安藤裕の11月17日憲法審査会発言に見える事実誤認から発した時代錯誤と復古主義の天皇の権威の絶対化 

2016-11-18 12:58:41 | 政治

 2016年11月17日付「asahi.com」記事が、2016年11月17日に開催の衆義院憲法審査会での自民党議員安藤裕(51歳・慶応経済学部卒)の天皇の権威を絶対化しようという衝動を抱え込んだ発言を伝えている。 

 安藤裕自民衆院議員(天皇陛下の退位をめぐる皇室典範のあり方について)「旧憲法(明治憲法)のように国会の議決を経ずに、皇室の方々でお決め頂き、国民はそれに従うというふうに決めた方が日本の古来の知恵だ。

 天皇の地位は日本書紀における天壌無窮に由来するものだ。日本最高の権威が国会の元に置かれている」――

 記事は、〈旧皇室典範は明治憲法と並ぶものと位置づけられ、制定や改正に帝国議会の関与はなかった。一方、現行憲法では天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」として、皇室典範は国会で定めるとしている。〉と解説している。

 「天壌無窮」とはご存知のように「天地と同じように永遠に続くこと。」を意味する言葉であり、この言葉自体が天皇の権威の絶対化を表現している。

 要するに安藤裕は皇室の在り方を明治から戦前時代までの規定に戻すべきだと主張している。いわば皇室典範を日本国憲法の上に置けと。

 そうすることで天皇の地位が「天壌無窮」の存在であることを保証せよと。

 具体的にどう発言したのか、衆議院インターネット審議中継にアクセスして、安藤裕の発言個所を文字化してみた。

 安藤裕「早急に変えなければならないのは憲法2条だと思う。現行の憲法第2条では、『皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。』と規定されている。

 先の天皇陛下のお言葉をキッカケに皇室典範や天皇陛下の譲位についての議論が始められている。有識者会議も設置され、その議論についても様々な報道がなされている。

 私は皇室の在り方や譲位について国民的議論の対象になること自体、少し違和感を感じています。皇位継承の在り方について、天皇陛下の譲位について私たちが口を挟むべき内容なのか。

 我々はそれに口出しをする程、日頃から熟考し、長い皇室の歴史について熟知しているのか。そのことについては甚だ疑問を感じるのです。

 一番問題であると考えるのは憲法第2条の『国会の議決した皇室典範』という規定です。国会で議決をするとなると、私たち国会議員も、当然皇室典範について発言をしなくてはならなくなります。国会議員として発言するとなると、当然にそれぞれの議員の信条や価値観に基づいて発言が出てくる。

 これは極めて自然なことです。しかし私たち政治家が発言をするとなると、当然にこれは政治問題となってきます。様々な集会で政治家が発言をすればする程、大きな政治的課題となり国論を分離するような議論に発展していく恐れがある。

 これが結果的に皇室の政治利用につながっていくのではないだろうか。

 長い日本の歴史を顧みても、世界最古の王朝である皇室がなぜこれ程長い間続いてきたのか。それは国の権威と権力が分離をしており、皇室は日本最古の権威を保ち、国を統治する国家権力は武家等が統治をしてきました。

 だからこそ、どのような権力者も天皇に取って代わろうとは考えなかった。(中国の)易姓革命のようなことはこの日本では起きることはなく、神話の時代から連綿と続く皇室が今でも継続している権威を権力と分離させておくことが結果的には国の統一を保ち、今の象徴天皇制に繋がっているのではないかと思う。

 これからも天皇陛下の権威と国家の権力は分離させておくべきである。それが今後も国家を継続させていく大切な要素であると考えます。

 ところが今第2条では『皇位は世襲のものであって、国会が議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。』と規定されている。つまり日本の最高権威が国権の最高機関である国会の下に置かれている。

 先人たちが長い間培ってきたチエである権威と権力の分離が現憲法では成されていない。本来皇室の地位は日本書紀に於ける天壌無窮の神勅に由来するものであり、憲法が起草される遥か昔から存在するものであります。

 これを後から憲法に文章として規定をし、そこに国の権力の源泉を入れ込んだために権威と権力の分離ができなくなってくる。

 私は皇室典範については旧憲法のように国会の議決を経ずに皇室の方々でお決めを頂き、国民はそれに従うというふうに決めた方が日本の古来の知恵であった権威と権力の分離が図られるものと思います。

 皇位継承や天皇陛下の譲位について政治問題と化し、政局となってしまうことを避けることができると思います。だからこそ、早急に改正すべきは憲法第2条であると思います。

 皇室は憲法以前から存在をしており、我々が手を出せないところにあるからこそ権威なのです。それを忘れてはならないと思います。以上です」

 恐れ入った旧態依然の時代錯誤・復古調の思想である。

 先ず知っている人には失礼に当たるが、言葉の意味から。

 「易姓革命」(えきせいかくめい)について。

 「易姓」は、主に中国で王室の姓を易(か)える意。王朝が変り、新王朝が興ること。革命を意味する。

 「易姓革命」は儒教の政治思想の基本概念の一つ。天子は天命により天下を治めているのであるから、天子の家(姓)に不徳の者が出れば、天命は別の有徳者に移り(いわば命が革(あらた)まって、)王朝が交代することを意味する。

 中国の易姓革命観による革命の一方式として「放伐」(ほうばつ)というのがある。徳を失った悪逆な君主を徳のある者が武力で討伐・追放して、新王朝を建てること。

 「神勅」 神のお告げ。神の命令。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原(あしはら)の中つ国に降(くだ)す際に神宝とともに授けた言葉。

 全部ネットで調べた情報。

 天皇家の起源を今以て神話に過ぎない天孫降臨(日本神話で、瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) が、天照大神 (あまてらすおおみかみ) の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原 (たかまがはら) から日向 (ひゅうが) 国の高千穂峰に天降 (あまくだ) ったこと。)に置いている。

 安藤裕は「皇室の在り方や譲位について国民的議論の対象になること自体、少し違和感を感じ」、「私たちが口を挟むべき内容なのか」と警告している。

 これは天皇を畏れ多い存在とする考え方であり、その考えには特別な絶対的存在であるとする意思を含ませている。

 だから、「国民的議論の対象」とすべきではなく、政治家が「口を挟むべき」ではないとすることができる。

 皇室の在り方や譲位について政治家が発言をして政治問題と化し、政局となって、「国論を分離するような議論に発展」しようと、マスコミが監視し、国民が監視している。

 「結果的に皇室の政治利用」に繋がり、それをのさばらしたなら、マスコミや国民の監視が行き届かなかったことを意味することになり、最終的には国民の責任となる。

 安藤裕は「長い日本の歴史を顧みても、世界最古の王朝である皇室がなぜこれ程長い間続いてきたのか。それは国の権威と権威が分離をしており、皇室は日本最古の権威を保ち、国を統治する国家権力は武家等が統治をしてきました」と言っている。

 このそもそもの認識が事実誤認で出来上がっている。

 貴族や武家等の時々の世俗権力者たちは天皇の権威を利用して国家権力を握っていたのであり、決して「国の権威と(国家)権力が分離」していたわけではない。

 当然、天皇の権威を上に置き、世俗権力者たちの国家権力を下に置いているようにみえるが、利用する立場から言うと、実際には世俗権力者たちは国家権力を上に置き、天皇の権威を下に置いていたのである。

 その最も象徴的な一例が飛鳥時代に権勢を振るった蘇我一族であろう。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた蘇我馬子の子蘇我蝦夷と蝦夷の子蘇我入鹿は、『日本史広辞典』によると、「甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称し、子を王子(みこ)と呼ばせた。」

 宮門とは宮城の門を意味するが、門に住むわけはないから、天皇の居宅としての宮城を指していたのだろう。いわばそのような居宅に住む人物として自らを天皇に擬(なぞら)えさせ、当然、その権勢を誇った。

 もし天皇の権威と国家権力を分離させていたなら、天皇の権威を自らに纏わせる必要性はどこにもない。

 蘇我入鹿は大化の改新(646年)で後に天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子に誅刹され、その親蘇我蝦夷は邸宅に火をかけ、自害したという。

 安藤裕が言うように「天皇の権威と国家権力が分離」していたなら、中大兄皇子自らが剣を握って世俗的な国家権力に刃を向けることはなかったろう。

 中大兄皇子が一見蘇我入鹿を倒したように見えるが、この誅殺に中臣鎌足(なかとみのかまたり)が背後にいて助勢している。

 中臣鎌足は後の藤原氏台頭の基礎を築いた人物である。この経緯を見ただけで、中臣鎌足が蘇我氏に取って代わろうとする権力争いに正統性を与えるために、皇族の権威を前面に立たせる仕掛けとしての中大兄皇子という構図を見ることができる。
 
 鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)がムスメの一人を天武天皇の夫人とし、後の聖武天皇を設けさせ、もう一人のムスメを明らかに近親結婚となるにも関わらず、外孫である聖武天皇の皇后とし、後の孝謙天皇を設けさせている。

 このようにして藤原不比等は歴代天皇の外祖父として、いわば天皇の権威を笠に着て権力を掌握していき、代々この遣り方を踏襲して、後に「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳わせる程の権勢を確かなものとした藤原氏全盛期の道長(平安中期・966~1027)を輩出するに至った。

 だが、自分の娘や孫娘を天皇や皇子に嫁がせて天皇家の権威を我がものとしていく権力掌握の方程式は蘇我氏も踏襲していた。

 いわば天皇の背後に隠れて、天皇を動かしていた。当然、「天皇の権威」たるや、世俗権力者たちが国家権力掌握と国家権力行使に正統性を与える道具に過ぎなかった。

 このことは明治以降から敗戦までの国家権力を見れば十分に理解できる。かつての自分の娘を皇族に嫁がせて天皇家の権威を我がものとしていく権力掌握の方程式は武家時代以降廃れたものの、天皇の権威をバックに天皇の名に於いて、あるいは「天皇陛下のために」と号令をかけて、国民を天皇の権威と関連付けた国家権力の思うままに動かした政治体制は明らかに国家権力による天皇の権威の利用そのものであって、決して「天皇の権威と国家権力は分離」していなかった。

 時代によって権力掌握と権力遂行の方程式は違っていても、常に国家権力側が天皇の権威を利用して、そこに権力掌握と行使の正統性を置いていた。

 当然、天皇家が存続しなければ、国家権力掌握と国家権力行使の正統性は途切れてしまう。世俗権力のレベルでは封建時代前は中国のように易姓革命の形式で権力者は倒されてきたが、取って代わった世俗権力者の権力掌握と権力行使の正統性の裏付けとして天皇家の権威のみが生き続けることになった。

 その必要性からの天皇家の存続であり、天皇家の歴史に過ぎない。

 このような構図からすると、安藤裕が「本来皇室の地位は日本書紀に於ける天壌無窮の神勅に由来するものであり、憲法が起草される遥か昔から存在するもの」と言っていることは天皇の権威を絶対化する思想そのものに当たる。

 さらに皇室の地位を「後から憲法に文章として規定をし、そこに国の権力の源泉を入れ込んだ」と、戦前と同様に国家権力を天皇の権威と関連付けているが、戦前なら許されることであっても、「国の権力の源泉」は主権者としての地位を与えられた国民であり、「国の権力」を規定するのも国民である現代に於いては許されない安藤裕の最たる事実誤認であろう。

 当然、「皇室典範については旧憲法のように国会の議決を経ずに皇室の方々でお決めを頂き、国民はそれに従うというふうに決めた方が日本の古来の知恵であった権威と権力の分離が図られるものと思います」と言っていることも、国民主権を無視した乱暴な論理に過ぎない。

 事実誤認に始まって事実誤認で終わっている11月17日憲法審査会発言となっている。

 安藤裕の内心では安倍晋三と同様に今の民主主義の時代の針を戦前に戻したい激しい衝動が渦巻いているようだ。


コメント (2)
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