舛添要一の辞任で誰の目にも明らかになったに違いない事実を「政治家の信義」をキーワードに読み解く

2016-06-18 12:19:27 | Weblog

 実際には“読み解く”と言う程の大袈裟なことではない。誰の目にも明らかはことだろうから。

 東京都知事舛添要一は2億円超の海外出張費、政治資金私的流用疑惑、公用車の私的使い回し疑惑等の正当性の説明責任を定例記者会見でも、舛添本人依頼の2名弁護士による第三者調査報告の記者会見でも、6月1日から開催の都議会本会議一般質問でも、6月13日からの都議会総務委員会の一問一答形式の集中審議でも、疑惑を深めるばかりで満足に果たすことができず、都議会野党が不信任決議案提出の動きを見せると、与党自民党・公明党も疑惑解明に逃げ腰の批判とそのことの参院選への悪影響を恐れて、自らが不信任案提出の動きに出て、全会派が足並みを揃えて6月15日未明に不信任決議案を提出、舛添は可決必至とみて、その不名誉よりも辞任を選んで、6月15日に21日付け辞任の辞職届を都議会議長に提出した。

 舛添要一が質問者や舛添の答弁を見守る都民・国民が納得する説明を回避していたことも抵抗の部類に入るが、6月15日未明に不信任案が提出させるまでの間もかなりの抵抗を見せている。
 
 6月13日都議会総務委員会の集中審議。最後に舛添要一は発言を求めた。
 
 舛添要一「もし私に対する不信任案が可決された場合には、法律上は私が辞任するか、ないしは議会を解散するかという選択を迫られます。いずれにしても選挙ということになります。その選挙の時期がどうしてもリオ五輪・パラリンピックのときに重なります。私が知事として断腸の思いでありますのは、次期開催都市でこういうリオのときに選挙をやるというのは、この国家的大事業のときにやるというのは、2020年大会にとって極めてマイナスであると。もちろんこれは私の不徳の致すところが発端ではあることは重々承知を致しております。

 そういう思いで、どうか少しの猶予をいただきたい。そういう風に思っております。私が知事の座にしがみつくということではございません。すべての給与をご辞退申し上げて、全身全霊、都民のため都政のため働きたいと思っております。知事として、選挙ということでリオと重なりますので、そういう困難はどうしても公益にそぐわないと、極めて厳しい判断をしているところでございます。

 どうかそういう意味でこの時期を猶予していただいて、そしてその上で、私が都知事としてふさわしくないというご判断を都議会の皆さまがされるときには不信任案をお出しいただければと思います。私の思いはそういうものでございます。本当に最後の貴重なお時間を、委員長に発言する機会をいただきましたこと心から感謝いたします」(産経ニュース)  

 「VOTE for DEMOCRACY」なるツイッターに下の画像が載っていた。よく見ると、実際の映像ではなく、比喩的な意味を持たせた修正画像のようだ。 

 2016年リオデジャネイロオリ・パラ期間はオリンピックが2016年8月5日~8月21日の17日間、パラリンピックが2016年9月7日~18日の12日間となっている。この2016年大会は次期開催都市としてのオリ・パラ参加となる。この参加が「国家的大事業」であり、日本人参加選手の活躍の国内報道が「国家的大事業」に準ずるイベントであったとしても、太平洋の向こうで行われるオリンピック参加競技者の競技自体は舛添が強行した場合の解散を受けた都知事選に煩わされる類いのものではないし、どちらの報道をより好むかは国民の選択にかかっているから、都知事選がリオオリ・パラにさしたる影響を与えるわけではないのだから、単に延命の口実としているに過ぎない。

 「子供のことを思えば、1カ月前も、今でも辞めたいと思っている」と言いながら、あるいは「知事の座に連綿としがみつくということではない」と言いながら、結局は「ここまで耐えてきたのは、リオ五輪で東京を笑いものにしたくないから。どうか東京の名誉を守ってもらいたい」(以上産経ニュース)と言っていることも、「国家的大事業」を持ち出した同根の延命策に他ならない。

 リオデジャネイロオリ・パラ閉会日に次期開催都市の知事としてオリンピック旗を受け継ぐセレモニーがある。百歩譲って舛添の言う「国家的大事業」に正当性を与え、延命に手を貸した場合、疑惑に包まれた都知事がオリンピック旗を受け継ぐこと自体、オリンピック精神を穢(けが)す象徴となりかねない演出の手助けをする意味合いも浮上しかねず、一時的延命は却って始末の悪い結末を迎える可能性を孕む。

 但し次の都知事選には関係してくる。舛添辞任に伴う都知事選挙は7月14日告示、7月31日投票開票と正式に決まった。政治スキャンダルを起こさずに任期を全うした場合の任期終了は2020年7月30日となる。

 2020年東京オリンピック開催予定期間は2020年7月24日~8月9日、パラリンピックは2020年8月25日~9月6日。

 2020年東京オリンピック開催中の任期終了となり、任期終了前の開催中か開催前に選挙を行わなければならない。開催前だとしても、多くのアスリート、あるいは観戦のための訪日外国人が東京入りしているだろうから、正に東京都開催のオリンピック・パラリンピックという「国家的大事業」直近か最中の選挙戦となる。競技場や練習場の近くは音量を下げるという取り決めが行われるだろうが、競技観戦の外国人が行き交う中を選挙カーが行き交い、名前を連呼、競技場や練習場の近く以外はマイクのボリューを挙げて「よろしくお願いします」と声を上げるといった異常事態が発生しかねない。

 だとしても、舛添要一が満足に説明責任を果たさないことによって招くことになる全ての結末である。

 説明責任を果たしていないことの象徴が2013年と2014年いずれも正月に千葉県木更津市のホテルに家族と宿泊していながら、その宿泊代の合計37万円余りを会議費の名目で政治資金から支出していた理由をいずれも部屋で政治的な意味合いの会合を行っていた政治活動の一環だとしていたが、会合の相手の名前を「政治の機微に関わり、政治家としての私の信義という観点から、それは外に出せない」と到頭最後まで名前を明かさなかった事例に如実に現れている。

 舛添要一「政治家としての信義、これから政治家として仕事をやっていく、そういう意味で私の判断として、これ(会合相手の名前)は申し上げられない、そういうことでございますので、ご理解頂ければと思います」

 質問者が変わっても、「政治家としての信義」を持ち出して、名前を明かすことを拒否した。

 だが、不信任案を提出されることも、それを否決できずに可決されることも、可決を避けて自分から辞任せざるを得ない選択を強いられることも、都民に対する、あるいは都議会に対する、さらには国民全体に対する「政治家としての信義」に関わる重大事態である。

 だが、政治スキャンダルを抱えたままの追い込まれた辞任によって失う都民や国民に対する「政治家としての信義」よりも会合の相手の名前を明かさないという「政治家としての信義」を選択した。

 いわば前者の不名誉よりも後者の名誉を選択した。

 言葉を替えて言うと、世界の大都市の一つである東京都の知事の職を失うという不名誉よりもホテルの一室で会合をしていた相手の名前を明かすことによって被る不名誉を拒絶した。

 と言うことは、舛添は天秤にかけた場合、前者の不名誉よりも後者の不名誉の方が遥かに重いと見ていたことになる。

 このことは一般的には考えられない前後逆転現象であろう。

 ここで大きな疑問が湧く。

 相手の名前を明かさないという「政治家としての信義」を選択したのなら、あるいは相手の名前を明かすことによって被る不名誉を厳しく拒絶したのなら、説明責任に明らかに反して都民・国民を裏切る行為となるのだから、その時点で潔く都知事の職を辞すべきを、「子供のことを思えば、1カ月前も、今でも辞めたいと思っている」と言いながら、あるいは「知事の座に連綿としがみつくということではない」と言いながら、リオオリ・パラ終了の8、9月頃までの知事の辞職の猶予をなぜ求めたのかという疑問であり、受け入れられず不信任案の提出を招いて仕方なく辞職するという見苦しい引き際をなぜ見せたのかという疑問である。

 このことは「政治家としての信義」よりも、リオオリ・パラ終了までの知事の座の継続を重視したことを意味していて、説明責任に関わる経緯とは明らかに矛盾する。

 このような矛盾は同時に舛添の言う「政治家としての信義」が口先だけを正体としていることを証明する。口先だけではなく、実体を備えていたなら、既に触れたように名前を明かさなかった時点で辞任しなければならなかったろう。

 舛添要一は元々「政治家としての信義」など持ち合わせていなかった。にも関わらず「政治家としての信義」を掲げて説明責任を拒否したのは、答はただ一つ、会合など存在しなかった、当然、会合相手も家族宿泊中のホテルに居合わせもしなかった作り話だということであり、このことは誰の目にも明らかであるはずだ。

 このように見なければ、口では「政治家としての信義」を言いながら、説明責任を果たさずに辞職の猶予を求めたことや、見苦しい引き際を曝さざるを得なかった謎の説明は不可能となる。

 要するにいくら説明責任に応じたくても、会合は家族旅行のホテル代を政治資金で支出するための口実に過ぎないから、そのことを明かした場合、逆に政治資金規正法に触れて都知事辞任に追い込まれる爆弾を逆に抱えることになって、応じることができなかった。

 「政治家としての信義」など持ち合わせていなかったからこそできた政治資金の私的流用と見なければならない。

 書道のために購入したというシルク製の中国服2着にしても、書道が政治活動に役立っているという口実を設けているが、実際は自身の趣味のために政治資金で購入したのが事実と見なければ、元々持ち合わせていなかった「政治家としての信義」と整合性が取れないことになる。

 インターネットで大量に買い込んだという美術品や骨董品、マンガ本を含めた書籍にしても、家族旅行のホテル代宿泊費の政治資金私的流用と同じ構造を取っているはずである。


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