4月に入って学校は新学期が始まった。各地域の自治会所属の交通安全会が小学生の登校時の交通指導のために各通学路に立って世話を焼く。各警察署の婦人交通指導員が幼稚園や小学校を順次訪れて幼稚園児や小学校新入生を対象に横断歩道の渡り方の指導に当たる。「信号が青になるまで待って、青になったなら手を上げ、車が来ないか右左を確認し、安全だと確認できたなら、渡りましょう」
説明しながら指導員が手本を示すべく右手を高く上げて歩き出すと、その後ろについて子供たちは手本をそっくりなぞって指導員に言われたとおりそのままに幼稚園の庭や小学校の校庭に石灰で白線を引いた仮の横断歩道を渡っていく。あるいは車両通行の少ない実際の横断歩道を使って訓練する。
わが町では横断時の黄色い旗を見かけなくなったが、まだ存在するのだろうかとインターネットで調べてみたら、「楽天市場」で扱っていた。以前は信号機のポールに黄色い旗が収められた箱が取り付けてあって、子供たちが横断歩道を渡るとき1本手にしてそれを高く上げながら横断歩道を渡り、渡り切ると反対側道路の信号機のポールに取り付けてある箱に収める。
黄色い旗を高く持ち上げながら歩く姿は簡単にヒトラーユーゲントの一員に変身可能な姿を彷彿とさせた。とにかく誰も彼も同じそっくりの旗の掲げ方なのは同じ精神性が刻印されているように思えて、簡単に集団化可能に見えたからだ。
多分新学期開始とかの機会に新しいのに代えたり本数を補充するのだろう、箱に満杯状態になっている光景を見かけたものだが、と言っても箱は小さいから本数は10本程度だが、次第に本数が少なくなり、中にはカラッポの箱といった状態のところもあった。
わが町で黄色い旗を見かけなくなったように、信号機のない横断歩道で車を止めて幼稚園児や低学年の子供の横断を譲ると、以前は決まってのように大きな声で「ありがとう」と言ったものだが、最近殆ど聞かなくなったような気がする。その物言いは男の子も女の子も誰であってもみなそっくりの一本調子に機械的に発する声となっていた。元気よく「ありがとう」と言いましょうと教えられたとおりの言葉と抑揚をなぞって声を発することになるから、自分の声で自然に感謝を呼びかける声とはならずに同じ言葉を大きく発するだけの声となるのだろう。
大体が歩行者優先なのだから、車が率先して停車し歩行者に通行を譲るのは当然のルールなのだから、わざわざ大きな声で「ありがとう」などと言う必要はないし、また言うように教える必要もないのだが、一生懸命に機械的に従う子供をつくり出している。
言ってみれば交通マナーを教える側は交通に関わる言いなりに従うロボットを全国単位で大量生産しているということなのだろう。但し幼稚園に入った、小学校新入生になったといって交通指導に出かけて短時間でロボットをつくり出すことなど不可能だから、もともとロボットになる素地があったからと考えなければならない。本来的に権威主義の行動様式を民族性としているのだから、当然の経緯と言える。
その結果として、教えたとおりに機械的に従う子供は日本という国では素直ないい子と評価されることになる。
親や教師、あるいはその他の者の教え(=指示)に「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己の判断を基準に置いた行動性を習慣としていたなら、交通指導という名の短時間の教えに対する短時間の学びに誰も彼も横断歩道を渡るとき同じそっくりなロボット人間になることはないはずである。
交通指導の名を借りて交通マナーを教えながら、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己規範性の育みの阻害を側面から援助しているといったところなのだろう。
「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の獲得は自己思考を基準としているゆえに自己の自律的存在への止揚を意味する。また「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を基準としたとき、自分のみが関わる事柄としてそのすべての行動は自己責任行為となる。自己責任行為としないのは許されない。
交通指導という名の教えに関わる学びだけではなく、すべての教えに対する学びが「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断の心理機制を介在させる躾のシステム、あるいは教育のシステムとなっていないことが自分で考えることはせずに他者の言いなりに従うロボットの上に新たに同じロボットを上塗りしていく形式で人間形成を果たしているのではないのか。
最近は特に携帯をかけながら運転する高校生の自転車事故が多発していると言うことで、警察は交通課の警察官や女性交通指導員を高校にまで派遣させて自転車の乗り方、交通マナーを教えている。もしも幼稚園や小学校での交通マナー指導が教えられたとおりそのままに機械的になぞり、従うのではなく、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の育みにまで発展させることができていたなら、道路を自転車に乗って走るようになる年齢になったとしても「自分で判断して判断した自分の考えに従」って乗り方を自分から学んでいく自己判断行為としていっただろうから、高校生の年齢にまでなってわざわざ警察といった他者の力を必要としないずである。
ところが警察の方も本人任せにできず、わざわざ出張ってマナーを指導しなければならない。自分たちの幼稚園や小学校での交通マナー指導がそれぞれの子供たちの自己判断行為にまで高めることができなかったからに他ならないが、そのことを自覚もしないまま交通課の役目として繰返している。他のどの教育・指導とも同じように子供たちの自己判断行為に高めることまで意識した教えとはなっていないからだ。
高校生は指導を受けている間は警察官や交通指導員の指示に忠実に従うだろうが、元々「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を自己性としていないから、その場限りの指導に終わるのは目に見えている。そのことは高校生の自転車マナーの悪さがいつまでも言い伝えられていることが何より証明している。
上は下を従わせ、下は上に従う権威主義を行動様式としている関係から、日本の教育は基本的には「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育む教育とはなっていない。
もしそういう教育となっていたなら、交通マナー指導は幼稚園や小学校の教えで足りていただろうし、またそれ以前の問題として、親が子供の手を引いて歩くようになってから、その時々の必要に応じて何をどう気をつけなければならないか交通マナーを教えない親はいないだろうから、警察の指導に待つまでもなく子供は自ら学んでいったはずである。
そうなっていないということは親の教えが「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」形式の自己判断行為とする教えでもなかったし、そういった教え方を受け継いで子供の方もそのような形式の学びとしなかったかったということだろう。逆の機械的に従うなぞりで終わらせていたから、当然の帰結として自己判断行為にまで高める機会を見い出せなかったことになる。
もし親が「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育み教える「教育力」を有していたなら、「教育の原点は家庭にある」と考えて「改正教育基本法」の第十条で、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」とした条項は生きてくるはずである。
「親の教育力」を常に問題としているのは、親がそういった「教育力」を有していないからであり、その不足を補う要求としてわざわざ「改正教育基本法・第十条」に書き込まなければならなかった。
だが、親とは大人となった人間の立場上の一つの姿であり、教師も同じであり、交通マナーを指導する警察官も同じである。親だけではなく、すべての大人が「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育み、教える「教育力」を有していないから、子供にそういった自己判断性を伝えることができないに過ぎない。
大人自体が権威主義の行動様式に侵されて「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を欠いているから、そのような判断性が子供に伝わらず、伝わらないままそれを自らの行動性としてそのまま大人になるという循環が繰返されているのみである。
「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の教育に留意しないと、教育基本法の家庭の教育のあるべき姿を謳った「第十条」は永遠に空文のまま、ハコモノのままで終わる。
政治家の介入をキッカケとした映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止をめぐって言論の自由・表現の自由の危機を訴える声が起こっているが、言論・表現(=情報)はそれぞれの政治的立場によって受け止め方・解釈が異なってくる。
根も葉もない言論・表現による風評等で精神的、あるいは経済的損害を与えることは許されないが、それ以外の主義主張に関係する言論・表現は人それぞれで受け止め方・解釈が異なる以上、どのような内容でも許されなければならない。
すべての人間が一致する主義主張など存在しないからなのだが、問題は他者の言論・表現を機械的になぞり、従う自己判断性の喪失によってではなく、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性に依拠してどう解釈し、どう受け止めるからであろう。常に自己の判断を介在させて、その判断に従って自分の行為として自律的に行動し、自己責任を伴わせることを最重要の行動性としなければならない。
それが街宣車を出動させて最大限の音量を上げ、威嚇・恫喝する声を発する行為として表現されようとも、やっていることは言論の抑圧・表現の抑圧に当たるが、連中にとっては自分たちの言論・表現を守る闘いに位置づけている以上、周辺住民に騒音被害をもたらしているとして条例で規制するしかない。
あるのは正当性を獲ち得る闘いがあるのみである。言論の自由・表現の自由が抑圧されていた戦前の日本に戻したくないなら、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性・自己思考性の育み・教育に留意する以外にない。
戦前と同様に言論の抑圧・表現の抑圧を正当とする自己判断性が一致した考えとして集団化され、多数派を形成することとなったなら、何をか況やである。
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