口にするようになった。

 2018年6月15日の「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」で、〈児童相談所間・自治体間の情報共有の徹底や児童相談所・警察・学校・病院等の関係機関の連携強化〉を謳い、虐待の防止に警察の力を一枚加えていることを既に紹介しているが、安倍晋三も野田市の虐待死事件の4日後の2019年1月28日の衆参本会議「施政方針演説」で、「何よりも子どもたちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組みを警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります」と、警察の全面的なバックアップの重要性を訴えているし、2019年2月7日の参議院予算委員会でも、「自治体の取組に対する警察の全面的バックアップなど、関係省庁が連携してやれるべきことは全てやるという強い決意で取り組んでいきます」と、虐待防止の重要なコマに警察を一枚噛ませている。

当然、警察が一枚噛むについては安倍晋三は自身が頭がいいだけではなく、頭のいい閣僚や官僚を大量に抱えているのだから、警察がどう関わったなら、虐待防止に最善・最大限の力を発揮し得るか、その連携方法を議論し、案出して、案出した方法の徹底を全警察に向かって指示したはずだ。

 2019年8月31日、鹿児島県警は鹿児島県出水市の20代の母親の交際相手の21歳の男を同居する4歳の女児を殴ったとして暴行容疑で逮捕した。

 マスコミ記事を纏めて見ると、女児への殴打は2019年8月27日の夜。翌8月28日に病院に搬送。その日の夜死亡。病院から「風呂で溺れたという女の子が死亡した」と警察に通報。司法解剖の結果、死因は風呂場での溺死とのこと。一体、どう溺死したのだろうか。

推測するに、病院に連れて行く前に既に溺死していたのだが、病院は心肺停止状態ということで、蘇生を試みたのだろう。だが、蘇生することはなかった。

21歳の男は2019年7月まで鹿児島県薩摩川内市に居住。鹿児島県出水市に居住を移している。

2019年3月18日、市から県警薩摩川内署に虐待が疑われると情報が寄せられ、18日と19日に署員や児童相談所の職員らが自宅を訪問。女児と母親に面会したが、体に傷などは確認されなかったという。その上、3月下旬から4月上旬にかけて同市内で「夜間に児童が一人で外出している」との通報が薩摩川内署に計4回あり、署員が自宅近くで璃愛来ちゃんを保護。ネグレクトの疑いで児童相談所に2回通告した。

薩摩川内市は発育状況に問題はなかった上に虐待は確認できないという認識のもと、母親に対し子どもの面倒をきちんとみるよう指導し、児童相談所などと会議を開き、同じようなことが起きた場合、一時保護する方針を決め、見守りの対象にしたという。引っ越しした際には出水市にも情報を引き継いだ。但し母親の交際相手で同居していた21歳の男に関しては「虐待が確認されなかったので、詳しい家庭環境まで踏み込めなかった」

 転居先の出水市も、顔などにあざがあるという情報をもとに21歳の男の暴行の前日に女児と面会したが、あざが確認できなかったことなどから、警察などに連絡しなかったという。

虐待の方法は殴打だけでない。発育状況に問題はなかったということだから、食事を与えない虐待はなかったのだろうが、野田市の虐待では体に傷跡を残さない方法としてなのだろう、冬に冷水シャワーを浴びせる虐待を行っていたし、目黒区の女児虐待死では母親から水を張った洗面器に顔をつける虐待でしかない練習をさせられ、頭を抑えつけられでもしたののだろう、「ママ、苦しい。やめて」と女児の声が外にまで洩れて、それが何日も続いたために住人に通報されたり、男から毎朝4時頃起床の平仮名を書く過酷な日課を課せられる虐待そのものの仕打ちを受けていただけではなく、最終的には食事を満足に与えられない虐待を受けて、死に至らしめられている。

だが、市も警察も児童相談所も殴打だけが虐待の方法だと決めつけて、体に傷が確認されなかったことを以って虐待の可能性をいとも簡単に排除しいる。

 交際相手、再婚相手、あるいは同棲相手、特に男の方が血の繋がっていない児童に対して虐待を振るう前例を多々あるのだから、それを学習して、21歳の男が女児と血の繋がりのないことを虐待を犯し得る危険な兆候の一つと見て、それ相応の対応を取らなければならなかったはずだが、虐待の可能性を簡単に排除しただけではなく、そのことを以って「詳しい家庭環境まで踏み込めなかった」と、自らの学習能力不足に思い至らないままに最悪の事態を想定することもしなかった。

野田市の虐待死は実の父親が犯したことだが、目黒区の虐待死の場合は女児が母親と元夫の間に生まれ子どもで、父親とは血縁関係がなかく、虐待を起こし得る兆候の一つと捉える、子供の命に対する危機管理意識すら働かすことはなかった。

2019年1月24日の千葉県野田市10歳女児虐待死から7ヶ月しか経過していないにも関わらず、市や児童相談所、特に役割の重要性を期待された警察の学習能力の欠如はどう考えたらいいのだろうか。安倍晋三等は関係機関と警察の連携の重要性を主張、当然、政府は警察はどう動くべきか、既に上に書いたとおりにその最善・最適な対処方法を考え出して、指示しているはずだが、どの機関も満足に対応できなかったところを見ると、「児童虐待防止対策に関する関係閣僚会議」での議論も、安倍晋三の虐待防止に関わる国会答弁も、議論を済ますだけ、答弁を済ますだけで終わっていることになる。

野田市の虐待事件を取り上げた2019年2月5日の当「ブログ」で、〈ある児童に対する虐待の疑いが出てきたとき、その習慣性を考慮して、児童相談所の対応だけではなく、警察は隣近所の住人をより確かな情報源として確保、聞き込み等の接触を図った場合は虐待加害者に見咎められ、一悶着を起こされかねない危険性から、電話連絡で秘密裏に情報収集を図る必要があるのではないだろうか。〉と書いた。

今回の虐待死でも、全裸での自宅外放置されている、下着一枚の姿で玄関の外にいるといった通報は近所の住民からのもので、2019年9月1日付「NHK NEWS WEB」には、アパートの隣の部屋に住んでいる男性の話として、「引っ越してきたのは、この2、3か月ではないかと思います。毎日は帰ってきていないようでした。ここ1か月くらい、夜中に泣き声を聞くようになりました。結構大きな声でした。どなり声や悲鳴は聞いたことはありませんでした」と伝えている。

 隣の部屋で4歳の女児の鳴き声が聞こえるとしたら、かなり大きな声で泣いていたと見なければならないし、自身が1か月も放置して、通報も何もしなかったことから、どなり声や悲鳴は聞こえなかったことにした可能性を疑うこともできる。

 記事はこの証言の一方で近くに住む50代の男性の「家族が2、3日前に警察から『子どもの泣き声を聞かなかったか』と尋ねられました。日渡容疑者は自治会に入っていないので交流もありませんでした。児童虐待のニュースは最近よく聞くので、自分の周りでも起きていたとしたらショックです」との証言を伝えている。

つまり警察は隣近所の住人をより確かな情報源として聞き込みを行っていたが、それ以上に確かな情報源となるアパートの住人に対しては何ら接触は図っていなかったことになる。警察の方から情報源の厳格な秘匿を条件に承諾を取った上で相手の都合のいい時間に定期的に電話を入れて、「何か変わったことはないか」と情報を収集する方法は取らなかった。

関係機関の学習能力の欠如の上に、「こんな痛ましい出来事をもう繰り返してはならない」、「子供の命を守るのは私たち大人の役割であります」、「政治の責任において、抜本的な対策を講じます」は言っているだけ、対策を取っていますと言うだけで、その対策を生かすことも、関係機関に徹底させることもできないでいる。

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安倍政権が予想できなかった韓国「GSOMIA」破棄 徴用工問題と「ホワイト国」除外に対する予想外の韓国側拒絶反応の読みの誤り

2019-08-26 11:08:48 | 政治
【謝罪】〈当ブログの中で取り上げた「聯合ニュース」とした記事は発信元が「ソウル聯合ニュース」で、朝鮮日報の紹介記事でしたので、リンク先を「朝鮮日報」に訂正しました。(2019年8月27日 3時32分)〉

 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金(旧新日本製鉄)の上告を棄却し、韓国人元徴用工に対する損害賠償請求を認める判決を下した。続いて2018年11月29日に同じく韓国大法院は第2次世界大戦中に広島と名古屋の三菱重工業の軍需工場で働かされた韓国人の元徴用工や元女子勤労挺身隊員らが同社に損害賠償を求めた2件の訴訟の上告審で三菱重工業側の上告を棄却し、原告10人(うち5人が死亡)にそれぞれ8千万~1億5千万ウォン(約800万~1500万円)の損害賠償を認める判決が下した。

 日本側は1965年の「日韓請求権協定」で個人補償も含めて全て解決済みとの態度を取り、韓国政府が損害賠償すべきであり、「日韓請求権協定」で取り決めた国と国との国際的な約束を守るよう迫った。

 但し韓国政府は三権分立を楯に司法不介入の立場を取り、韓国大法院は日本政府の全て解決済みの主張を認める一方で、損害賠償請求の正当性を次のように判決文で述べている。

 「新日鉄住金徴用工事件再上告審判決」(韓国大法院/2018年10月30日判決)
  
 〈まず、本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである。〉――

 つまり1965年の「日韓請求権協定」で個人補償に関わる全面解決は「未払賃金や補償金」に関してであり、苦しめられたり、辛い思いをさせられたり、辱められたりしたことに対する慰謝料までは含まれていないとの主張である。

 戦前を引き継いで戦後も日本人による朝鮮人差別は過酷なものがあったが、戦時中の朝鮮人は人間として扱われなかった。一度ブログで取り上げた2011年2月27日放送のNHK「証言記録 市民たちの戦争『“朝鮮人軍夫”の沖縄戦』」に出演した元朝鮮人軍夫の証言を引用してみる。

 戦争末期、沖縄戦に備えて沖縄に大量の兵力・武器・弾薬・爆弾を送り込んだ際、船から荷揚げして背負って基地まで運ぶ運搬と壕掘りの過酷な労働に従事させるための軍夫を朝鮮半島から募集、中には強制連行した。過酷な重労働に従事させられながら、食事は満足に与えられなかった。

 当時阿嘉島青年団員の垣花武一さんの証言「我々が銀飯(ぎんめし)を食うとき、あの人たち(朝鮮人軍夫)はおかゆ。我々がおかゆに変わるときは、あの人たちは雑炊とか粗末な食事。量も半分くらい。だから、あれですよ。あの壕掘りとか重労働に耐えられなかったと思うんですよ。そういう食料で」

 空腹に耐えかねて、近所の田の稲や畑の芋をこっそりと食べて飢えを凌いだ。ポケットの稲が軍人に見つかって、13人が手を縛られ、銃殺された。情け容赦なく取り扱われた。

 韓国大法院の1965年「日韓請求権協定」に関係しない慰謝料請求の正当性に対して日本政府は全面解決済みを譲らず、「日韓請求権協定」締結の国と国との約束を守れの一点張りで押し通している。

 日韓関係の悪化はご承知のようにこの徴用工問題に端を発している。そして安倍政権は2019年7月4日、韓国を対象に半導体材料の輸出管理を強化する措置を発動。徴用工問題で日本側が望む満足な対応で応じない韓国に対する報復と韓国側は解釈したが、日本側は否定。あくまでも輸出管理上の問題だとした。

 但し7月4日のこの措置発動に関わる合理的な根拠は3日後の2019年7月7日の安倍晋三のフジテレビ番組発言からは全然見えてこない。

 安倍晋三「韓国はちゃんと(対北朝鮮経済)制裁を守っている、ちゃんと貿易管理をしていると言っているが、徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ。

 (輸出管理規制強化は)徴用工問題の対抗措置ではない。彼ら(韓国)が言っていることが信頼できないのでこの措置を打った」(産経ニュース

 「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」と、合理的な根拠の提示とは遥かに程遠く、一つの罪を以って推測で次の罪まで被せる濡れ衣紛いの発言となっている。

 安倍政権は半導体材料の輸出管理強化措置だけでは終わらなかった。2019年7月末から韓国を輸出管理の優遇対象国「ホワイト国」から除外する動きに出た。対して韓国側は安全保障上の機密情報共有を可能にする軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を示唆、除外阻止を図ったが2019年8月2日の閣議で「ホワイト国」からの韓国除外を正式に決定した。

 2019年7月7日の安倍晋三のテレビ番組発言からすると、「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」の濡れ衣を「ホワイト国」除外にまで広げたと解釈できないこともない。

 いずれにしても、2019年7月末時点で「GSOMIA」破棄の可能性を読んでおかなければならなかった。

 「GSOMIA」は2016年締結、1年ごとの延長だが、日韓いずれかが毎年8月24日までに通告すれば終結できることになっていたという。締結以前は北朝鮮に関わる軍事情報は韓国と米国が、米国と日本がそれぞれ共有して、日本の情報は米国を仲介して日本の了解のもと韓国が、韓国の情報は韓国の了解のもと日本が入手する手続きになっていたという。

 韓国側の「GSOMIA」破棄の動きに対する官房長官菅義偉の午前記者会見発言(NHK NEWS WEB/2019年7月29日 12時04分)

 菅義偉「協定は両国の安全保障分野での協力と連携を強化し、地域の平和と安定に寄与するとの認識のもとに、締結以来、毎年、自動延長してきている。政府としては日韓関係が現在、非常に厳しい状況にあるものの、連携すべき課題はしっかり連携していくことが重要だと考えており、適切に対応していきたい」

 「GSOMIA」の重要性、必要性の発言となっている。つまり自動延長が望ましいとしている。当然、韓国側が「GSOMIA」の延長に関してどのような動きに出るか情報収集に出ただろうし、破棄の動きを察知したなら、それを阻止しなければならない。

 対して韓国政府は2019年8月22日、「GSOMIA」を延長せずに破棄することを決めたと発表、日本の長嶺駐韓大使が翌8月23日に韓国外務省に呼び出されて、協定破棄を通告する文書を受け取り、3ヶ月後の2019年11月22日に効力を失うことになった。

 翌日の2019年8月24日朝、北朝鮮は2発の弾道ミサイルを日本海に向けて発射。「GSOMIA」は11月21日まで生きていることから、日本と韓国は今回の北朝鮮の弾道ミサイル発射に対して補完的な情報交換を行ったということだが、その一方で「GSOMIA」破棄が日本の情報収集等に影響することはないという態度を取っている。

 補完的な情報交換とは言葉通り、それぞれ異なる情報の交換によって補完し合うということになる。具体的にはどいうことなのか、2019年8月22日付「NHK NEWS WEB」記事が防衛省情報本部長を務めた太田文雄氏の話として紹介している。

 〈北朝鮮が弾道ミサイルを発射した場合、地理的に近い韓国軍は地上に配備されたレーダーによってミサイルの発射地点など発射時の情報について日本よりも多く収集できる。
 一方、北朝鮮は弾道ミサイルを日本海に向けて発射するケースが多く、地理的に近い日本の自衛隊がイージス艦などで落下地点などの情報を正確に把握でき、ミサイルの着弾時の情報は日本の方が多く収集できる。「GSOMIA」を元に韓国が収集したミサイルの発射時の情報と日本が収集したミサイルの着弾時の情報を共有できれば、ミサイルの射程や軌道についてより正確な情報を得られる。〉
 2019年8月23日夜のBS番組。

 外務副大臣佐藤正久「協定破棄で困るのは韓国だ。韓国側の対応を冷静に見るのが我々の立場だ」(Yomiuri Online

 この発言は「GSOMIA」破棄の日本の情報収集等への無影響説で成り立っている。だが、日韓が情報を補完し合うことでより満足な情報となる体裁を取る以上、一方の情報を欠いた場合、情報のより満足な体裁を失うことになる。日本側は2019年11月22日以降、ミサイルの発射時の韓国側の情報を米国を通して入手することになるが、入手については韓国側の了承を必要とするということだから、情報の迅速性を幾分か欠く恐れが出来しない保証はない。

 つまり、情報を補完し合う必要性は明確に存在していた。破棄に関わるアメリカ側の懸念、あるいは失望を見れば、そのことを証明してくれる。存在しなければ、「GSOMIA」を締結する必要性はないし、安倍晋三のことだから、「徴用工問題で国際約束を守らないのだから、貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」の論理で日本側から「GSOMIA」破棄を打って出て、韓国悪者説の濡れ衣をさらに広げた可能性は無きにしもあらずである。

 韓国側の「GSOMIA」破棄の理由を2019年8月22日付け「朝鮮日報」記事が伝えている。

 金有根(キム・ユグン)国家安保室第1次長(8月22日記者会見)「GSOMIAを終了することを決めた。協定の根拠に基づき、延長通知期限内に外交ルートを通じ、日本政府にこれを通知する。

 日本政府が2日に明確な根拠を示さず、韓日間の信頼喪失で安全保障上の問題が発生したとの理由から『ホワイト国(優遇対象国)』から韓国を除外し、両国間の安全保障協力の環境に重大な変化をもたらした」

 その上で、〈こうした状況で安全保障上の敏感な軍事情報交流を目的に締結した協定を維持することは韓国の国益に合致しないと判断したと述べた。〉という。

 安全保障関連の全体会議関係者「政府は強制徴用被害者に対する日本企業の賠償責任を認めた大法院(最高裁)の判決を三権分立の原則の下で尊重すると同時に、韓日関係を踏まえ、韓日首脳会談の提案や2度の特使派遣を含め日本政府に解決策を提示して努力したが、日本は応じず、(文大統領が対話を呼びかけた)光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)の演説にも公式な反応を示さなかった」

 要するに日本側の韓国に対する徴用工問題解決要求と「ホワイト国」除外が予想外の拒絶反応を韓国に与え、それが「GSOMIA」破棄へと発展した。安倍政権は韓国側のその拒絶反応の程度を読み誤ち、その結果、「GSOMIA」の自動延長を望みながら、その破棄を予想することができなかった。

 安倍政権の情報収集能力とはその程度ということなのだろう。 
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2019・8・17 NHKSP〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉は天皇制が国民統治装置であることを改めて教える

2019-08-19 11:01:46 | 政治
 2019年8月17日放送NHKスペシャル〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉を文字化してみた。旧仮名遣いを現仮名遣いに、漢語を使った副詞等は現代語に変えた。昭和天皇は俳優の片岡孝太郎が演じ、初代宮内庁長官田島道治は俳優の橋爪功が演じている。

 『拝謁記』記載の昭和天皇の言葉に対する俳優の片岡孝太郎演じる天皇の発言シーンは主語を「片岡・昭和天皇言葉」で、同じく『拝謁記』記載の初代宮内庁長官田島道治の言葉に対する俳優の橋爪功演じる発言シーンは主語を「橋爪・田島道治言葉」で表した。

 最初に大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載し、最後に大したことのない自分なりの解釈を紹介したいと思う。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 要するに天皇は憲法上は軍を掌握した絶対的主権者に位置づけられていた。

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~〉

 語り・広瀬修子(元NHKのアナウンサー)

 語り・広瀬修子「終戦の翌年から全国各地へ巡幸を始めた昭和天皇。人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされ――」

 映像 昭和天皇に子どもを混じえた大勢の国民が歓声を上げ、バンザイする中で。

 昭和天皇「戦災にもあったんだろう?」

 国民・男性「いえ、戦災にはあいません」

 国民・女性「勿論です」

 昭和天皇「新日本建設の歩みにお互いに努力してみたいね」

 国民「はい」
 
 語り・広瀬修子「巡行する昭和天皇の後ろに常に付き従う人物がいた。初代宮内庁長官田島道治である。占領の時代、象徴となった天皇を支え続けた(田島道治の顔映像)。その田島道治が遺した貴重な記録が見つかった。

 『拝謁記』。5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁。その記録から明らかになったのは敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白。

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは、私にも沢山あると言えばある」

 語り・広瀬修子「手帳6冊、ノート12冊に及ぶ『拝謁記』。4人の研究者が読み解いた。

 研究者「こんだけの量を。しかもびっしりと」

 研究者「天皇も感情を持った生身の人間だったことがよく伝わってくる。なかなか衝撃的な――」

 研究者「やっぱり一字一句、天皇の言葉をちゃんと記録しておこっていう、この気持ちがやっぱり表れているんだろうなと思います。

 ちょうど天皇のあり方が大きく変わる時期なので、憲法ができて、大事な変わり目のところの天皇の肉声が分かったっていう意味で大変に貴重な資料だと思いますねえ」

 語り・広瀬修子「敗戦の責任を感じていた昭和天皇、戦争について国民の前で話したいと強く希望していた。日本の独立回復を祝う式典(1952年(昭和27年)5月3日)でのお言葉である。

 『拝謁記』には田島との遣り取りが対話形式で記されている。番組では一字一句、忠実に再現していく。

 昭和天皇は戦争責任について、カモフラージュ、曖昧にするか。実情を話すか、初めに問いかけた」

 片岡・昭和天皇言葉「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実情を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「多くの犠牲者を出した太平洋戦争。天皇は反省に拘り続けた」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「ところが、総理大臣の吉田茂は戦争に言及した文言の削除を求めてきた」

 原稿用紙の上白部に「吉田首相削除説」の手書きの文字と、その横に「吉田首相削除説」の活字文字を並べた映像。

 橋爪・田島道治言葉「総理の考えと致しましては、戦争とか敗戦とかいう事は生々しい事は避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉「しかし戦争のことを言わないで反省のことはどうつなぐか」

 語り・広瀬修子「初公開、初代宮内庁長官の『拝謁記』。昭和天皇のどのような実像が浮かび上がってきたのか」

 〈昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」~〉のキャプション。

 語り・広瀬修子「その象徴となった天皇と、その出発点を見つめていく。

 田島道治の遺族のもとで極秘に保管されてきた『拝謁記』。孫の田島圭介さん」

 自宅でか、ノートをめくる田島圭介氏の映像。

 語り・広瀬修子「戦後間もない時期、祖父道治と同じ家で過ごした。この『拝謁記』が奇跡的に残されたイキサツがあると言う」

 田島圭介「祖父が晩年、結構入退院を繰り返してたんですけれども、入院するときに何か、自分、身辺整理ということで、『拝謁記』を焼こうとした。叔父がそれを止めたんです。

 『決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残しなさい』ということを叔父は祖父を説得して、で、辛うじて焼却は免れたと」

 語り・広瀬修子「叔父が亡くなる。時代も昭和から平成、令和へと変わる中で、この資料を公開することにしたという。

 (皇居正面の映像)田島道治は宮内庁の前身、宮内府の長官に就任したのは1948年6月(1948(昭和23年)6月5日のキャプション)、終戦から3年。占領下、宮中の改革が求められていた。

 ときの総理大臣芦田均は白羽の矢を立てたのが田島道治だった。初めての民間からの登用だった。田島は当時62歳。戦前、金融恐慌後の銀行の建て直しに尽力。その再建の手腕を買われたのである。

 当時、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇。しかし『拝謁記』には皇室と国民との関係を良くしようと理解を示していく姿が記されている」

 片岡・昭和天皇言葉「皇室と国民との関係というものを時勢に合うようにして、もっとよくしていかなければと思う。私も微力ながらやるつもりだ。長官も私のことで気づいたら言ってくれ」

 橋爪・田島道治言葉「勿体ない仰せで恐れ入ります」

 語り・広瀬修子「田島は新憲法の理念に添うように側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていった。

 当時田島が直面したのは昭和天皇の戦争責任の問題だった。大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。日本政府は天皇は無答責、国内法上は法的責任がなかったとした。しかし敗戦の道義的責任を問う、退位を求める声が上がった。

 東大総長南原繁は次のように述べた。『陛下に政治上・法律上の責任はないが、道徳的な責任がある』。日本の戦争指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)。判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアでさらに広がっていく。昭和天皇の退位を押しとどめたのが連合国軍最高司令官マッカーサーだった。

 占領統治に天皇の存在が欠かせないと考えたマッカーサーはその意向を天皇に伝えた。これを受けた昭和天皇の返答が残されている。

 (マッカーサー記念館映像。英文字の書簡。)

 1948年11月(12日)、田島道治が天皇に代わって送った書簡である」

 片岡・昭和天皇言葉「今や私は、日本の国家再建のため国民と力を合わせ、最善を尽くす所存です」

 語り・広瀬修子「事実上、退位しないとの意思を示した書簡。これで昭和天皇の退位問題は決着がついたと従来の研究では考えられてきた。しかし今回発見された『拝謁記』から、昭和天皇がその翌年も退位の可能性を語っていたことが明らかになった。

 片岡・昭和天皇言葉「講話が締結されたときにまた退位などの論が出て、色々の情勢が許せば、退位とか、譲位とかいうことも考えらるる。そのためには東宮ちゃん(皇太子のこと)が早く洋行するのがよいのではないか」

 語り・広瀬修子「東宮皇太子は当時まだ15歳。早めに外国訪問させたいと昭和天皇は自らの退位を見据えて考えていた。この退位発言をどのように捉えればよいのか。この問題に詳しい近現代史の研究者に『拝謁記』を分析して貰った」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「ああ、これですね。1949年でしたっけ。この段階でまだ退位のことを言ってるっていうのは全く予想しなかった。48年末で大体退位は決着つけられたと思ってたんですけど、その後もやっぱりくすぶってるんですね、退位問題。

 責任感、君主としての責任感というのがあって、それは一つは国民に対する君子としての責任。もう一つは皇祖皇宗ですよね、歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任。今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと。やはり敗戦という事態を迎えた。

 そのことに対する道義的な責任。皇祖皇宗と国民と両方に対する責任感覚。それがはっきりあるってことがよく分かりました」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の意向を受けて、田島が退位について相談したのは総理大臣の吉田茂だった。『拝謁記』には吉田の意見が次のように記されている。

 『拝謁記』記載の吉田茂の発言がテロップで示される。

 吉田茂言葉音声化「世の利口ぶるものがそんなことを言うのもあるが、人心の安定上そんな事は考えられぬ」

 語り・広瀬修子「1951年11月、昭和天皇は地方巡幸へ向かった。特別列車(の映像)の中で天皇と田島は退位問題について話し合う」

 (走行中の列車内の会話)

 片岡・昭和天皇言葉「私の退位云々の問題についてだが、帝王の位というものは不自由な犠牲的の地位である。その位を去るのはむしろ個人としては有難い事とも言える。現にマッカーサー元帥が生物学がやりたいのかといった事もある。

 地位にとどまるには易きに就くのでなく、難きに就き、困難に直面する意味である」

 橋爪・田島道治言葉「恐れ多くございますが、陛下は法律的には責任なきも、道義的責任があり思し召され、この責任を御果たしになるのに二つあり、一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢えて当たろうと遊ばす事と存じます。

 そして陛下は困難なる第二の責任を取る事の御気持である事を拝しまするし、田島の如きは色々考えまして、その方が日本の為であり、結構な結論と存じまする」

 語り・広瀬修子「昭和天皇と田島は退位せず、日本の再建に当たる道を選択した。退位を巡る昭和天皇と田島の判断にどのような背景があったのか」

 (「『拝謁記』分析プロジェクト」のキャプションとそのメンバーの映像)

 語り・広瀬修子「4人の研究者が分析に取り組んだ。その中心になったのが日本大学の古川隆久教授(近現代史)である」

 古川隆久教授「昭和天皇は個人的には何度も言ってますけれども、まあ、辞めた方が気が楽になるっていうのは私は偽らざる本心だと思います。それは常識的に考えれば、退位した方がいいんだろうなって、多分昭和天皇は分かってると思うんです。

 本来なら退位して当然の立場で、留位するってことが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかってことが、私凄く気になっていた。国民の意思が決定的に重要だという認識があるからこそ、ああいう気にしてることがしょっちゅう出てくるっていうふうに考えていいんじゃないかと思います」

 語り・広瀬修子「国民に自らの立場をどのように伝えていくのか。昭和天皇にとって大きな課題が敗戦の道義的責任だった。1951年9月、サンフランシスコ平和条約調印。翌年の発効で7年近くに及んだ占領が終わり、日本は独立を回復することになる。

 独立に当たり国民に向けてどのようお言葉を表明するのか」

 片岡・昭和天皇言葉「講和となれば、私が演説と言うか、放送と言うか、何かしなければならぬかと思う。ここで私の責任の事だが、従来のようにカモフラージュで行くか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」

 橋爪・田島道治言葉「その点、今日からよく研究致します」

 語り・広瀬修子「お言葉の検討は田島に託された。これ以後、1年余り、試行錯誤が続くことになる。田島が起草したお言葉案は八つ残されていた。最も古いものは1952年1月15日案。(1952年)5月3日のお言葉表明に向けて、何度も書き直しが続いた。

 昭和天皇がお言葉案に強く求めた文言が――」

 片岡・昭和天皇言葉「私はどうしても『反省』という字をどうしても入れねばと思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は戦争への反省を語った。その回想は日中戦争の時代から始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「私は反省というのは私にもたくさんあると言えばある。支那事変で南京でひどい事が行われているという事を低いその筋でないものからうすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私はこの事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判(極東国際軍事裁判所が市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂公に置かれたことから)になったことを見れば、実にひどい」

 当時の南京の映像。

 語り・広瀬修子「日中戦争の最中に起きた南京事件。日本軍は略奪暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害した。事件は戦後東京裁判で問題となった」

 片岡・昭和天皇言葉「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて下剋上とか、軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらみな反省して、繰り返したくないものだという意味も、今度の言う事のうちにうまく書いて欲しいと思う」(00:20:43)

 橋爪・田島道治言葉「その点は一生懸命作文を練っております」

 語り・広瀬修子「天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を書き加えた」

 「おことば」3月4日案の原稿の「過去の推移」云々の手書き文字に活字文字を添えた、「【三省】何度も反省すること」との説明付きの映像。

 語り・広瀬修子「『過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』

 反省したい過去の推移とは何なのか。『拝謁記』の中で昭和天皇は太平洋戦争に至る道を何度も田島に語っていた。それは張作霖爆殺事件にまで遡る。1928年、旧満州の軍閥張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した(当時の現地の映像)。

 事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。

 その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した(軍馬や徒歩で行進する関東軍の映像)。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた」

 片岡・昭和天皇言葉「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣のときに張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」

 語り・広瀬修子「陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター、2・26事件(当時の映像)。天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されたが、軍部の台頭がさらに強まっていく」

 片岡・昭和天皇言葉「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」

 語り・広瀬修子「その後日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいく」

 (当時の映像と「日中戦争1937年7月~」のキャプション)。

 語り・広瀬修子「1941年、東條内閣はアメリカ、イギリスに宣戦布告。太平洋戦争が始まった」

 片岡・昭和天皇言葉「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた。

 終戦で戦争をやめるくらいなら、宣戦前か、あるいはもっと早くやめる事が出来なかったかというような疑いを退位論者でなくても、、疑問を持つと思うし、また首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」

 橋爪・田島道治言葉「それは勿論あると思います」

 片岡・昭和天皇言葉「いや、そうだろうと思うが、事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」

 古川隆久日本大学教授「深い後悔の念を誰かに話さずにはいられないっていう、そういうものだと思いますねえ。ですので、如何にその局面がですね、結果としてそうなってしまったことを、まあ、自分として残念だったかっていうことの裏返しだと思います。

 その量が多いのはそれだけで昭和天皇も、後悔なり、反省なりが多かったんだったと思います。戦後でも、戦前・戦中に生きているって言ってもいいような暮らしぶりだったってことが窺えることだと思います。

 (軍服で白馬に跨る昭和天皇の映像)

 憲法上、あるいは世間の常識から見れば、統治権の総攬者天皇は主権者でしたから、やはりあの大事な場面は天皇が何とかすべきだったんじゃないかって思っている人は多いんだろうじゃないかとか昭和天皇は考えています。

 では、なぜそれができなかったんだっていうことはですね、自分なりに納得できる答を探してるっていうのが資料から窺えるかと思います」

 語り・広瀬修子「昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島。2月26日、田島はお言葉の下書きを天皇に説明した」

 片岡・昭和天皇言葉「琉球を失った事は書いてあったか」

 橋爪・田島道治言葉「残念とは直接ありませんが、『国土を失い』とあります」

 片岡・昭和天皇言葉「そうか。それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」

 橋爪・田島道治言葉「『犠牲を重ね』とはありますが、その厚生の事はある時の案にはありましたが、削りました。と申しますのは、万一政治に結びつけられると、わるいと思いましたからですが、これは大切の事ゆえ、またよく考えます」

 片岡・昭和天皇言葉「犠牲者に対し同情に堪えないという感情を述べる事は当然であり、それが政治問題になる事はないと思うが」

 語り・広瀬修子「日本人だけで310万人が犠牲となった戦争。中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなった。日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下に置かれることになる」

 橋爪・田島道治言葉(立ち上がった姿勢で)「一寸読んでみますかから、訂正を要するところを仰せ頂きたいと存じます。

 『事、志と違い、時流の激するところ、兵を列強とを交えて、遂に悲惨なる敗戦を招き、国土を失い、犠牲を重ね、かつて無き不安と困苦の道を歩むに至ったことは遺憾の極みであり、日夜これを思うて悲痛限りなく、寝食安からぬものがある。

 無数の戦争犠牲者に対し深厚なる哀悼と同情の意を表すると同時に過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒慎せねばならない』」

 片岡・昭和天皇言葉「内外に対する感謝。戦争犠牲者に対する同情及び反省の意はよろしい。内閣へ相談して、あまり変えられたくないネー」

 語り・広瀬修子「田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めた。その結果、修正を求める声が上がった。これを受けて、田島は天皇に説明した」

 (御座所 1952年3月10日)

 橋爪・田島道治言葉「主な二、三の反対を強く致しましたが、その第一は『事志と違い』というのを削除するという事でありました。何か感じがよくないとの事であります」

 片岡・昭和天皇言葉「どうして感じが良くないだろう。私は『豈朕(あにちん)が志ならんや』ということを特に入れて貰ったのだし、それを言って、どこが悪いのだろう」

 語り・広瀬修子「ここで問題となった『事志と違い』という文言」

 『太平洋戦争 1941年12月8日』のキャプション

 語り・広瀬修子「太平洋戦争は天皇の志と違って始まったということを意味していた(猛攻撃を受けて噴煙を空高く上げている戦艦の静止映像)昭和天皇は開戦の詔書で表明していた(詔書の映像)。『今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん=不和の始まり)を開くに至る。豈朕(あにちん)が志ならむや』

 『米英との宣戦がどうして私の志というのか』。昭和天皇は戦争が自らの志と異なって始まる。東條英機(の映像)は平和が望みだと伝えていたと述懐した」

 片岡・昭和天皇言葉「私はあの時、東條にハッキリ英米両国と袂を分かつという事は実に忍びないと言ったのだから」

 橋爪・田島道治言葉「陛下が『豈朕が志ならんや』と仰せになられましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたことゆえ、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ、戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」

 語り・広瀬修子「田島は例え平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、『事志と違い』というのは弁解に聞こえると述べた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「凄い微妙な問題ですけれど、自分の志としては平和を望んでいたんだっていうことですよね。開戦で言えば、(19)41年の9月6日の午前会議ぐらいまでは昭和天皇は明らかに迷ってますよね。ためらっている。

 軍の強硬派にに対する警戒心があって、ためらっていると思いますけど、そのあとは消極的な形であるにせよ、開戦はやむなしっていうふうに考えたのは事実だと思うんで、最終的に今、あの、軍の意見に同調する形になるわけですけど、その部分はちょっと落ちちゃっているところですね」

 語り・広瀬修子「田島は大学時代、国際親善と平和を説いた新渡戸稲造に学んだ。戦争中から軍部に批判的だったと言う」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「やはり田島は民間人で、民間の組織の責任の在り方を分かっていますから、それ(弁解)を普通の人に言ったら、分かってもらえないだろうっていうことがあって、天皇の立場でそれを言ってしまうと、他に責任転嫁してることになってしまうので、外には言わない方がいいってことになっていますけれども、まさにあれは昭和天皇の偽らざる信頼できる人だけに言える本音の一つだというふうに思いますね」

 語り・広瀬修子「結局但馬は『事志と違い』を削除し、『勢いの赴くところ』という表現に改めた。戦争への反省を巡って会話を進めるなか、昭和天皇が何度も口にした言葉があった。陸軍の中心にいて、政治を左右した軍閥への不満や批判だった」

 『拝謁記』中に書き記された「軍閥の弊」、「軍閥の政府に終始不満」、「軍閥がわるいのだ」といった天皇の言葉。

 片岡・昭和天皇言葉「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対いやだ」

 「朝鮮戦争勃発 1950年6月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「1950年、朝鮮戦争が勃発。これをきっかけに日本では再軍備に向けた動きが始まる。警察予備隊が発足(「1950年8月」のキャプション)。予備隊が旧軍と同じ捧げ銃(つつ)を行っているのを見た天皇は、次のように述べた」

 片岡・昭和天皇言葉「ともすると、昔の軍にかえるような気持を持つとも思えるから、私は例の声明、メッセージには反省するという文句は入れた方がうよいと思う」

 「吉田・ダレス会談 1951年」のキャプション
 
 語り・広瀬修子「当時アメリカは日本に再軍備を強く求めていた。しかし吉田茂はアメリカの特使ダレスに対して消極的な姿勢を示した。経済的な復興を優先したからである」

 「吉田茂 1955年録音」のキャプションと録音テープの映像。

 語り・広瀬修子「吉田は証言している」

 吉田茂テープ音声「ダレスが来たときだったかな、再軍備で。冗談言っちゃあいけないと。そう言ったんですよ、私はね。再軍備なんてもってのほかだと。日本の実情を知らないから、そんなことを言うんだと。

 出来るもんじゃない。本人、ダレスの目の前でそう言ってやったんですよ。日本としてはなるべくあいつを利用して、アメリカに(朝鮮戦争は?)おっかぶせて、そして倹約しようと」

 語り・広瀬修子「ダレスの要求に応じない吉田」

 吉田茂演説「我が党は再軍備はいたさない」

 「衆議院議員 鳩山一郎」のキャプション

 語り・広瀬修子「これに対して公職追放を解除された保守政治家たちは改憲した上での再軍備を主張していく」

 鳩山一郎演説「日本にある警察予備隊は巡査なんですか?兵隊なんですか。そんなんじゃないです。これは軍隊でありますので、私は憲法改正は必要だろうと思います」

 会場の聴衆が一斉に拍手。

 語り・広瀬修子「こうした情勢のもと、昭和天皇は田島にどのような考えを伝えていたのか。天皇は旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争の最中、共産勢力の進出を心配していた」

 片岡・昭和天皇言葉「軍備と言っても、国として独立する以上、必要である。軍備の点だけ公明正大に堂々と(憲法を)改正してやった方がいいように思う」

 語り・広瀬修子「昭和天皇は再軍備について何度も田島に相談していた」

 片岡・昭和天皇言葉「吉田には再軍備のことは、憲法改正するべきだということを質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

 語り・広瀬修子「再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂。研究者はそれ次のように読み解く」

 「歴史家(近現代史) 秦郁彦」のキャプションと人物映像。

 秦郁彦「ここでね、日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり、憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家としてね、当然ではないんだろうかと。しかし旧軍閥の復活はダメだという、その前提がありますけれども。

 で、吉田は吉田で独自の再軍備の構想を持っていて、とにかく今すぐね、ちょうど警察予備隊ができたとこですけど、日本の経済力が足らないうちはできないから、それまでは待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対」

 語り・広瀬修子「質問という形で吉田茂に度々意見を伝えようとする天皇。田島は次のように諌めた」

 田島道治言葉音声化「そういうことは政治向きの事ゆえ、陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます。例え吉田首相にでも御触れならぬ方がよろしいと存じます」

 「象徴 【内奏】天皇への報告」のキャプション。

 語り・広瀬修子「明治憲法では天皇は神聖にして侵すべからずとされ、大権を持った君主であった。戦後、新憲法で象徴となっても、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、
政治や外交についての意見を伝えようとしていた」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱり二つの憲法を生きた天皇なので、昭和天皇は明治憲法と日本国憲法。明治憲法の時代の意識が必ずしも払拭できていないところがやっぱりありますね。元首としての自知識って言いますかね、それはやっぱり一本ずっとあって、やはり色んな問題について自分の意思を表示しようとする。

 それに対して田島は、もう日本国憲法の下で象徴天皇制を位置づけていくという、こいういうはっきりした問題意識を持っていますので、政治に関わるような問題を天皇が言うのは絶対ダメっていう、そんな意思はかなりはっきりしていて、象徴天皇制の枠の中に天皇を押しとどめる、と言うと、言葉は悪いですけれども、押しとどめようとした。

 そのためにはかなり厳しいことも、諌めるようなことを繰り返し言っているわけですね。やっぱり日本国憲法のもとでの天皇制なんだっていう、天皇なんだっていうことがあって、それは田島の一貫した責任感のようなもの、それを感じますね」

 語り・広瀬修子「(1952年)3月4日、田島は総理大臣吉田茂の元を訪ね、お言葉案を説明した。吉田はこのように述べた」

 吉田茂言葉音声化「大体結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というもを力強く表して頂きたい」

 語り・広瀬修子「吉田の求めに応じ、次の言葉が追加された。『新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは期して待つべきであります』。

 憲法尊重の文言が加えられ、3月30日、お言葉の最終案ができあがった。田島は大磯の邸宅にいる吉田茂に最終案を速達で郵送した。最終案を吟味する吉田茂。田島のもとへ吉田から思わぬ手紙が届いた」

 「御座所 1952年4月18日」のキャプション。

 目を閉じて聞く天皇。

 橋爪・田島道治言葉(天皇の前に立った姿勢)「一昨日夕方、手紙が送ってまいりました。ところが、一節全体を削除願いたいという申し出でありました。それはこの節であります。『勢いの赴くところ、兵を列国と交えて敗れ、人命を失い、国土を縮め、ついにかつてなき不安と困苦とを招くに至ったことは遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき=過去の実績)に顧みて、悔恨悲痛、寝食のために安からぬものがあります』

 語り・広瀬修子「赤鉛筆で記された『吉田首相削除説』の文字。そこは天皇が戦争への悔恨を表した重要な一節だった。吉田が削除を求めた背景には当時、再燃しようとしていた天皇退位論があった」

 「衆議院予算委員会 1952年1月」のキャプション。

 語り・広瀬修子「国会で中曽根康弘議員が質問した」

 中曽根康弘発言「天皇が御自らのご意思でご退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」

 吉田茂発言「これを希望するが如き者は私は非国民と思うのであります」

 語り・広瀬修子「田島は吉田の懸念を天皇に伝えた」

 橋爪・田島道治言葉「要するに折角今声をひそめてるご退位説をまた呼びさますのではないかとの不安があるという事でありまして、今日は最早戦争とか言う事は言って頂きたくない気がする。領土の問題、困苦になったという事は、今日申しては天皇責任論にひっかかりが出来る気がするするとの話でありました。

 その次の『勢いの赴く所』以下は兎に角、戦争をお始めになったという責任があると言われる危険があると申すのでございます。田島としましては昨年来陛下国民に心情を告げたいという思召の出発点が消えてしまっては困りますというような事で、一応分かれて参りましたが、思召、お感じの程は如何でございましょうか」

 片岡・昭和天皇言葉「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う。やはり戦争が意思に反して行われ、その結果がこんなになったという事を前に書いてあるから分かるが、それなしではいかぬ」

 語り・広瀬修子「吉田の『一節削除』は何を反省するのか曖昧になる原稿だった。4日後、天皇はなおも戦争への反省を拘った」

 橋爪・田島道治言葉「あれからずっと考えたのだが――」

 片岡・昭和天皇言葉「総理が困ると言えば、不満だけれども、仕方ないとしても、私の念願ということから続けて、遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」

 語り・広瀬修子「田島は普段とは異なる天皇の様子を記している」

 橋爪・田島道治言葉「今日ははっきり不満を仰せになる。総理の考えと致しましては、終戦の時のご詔勅で一先ず済みと致しまして、むしろ今後の明るい方面の方の事を
主として言って頂きたいという方の考えであります。

 この際、戦争とか敗戦ということは生々しいことは避けたいという意味であります」

 片岡・昭和天皇言葉(声を大きくして)「しかし戦争の事を言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」

 橋爪・田島道治言葉「戦争の事に関して明示ない以上ぼんやり致しますが、反省すべきことは何だと言う事は分かると思います」

 橋爪・田島道治言葉「別に何とも仰せなく、曇ったご表情に拝す」

 語り・広瀬修子「吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇。祝典(皇居前広場で行われた独立記念式典)は12日後に迫っていた。田島は詳細なメモを作って、準備した。このメモを元に田島は天皇への最後の説得に臨んだ。それは次のとおりだった」

 立った姿勢で天皇に対して原稿を読む田島道治の映像。広瀬修子のナレーションに応じてテロップが流れていく。

 語り・広瀬修子「『国政の重大事 政府の意思尊重の要 祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし 遺憾の意表明 則ち退位論に直結するの恐れ』」

 橋爪・田島道治言葉「お言葉につきまして田島が職責上、一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除なさった方がよろしいという結論に達しました。

 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」

 片岡・昭和天皇言葉「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」

 橋爪・田島道治言葉「御思召を1年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを御許し願い、誠に申し訳ございませぬ」

 深々と頭を下げる田島道治。

 片岡・昭和天皇言葉「いや、大局から見て、私はこの方がよいと思う」

 語り・広瀬修子「田島は新しい憲法の下で象徴となった天皇は内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えた」

 日本大学文理学部教授(近現代史)

 古川隆久「天皇が心の底から納得したかどうかはちょっと別なんですけれども、少なくとも田島は政府の当局者である吉田茂首相ととことん話し合って、納得してやってるんだと思います。その象徴天皇制の枠の中で天皇はどこまで政治的な発言ができるか、初めての具体的な例。

 結局はなるべく具体的なことは言わない方向がベストだろうという方向に落ち着いていった過程がこの資料で見えてきたというふうに思います」

 語り・広瀬修子「1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されて、日本は独立を回復した。5月3日、皇居前広場で式典が開かれ、4万人が詰めかけた。昭和天皇は国民の前でお言葉を述べた」

 昭和天皇(映像)「さきに万世のために太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること七歳。米国を始め、連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました(聞き入っている吉田茂の映像)。

 ここに内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては改て深甚なる哀悼と同情の意を表します。また特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびなせざることを堅く心に銘すべきあると信じます。

 (巡幸する昭和天皇の映像や皇居の水田で米の種を撒く映像等)

 新憲法の精神を発揮し、新日本国建設の使命を達成し得ることを期して待つべきであります。この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります・・・・・・・」

 熱狂的にバンザイする群衆の映像。
 
 語り・広瀬修子「新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに独立を祝うと報じた(新聞の見出しの映像)。このお言葉はその後の日本にどのような影響を残したのか」

 一橋大学特任教授(近現代史)

 吉田裕「やっぱりその、謝罪、責任を認めて、道義的な責任を認めて詫びるっていうところのニュアンスは明らかに消えちゃってますよね。むしろ重い負担を敢えて背負う形で引き続き天皇としての責任を果たすという議論だけになっちゃったり。

 天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにするっていう言葉があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて、そこから議論が始まりますよね。それが大きな問題。もし出されていれば。

 すべての責任を天皇だけに、昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかないわけですから。戦前、戦後を生きてきた政治家や周りの人が戦争に協力した責任、国民の責任をどう考えるのか。そういう問題にも発展していく可能性のある問題だと思うんですね。

 ただこれがやっぱり曖昧な形で処理されてしまったっていうのは、悔やまれるところですね」

 歴史家(近現代史) 

 秦郁彦「結局、うやむやの内になってしまったという、だからそれは、天皇にとっては非常に心苦しかったんだと思いますけれどもね。昭和天皇はせめてですね、国民に対する、まあ、いわばお詫びみたいなね、そういう言葉を入れたかったと。だけど、吉田は『そんなものは入れるな』と言う。

 (株取引所に活況シーン、建設ラッシュの映像)

 ちょうど朝鮮戦争の特需ってのがありましてね、それで以って景気が回復されて、いわばですね、経済成長路線というものに踏み出していくと。そういう未来が見えてきたわけですからね、国民の大多数がどん底から這い出て、経済成長路線にどうやら乗ったらしいと、みんな前の方に希望を託すと――」

 語り・広瀬修子「1953年(12月)、田島は宮内庁長官の職を退いた。その後、ソニー会長になった田島。1960年(9月)、ご成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場を訪れた。迎える田島道治(その映像)。

 初めての民間出身の皇太子妃誕生。その選定にも貢献があった。戦後、国民と歩みを共にしてきた昭和天皇。1989年、87歳で生涯を閉じた。昭和から平成、そして令和へ。受け継がれてきた
象徴天皇。その出発点を記録した『拝謁記』。田島は、次のように記している。

 『新しき皇室と国民との関係を理想的に漸次致したいと存じます』

 昭和天皇と田島道治の5年間の対話。それは象徴天皇とは何か。改めて私たちに問いかけている」(終わり)

 改めて大日本帝国憲法第1章「天皇」の主だった条文を記載してみる。

 第1章 天皇
 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額(兵士の人数)ヲ定ム

 番組でも、〈大日本帝国憲法では天皇は軍を統帥し、統治権の全てを握っていた。〉と絶対的主権者であることを紹介していた。いわば軍の統帥に関しても、国家と国民に対する統治権に関しても、大日本帝国憲法は天皇なる存在に対してオールマイティを保障していた。だからこそ、「神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定される至っていた。

 1928年(昭和3年)6月4日、日本の関東軍は高級参謀の日本政府の関与を受けない単独謀略によって中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で奉天軍閥の指導者張作霖を列車ごと爆発させて暗殺した。番組はこの事件を、〈事件を曖昧に処理しようとした総理大臣の田中義一を昭和天皇が叱責したら、首謀者は転職になっただけで、真相は明らかにされなかった。〉と紹介しているだけではなく、〈その3年後(1931年9月18日)、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府はそれを追認した。昭和天皇は軍の下克上とも言える状態を憂えていた。〉と軍部の独断専行を描写している。

 軍部に顕著なこういった不穏な事態からは天皇の軍に対する威令を伴ったオールマイティな統帥権は見えてこない。天皇の統帥権を他処に勝手に動く軍の動向のみ見えてくる。

 初代宮内庁長官田島道治によって『拝謁記』に記された昭和天皇の言葉、「青年将校は私を担ぐけれども、私の真意を少しも尊重しない。軍部のやることは、あの時分は真(まこと)に無茶で、とてもあの時分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」云々からも、同じく絶対的統帥権者としての昭和天皇のオールマイティな姿はそのカケラさえも見えてこない。

 さらに『拝謁記』に記した昭和天皇の言葉、「東條内閣の時は既に病が進んで、最早どうする事も出来ないということになってた」云々の「病」とは昭和天皇から見た軍部の独走・横暴を言っているのだろう。

 元々は対米開戦反対派の昭和天皇が対米開戦派であり、陸軍強硬派の東条英機を木戸内大臣の推挙を受けて、1941年10月17日に当時陸軍大臣だった東条英機を皇居に招き、組閣の大命を下したのは強硬派を以って軍部の強硬派を抑えて、対米開戦の動きを封じる意図からだと言われているが、その意図も虚しく、空振りに終わって、東條英機は対米開戦派の先頭に立つに至った。

 東条英機のその動きに対して昭和天皇は『拝謁記』に自身がそれ程にも対米開戦に反対であったなら、「首相をかえる事は大権でできる事ゆえ、なぜしなかったかと疑う向きもあると思うが」との言葉を残している。だが、「事の実際としては、下克上で、とても出来るものではなかった」と、首相の首をすげ替える「大権」を「下克上」なる状況に阻害されて、自由に揮うことができなかった有体(ありてい)を正直に告白している。

 ここで言っている「下克上」とは天皇の絶対的統帥権内にあるべき、特に陸軍上層部がその統帥権を蔑ろにして勝手に動き回る権力の上下逆転を意味しているはずだ。

 このような状況からも、大日本帝国憲法に規定された絶対的主権者としての天皇のオールマイティは憲法の世界の中だけの話しで、現実の世界ではそのオールマイティは無情にもいつでも剥ぎ取られる、いわば裸の王様状態にあることを曝け出している。

 大日本帝国憲法内のオールマイティに過ぎないということはその憲法によって天皇はオールマイティの存在に祭り上げられていたに過ぎないことを意味する。祭り上げられていただけのことだから、実権なきオールマイティを背中合わせにすることになった。「神聖ニシテ侵スヘカラス」は簡単に無視される架空の存在性に過ぎなかった

 では、そのようにも実体を備えていない大日本帝国憲法での天皇の数々の絶対的規定でありながら、例え表面的なオールマイティに過ぎなかったとしても、そのようなオールマイティを規定しなければならなかった理由は何なのだろう。

 それは内情を知らない国民には有効な、あたかも実質を備えているオールマイティに見えるからに他ならない。大日本帝国憲法の規定通りに天皇を「神聖ニシテ侵スヘカラス」偉大な存在と解釈させることによって、天皇のその存在性を通して国民に対した場合、便利な国民統治装置となるからだろう。だから、戦前は何事も天皇の名に於いて決定されていった。

 戦前の天皇と国民の関係を見るとき、新興宗教の教祖と熱狂的な信者の関係を見ることができる。政界上層部や軍上層部は天皇に対してそういった関係は築きもしないのに国民に対してだけ、そういった関係で縛る。この場合、教祖に当たる天皇自体、軍部や政治家に操られる存在だった。

 そして大日本帝国憲法から日本国憲法へと憲法が変わった戦後の天皇象徴の時代になっても、天皇と国民の教祖と信者との関係はその名残りを残している。そのことは天皇を無闇矢鱈と有り難る国民の姿から窺うことができる。

 例え象徴であっても、天皇の存在は国民統治装置として大いに役立っている。

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再掲/2012年8月15日敗戦の日放送NHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」文字化

2019-08-15 05:48:50 | 政治
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

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 2012年8月15日敗戦の日放送の当番組を文字化して、2012年8月17日と8月18日に二度に分けてブログにエントリーし、数日置いてこの番組の解釈として当時の国家指導者とそれに連なる官僚等の責任不作為について同じくブログにエントリーしたが、この放送から約4ヶ月後の2012年12月26日に国家主義者であり、戦前型天皇主義者でもある安倍晋三の第2次安倍政権に入ってから、その影響から日本が顕著に右傾化していく状況を目の当たりにして、それへの警告も含めて、2019年8月15日の敗戦の日を迎えて、文字化した内容を一つに纏め、少々書き直しも含めて、再度エントリーすることにした。可能な限り忠実に文字化してあると思うが、意味が伝わらない箇所があったなら、ご容赦願いたい。

 戦前の日本国家とその軍隊を賛美するのか、否定的に捉えるのか、解釈は“表現の自由”です。

 俳優の竹野内豊(48歳)が進行役を務めている。当時は41歳と言うことになる。見た目の印象はもっと若く見えたが、番組を見た頃は年齢が何歳とは考えもしなかった。放送側の登場人物の、「~しました」といった丁寧語は省略して、「~した」というふうに表現した。

 竹野内豊「今日は8月15日、多くの犠牲を生んだ太平洋戦争が日本の敗北で終わった日。なぜあのとき、日本はアメリカと戦い続けたのか。なぜもっと早く戦争をやめることができなかったのか。

 NHKではこれまで未公開だった資料や膨大な関係者の証言を検証してきた。その結果、新たに多くのことが分かってきた。敗戦間際まで本土決戦を叫んでいた日本の指導者たちは実は早い時期から敗北を覚悟し、戦争終結の形を模索していた。

 ならばなぜ戦争終結の決断はできなかったのか。

 67年前の歴史の闇に迫りたいと思う」

 ここで画面に、『終戦 なぜはやくきめられなかったのか』(The end of the war)の文字。

 オリンピック開催中のロンドンが映し出される。

 ナレーション(女性)「イギリス、夏のオリンピックが開催されたイギリス、ロンドンから、戦争末期の日本の歴史観を塗り替える大きな発見があった」

 イギリス国立公文書館建物。その内部。

 ナレーション(女性)「第2次対戦当時の膨大な機密書類が保管されている」

 イギリス人女性館員「これは当時の日本の外交官や武官が本国と遣り取りしていた極秘電報です。それをイギリス側が解読していた。

 ナレーション(女性)「(『ULTR』)ウルトラと呼ばれる最高機密情報。この中に日本のヨーロッパ駐在武官が東京に送った暗号が残されている。数千ページもの極秘電報の中から今回見つかったのは戦争末期の日本の命運を左右する、ある重大な情報である。

 昭和20年5月(24日)、スイス・ベルン(駐在)の(日本」海軍武官電報。

 『ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した』

 当時の日本が知らなかったとされるソビエトの対日参戦情報である。

 昭和20年8月9日、ソビエトは中立条約を破棄して侵攻した。敗戦の決定打ともなった対日参戦が日本では不意打ちだったとされてきた。

 この半年前(昭和20年2月)、ヤルタ会談でアメリカ、イギリス、ソビエトの間で密約の形で取り決められたソビエトの対日参戦。もし日本がこの情報を事前に掴んでいたなら、終戦はもっと早かったとも言われてきた。

 しかし情報が届いていたことが確認された」

 ヤルタ会談でのチャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真が映し出される。

 ナレーション(女性)「情報が届いていたにも関わらず、なぜ早期終戦に結びつかなかったのか」

 防衛省防衛研究所の建物。

 小谷防衛研究所調査官「これは結構新発見じゃないですか」

 ナレーション(女性)「情報機関の研究が專門の防衛研究所、小谷賢調査官。NHKと共に共同で極秘電報の分析に当たってきた。

 参戦情報の報告は一通だけではなかった。6月(昭和20年6月8日)、リスボン(駐在)の(日本)陸軍武官電」

 男性ナレーション「(電文)7月以降、ソ連が侵攻する可能性は極めて高い」

 ナレーション(女性)「同じ6月(昭和20年6月11日)、ブルン(駐在)の(日本)海軍武官から」

 男性ナレーション「(電文)7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」

 ナレーション(女性)「驚くことにヨーロッパの複数の陸海武官が迫り来るソ連参戦の危機を刻々と警告していた」

 小谷防衛研究所調査官「今までは日本政府は陸海軍共、ヤルタの密約については何も分かっていなかったと。で、8月9日のソ連参戦で初めて、皆がびっくりしたというのが定説だったと思いますけれども、やはり情報はちゃんと取れていたことがですね、この資料から明らかになっていると思います。再考証が必要になってくる事態ではないかと思います」

 ナレーション(女性)「早くから把握されていたソビエトの参戦情報。その一方で研究者や公的機関に残されていた軍や政府関係者の專門の証言テープからも、新たな事実が浮かび上がってきた。

 国のリーダーたちは内心では終戦の意志を固めながら、決断の先送りをしてきたことが明らかになってきた」

 陸軍省軍務課長(録音音声)「阿南(陸軍大臣)さんの腹ん中は講和だったんですよねえ。始めっから講和なんですよねえ。

 ところが(徹底抗戦)を主張せざるを得なかったわけですよね」

 終戦工作担当海軍少将(録音音声)「3人以上だとね、あの人(鈴木貫太郎首相)何も喋らない。だけど、差しだと本当のこと言うんです。腹とね、その公式の会議に於ける発言とね、表裏がね、違って、一体いいものかと――」

 後に出てくる高木惣吉海軍少将のことらしい。

 ナレーション(女性)「大戦に於ける日本人の死者310万人。犠牲者は最後の数カ月に急増していた。

 そしてシベリア抑留者、中国残留孤児、北方四島問題など、後世に積み残される様々な課題が戦争最後の時期に発生した。

 もっと早く戦いをやめ、悲劇の拡大を防げなかったのだろうか」

 『熊本県人吉町』のキャプションとその街のシーン。

 ナレーション(女性)「終戦の歴史を紐解く上で重要な一人の軍人の故郷(ふるさと)が熊本県にある。川越郁子さん。親族として個人が残した膨大な資料を大切に保管してきた。

 海軍少将高木惣吉。戦争末期、海軍トップの密命を受け、戦争終結の糸口を探る秘密工作に当たっていた人物です(国内工作)。終戦工作の過程を克明に記録したメモ等が近年になって次々と発見され、殆ど記録に残っていない戦争末期の国家の舞台裏が生々しく蘇ってきた」

 録音機の映像。

 ナレーション(女性)「未公開の内容を多数含む複数の肉声の存在も明らかになった」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「目ぼしい連中をね、当たって、『どうだろう、終戦をやろうじゃないか』、陰謀をやってたわけなんです。松谷くん(陸軍大佐松谷誠)とはしょっちゅう会ったし、個人的にも会ってね、段々こうして話しているとね、こんなにね、(戦争終結の)見通しっていうのは違っていないんですよ。やっぱりね。

 終戦という言葉は使いませんよ。だけど、戦局はもう、ものすごくクリティカル(重大)な点にきているというようなね、そういう表現で、殆どの意見はそんなに変わらない」

 主たる登場人物の肩書きと写真。

 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)
 陸軍大臣 阿南惟幾(あなみ これちか)
 外務大臣 東郷茂徳
 宮中(内大臣) 木戸幸一
 
 海軍少将 高木惣吉
 陸軍大佐 松谷誠
 外務大臣秘書官 加瀬俊一
 内大臣秘書官長 松平康昌
 
 ナレーション(女性)「陸海軍、外務省、宮中、高木は主要な組織の中に連携する人物を見つけ意見を交換しながら、終戦の実現を目指そうとしていた。

 事態が大きく動き出したのは昭和20年春からである。4月、米軍はついに沖縄に上陸を開始し、戦場は本格的に日本国内へと移った」

 B29が爆弾を次々に投下していく空襲シーン。

 ナレーション(女性)「日本本土は連日の空襲に曝され、3月と4月だけで20万人の犠牲者を生んでいた。5月には同盟国ドイツが降伏。その翌日、アメリカのトルーマン大統領は日本の軍部に無条件降伏を要求した。

 竹野内豊「このとき国家のリーダーたちはどう考えていたのだろうか。その主役は6人の人物だった。内閣総理大臣の鈴木貫太郎、外務大臣の東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟幾、海軍大臣米内光政、陸軍参謀総長梅津美治郎、海軍軍令部総長及川古志郎。

 当時の国家組織は軍と政府が別々の情報系統を持ち、事態が悪化する中に於いて情報を共有しないなど、タテ割りの弊害が露わになっていた」

 竹野内豊「この際、6人のリーダーはタテ割りを排し、腹を割って本音デ話そうと側近を排除した秘密のトップ会議を始めることにした」

 ナレーション(女性)「昭和20年5月11日、6人のリーダーが極秘に宮中に集まった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 外務大臣東郷茂徳「我々6人のみで戦争終結への道筋をつけたいと思った次第である。まだ国力があるうちに着手すべきである」

 ナレーション(女性)「軍のトップも戦争終結が最大の課題だと認識していた。講和を結ぶのは米軍に対して一撃を加えたあと、というのが条件としていた。

 一撃でアメリカが動揺を来たしたところで交渉を持ちかけ、少しでも有利な条件で講話しようという考えである。

 その際の日本のベストシナリオとして浮かび上がったのだ、中立を守る大国ソビエトを交渉の仲介役に利用しようというものだった」

 日本のこれまでの戦績の一覧がキャプションで示される。

 サイパン島陥落 昭和19年7月
 硫黄島陥落 昭和20年3月
 
 陸軍大臣阿南惟幾「まだ日本は領土をたくさん占領している。負けていないということを基礎にしてソ連との話を進めるべきだ」

 海軍大臣米内光政「我が国にもっと有利になるような友好的な関係をソ連と築くチエはないのか」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣はソビエトへの大幅な譲歩を提案した」

 外務大臣東郷茂徳「対ソ交渉を進めるには相当の代償を考えておく必要がある。ソ連の要求をある程度呑むという決意が必要である」

 ナレーション(女性)「長年、日本の仮想敵国であったソビエト。しかし、アメリカ、イギリスと同じ連合国側とは言え、必ずしも一枚岩ではないとの見方があった。

 実際にソビエトへの譲歩が真剣に議論されていた様子を当時の外務省の幹部が戦後に証言している」

 外務省政務局長安東義良「終戦する以上は満州からね、日本の兵隊を引き揚げちゃおうと。中立化しちゃおうと言うんだ、東郷さんが、『梅津参謀総長と僕と米内さんと』と言っておられた。

 3人でいよいよ終戦する以上は、日清戦争前までの状態に返らなきゃならんかもしれんと。

 いやいや、日露戦争前までぐらいではいかんだろうかって言うようなことをお互いに話をしたっていうことを僕に言われたんですよ。与えるべきものはこっちも与えると。向こうに対して譲るべきものは譲ると」

 ナレーション(女性)「ソビエトを和平交渉の仲介役などに利用しようかという議論を終戦間際までトップ6人の間で続くことになる」

 竹野内豊「ここで重大な疑問が浮かぶ。間もなくソビエトが攻めてくることを指導者たちは知っていたはずだ。ロンドンで所在が確認された日本の武官情報。その情報は5月以降、時期や規模などが急速に具体性や精度を上げてきており、陸海軍トップはこれを真剣に受け止めていたはずだ」

  前出の武官電がキャプションで再度掲載。 

 スイス ベルン海軍武官電 昭和20年5月24日 「ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した」
     ベルン海軍武官電 昭和20年6月11日 「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」
     
 竹野内豊「しかし、このソビエトの参戦情報については、なぜかトップ6人が話しあった形跡はない。

 ソビエトの出方を話し合う6人の秘密会議は6月以降も続いていた。果たして情報はきちんと伝わっていたのか」

 ナレーション(女性)「トップ6人の1人だった東郷外務大臣はソビエトの参戦情報を知っていたのだろうか。参戦情報が早い時期から伝えられていたことは外交官として活躍してきた孫の東郷和彦さんにとっても大きな驚きでした」

 東郷和彦「これは初めて聞きますよね。当然大本営には入っていましたよね。だから、外務大臣に入ってなかったどうか、分からないっていうことですよね。

 ええ、それは東郷茂徳が書き残したすべての中でヤルタで7月に(ソ連が)参戦するという話が決まっていたという話はなかったと思いますからね、東郷茂徳の頭にはね」

 ナレーション(女性)「陸海軍側はソビエト参戦の密約を知りながら、それを外務省に伝えず、ソビエトとの交渉に臨ませようとしていた可能性がある」

 東郷和彦「ソ連の参戦防止、それからソ連をできるだけ友好的に日本に近づける(友好構築)。最後にソ連を通じて仲介をやってみる(和平仲介)。

 と言うのは、4月から6者の共通の意志になっていたわけですから。ですから、その可能性(ソ連参戦)がないんだということを、もし軍が掴んでいたとすれば、大本営がそれを外務省か内閣に出していないんだとすれば、それは何と言うか、信じ難い話ですよねえ」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣のもとでのちに対ソ交渉に当たる安東政務局長は参戦情報は知らなかったと証言している。

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「スターリンがルーズベルトと話し合って、あんな日本処理案をお互いに協定しとるね。そんなもんは知らんもんね。こっちは」

 ナレーション(女性)「組織のタテ割りを克服しようと設けたはずのトップ6人の秘密会議。しかしリーダーたちはその最初から国家の最重要情報の共有に失敗していた。

 なぜ共有しなかったのか。当時の軍で支配的だったのは、あくまでも米軍に本土決戦を挑むという考えだった。

 決戦の全体構想を描いた参謀本部作戦部長宮崎周一が当時の思惑を戦後語っている」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「ここ(本土)へ上がってきたときに。ここで一叩き叩けばね、えー、終戦というものを、ものに持っていく、その、動機が掴める。

 それがあのー、私が、その、本土決戦というものを、あれ(終戦計画)を一つの、動機になるんだが」

 ナレーション(女性)「侵攻する米軍を中国大陸に配置した部隊とも連携して迎え撃つ。一撃の時期は夏から秋と想定していた」

 第2総軍参謀橋下正勝(録音音声)「もう国力も底をついておるし、これが最後の戦いになると。

 それで一撃さえ加えれば、政治的に話し合いの場ができるかも分からん。できなければ、我々は、もう、ここで、えー、討ち死にするなり。

 南方の島と違う点は、島はそこで玉砕すれば終わりですがね、これはまだ本土続きですから、いくらでも援兵を送れると」 

 小谷防衛研究所調査官「軍のトップがソビエトの参戦情報を伏せたのは対米一撃のシナリオを維持し続けたかったからではないかと考えています。

 一撃よりも前にソビエト参戦の可能性があるとなれば、一撃後のソビエト仲介による講和というシナリオは崩壊します。一気に無条件降伏に向かう恐れがありました。

 ソ連参戦の情報があって、ソ連が敵に回るということが分かっていればですね、その情報を陸軍として出したくないと。

 当然、最初に作られた作戦ですとか、目的に合わない情報というのはですね、基本的にはそれは無視されるという運命にあるわけです」

 ナレーション(女性)「一方の外務省も軍の情報収集能力を過小評価し、積極的な協力体制を築こうとしなかった。

 東郷外務大臣の側近として終戦工作に関わっていた松本俊一次官の証言」 

 松本俊一外務次官(録音音声)「この人(軍人)たちが世界の大勢、分かりますか。当時の外務省以上に分かるわけないですよ。それは外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねー、裏も表も。

 それは知らないのは陸海軍ですよ。陸海軍でいくら明達の人だってね、外務省だけの情報、持っていません。外務省がなぜかならですね、そのー、敵方の放送も聞いてるんです。分析しているでしょう。

 日本の今の戦争の何がどうなっているか、みんな知ってますよね、外務省は」

 竹野内豊「なぜ重要な情報が共有されなかったのか。今もなお多くの謎が残されている。新たに分かった事実をどう把え直すか。専門家の間でも真剣な議論が始まった。

 昭和史の研究をリードする歴史学者の加藤陽子さん。元外交官で国際政治の現実に通じてきた岡本行夫さん(外交評論家)。アジアという視点から日本の政治思想を分析してきた姜尚中さんの3人です」

 加藤陽子「日本が本当にこの情報を知っていたとすれば、なかなかこれは新しいことで、勿論、知っていたことについては、えーと、当事者の回想という形で残っていました。

 しかし、イギリス側のその電報で証拠が残っていたというのは大きいと思いますけれども」

 岡本行夫「イギリスで見つかった電報って、本当に衝撃的ですね。あそこまでね、外にいた武官たちが掴んでいたということは、私も初めて知りました」

 加藤陽子「それでは、陸海軍はそれを知っていたとして、外務省や鈴木首相、どうでしょうか」

 岡本行夫「外務省は知らされていなかったと思いますねえ。あのー、主に公開情報の分析をやっていたじゃないですかねえ。外交官たちはどうも色んなものを見つけても、中立国で中にずうっと分け入って入っていったっていう、あんまりそういう報告はないですね」

 加藤陽子「じゃあ、なぜこのような重大な時期に有利な情報を比較的日本も手に入れたにも関わらず、重要な情報が共有されないのか」

 岡本行夫「まあ、情報の共有の問題以前にね、情報を軽視するところがあるんですね。兎に角ね。この、タテ割りの組織ですから、もう、軍も、それから日本政府全体もね。

 外から来る話っていうのは基本的には雑音なんですよ。自分たちが取ったもの以外はね。で、自分たちが取ったものを自分たちに都合いいものだけを、これを出していく。

 今から見るとね、様々ないい情報が来ていたんですね。でも、そういうものを総合的にその情報としてひとつの戦略に組み替えていくっていう、こういうことは殆どなされないんですねえ」

 加藤陽子「例えば、日本の歴史っていうのも、いいときも悪いときもありましたよね。例えば明治期日清、日露やったときにご存知のように明治天皇のもとでの元老というものが軍人でありながら文官でもあり、最高位を極めるという人は横の情報をお互いに知らせ合うわけですね。

 で、伊藤博文に教えておけ。伊藤博文に教えておけというようなことを山形(有朋)が言う。

 ま、そういうことがあったり、あと大正期には、これもあの比較的に知られていないかもしれないんですけども、中国に対する情報っていうのは日本は比較的に真面目に外務省も陸軍省も海軍省も摺り合わせる度量がありまして、『あら会』なんて言って、あぐらをかいて牛鍋を食べてっていうような上方の会同(会議のため、寄り集まること。その集まり)ですね、それをやった実績は大正期にはあるんですね。

 しかしこの頃になりますと、この6人のメンバーで司会はいないんですよね。で、こういう情報が上がっていますが、どうでしょうっていうような話を向けて、全体としての強調を叩き出すような人がいない」

 姜尚中「だから、陸軍、海軍、まあ、あるいは首相とか、色々な国務大臣、それがセクショナリズム、縄張り意識がありながら、また、内部の中に現場を踏んでいる側と、それからまあ、中枢で色々なプロジェクトを練っている側との会議がある。

 そういうヨコとタテとの、それぞれのある種のタコツボがですね、こういうものが進んでいて、今までのものがもううまくいかないかもしれないという、そういう想定をしたくない。

 したくないから、そういうものはあり得ないと言うように、自分にも言い聞かせてるし、それで新しい事態に対応できなくなると――」

 ナレーション(女性)「「昭和20年)6月初旬、沖縄の戦況は悪化の一途を辿り、守備隊の全滅が時間の問題となっていた。全国民に対して本土決戦の準備を加速するよう、指令が出された。

 国民の犠牲を省みずに捨て鉢の本土決戦に突き進んだように言われる当時の陸軍。しかし参謀本部作戦部長の宮崎周一の証言が本土決戦を前にした陸軍の全く違う側面を浮き彫りにしていた」

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「物的、客観的情勢に於いて、大体に於いてできると。あるいは相当な困難、あるいは極めて困難。

 まあ、この三つくらいに分けて、これは俺も考えた。(本土決戦は)極めて困難。はっきりいう。聞けば聞く程困難。極めて。

 それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんな事言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」

 ナレーション(女性)「果たして陸軍トップはどのように戦争の幕引きを考えていたのか。意外にも当時の陸軍中央では戦争終結に向けた重大な転換が始まっていたと考えるのが気鋭の若手研究者、(明治大文学部講師)山本智之(ともゆき)さん。

 山本さんが注目したのは陸軍中央の人事です。戦争終盤の陸軍中央では徹底抗戦を主張する強硬な主戦派が主要なポストの大半を占め、僅かな数の早期講和派が存在していた。

 主戦派の東條大将が人事権を握ると、中央から早期講和派が一掃され、一段と主戦派の発言権が強まった。

 しかし昭和19年7月、東條に代わって梅津美治郎が参謀総長に就任すると、状況に変化が生じたという。

 組織の人事系統図を基に主戦派と早期講和派が色分けされた図が出る。

 明治大学講師山本智之「まあ、(主戦派の)服部卓四郎(参謀本部作戦課長)さんなんかはね、ずっと作戦課長をやっていたんですけども、(19)45年2月には支那派遣軍に転軍になりますよね。(主戦派の)真田穣一朗(参謀本部作戦部長)なんて言うのも、3月に中央の外に出されるんですよねえ。

 強硬な主戦派が徐々に排除され、逆に左遷されていた早期講和派の将校が呼び戻された。

 主戦派が陸軍中央からいなくなると、まあ、戦争終結に持っていきやすいっていう、そういった人事の可能性高いですよねえ。戦争継続路線から戦争終結路線へと方針転換するのって、急にはできないんですよね。

 少しずつした準備をしていって、その上で方針転換をしていくっていう、まあ、梅津とか阿南という人物が慎重に戦争終結に導こうとしていたところが窺えますよねえ」

 ナレーション(女性)「徹底抗戦から戦争終結へという重大な転換が陸軍大臣の阿南の言動にも読み取ることができる。

 阿南は陸軍大臣に就任して以来、一貫して対米決戦を主張していた。しかし、この表向きの強硬姿勢の裏にある複雑な思いに触れたのは阿南の秘書官を務めた松谷誠(陸軍)大佐でした。

 自分が目の辺りにした陸軍トップの意外な一面を高木(惣吉海軍少将)にそっと明かしていた。それは(昭和20年)5月末のある日、松谷が終戦に向けた独自の交渉プランを持って阿南を訪ねがときのことだった」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍大佐松谷誠「国体護持のほかは無条件と腹を決めるべきです。早ければ早い方が有利です。国内的にも軍がいくらやっても、もうだめだと分からせる時期です」 

 ナレーション(女性)「松谷の案は事実上の降伏受け入れであった。大臣の激怒を覚悟していた松谷。阿南の反応は予想外のものだった」

 陸軍大臣阿南惟幾「私も大体君の意見のとおりだ。君等、上の者の見通しは甘いと言う。だが、我らが心に思ったことを口に表せば、影響は大きい。

 私はペリーのときの下田の役人のように無様に慌てたくないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

 ナレーション(女性)「厳しい結末を覚悟し、それを受け入れるための時間と準備が必要だと明かした阿南。問題はそのような時間が日本に残されているかである。

 こうした中、(昭和20年)6月6日、新たな国家方針を話し合う最高戦争指導会議が開かれた。

 トップ6人だけですら、タテ割りの壁を崩せない中で局長や課長まで参加するこの会議では腹を割って話すことはいっそう困難となる」

 〈高木惣吉の記録等をもとに再構成〉のキャプション

 陸軍参謀次長河辺虎之助「講和条件の検討など、相手に足元を見られるだけです。あくまでも徹底抗戦を貫くべきです」

 ナレーション(女性)「河辺虎之助がこれまでの原則どおりに徹底抗戦を改めて主張した。阿南大臣もその強硬論に反論しなかったため、決定された方針は和平交渉から大幅に後退した内容となった」

 明治大学講師山本智之「それはやっぱり会議の席で、そういった弱音を吐くとね、やっぱり主戦派の方に伝わっちゃうんですよね。戦争推進派、主戦派への配慮ですよね。

 主戦派が暴走するのではないかと、いう、そういう懸念があるから、慎重な発言にならざるを得ないところがあるお思います」

 ナレーション(女性)「日本には敗戦も降伏もないと叫んできた軍にとって、徹底抗戦の方針は曲げるに曲げられないものとなっていた。

 しかし陸軍トップの苦しい胸の内は多くの側近が感じ取っていた」

 陸軍省軍務課長永井八津次(録音音声)「阿南さんの中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんです。阿南さんはね、ところが部下のものが非常に強く言うし、無条件降伏したときに天皇さんがどうなるのかっちゅう、ことがその当時から非常に大きな問題。

 天皇様、縛り首になるぞと。こういうわけだ。

 それでも尚且つ、お前らは無条件降伏を言うのかと。

 誰もそれに対しては、『いや、それでもやるんだ』っちゅう奴は誰もおりませんよ。

 その点がね、僕は、その、阿南さんの心境というものが非常にね、お辛かったと思うんですよ」

 ナレーション(女性)「この頃、海軍にヨーロッパの駐在武官から重大な情報がもたらされた。(昭和20年)6月7日の高木(惣吉)の記録」

 記録した用紙と文字が画面に映し出される。

 ナレーション(女性)「スイスの駐在武官が極秘にアメリカ側と接触を続けた結果、驚くべきことを伝えてきた。

 アメリカ大統領と直接つながる交渉のパイプができそうだというのです。アメリカの言う無条件降伏は厳密なものではない。今なら、戦争の早期終結のための交渉に応じるだろうという報告であった。

 これを千載の一遇の機会と見た高木(惣吉)は米内(海軍大臣)を訪れた。ソビエトに頼るのではなく、アメリカと直接交渉すべきだというのが、高木の考えだった」

 高木惣吉と米内海軍大臣の写真を用いて模したテーブルを挟んで座っているシーン。

 海軍少将高木惣吉(構成シーン)「直接、アメリカ側と条件を探るチャンスです。この際、このルートを採用すべきです」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私は米内さんに、もし私でよかったら、(スイスに)やってくださいと」
 ナレーション(女性)「しかし米内の返答は高木を失望させるものだった」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「謀略の疑いがあるのではないのか」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「これは陸軍と海軍を内部分裂させる謀略だと、こういうわけなんです」

 ナレーション(女性)「米内はこの交渉から海軍は手を引き、処理を外務省に任せるよう指示した。

 もしアメリカの謀略なら、日本は弱みを曝すことになり、その責任を海軍が負わされることになると恐れたのです。

 米内が手を引くよう指示したアメリカとの交渉ルート。このとき相手側にいたのはのちにCIA長官となるアレン・ダレスだった。最新の研究によると、アメリカ国内では当時ソビエトの影響力拡大への警戒感が高まっていた。ソビエトが介入してくる前に速やかに戦争を終結させるため、日本に早めに天皇制維持を伝えるべきとする考え方が生まれていた。

 ダレスを通じた交渉ルートは進め方によっては日本に早期終戦の可能性をもたらすシャンスだった」
 
 海軍少将高木惣吉(録音音声)「私はね、スイスの工作なんか、もっと積極的にやってよかったんじゃないかと思うんですよ。日本はもうこれ以上悪くなりっこないじゃないかと。

 内部だってね、もうバラバラじゃないかと。だから、落ちたって、騙されたってね、もうこれ以上悪くならないんだから、藁をも掴むでね。もしそれからねヒョウタンからコマが出れば拾い物じゃないかと」

 ナレーション(女性)「一方、ダレスの情報を海軍から持ち込まれた外務省が当時模索していたのはソビエトを通じた和平交渉だった。

 スイスのルートは正式な外交ルートから外れたものとして、その可能性を真剣には検討しなかった」

 外務次官松本俊一(録音音声)「例のアレン・ダレス辺りね、あんなもの無意味ですから。僕ら情報持っていたけど、そんなものは相手にしたくもない。謀略だと思うね」

 再び加藤陽子と岡本行夫、姜尚中の3人の検証シーン。

 加藤陽子「宮崎参謀作戦部長など、本当にもう本土決戦は無理だと、極めて困難だと。しかしそれを言えないっていうことを言ってました。

 ただ、沖縄でも、組織的な抵抗、敗退する。そしたら、本土だけになって、まあ、状況が決定的に変わったにも関わらず、なぜ、やはり4月に、5月に、6月に取れた情報、ソビエトが必ずやってくるということが分からないのか」

 岡本行夫「もう本当にタコツボに入っちゃうと、周りのことが一切見えなくなるっていうのは、悲しい限りですねえ。

 今最後のVTRでね、松本俊一外務次官が言ったね、ダレス機関なんて言うのは、あれは信用できないとかね、そんなこと言ったら、新しい話はすぐに信用できないで片付けられる。

 だから、基本的には武官からの情報だから、ダメだって言うわけでしょ。これは高木惣吉さんが残念がるのは無理もない話しですねえ。

 あれで本当にね、動き始めたかもししれないですねえ。だけど、外務省が取ってきた情報じゃないってことで、切って捨てるわけでしょ」

 加藤陽子「例え切り捨てでしたら、情報などと統合する、何て言うんでしょうか、帝国防衛委員会というようなプライオリティ、ランクなんですよ。何が重要なのか。それを決める会議があって、それで様々な、10万とかたくさんの情報を処理することが、その会議とのフィルターを通じてできる。

 で、アメリカも、国家安全保障委員かとかもある。だから、日本も、日本にとって、じゃあ何が大事なのか」

 姜尚中 「やっぱり国務大臣は各独立して天皇に対して輔弼の責任を負うと。で、独立してっていう言葉の所に非常に大きな意味があるし、ところがいつの間にか輔弼ってところが我々ば普通考える政党政治のリーダーシップとまるっきり違うものに――」

 姜尚中の発言中に――

 大日本帝国憲法下の国務大臣の権限は互いに独立・平等

 輔弼 天皇の行為に進言し、その責任を追うこと
とキャプション。

 加藤陽子「政策を統合して陛下に上げるという、そういうことではないという――」

 姜尚中「なくなっているということでしょうね。だから、どこかでやっぱり天皇にすべてのことを結局、具申していないし、まあ、現状そのものを追認するだけでいいし。

 だから、外側からは局面転換はモメンタム(きっかけ)をね、まあ、期待するという、ある種の待機主義、待っているという――」

 加藤陽子「なる程――」

 竹野内豊「近い将来、敗北を受け入れなければならないことはリーダーたちは分かっていた。しかしその覚悟は表には現れない。刻々と過ぎていく決定的な時。

 そうした中、カギを握る陸軍のリーダーが動き出す」
 ナレーション(女性)「徹底抗戦の国策が決定された直後の(昭和20年)6月11日、異例の報告が陸軍トップによって天皇になされた。中国の前線視察に出かけていた(陸軍)参謀総長の梅津美治郎が側近にも打ち明けていない深刻な事実を奏上した」

 (今回付記:「Wikipedia」〈1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された〉

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「支那派遣軍はようやく(=辛うじて)一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」

 ナレーション(女性)「陸軍の核を握っている精鋭部隊にすぐに徹底抗戦は愚か、一撃すら期待できない程弱体化しているというものだった」

 中国戦線なのだろう。日本兵の一塊となって隙間もなく累々と横たわった死者が映し出される。

 ナレーション(女性)「日頃は冷静だった梅津の告白に天皇は大きな衝撃を受けた。

 天皇から直接その様子を聞いたのが内大臣の木戸幸一」

 内大臣木戸幸一(録音音声)「要するに往年の素晴らしい関東軍もなきゃ、支那総軍もないわけなんだと。

 碌なものはないという状況。艦隊はなくなっちゃってるだろう。それで戦(いくさ)を続けよというのは無理だよね。

 要するに『意地でやってるようなもんだから、大変なんだよ』と(天皇が)おっしゃっていたよ」

 明治大学講師山本智之「支那派遣軍の壊滅状態を天皇に報告すれば、天皇も気づくと思うんですよね。これは本土決戦できないということは。

 天皇にそういう報告をしたって言うことは、梅津が天皇に対しまして、戦争はできないって言っていることと同じなんですね」

 ナレーション(女性)「予想を遥かに超える陸軍の弱体化。一撃後の講和という日本のベストシナリオは根底から崩れようとしていた。

 梅津の上奏から間もない6月22日、天皇が国家のトップの6人を招集した。天皇自らによる会議の開催は極めて異例の事態。

 リーダーたちに国策の思い切った転換、戦争終結に向けての考え方が問いかけられた」

 天皇(構成シーン)「戦争を継続すべきなのは尤もだが、時局の収拾も考慮すべきではないか。皆の意見を聞かせて欲しい」

 海軍大臣米内光政(構成シーン)「速やかにソ連への仲介依頼交渉を進めることを考えております」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣もこれに同意を示した。

 決戦部隊の弱体化とソビエトの参戦が近いという情報。国家に迫る危機の大きさを全員が共有するチャンスがこのとき訪れていた。

 ここで(天皇は)梅津参謀総長に問いかける」

 天皇(構成シーン)「参謀総長はどのように考えるか」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重に行った方がよいと思います」

 ナレーション(女性)「梅津は見てきたはずの陸軍の実態に触れなかった」

 明治大学講師山本智之「梅津、阿南が戦争終結を願いながらも、主戦派の排除に、主戦派を排除し切れないっていうね、そういった背景でそういう発言をするのではないかと。

 排除し切れていないんですよね。結構不安もある」

 ナレーション(女性)「しかし天皇は異例にも梅津に問いかけを続けた」

 天皇(構成シーン)「慎重にし過ぎた結果、機会を失する恐れがあるのではないのか」

 小谷防衛研究所調査官「天皇の意図としては自分がこうやって臣下の者たちと腹を割って話し合おうという態度を見せているわけですから、おそらく、天皇としては本当に梅津や阿南が主戦派なのか、もしくは心の奥底では実は和平を望んでいるのかと、そういうところを確認したかったんだろうと思います」

 ナレーション(女性)「しかし梅津も阿南も重大な事実は口を噤んだままだった」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「仲介依頼は速やかなるものを要します」

 ナレーション(女性)「 天皇は梅津に詰め寄る」

 天皇(構成シーン)「よもや一撃の後でと言うのではあるまいね」

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「必ずしも一撃の後とは限りません」

 ナレーション(女性)「軍の最高幹部が一撃後の講和というベストシナリオに拘らないという姿勢を初めて表わした瞬間だった。

 しかしこの段階になっても、軍の実態とソビエトの参戦が近づいているという重要な事実はリーダーの間で共有されることはなかった。

 宮中に於ける政治動向分析の第一人者、茶谷誠一成蹊大学文学部助教授。

 この会議が早期に終戦に持ち込む最大のチャンスだったと把えている」

 成蹊大学文学部助教授茶谷誠一「一撃を加えられない。じゃあ、どうしようかというふうなことを6人の中でもっと真剣に22日にやっておけなかったのかという言うのは、ちょっと現代人の我々から見れば、それは責任というか、もうちょっとある程度真剣に最後の引き際をもうちょっと早く考えられなかったのかと。

 事態が事態なわけで、双方から上がってきた情報というものを少なくとも最高戦争指導会議の構成員である6人が共有するようなシステムにしていれば、事態がもっと早く動いていた可能せもあるわけなんですけども――」

 ナレーション(女性)「 水面下の工作に奔走していた高木惣吉海軍少将。破局を前に決断をためらうリーダーたちに失望を露にしていた」

 海軍少将高木惣吉(録音音声)「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのはね、腹とね、公式の会議に於ける発言と、そういう表裏が違っていいものかと。

 一体(苦笑)、国家の命運を握った人がね、責任ある人がね、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったなど、どうするのか。

 職責がどうだとか、ああだとか、言われるんですよ。それはご尤もなんですよ

 だけど、平時にはそれでいい。だけど、まさにね、そのー、祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、そういう平時のね、公的なね、解釈論をやっている時期じゃないじゃないかと。

 自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは、その、平時の習慣を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

 ナレーション(女性)「 天皇招集の異例の会議から3日後、沖縄戦は敗北に終わった。軍人と民間人、合わせて18万人が犠牲となった」

 再度、加藤陽子、岡本行夫、姜尚中が登場。なぜ方針転換を決断できないのかのキャプション。

 加藤陽子「今回のVTRや調査で明らかになった6月22日、これは天皇がかなりリーダーシップ取っておりますね。

 だから、私も非常に不明だったんですが、8月の二度のいわゆる天皇による聖断ですね。あれでガッと動いたと思ったんですが、その前に(6月)22日の意思がある。一撃しなくても、講和はあり得るでしょうねってことが天皇が確認したことが一件あった。

 なーんで組織内調整、じゃあ6人の会議の中に天皇が参加したときの組織内調整ができないのかっていうのが、どうでしょうか。仲間意識とか、そういうことで言うと、姜さんは」

 姜尚中「6人ともやっぱ官僚ですよね。必ずしも官僚は悪いとは思わないけど、やっぱり矩(のり=規範)を超えずっていうところにね、とどまったんじゃないかと。自分の与えられた権限だけにね、

 だからそこに逃避していれば、火中の栗を拾わなくても済むと。それはやっぱり優秀であるがゆえに逆に。

 で、これは今でも僕は教訓だと思うんです」

 岡本行夫「それにしてもねえ、ヤルタでの対日ソ連参戦の秘密合意についての情報が天皇にまで伝わっていれば、それは歴史変わっていたと思いますね。

 6月22日の御前会議のもっと早い段階で天皇は非常に強い聖断、指示をしていたのではないかと。

 そうするとね、沖縄戦に間に合っていたかどうか分かりませんが、少なくとも広島、長崎、そしてソ連の参戦という舞台は避けられていた可能性はありますねえ」

 加藤陽子「だけど、本当のところで、終戦の意志を示す責任はあるというのは内閣なんだろうってことを、自分が背負っている職務って言うんでしょうか、一人、こんな私が日本を背負っているはずがないというような首相なり、あの、謙遜とか、非常に謙虚な気持で思っているかもしれない。

 でも、そうは言っても外交なんで、内閣が輔弼する、つまり外務大臣と内閣総理大臣、首相なんですよね」

 姜尚中「やっぱ減点主義で、だから、何か積極的な与えられた権限以上のことをやるリスクを誰も負いたくないわけ。

 その代わりとして、兎に角会議を長引かせる。たくさんの会議をやる。(笑いながら)で、会議の名称を一杯つくるわけですよね。

 で、結局、何も決まらない。いたずらに時間が過ぎていくという。会議だけは好きなんですね。みんな」

 加藤陽子「日本人はそうかもしれない」

 姜尚中「たくさん会議をつくる」

 岡本行夫「戦争の総括をまだしていないんですよねえ。日本人自身の手で、誰が戦争の責任を問うべきか、どういう処断をすべきかってことは決めなかった。

 そして日本人は1億総ザンゲ、国民なんて悪くないのに、お前たちも全員で反省しろ。

 で、我々はもうああいうことは二度としませんと。だから、これからは平和国家になります。一切武器にも手をかけません。

 そう言うことでずうっと来ているわけです。本来は守るべき価値、国土、自由っていうのがあるんですねえ。財政状況だって、あれ、そういっこと今とおんなじで、財政赤字、国の債務のレベルになると、GDPの、戦争の時200%、今230%ですよね。

 それは本当にね、我々は勇気を持って、戦争を題材に考えるべきことだと思います」

 姜尚中「岡本さんのことにもし付け加えるとすると、やっぱり統治構造の問題ですね。

 で、やっぱり原発事故、ある種やっぱり、その戦争のときの所為(しょい=振る舞い)とその後の、ま、ある種の無責任というか、それはちょっとやや似ている。

 それで、やっぱり現場と官邸中枢との乖離とか、それから情報が一元化されていない。

 で、どことどこの誰が主要な役割を果たしたのかもしっかりと分からない。それから、議事録も殆ど取られていない。

 で、そういうような統治構造の問題ですね、これをやっぱりもう一度考え直さないといけない。で、まあ、そういう点でも、変えるべきものは変えないといけないんじゃないかなあと、気は致しますね」

 竹野内豊「この頃、東郷外務大臣宛にヨーロッパの駐在外交官から悲痛な思いを訴えた電文が届いている」

 「昭和20年7月21日 在チューリッヒ総領事神田穣太郎電文」のキャプション。

 竹野内豊「『私達は重大な岐路に差し掛かっている。この機を逃せば、悪しき日として歴史に残るだろう。

 確固たる決意を持って、戦争を終結に導き、和平への交渉に乗り出して欲しいと、切に願う』

 決定的な瞬間にも方針転換に踏み出せなかった指導者たち。必要だったのは現実を直視する勇気ではなかっただろうか。

 終戦の歴史はいよいよ最終盤を迎える」

 「昭和20年7月16日 アメリカ・ニューメキシコ州」のキャプション

 原子爆弾の巨大なキノコ雲が噴き上がる瞬間を撮影した古いフィルの映像。

 ナレーション(女性)「 7月中旬アメリカは原子爆弾の実験に成功した。

 日本の関東軍に忍び寄る極東ソビエト軍。刻々と増強の報告が入っていた。

 そして米英ソの首脳の間で間もなく日本の終戦処理について話し合いが行われるとの情報が届く。

 トップ6人はソビエトとの交渉の糸口が掴めないまま虚しく時間を費やしていた。

 こうした中、ある人物が政府に呼ばれる。元首相近衛文麿。緊急の特使としてソビエトに赴き、交渉の突破口をつくって貰おうという案が浮上した。

 近衛特使にどのような交換条件を持たせるべきか、6人の間で再び議論が始まった」

 外務大臣東郷茂徳(構成シーン)「米英ソの会談が間もなく開催される。その前に戦争終結の意志を伝えなくてはいけない。

 無条件では困るが、それに近いような条件で纏めるほかはない」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣は思い切った譲歩の必要を説き続けた」

 陸軍大臣阿南惟幾「そこまで譲ることは反対である」

 外務大臣東郷茂徳「しかし日本が具体的な譲歩を示さない限り、先に進むことはできない」
 海軍大臣米内光政「東郷さん、その辺り(阿南惟幾が言う辺り)で纏めておきましょう。陸軍も事情があるでしょうから」

 ナレーション(女性)「 会議は交渉条件を一本化するには至らなかった。具体化した条件を各組織に持ち帰り、部下を説得するメドがこの段階でも立たなかった。

 小谷防衛研究所調査官「御前会議ですとか、政府連絡会議、もしくは最高戦争指導会議、まあ色んな会議をやっていますけども、会議が決めることができないんですよ。要は決める人がいないわけですね。

 首相も外務大臣も、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長にしろ、みんな平等に天皇に仕える身分なわけでありながら、誰か勝手にイニシアチブを取ってですね、決めることができない構造になってるわけです」

 ナレーション(女性)「 一方特使派遣の交渉を指示されたモスクワの佐藤尚武大使からは危機感に満ちた電報が繰返し届いた。

 駐ソビエト日本大使佐藤尚武(構成シーン)「ソ連は今更に近衛特使が何をしに来るのか疑念を持っている。日本側が条件を決めて来ない限りソ連は特使を受け入れるつもりはない」

 ナレーション(女性)「これに対して東郷外務大臣は苦しい説得を続けた」

 外務大臣東郷茂徳「現在の日本は条件を決めることはできない。そこはデリケートな問題だからだ。条件は現地で近衛特使に決めて貰うしかないのだ」

 ナレーション(女性)「国内の調整をすることを諦め、外交交渉の既成事実で事態を打開をしようという苦渋の一手だった。

 しかし近衛特使派遣という策は手遅れとなった。派遣を打診して2週間。ソビエト首脳はドイツ・ポツダムのイギリスとの会談に出発してしまった。

 日本のチャンスは失われた」

 キャプション

 昭和20年7月26日 ポツダム宣言発表

 日本に無条件降伏を勧告


 米英ソ首脳が握手するシーンが流される。

 キャプション

 昭和20年8月6日 広島に原爆投下
           死者14万人

     8月9日  長崎に原爆投下
          死者7万人

 同日、ソ連が中立条約を破棄 対日宣戦布告

  死者       30万人以上
  シベリア抑留者 57万人以上

 破局的な形できっかけがもたらされるまで、国家のリーダーたちが終戦の決断を下すことはなかった。


 内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。

 もうむしろ天佑だな」

 外務省政務局曽祢益(録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったてね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。

 終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。

 言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」

 8月15日、玉音放送。直立不動の姿勢で、あるいは正座し、両手を地面に突いて深く頭を垂れ、深刻な面持ちで聞く、あるいは泣きながら聞く皇居での国民、あるいは各地の国民を映し出す。

 ナレーション(女性)「 厳しい現実を覚悟し、自らの意志でもっと早く戦争を終えることができなかったのか。

 空襲、原爆、シベリア抑留による犠牲者、最後の3カ月だけでも、日本人の死者は60万人を超えていた」

 極東国際軍事裁判所

 ナレーション(女性)「終戦に関わったリーダーたちはそれぞれの結末を迎えた。陸軍大臣阿南惟幾、昭和20年8月15日自決。参謀総長梅津美治郎、関東軍司令官時代の責任を問われ、終身刑。獄中にて昭和24年病死。外務大臣東郷茂徳 開戦時の外務大臣を務めていた責任を問われ、禁錮20年。昭和25年。服役中病死

 一方、内閣総理大臣鈴木貫太郎、海軍大臣米内光政、軍令部総長豊田副武(そえむ)は開戦に直接関与していなかったとして、責任を問われることはなかった。

 東郷の遺族の元からある資料が見つかった」

 東郷和彦「これが(赤い表紙の手帳)1945年の東郷茂徳が書いていた日誌のような手帳ですね」

 ナレーション(女性)「東郷外務大臣が終戦に奔走した昭和20年につけていた手帳。孫の和彦さんの心に強く残った言葉があった」

 東郷和彦「軍がやろうとしていたことができなくて、もう勝つ方法は全くないような意味なんだと思うんです。

 これは一言なんですけどね、あの、非常に緊迫感があります」

 ナレーション(女性)『国民の危急 全面的に』

 この言葉が書かれたのは6月22日。天皇が自ら6人を呼び、国策の方針転換を問いかけた日である。

 このとき(この日に)、ソビエトの参戦情報を把握できなかったことを東郷は戦後悔やみ続けた」

 東郷和彦(東郷茂徳が著した単行本らしきものを開いて)「ヤルタで(ソ連が)戦争ということを決めていたことに、その、『そういうことを想像しなかったのは、甚だ迂闊の次第であった』と。

 もう本当に恥ずかしいというか、迂闊だったと。

 こうしてここに書かざるを得ない程、辛いことだった――」

 ナレーション(女性)「 そしてもう一人、最後まで終戦工作に奔走した高木惣吉の親族の元から未発表の資料が見つかった。

 高木が戦争を振り返って、記した文章である」

 『六韜新論』〈りくとう――『六韜』は「中国の代表的な兵法書」(「Wikipedia」) 「韜」は「包み隠す」意〉の題名のついた昔風の書物。

 ナレーション(男性)(『六韜新論』の読み)「現実に太平洋戦争の経過を熟視して感ぜられることは戦争指導の最高責任の将に当たった人々の無為・無策であり、意志の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです。反省を回避し、過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過去を繰返す危険がある。

 勇敢に真実を省み、批判することが新しい時代の建設に役立つものと考えられるのです」

 竹野内豊「310万の日本人、多くのアジアの人々。この犠牲は一体何だったのか。

 もっと早く戦争を終える決断はできなかったのか。そして日本は過去から何を学んだのか。

 この問は私たちにも突きつけられているように思う」

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安倍晋三の「徴用工」問題報復の、安全保障を理由とした韓国「ホワイト国」除外は余りにも陰湿・無責任

2019-08-05 12:01:00 | 政治
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 日本の首相安倍晋三センセイが加計学園獣医学部認可に首相としての権限を私的に行使し、私的に行政上の便宜を図る形で政治的に関与し、私的便宜を与えたとされている疑惑を国会答弁や記者会見から政治関与クロと見る理由を挙げていく。自信を持って一読をお勧め致します。読めば直ちに政治関与クロだなと納得できます。よろしくお願いします。

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 安倍政権は西暦2019年7月4日、半導体の原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置を発動、続いて西暦2019年8月2日に輸出管理優遇対象国、いわゆる「ホワイト国」からの韓国除外政令改正を閣議決定、改正を経て、8月28日から除外が発動されることになった。

 具体的に「ホワイト国」とはどのような国を指すのか見てみる。文飾当方。

 「経産省」

▼Q1:質問
ホワイト国の「ホワイト」とはどういう意味ですか。

▲A1:回答

大量破壊兵器等に関する条約に加盟し、輸出管理レジームに全て参加し、キャッチオール制度(外国為替及び外国貿易法を根拠として2002年4月に導入された、日本における安全保障貿易管理の枠組みの中で、大量破壊兵器及び通常兵器の開発等に使われる可能性のある貨物の輸出や技術の提供行為などを行う際、経済産業大臣への届け出およびその許可を受けることを義務付けた制度「Wikipedia」)を導入している国については、これらの国から大量破壊兵器の拡散が行われるおそれがないことが明白であり、俗称でホワイト国と呼んでいます。正式には、「輸出貿易管理令別表第3に掲げる地域」です。具体的には、アルゼンチン、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、カナダ、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、アイルランド、イタリア、 大韓民国、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカの合計27ヶ国です。

▼Q2:質問
別表第3に掲げる地域(いわゆるホワイト国)向けの輸出であれば、本規制の対象外になるのですか。

▲A2:回答

ホワイト国を最終仕向地とする輸出については規制対象外となります(ホワイト国を経由し、非ホワイト国を最終仕向地とする輸出については規制対象です)。

 要するに日本からの輸入した軍事転用可能な物品や技術が輸入当該国を経て第三国に輸出、あるいは流出して大量破壊兵器製造に利用されることもなく、そのような兵器拡散の恐れを持たずに済む、貿易管理が厳格な国と言うことになる。

 この「ホワイト国」から韓国を除外したということは韓国向けに日本から輸出された軍事転用可能な物品や技術が韓国から、当然北朝鮮に何らかの形で流出した具体的な事例を把握したことが原因したことになる。単なる流出の疑いだけで除外することはできないはずだ。

 マスコミの大方の伝え方も、政府の韓国に対する半導体の原材料等輸出管理強化は軍事転用可能な日本輸出の原材料であるのに対して韓国側に貿易管理の上で不適切な事例が複数見つかったことが主な理由としていて、日本の安全保障上、必要な措置だとなっている。

 この貿易管理上の複数の不適切な事例とは韓国から北朝鮮側への流出を指すことになる。

 だが、関係閣僚はこの点について誰も具体的かつ詳細には言及をしていない。つまりどのような原材料がどのような経路を取って北朝鮮に渡っているのか、誰も説明していない。逆に韓国から北朝鮮への流出を否定している。

 最初の半導体原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置発動後の2019年7月16日の閣議後の「記者会見」(経産省/2019年7月16日)で経済産業相世耕弘成は次のように発言している。(一部抜粋)

 世耕弘成「今回の対象となった3品目に関する輸出管理の運用見直しに関連する不適切事案は、韓国から第三国への具体的な輸出案件を念頭に置いたものではありませんし、今までもそういう説明は全く行ってきていないわけであります。一度も我々はそんなことを申し上げたことはないわけであります。プレスの皆さんに対しても申し上げたことはありません。

 その上で、これら製品分野については、日本が主要な供給国として国際社会に対して適切な管理責任を果たす必要があるということ、そして、この製品分野は、特に輸出先から短期間・短納期での発注が繰り返される慣行があるということ、そして、現に不適切な事案が発生をしているということなどから、我々は運用の見直しをすることになったというものでありまして、この運用見直しが何か不当であるというような指摘は全く当たらないというふうに思っています」  

 記者「韓国の文大統領は、昨日、改めて今回の措置について、重大な挑戦であるとか、国際機関の場で検証すべきということを改めて言っていますけれども、これに関してはいかがでしょうか」

 世耕弘成「先ず大統領のおっしゃっていることに、私、大臣の立場で一々反論はいたしませんけれども、2点指摘をさせていただきますと、先ず日本としては当初から、今回の見直しは、安全保障を目的に輸出管理を適切に実施する観点から、運用を見直すものであるということを明確に申し上げています。(徴用工問題の)対抗措置ではないということも、最初から一貫して説明をしてきているわけでありまして、昨日の文大統領の御発言にあるような指摘は、まず全く当たらないということを申し上げておきたいというふうに思います」――

 「韓国から第三国への具体的な輸出案件を念頭に置いた」「不適切事案」でないにも関わらず、「現に不適切な事案が発生をしている」と言うことなら、その発生している「不適切な事案」が何を指すのかの具体的かつ詳細な説明を韓国のみならず、日本国民にもすべきだが、何ら説明もせずに、韓国の「ホワイト国」からの除外を「日本が主要な供給国として国際社会に対して適切な管理責任を果たす必要がある」と言うだけ、「安全保障を目的に輸出管理を適切に実施する観点から、運用を見直すもの」と言うだけで終わらせている。

 要するに原因となる「不適切な事案の発生」を曖昧なままにして「ホワイト国からの除外」という結果だけを突出させ、安全保障の観点からだとか、輸出管理の適切な実施の観点からだと曖昧な理由を掲げているにに過ぎない。説明責任の体裁を為していないにも関わらず、記者会見でございますと気取っている。

 この曖昧さは2019年7月7日の安倍晋三のフジテレビ番組発言に象徴的に現れている。「産経ニュース」(2019.7.7 17:50)

 安倍晋三「韓国はちゃんと(対北朝鮮経済)制裁を守っている、ちゃんと貿易管理をしていると言っているが、徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ。

 (輸出管理規制強化は)徴用工問題の対抗措置ではない。彼ら(韓国)が言っていることが信頼できないのでこの措置を打った」

 韓国側の貿易管理の具体的な違反の説明がないままに、「徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」という単なる類推だけで韓国は信用できないから、西暦2019年7月4日に半導体の原材料等3品目の対韓国輸出管理強化措置を発動したことになる。

 あるいは徴用工問題で「彼ら(韓国)が言っていることが信頼できない」ことを具体的証拠もなしに貿易管理にまで広げて信頼のできないこととしている。

 そして西暦2019年8月2日になって、輸出管理優遇対象国、いわゆる「ホワイト国」からの韓国除外政令改正を閣議決定した。

 国と国との関係をこのような曖昧な理由で決定する。曖昧さを通り越して余りにも陰湿で、余りにも無責任な安倍晋三の対韓国輸出規制強化の決定となっている。安倍晋三のこの陰湿・無責任さは上記世耕弘成の2019年7月16日閣議後記者会見での韓国の「ホワイト国」からの除外の理由の曖昧さを100%も200パーセントも納得させることになる。

 このように陰湿で無責任な決定だから、「ホワイト国」からの韓国除外を曖昧にしか理由づけすることができない。

 安倍晋三は対韓国輸出管理規制強化は徴用工問題の対抗措置ではないと宣っているが、「徴用工問題で国際約束を守らないことが明確になった。貿易管理でも守れないだろうと思うのは当然だ」との発言自体に韓国に対する輸出管理強化が徴用工問題の報復措置であることの意味を含んでいる。そうでなければ、徴用工問題に関わる対韓国不信頼を貿易管理に関わる対韓国不信頼に飛躍させることはないからだ。それが陰湿で無責任な飛躍に過ぎないから、「ホワイト国」除外に関して具体的かつ詳細な説明ができないという結果を生む。

 安倍晋三を筆頭に政権閣僚は口を揃えて対韓国輸出管理規制強化は徴用工問題の報復ではないと言っているが、世耕弘成は2019年7月3日の自身のツイッターで、韓国への輸出管理上の措置に至る経緯を説明して中で2019年7月16日の閣議後記者会見同様、韓国側の輸出管理に関して具体的詳細な説明もないままに「不適切事案も複数発生していた」こと、「旧朝鮮半島出身労働者問題については、G20までに満足する解決策が示されず、関係省庁で相談した結果、信頼関係が著しく損なわれたと言わざるを得ない」ことを韓国への輸出管理上の措置に至る経緯の一つに入れている。

 要するに韓国側が旧朝鮮半島出身労働者問題に関して日本側に満足する解決策が示されなかったことが輸出管理規制強化に至る理由の一つとして掲げている。当然、他の理由に関して具体的詳細な説明がなされていない以上、徴用工問題が主たる理由となる。このことの報復だと世耕自らの口で暴露した。

 外相の河野太郎も西暦2019年8月1日に日韓外相会談がタイで行われたあとで徴用工問題の報復だと口にしている。「NHK NEWS WEB」(2019年8月2日 5時03分)

 河野太郎「今の日韓両国の問題は、ひとえに旧朝鮮半島出身労働者に関する判決で、韓国が国際法違反の状況を作り出していることにある」

 韓国を「ホワイト国」から除外する政令改正の閣議決定は7月末からマスコミによって報道されていた。当然、河野太郎は閣僚の一人として閣議決定の前日であっても、韓国の除外を承知していたはずだ。「今の日韓両国の問題」は韓国の「ホワイト国」からの除外も含めていることになる。だが、関係悪化の大本の原因に徴用工問題を置いている。そして「ホワイト国」からの除外に関わる具体的詳細な説明がない。徴用工問題の報復だとすることによって「ホワイト国」からの除外に関わる具体的詳細な説明ができないことに整合性を与えることができる。

 外務省は2019年7月29日になって1965(昭和40)年に締結された日韓請求権協定の交渉過程で韓国政府が日本側に示した「対日請求要綱」と請求に関わる「交渉議事録」を公表した。「産経ニュース」(2019.7.29 20:56)

 〈対日請求要綱は8項目で構成され、その中に「被徴用韓人の未収金、補償金及びその他の請求権の弁済を請求する」と記載されている。要綱と併せて公表された交渉議事録によると、1961(昭和36)年5月の交渉で日本側代表が「個人に対して支払ってほしいということか」と尋ねると、韓国側は「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」と回答した。

 韓国側が政府への支払いを求めたことを受け、日本政府は韓国政府に無償で3億ドル、有償で2億ドルを供与し、請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決されたこと」を確認する請求権協定を締結した。〉・・・・・

 この公表された「対日請求要綱」と「交渉議事録」を個人請求権消滅の動かぬ証拠だと評価するマスコミ記事もあった。もしこれが「個人請求権消滅の動かぬ証拠」であるなら、1991年8月27日の参院予算委員会での韓国の元徴用工の補償請求裁判に関する質疑で当時政府委員として出席した柳井俊二外務省条約局長はこの「動かぬ証拠」を水戸黄門の葵の印籠ように示して、個人請求権は消滅した、「1965年の日韓請求権協定によって完全かつ最終的に全てが解決している」と言わずに、日韓請求権協定の第2条で両国間の請求権の問題が「完全かつ最終的に解決」されたと述べていることの意味について、「これは日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということ」であり、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」などと答弁したのだろう。

 「外交保護権」とは、外国によって自国民の身体・財産が侵害された場合、その侵害を自国に対する侵害として、国家自らが、いわば自国民に代わって相手国の国際法上の責任を追及することだと言い、その「外交保護権」を相互に放棄したと言うことは、国家の立場で侵害されたことの補償請求はできないが、国家から離れて、個人が個人として補償請求する分には外交保護権の埒外であって、可能であるということになり、それが柳井俊二の「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」とする答弁に相当することになる。

 もし事実2019年7月29日外務省公表の「対日請求要綱」と「交渉議事録」が「個人請求権消滅の動かぬ証拠」であるなら、安倍政権は1991年8月27日の参院予算委員会での政府委員・外務省条約局長柳井俊二の答弁との齟齬を埋めて、完全に一致させる合理的な説明の責任を日本国民に対しても韓国に対しても果たさなければならない。

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