自衛隊違憲:共産党の言うことが正しい 自衛隊法によって市民権を得ているに過ぎない

2016-06-28 10:40:48 | 政治

 6月26日日曜日NHK「参院選特集 政策を問う」で共産党の藤野保史政策委員長が「軍事費が初めて戦後5兆円超えたけど、人を殺すための予算ではなくて、人を支えて、育てる予算をこれを優先していくべきだ」といった発言をした(後の取り消している)。

 「人を殺すための予算」という発言に他党から、「取り消せ」、「訂正した方がいい」といった発言があった。

 この後、憲法改正問題が取り上げられた。

 稲田朋美「憲法改正について、決して逃げているわけではありません。公約の中にも憲法改正については、提言をしています。

 しかしですね、やっぱりしっかり考えが示して貰わないと、憲法議論が私は深まらないと思うんですね。例えば(野党が憲法改正に必要な)3分の2阻止っておっしゃてるんですが、日本は主権国家なんですね。

 主権国家として必要があれば憲法を改正をする。その3分の2です。それを阻止する、憲法改正自体がいけないって言うのは日本は主権国家をやめる?

 あの、日本列島は日本人のものだけじゃないと言われた鳩山総理がいらっしゃいましたけども、3分の2阻止っていうのは違って、ただしっかりとですね、私は考えを示して頂きたいと思います。

 今9条の話がありました。それについても、レッテルを貼られて批判するのは違うと思いますし、例えば民進党の枝野幹事長ですね、2013年に憲法改正草案を出されて、9条についても自衛権の明記、それから必要最小限度の自衛権の行使ということを言われています。

 そういう方と、民進党の中でも憲法改正論者、集団的自衛権を認めていくべきだという方々がいらっしゃるわけですから、しっかりと具体案を出される、3分の2阻止というのはあまりにも違う。

 さらに言うと、自衛隊、憲法違反なんですでは、そして防衛費は人を殺す予算なんでしょ。そんなこと言っている党と一緒に選挙やって、選挙後どうされるつもりなんでしょうか?私はおかしいと思いますよ」――

 我田引水、ここに極まれりの詭弁を言葉巧みに駆使して、野党支持者にまで自らの憲法改正を正当化しようと策している。

 何も憲法改正という政治行為そのものを阻止するために3分の2阻止を言っているわけではない。安倍自民党憲法改正が国家主義に彩られていて危険と見ているから、改正発議に必要な3分の2の議席を阻止しようと言っているに過ぎない。野党の出方こそが極めて主権国家に則った政治行為と言える。

 例えば現日本国憲法と自民党憲法改正案の「第3章 国民の権利及び義務」の中の第12条の違いを見てみる。

 現憲法「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」

 自民党憲法改正案「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」

 この二つの条文の違いはどこにあるのか。

 前者が「自由及び権利」の行使を公共の福祉を目的とした利用責任を求めているのみだが、後者は「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と禁止規定を設けている。

 問題は日本国憲法の「公共の福祉」と、自民党憲法改正案の「公益及び公の秩序」は誰が決めるのかということである。

 前者は自らの責任行為とされているのだから、個人(=国民)の判断に任されていることになる。判断主体は個人(=国民)であるが、「公共の福祉」を踏み外せば、勿論一般法で罰せられることになる。

 後者は個人個人の責任行為ではなく、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と、「公益」と「公の秩序」という枠を設けて、その範囲内の「自由及び権利」となっている。

 但し「公益」と「公の秩序」が個人個人のそれぞれに共通した行為の積み重ねが個人相互の利益の形を取ることで社会的慣習として形成されることになる「公益」と「公の秩序」であるなら問題はないが、そういう形を取らずに戦前のように個人相互の利益とは離れて国家の利益が強制して社会的慣習とする「公益」と「公の秩序」であるなら、問題ないとすることはできない。

 いわば国家権力が決めることもできる「公益」と「公の秩序」だということであって、自民党憲法改正草案にはそういった「自由及び権利」を否定しかねない危険性を孕んでいる。

 例えば現在選択的夫婦別姓は法律で認めていられないから、夫婦別姓を望む男女は別姓で婚姻届ができないために事実婚を選ばなければならない。そういった男女が増えた場合、伝統的家族制度を望む国家権力が「公益に反する」、あるいは「公の秩序を乱す」「自由及び権利」の濫用だとして事実婚を禁じることもできることになる。

 野党はこういった国家主義的危険性を嗅ぎ取って3分の2阻止を手段とした安倍自民党憲法改正阻止を目的としているのであって、「憲法改正自体がいけない」と言っているわけでもないし、稲田朋美の言う「主権国家」云々とは関係しない。

 稲田朋美がここでも発言しているように参院選1人区で野党が共闘していることについて安倍晋三や自民党議員は特に野党第一党の民進党が自衛隊を違憲とする共産党と共闘していることに批判を集中しているが、自衛隊合憲の根拠はどこに置いているのだろうか。

 安倍内閣、そして自民党は安倍晋三が進めた憲法解釈による集団的自衛権行使容認の根拠として1959年12月16日の砂川事件最高裁判決を挙げているが、この裁判は安保条約に基づく米軍の戦力が日本国憲法の9条2項が禁止している戦力に当たるかどうかを論点に駐留米軍の合憲性について争ったもので、戦力に当たらないと規定、米軍の日本駐留を合憲と判断した判決であって、集団的自衛権まで認めているわけではない。

 最高裁判決が自衛隊をどう判断しているか関係する個所も見てみる。
 
 〈憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。

 従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうも のであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。〉・・・・・・

 要するに「9条2項が自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否か別として」と、その判断は下さずに、「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」は9条2項が禁止している戦力に当たり、憲法違反となるとしている。

 例え自衛のための戦力であろうとなかろうと、如何なる戦力もその戦力を保持している国家が主体となってこれに指揮権、管理権を行使するのが一般的である。

 自衛隊は「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使」しない戦力だとでも言うのだろうか。

 であるなら、自衛隊の最高指揮官に日本の内閣総理大臣を置くことは矛盾することになる。

 日本に駐留する米軍は「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」ではないゆえに9条2項が禁止している戦力に当たらないとする認識と考え合わせると、自衛隊は否が応でも9条2項が禁止している戦力ということになって、違憲の存在ということになる。

 共産党が言っていることは間違っていない。

 自衛隊は憲法とは無関係に1950年の朝鮮戦争勃発時にGHQ指令に基づくポツダム政令によって編成された警察予備隊を出発点として、自衛隊法によって組織を拡大していき、現在の自衛隊へと成長した。いわば市民権を得ているに過ぎない。

 集団的自衛権に関しては、〈平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、(サンフランシスコ)平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきである が、また、その成立に当っては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。〉・・・・・

 要するに「(サンフランシスコ)平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認」していることを以って日米安全保障条約を締結する権利が否定されていないことと、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基づいて軍備を有しない日本が代替措置として米国が日本国内にその軍隊を配備する権利は否定されていないということを述べているのであって、一般論的には個別的および集団的自衛権は主権国家の固有の権利ではあっても、日本国憲法がその行使を容認しているとの意味で言及しているわけではない。

  「個別的および集団的自衛権」について触れているのはこの一個所のみで、あとはどこを探しても見つからない。

 この国家間の安全保障に於ける一般論を安倍晋三もはどこをどう解釈したのか、2015年6月26日の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する衆議院特別委員」で日本国憲法が認めている憲法内の一般論へと巧妙にすり替えている。

 勿論、初めてではない。他の日の答弁でも触れている。

 安倍晋三「平和安全法制について、憲法との関係では、昭和47年の政府見解で示した憲法解釈の基本的論理は変わっていないわけであります。これは、砂川事件に関する最高裁判決の考え方と軌を一にするものであります。

 そこで、砂川判決とは何かということであります。この砂川判決とは、『我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない』、つまり、明確に、必要な自衛の措置、自衛権について、これは合憲であるということを認めた、いわば憲法の番人としての最高裁の判断であります」

 だが、憲法学者の大多数が安倍晋三の砂川最高裁判決集団的自衛権日本国憲法合憲論を認めていない。

 砂川最高裁判決を当たり前に読み、当たり前に解釈したなら、どこを探そうと合憲論は出てこない。

 出てこないものを出てくるかのように解釈して合憲とする、この国家権力の危険性は計り知れない。3分の2阻止は当然なことである。

 国家主義を出発点とした憲法改正と国民主義を出発点とする憲法改正とは自ずと大きな違いがあることに留意しなければならない。

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