安倍レトリック斬る

2006-10-09 05:53:55 | Weblog

 安倍晋三はゴマカシの名人

 政治家は本来的にレトリック名人(=ゴマカシの名人)に生まれついているようだが、安倍新首相ほどのレトッリク名人は珍しいのではないだろうか。ゴマカシだけで持っているようなところがある。

 尤も政治家本人が無能・無政策であって、ボロをさらけ出すしか能がなくても、野球などのような個人個人の成績が明確に出るスポーツと違って、チームを組んでいる優秀なブレーンがボロを補ってそれなりの成果を上げてくれる場合、本人の成果として歴史に残る。逆説的に言えば、無能・無政策の政治家が成果を残す唯一の方法はハッタリや人気を利用してリーダーになることだということになる。

 新しく首相の座に就き、野党が待ってましたとばかりに問題となっている歴史認識に関して衆議院の代表質問で躍起となって追求しても、これまで通りの巧妙なレトリックのゴマカシで言い逃れている。

 ではと、このブログで、当方の言い放しになるのは重々承知の上で、安部レトリックと対決しようと思う。

 その一、A級戦犯に関して、「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」と従来どおりのレトリックの繰返しで追求逃れるを成功させている。

 もし日本人がアメリカで殺人を犯し、アメリカの法律で有罪の判決を受けたとしても、「日本の国内法で裁かれていないのだから、彼のことを犯罪者だとか犯罪者でないとか言うのは適当ではない」と言えるだろうか。安倍首相には言えるようである。

 A級戦犯が日本国内で犯罪を犯し、時効まで逮捕されなかったというのではない。中国で領土目的の戦争を起こし、太平洋でアメリカと戦った戦争を計画し、遂行した国家指導者の位置にいた人間たちの戦争行為に対して、戦争に関わった国々が裁いた裁判である。それが例え事後法で裁いた裁判であったとしても、「日本国内」という領域を超えた戦争と戦争犯罪を「国内法で裁かれていないから」と広域性を矮小化して一国主義に持ち込むゴマカシを働いている。 

 勝者が敗者を一方的に裁いた裁判だとの主張で東京裁判を否定する者がいるが、だったら、なぜ負けるような戦争を起こしたのかという問題が残る。兵士民間人合わせて300万人以上の死者を出し、原子爆弾を2発も喰らい、占領までされた無残な敗戦だった。

 その二、「侵略であったかどうか、学問的に確定したわけではない。政府が裁判官になって、白黒をつけることはできない」――
 
 そう発言していること自体が既に安倍晋三なる人間の侵略の有無に関わる〝歴史認識〟上の判断を表すものであろう。但し、侵略かどうかは学問的に永遠に確定しない問題である。つまり、安倍晋三はゴマカシを働いているに過ぎない。

 確定できるとしたら、国家権力しかないだろう。全体主義国家が成立し、思想・言論の自由等の基本的人権を法律で禁止して、少しでも違反した者を逮捕、裁判を経ずに収容所にぶち込み、かつての日本の戦争は侵略戦争ではなく、正義の戦争であったと強権的に宣言したなら、国民は右へ倣えして、その宣言に従い、かくして侵略戦争でなかったと確定する。

 万世一系の天皇制に価値を置き、置くがゆえに戦前の日本を肯定したい日本人は歴史家を含めて、侵略と認めないだろうし、天皇制に価値を見い出せず、軍国主義が引き起こした戦争だとする日本人は歴史家も含めて、侵略だとするだろうからである。いわばそれぞれの主義主張・立場の違いが対応的に解釈の違いを生じせしめているのだから、「学問的に確定」云々の問題では なく、どちらの主義主張・立場に立つか、どちらの解釈を取るかの問題であろう。

 いわば「学問」が決める問題ではなく、主義主張・立場が決める問題である。それを誤魔化して、「学問的に確定したわけでない」とする。しかも自分自身の歴史認識を「政府」の判断事項であるかのように美しいゴマカシまで働いている。

 次は青木理氏のHP,ONLY NEWS 「【総裁選】「語録」から見る安倍新総裁  靖国、歴史、改憲、核」から〝安部語録〟を引用してのレトッリク否定。  

 その三、「日本国民は、天皇とともに歴史と自然を紡いできたんです」(『安倍晋三対論集』)――

 この言葉自体も安倍晋三の歴史認識となっている。合理的論理性を欠くものの、熱烈な天皇主義者の正体を露に示している。いや合理的論理性を欠くからこそ、天皇主義者となれるのだろう。天皇と天皇の時代に絶対的価値を置いていなければ、矛盾をきたす言葉となる。

 合理的論理性を重視する立場からしたら、天皇は歴史的に名目的な絶対的支配者であり(物部、蘇我、藤原といった豪族、足利、織田、豊臣、徳川といった武家、明治になって薩長勢力、そして軍部が天皇を頭に頂きつつ実権を握っていた)、特に明治以降、「日本国民」は名目的支配者だとは気づかずに崇拝の対象とするよう国家権力に感化されて崇拝するに至り、天皇の名の元に支配される下の位置にいたとするのを歴史の事実とするだろう。いわば各時代の実質的権力者が天皇を絶対者と位置づけることによって国民支配の装置としてきたのであり、そのような絶対的上下関係から言えば(このことを最も具体的に証明する歴史的事実が戦前の不敬罪であろう)、確かに「天皇とともに」あったが、平等な関係という意味では、「天皇とともに」は安倍晋三特有の美しいウソ・美しいゴマカシに過ぎない。被支配者の立場にいたから、支配者である政治権力側の利益に添う扱いを運命づけられていた。当然歴史は天皇とともに国民が「紡」いできたのではなく、支配者が「紡」ぎ、それに従わされたきたに過ぎない。

 また「自然」は人間が「紡」ぐものではなく、与えられるもでのある。その自然を鑑賞するのは人間営為の一つであるが、一般的には鑑賞行為と利害行為は関連し合わず、優れた鑑賞行為を見せたからといって、その人間の利害行為が美しかったり、社会のルールに則っているとは限らない。

 安倍晋三は日本の歴史と自然の中に自らが絶対とする天皇を置くことで、日本の歴史と自然を含めた全体の底上げを図り、それを以て日本民族を優越せる民族だとする自民族優越意識を滲ませている。こういったことも、合理的論理性を欠くからこそ、別の言い方をすると単細胞だからこそ可能とすることができる民族意識なのだろう。

 その四、「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。(略)死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」(『美しい国へ』)――

 「特攻隊の若者たちは」「国のために死ぬことを宿命づけられた」のではなく「国」が「国のために死ぬことを宿命づけ」たと言うのが正確な言い方だろう。

 安倍晋三がここで言う「日本という国」は当然、「特攻隊の若者たち」が生きた戦前の軍国主義、天皇の国を言う。「特攻隊の若者たち」にしたら自分たちが生きた時代の日本という「国の悠久の歴史が続くことを願った」だろうとしても不思議はない。戦後の自由と民主主義、人権の時代を知らず、軍国主義、天皇の国に生き、育ち、それをすべてとしていたのだから。

 しかし安倍自身は戦後の自由と民主主義、人権の時代に生きながら、「日本という国の悠久の歴史が続くことを願った」「特攻隊の若者たち」の思いを肯定・賛美することを通して、自らも戦前の軍国主義、天皇の国を肯定・賛美し、その永続性を願っている。

 安倍晋三という人間の中に自由と民主主義、人権という価値観と戦前の軍国主義・天皇という絶対主義的価値観とが相争うことなく仲良く寄り添っているようだが、日本人の手による憲法改正と教育基本法改正への意志をみると、戦前への拘りの方が勝っているようである。

 その五、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)――

 戦争は国家経営の一つの手段である。主たる手段ではない。特に現在の自由と民主主義、人権の時代、戦争は国家経営の一つの手段である役目から、自由と民主主義、人権という価値観を守る手段へと移行しつつある。国家権力は先ずは戦争以外の手段で国家を成り立たせる方策を講じ、国民福祉を確立すべきで、それを「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」と「命を投げうってでも守ろうとする人」間の存在を先に持ってきて〝国家成立〟の重要条件としている。戦前を戦後に引きずった主張ではなかったなら、こういったことは言えないだろう。

 また例え戦争を行うことになったとしても、兵士は死を覚悟して戦争しなければならないだろうが、戦前は例えそうであっても、現在では「命」は「投げう」つものではなく、そのことを目的としてはならないはずである。「命」を最後の最後まで生かす戦術と戦略を国家権力を始めとして指揮官も兵士も創造し、実行しなければならない時代になっているはずである。

「命を投げ打ってでも」という言葉自体が既に戦前の思想となっている。「投げうつ」という言葉の意味を調べてみると、「①投げ捨てる。②惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない」(『大辞林』三省堂)となっている。まさしく「特攻隊の若者たちは」「命」を〝惜しげもなく差し出す〟(=投げうつ)戦争を戦わされたのであり、「命」を〝放棄してかえりみない〟(=投げうつ)戦死を名誉の戦死と褒め称えられ、その報奨に靖国神社に英霊として祀られる栄誉を受けたのである。

 「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」――まさしく安倍晋三は戦前の思想をそっくりそのままに受け継いでいる。まるで戦前の国家主義者・天皇主義者の血をそっくりそのまま受け継いで、戦後の世界に亡霊の如くに現れ出たかのようである。

 その六、「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(『自由新報』)――

 どこにどう「占領時代の残滓」が残っていると言うのだろう。もし「残滓」が残っているとしたら、それは日本人自身の精神の問題であろう。占領終了と同時に誰に命令・指示を受けるわけではなく、日本人が自ら立って時代を歩んできたはずである。「教育基本法、憲法」が例え「占領時代につくられた」ものであっても、日本人自身が自由と民主主義、人権の各精神を体現していたなら、あるいは体現するだけの能力を保持していたなら、「占領時代」を精神的にも心理的にも超え、「占領を終わらせ」ていただろう。

 安倍晋三の言っていることを裏返すと、日本人は自由と民主主義、人権の各精神を体現するだけの能力を保持していなかったということになる。もしそうだとしたら、その代表者は安倍晋三自身だろう。何分にも戦前の時代・思想を引きずっているのだから。

 要するに戦前の時代・思想を引きずっている精神性が、引きずっているゆえに戦後の自由と民主主義、人権の思想・価値観が認め難いということなのだろう。戦後の自由と民主主義、人権の思想・価値観に戦前の思想・価値観を少しでも注入したい衝動が憲法改正意志・教育基本法改正意志に向かわせているということなのだろう。

 その七、「現憲法の前文は何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」(『安倍晋三対論集』)――憲法前文が「

 要するに安倍晋三には「敗戦国としての連合国に対する詫び証文」にしか見えない、そうとしか解釈できないということなのだ。

 因みに日本国憲法の「前文」を引用してみると、

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 安倍晋三が天皇主義者であることと考え併せて日本国憲法の前文から「連合国に対する詫び証文」と受け取っている可能性のある個所を拾うとすると、天皇ではなく、「主権が国民に存すること」、日本国憲法の「原理に」「反する一切の」「詔勅を排除する」こと。この2点ではないだろうか。安倍晋三は天皇主義者として天皇を国民の上に置き、天皇の公式文書である「詔勅を排除する」との文言が、さも「詔勅」悪者説に読み取れて、「詫び証文」にしか見えない。しかし戦後の自由と民主主義、人権の時代に憲法の上に天皇の「詔勅」を置くわけに行かず、せめて「詔勅を排除する」とする文言を削除して、悪者説から解放しようということなのだろう。

 『日本史広辞典』(山川出版社)の【詔書】(詔勅のこと)の説明書きの最後に「天皇の意志が詔書のかたちで施行されるには多くの国家機関が介在した」とある。このことは天皇が名目的絶対支配者であることを証明する説明であろう。

 その八、「現在の教育は仕組みと中身双方に問題を抱えています。中身でいえば、まず自虐史観に侵された偏向した歴史教育、教科書の問題があります」(『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』)――

 安倍晋三とその一派の言う「自虐史観」とは日本の戦争を侵略戦争とする歴史観を言い、そのことが認め難く、「侵略であったかどうか、学問的に確定したわけではない。政府が裁判官になって、白黒をつけることはできない」とする侵略未確定説(本音は否定説)となって現れている。これは天皇主義者の立場としては当然の態度であろう。立場上、戦前の日本及び天皇を否定するどのような歴史観も認めるわけにはいかないだろうから。

 その九、「日本は、60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた。その間、好戦的な姿勢など一度たりとも示したことはない」(『美しい国へ』)

 さすがレトリック名人の安倍晋三である、美しいことを言う。しかし「60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」戦後の時代は、まさしく憲法の前文に合致する国家運営であるにも関わらず、その前文を「何回読んでも、敗戦国としての連合国に対する詫び証文でしかない」とすることの矛盾、さらに「謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」と誇る戦後60年の肯定と「占領時代の残滓」を引きずっているとする戦後日本がどう重なるのか、決着をつけないまま両論を併記できる矛盾した神経は安倍晋三ならではの神経なのだろうか。

 戦後日本は侵略戦争とその敗戦、「占領時代」を踏まえて、それらを教訓として成り立ってきた。「現憲法」の精神を踏まえて戦後日本はあった。それらを踏まえた「60年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」のであって、「残滓」を引継いだとすると矛盾が生じる。憲法前文を「詫び証文」だとすると、戦後日本の発展との整合性はどうともつけようがなくなるのではないか。   

 その十、「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」(衆院特別委で)――

 「教育基本法、憲法」を「占領時代につくられた」ものだ、「つくり変えていくこと」が「精神的にも占領を終わらせることになる」としながら、そのような憲法に「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と利用価値を持たせる矛盾がここにはある。「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有すること」を禁止しない新しい憲法の制定に取り組みますと国民に宣言し、国民の支持を受けてそのように憲法を改正してから、「核兵器であると通常兵器であるとを問わず」「保有」すべきであり、そうすることによって、「占領時代につくられた」ものだ、「つくり変えていくこと」が「精神的にも占領を終わらせることになる」とする主張との整合性が初めて生じるはずである。レトリックの名人と言うよりも矛盾づくりの名人でもあるようである。

 その十一、「犯罪者やテロリストにたいして、『日本人に手をかけると日本国家が黙っていない』という姿勢を国家が見せることが、海外における日本人の経済活動を守る」(『美しい国へ』)――

 言葉だけは勇ましい限りだが、日本人がイラクでテロリストに拉致されただけで右往左往し、「『日本人に手をかけると日本国家が黙っていない』という姿勢を国家が見せる」どころか、カネで何でも解決する日本人性をモロに発揮して、身代金で解決を図ろうとする。

 アメリカはテロリストとは取引しない姿勢を原則とし、その姿勢を厳しく守って、拉致されたアメリカ人が殺害される場面を生じさせてもいる。そういう姿勢を実際に見せてから言うべき言葉であって、実際の姿と異なることを平気で言う。レトリックという問題を超えて、日本という国の姿を客観的に顧みることができない合理的論理性を欠いた破廉恥なゴマカシ以外の何ものでもない。

 安部語録に見るレトリックがゴマカシ一辺倒なのはそのためだろう。このようなゴマカシから考えると、北朝鮮の拉致問題に見せている強硬姿勢も口先だけの威勢に過ぎないとしか受け止めようがなくなる。

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