蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選後の動画配信「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス1

2024-12-22 11:10:11 | 政治
 《56歳の蓮舫が後輩・後進を「あの子、この子」と呼ぶ下の者扱いは"個人としての尊重"を置き忘れた何様的な自己正当化バイアス》

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票の都知事選で敗北が決まってから6日後の2024年7月13日に蓮舫はインスタライブを行っている。都知事選にまつわる色々と興味深い話を聞けるだけではなく、話の中に蓮舫自身の「自己正当化バイアス」が頻繁に顔をのぞかせているから、拾い出して、複数回に分けて記事にしてみる。勿論、拾い出した個所の当方の言い分の正当性は読者の判断に委ねられる。

 インスタライブに入る前に蓮舫の「インスタグラム」から、その自己紹介を見てみる。

 〈貴女、貴方の声を代弁する。誰もがその生き方を尊重されるために。他人の夢を笑わない社会を創りたいと強く思っています。〉――

 では、現在、総体として「他人の夢を笑う社会」となっているのだろうか。他人の夢を笑う・笑わないは個人性である。他人の夢を笑う個人が圧倒的多数を占めなければ、総体的な意味に於いて「他人の夢を笑う社会」となっているとは言えない。

 蓮舫本人を笑う個人が複数存在する、あるいは相当数存在する、さらに身近にそのような例を散見することになったとしても、それだけで「他人の夢を笑う社会」だと看做すのは自身を中心に据えて自分の考えを常に正しいとする自己正当化バイアスの色眼鏡を通した社会観であって、正当性は認められない。

 大体が他人の夢を笑う個人をこの世から抹殺することができるわけのものではないのだから、「他人の夢を笑わない社会を創りたい」と、さも自分の力でできるかのように言うのは思い上がりと言うものだろう。

 例え他人の夢を笑う個人が多数存在したとしても、そのような行為はあくまでも社会という大きな枠の中で不特定の様々な場所でなくなることなく不規則な断続性を帯びて起こりうる現象なのだから、犯罪と同様、社会から抹殺することなど誰の力を以てしても不可能としか言えない。

 意味もなく他人の夢を笑う個人性よりも他人から夢を笑われても、自らの夢を信じて動じない個人性の大切さをこそ、訴えるべきである。なかなか難しいが、要するに自分は自分だという自己アイデンティティの徹底である。蓮舫のインスタグラムの自己紹介を見ただけで、論理的思考性の欠如を見ないわけにはいかない。

 ライブは長男村田琳相手に行われている。声が太く、ダミ声気味で、聞き取りづらく、最小限必要と思われる個所を何度も聞き返して文字にしたが、あくまでも観察対象は蓮舫の言葉だから、聞き取れなくて、途中で諦めてしまった個所もある。

 蓮舫「1週間経って、結構、気づきました。

 何かねえ、達成感があったんだよねー。あの、確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かったし、ここぞと応えていたし、それに対してこうだよねとそれを説明していた方もいたし、政治というのは双方向なんだというのが凄く感じて、楽しい選挙でした。

 その後色々と叩かれてるらしいんだけど、見ていないから、分からないんだよね。(マグカップを口に運びながら、「フン」と鼻で笑う。)」

 長男村田琳「言いたいように言っている人いるからね」

 蓮舫「うーん、でも、まあ、それはみんな言われているからね。ただ、蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかったけども。今まで思ったのは、私だったら、そいうの我慢できちゃうし、流したんだけど、今回はやっぱりそれを流しちゃうと、次の子たちが流しきれないなということに気づいて、流しちゃいけないんだと、例えば東国原さんとか、デーブ・スペクターさんとか」――

 長男村田琳「デーブさん、ひどかったねえ」
 
 蓮舫「ひどいのには反論してたんだけど、ちょっとひどいのに関してはちゃんとSNSで反論し始めたんですよ。私が流して終わるんじゃないんだってことに気づいたんで、次の子たちがきっとこういうの戦っちゃうと思ったら、きっちり決めなきゃ。だけど東国原さんもデーブさんも連絡ないですね」

 長男村田琳「――(聞き取れない)」

 蓮舫「だけど、私は違うと息子と凄い議論したんだけど、これはもう絶対反論しない方がいいみたいなことを言うんだけど、ここは反論しておかないと、あっ、デーブは何を言ってもいいんだと輪をかけちゃうから、だって、友達でない人が、『蓮ちゃん』とか言われてるんですけど、テレビで。『蓮ちゃんは生理的に嫌われるから』みたいな。て言うか、誰?あたしのことちゃん付けする。私は東国原さんて、そのまんま東さんで止まっているからね、30年前のタケシさんと軍団でいたとき。

 そのあと、(考えながら)県知事になられたときに1回県舎にご挨拶に行って、それから10何年、話したことがない人だからね。携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人が『ちゃん』づけだよ」

 長男村田琳「あれじゃない?そういうこと言っていないと、自分がテレビに出ていられない」 

 蓮舫「ある政治評論家はそうだけど、いきなり携帯も連絡先も教えてくれないのに公共の電波で言われたからね」 

 長男村田琳「今まで言っていなかったけど、民間人になったら、言ってますよという理解ですよ、みんな」

 蓮舫「そうですよ。それも人のためと思うし、私ね、本当に名刺のない人から、言われて、どうしようかなと思っているんだけど、それでもいい週刊誌が願ってた、あとのルルちゃん(愛犬)との散歩で、撮影して、朝のルルちゃんとの、愛犬との散歩を撮影しました。『ついては質問にお答えください』と含めておいて。私もう民間人だと思うのに、まだ曝されるんだって思って。何が原因で、どこかで止めておかないと、政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる。

 つまり何にも曝さないと、公人になれないっていうのは矢っ張り凄い」(ここまで)


 蓮舫は「達成感があった」、「確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かった」、「政治というのは双方向なんだというのが凄く感じて、楽しい選挙」だったと都知事選を戦ったことの有意義性を打ち出している。

 本当にそのとおりの選挙だったのだろうか。蓮舫の場合は当選を目指して戦ったはずだ。石丸伸二の場合はどのくらい票を獲得できるか、試してみるという気持ちがあったかもしれない。あるいは小池百合子や蓮舫よりも遅れを取るかもしれないが、どのくらい迫るかことができるかといった考えもあったかもしれない。ところが蓮舫は基本的には頂点を目指したはずだ。

 各マスコミとも序盤情勢は現職小池百合子が一歩リード、蓮舫が続き、石丸伸二が激しく追い上げる展開とほぼ似た論調の報道となっていた。中盤情勢は小池百合子一歩リードは変わらず、蓮舫が続いているものの、石丸が猛追となり、終盤情勢は小池百合子一歩リードは同じで、蓮舫と石丸が共に追い上げる展開へと変わってきている。いわば蓮舫と石丸は肩を並べたとも解釈できる。

 この時点で蓮舫は2位は獲得できるだろうと踏んでいたとしても、次点では意味を成さないから、マスコミの各情勢報道と各街頭演説に集まる聴衆の(と言っても、自身の各所の後援会や都内を選挙区とする立憲所属の国会議員や都会議員、区会議員の後援会からの動員が相当数混じっていたに違いないから、一定程度は差し引いた)熱気との懸隔に人間の自然な感情として疑心暗鬼に駆られていたはずで、内心、相当に必死になっていたであろう。

 そして結果は時点にも届かず、第3位に沈んだ。閣僚も党代表も経験したことのある国会議員約20年の人間が地方自治体市長1期4年のみの政治経歴石丸伸二にも敗れたのである。知名度から言っても、優位に立っていたはずで、それが2位を獲得できる程には役に立たなかった。当たり前の感情としては相当な屈辱を受けないはずはないにも関わらず、屈辱というマイナスの感情ではなく、達成感や楽しかったというプラスの感情を持つに至った。

 もしこれが正直な気持ちだとしたら、人間の自然な感情を超えた強靭な前向きの精神の持ち主と見ることができるが、単なる強がりで言っているとしたら、限りなく不正直な人間と化す。自分だけではなく、他人をも誤魔化すことになる。

 正直な気持ちで言っていることなのか、強がりで言っていることなのか、確かめてみる。

 「確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かった」と、「確実に」と強調してまでして有権者との"繋がり"を誇っているが、結果的には当選した小池百合子の約292万人、次点石丸伸二の約166万人で、蓮舫は小池百合子とは164万人差、石丸伸二とはそれでも38万人差の約128万人という3番目の"繋がり"でしかなかった。これを以って満足のいく"繋がり"だとしたら、前以って当選に必要な大体の票数を読んでいなかったことになるだけではなく、最初から当選を目指さないままに立候補したことになるが、事実はそうではないはずだから、「達成感があった」、「楽しい選挙でした」はたちまち化けの皮が剥がれて、強がりが顔を覗かせることになる。

 強がりは虚勢を意味し、不正直さが生みの親となる。どこまでいっても自己正当化バイアスを押し立てていく。その不正直さは限界を失う。

 蓮舫は9月9日に自身のXに次のように投稿している。

 〈惜敗した者に対し、面識もなく取材もなきまま根拠なき見解を拡散することは社の記者行動基準を踏み越えています。負けた人には何を言ってもいいことを黙認していては、これから挑戦する人を萎縮させる恐れがあります。

 「権力」「言論統制」との指摘は残念ながらどうでしょうか。私との見解が違いますね。〉――

 この投稿が如何に自己中心の考えに立っているか、一目瞭然であろう。首都東京という大舞台の知事選で、しかも当選を目指したはずであるにも関わらず、3位に沈んだ選挙結果を「惜敗」と位置づけることができる。自己中心の考えに基づいた強がりでなければ、このような自己評価はできない。

 「面識もなく取材もなきまま根拠なき見解を拡散する」と批判しているが、面識がなくても、取材をしなくても、記者会見発言やSNS発言、テレビ発言に対しての批評行為や批判行為は自由に行うことができるはずである。

 それを面識と取材を批評行為や批判行為の許可条件に限定・選別し、それ以外は排除する考えは言論の自由に制限をかける自己基準の絶対化、いわば自己中心の考えを示していて、"意識の上での権力行使"、"意識の上での言論統制"と言えなくもない。

 この自己基準の絶対化・自己中心は「根拠なき見解を拡散する」の文言にストレートに現れている。どこがどう根拠がないのか、内容に関する具体的な例示を行い、周囲の納得を得ることで初めて「根拠なき見解」であることの正当性が証明されるのだが、そういう手続を省略して、自身の基準のみで「根拠なき見解」だと決めつける

 尤も自身の都知事選敗戦を「惜敗」と評価して、自分の中ではそれが公平な判断となっているのだろうから、自己基準の絶対化・自己中心は仕方のないことなのかもしれない。蓮舫はきっと自分を何様に置いているのだろう。でなければ、自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスは頭をもたげることはない。
 
 蓮舫はXのフォロワーが59万人近くに達する。この多くが蓮舫の自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスのフィルターを通過させることで論理性や合理性を失って放たれることになる数々の言葉に対しても、いわば真に受けると思うと空恐ろしいことで、エセ宗教の教祖と信者を連想してしまう。

 問題とすべきは批評・批判の中身である。中身が個人攻撃に当たるなら、反論するなり、抗議するなり、裁判に訴えるなりすればいい。あるいは自分は自分だと自己を貫く姿勢に徹して一切を無視し、信じるところの自らの言葉だけを発信し続ける。

 だが、蓮舫は自らが発信する言葉の合理性に気づかない。政治家を20年やってきて、言葉の合理性を獲得できていないのは自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスが障害となっていること以外に理由は思いつかない。

 結果、蓮舫に向けた批判や批評に対する蓮舫からの反論を、「権力」、「言論統制」だと指摘したとしても、「私との見解が違いますね」の自己絶対バイアスのフィルターを通して反論されたなら、本人にとってはその反論を合理性ある着地点とすることができたとしても、相手にしたら合理性ある着地点は永遠に見い出すことができなくなる。

 本人がどう見立てようとも、選挙戦を通じて意識に受け止めていたという「達成感」にしても、人々と繋がっているという感覚にしても、"政治は双方向"という感動的交流にしても、実質的には当選に向かわせる程には大きなうねりを伴ったわけでも、票として返ってきたわけもなく、第3位という結果を受けた以上、各状況を相対的、合理的に把握して、自身の言葉の発信力不足を素直に受け止めなければならないはずだが、逆に結果を伴わなかった出来事を、その結果を無視して手応えがあったと有意義な方向に持っていくことができる。

 敗者が負けた屈辱を凌いで自己を維持する方法は敗因を冷静、合理的に分析して次の挑戦、あるいは次の人生の舞台の参考材料とするか、こういったことができないままに強がるか、ひしがれて時間の経過による自然回復を待つか、様々にあるだろうが、蓮舫はどのように贔屓目に見ても、強がりを見せることで精神のバランスを取っているとしか窺うことができない。

 事実、強がりであるとすると、蓮舫が抱えている自己正当化バイアスの心理と対応した精神の現われということになり、強がることで自己の正当性を維持し、自らの自尊心を守っていることになる。

 蓮舫の敗選関連の発言が強がりと見る理由は次の点からも窺うことができる。都知事選後、「色々と叩かれてるらしいんだけど、見ていないから、分からないんだよね」と、誰からか「叩かれているよ」と聞かされていて知ったのか、新聞の見出しを直接か、あるいはテレビやネットでチラッと見て知ったのか、叩かれている事実は承知していたが、内容については、みんなされていることだと気にせずに放置していた。

 にも関わらず、「蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかった」の物言いは気にしていなかったと放置していたことが実は事実でないことを物語ることになり「見ていない」と言っていながら、内容もしっかりと把握していたことを自分から暴露することになる。

 この一貫性のない発言は蓮舫自身に対する信用性に関係していく。

 蓮舫叩きの空気はきつかったものの、我慢できたし、流していたけどとしていながら、流してしまうと、「次の子たちが流しきれないなということに気づいて」流さないことにしたと言い、流さないことにした対象として東国原英夫とデーブ・スペクターを挙げている。

 そうした理由を、「次の子たちがきっとこういうのと戦っちゃうと思ったら、きっちり詰めなきゃ」と思ったことと、「どこかで止めておかないと、政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる」ことに置いている。

 だが、体裁のいいことを言っているだけのことで、この理由に正当性はない。

 なぜなら、地方政治であろうと国政であろうと、男女関係なしに政治家を志す以上、自身に対する批判は、それが不当な批判であっても、例え第三者に助言を求めたり、第三者の方から助言を寄せることはあったとしても、最終的には自分自身の「問題解決能力」が絡む本人が処理すべき問題として任せるべきだからである。

 曝されることを「どこかで止めておかない」と「政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる」と危惧することも、いわゆる正当な理由も根拠もなしの"曝し"は止めることはできないし、一人がやめても、次が出てくるだろうから、論理性ある訴えと看做すことはできない。政治家を志す人材に対してのみならず、誰に対しても障害を乗り越える、大多数の人間が正当性あると認める意志の力をこそ、求めるべきだったろう。

 任せることが各々それぞれの政治家としての成長に関係していくことになるだろうし、こういった試練をそれぞれの政治家の問題だと見るべきを、それができずに「次の子たちが流しきれない」などと決めつけて、自身への批判に対する反論理由とすること自体が見当違いそのものの妥当性は何もないこじつけとなる。

 それに東国原英夫やデーブ・スペクターに反論したとしても、その反論に味方する支持者は大勢いるだろうが、その反論で両者の蓮舫に対する批判の類いの口封じができるわけではないし、二人以外にも批判する者は大勢いるだろうから、こういったことを理解できずに口封じが可能であるかのような見当違いの言い回しは世間知らずということだけではなく、強がっているとしか受け止めることはできないし、こういった見当違いは自己正当化バイアスへの踏み込みなくして口を突いて出てこない発言である。

 問題はほかにもある。新たに政治家を志ざす成人男女が例え政治家としては未経験・未熟であったとしても、現行の被選挙権は衆議院議員満25歳以上、参議院議員満30歳以上である大の大人であって、それなりの社会的経歴を持っていて、経歴にふさわしい社会的経験、あるいは人生経験を踏んできているだろうから、自律した存在、あるいは独立した存在として人格上は対等に扱い、個人として尊重すべき対象と看做し、「政治家を目指す次の男性や女性たちが」、あるいは、「政治家を志ざす次の彼・彼女たちが」と呼ぶべきを、「次の子たち」と下の者扱いのニュアンスを含んだ言い回しは例え後輩・後進であろうと個人として尊重する姿勢を蓮舫自身が欠いていることを示しているだけではなく、政治の世界へのあとからの参入者を下の者扱いできる態度は自身を上位と見る何様に置いているからこそできることであって、その対等性を欠いた上下意識を許している根本原因はやはり蓮舫自身が自らに宿している「常に自分の考えは正しい」としている自己正当化バイアスが自らを自己絶対視の境地に何がしか誘い込むことになっているからに違いない。

 要するに閣僚経験や党代表経験もある20年の政治家歴が自身を有能な人物と思い込ませていて、経歴の乏しい政治家を下に見る習性が身についている可能性が指摘できる。

 もしここに自身のような有能な経歴の持ち主は女性政治家としては現在の日本では数少ない稀な例だと少しでも自負しているとしたら、自分で自分を特別視していることになって、ある種の選民思想に陥っていることになるが、そこまでいっていないと思うが、後輩や後進を「あの子」、「この子」呼ぶ下の者扱いは自身を対比的に上の者扱いしているからこそできる。

 例えタレントやアナウンサーをしていた間は後輩を「あの子たち」、「この子たち」と「子」呼ばわりをしていた習慣があったとしても、何らかの政治的主張を持って国政の場や地方政治の場に臨もうとしている人材への同じ扱いは幼稚過ぎるし、国政約20年の人間がその習慣から抜け出れないでいるとしたら、例え政治経験をどれ程に積もうとも、蓮舫自身が真に自律できていない存在、あるいは大人になりきれていないと見るほかない。

 大体が、「次の子たちが流しきれない」からと東国原英夫やデーブ・スペクターの自身に対する批判への反論理由とするのは彼らの(=次の子たちの)利益のためと位置づけてはいるものの、「次の子たち」を下の者扱いしていること自体が彼らを自律できていないヤワな人間扱いし、政治家を志すだけの性根を論外に置いていることになるのだから、「次の子たち」をダシにした自身の反論の正当化に過ぎない。

 このような道理を考えることができずにあれこれの口実を用いて自身の正当性を打ち立てようとする。所詮、自己正当化バイスの衝動に気づかないままに身を委ねているとしか見えない。

 このことは既に取り上げた民進党代表時代当時の岡田克也に対する「一年半一緒にいて本当につまらない男だと思います」の発言、参院政倫審での自身の追及不足を棚に上げて、「政倫審に限界を感じました」と言ってのける責任転嫁等々が証明している道理を無視した自己正当化、そのバイアス(偏見の形)ということであろう。

 東国原英夫の生理的好悪発言に対して「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人が『ちゃん』づけだよ」とどうでもいい関係性を持ち出して、相手への反論の正当性とする。この自己正当化バイアスからは民主党政権時代に閣僚を務めたり、野党代表を務めたり、参議院議員20年も務めた風格は感じ取ることはできない。

 となると、都知事選で体感したとしている"達成感"、"有権者との繋がり"、"政治は双方向の感覚"、"楽しい選挙"等の有意義性は敗北後、様々に叩かれる(不当に批判を受ける)ことになったとしている事態を冷静に客観視できる程の材料とはならなかったことになる。いわば叩かれる事態に距離を置く冷静さを与えてくれる程の有意義性ではなかったということである。だが、本人の受け止めはあくまでも有意義性を訴えて止まない。

 この矛盾を解消する答を見つけるとしたら、やはり強がりを導き出さないわけにはいかない。なぜなら、「蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかった」と言っているその"きつさ"を生み出している大方はもっぱら強度の反対派、あるいは強度の不支持者と看做して、不思議でも何でもない当然の風向きだと当然視し、その当然視を補強する材料に、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」こと、「今まで以上に繋がっている感が凄くあって」と言っている支持者との確かな繋がりや選挙で受けた肯定感・充実感を付け加えれば、叩く(不当に批判する)動きは取るに足らない些末問題に向かわせていいはずだが、当然視もできず、そうはなっていないことは「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」ことも、「今まで以上に繋がっている感が凄くあって」と言っていることも、強がりと見なければ、論理的整合性は取れない。

 また、蓮舫が優秀でも何でもない決定的理由は蓮舫が語る"政治双方向論"に如実に現れている。蓮舫は街頭演説場所に集まった支持者の大きな塊が自身が発信する言葉を受けて放つ熱意や感動だけを受け止めて、政治の実際面を頭に置くことなく、「政治というのは双方向なんだ」といたく感動したに過ぎない。

 政治の実際面ではどのような政党のどのような政治も、あるいはどのような政策も、全ての国民各階層の利益を漏れなく代表できるわけではない。そのような万々歳な政治など存在しない。存在したなら、格差社会だ、貧困家庭だといった現象はこの世に存在しなくなって、厳密な意味での平等社会となっているだろう。

 だが、この世の中は上層社会が多大な利益を上げ、その利益が下層社会に向かって少しずつこぼれ落ちていく政治・経済のトリクルダウン構造となっている。結果、政治が万遍なく双方向となっている国民・階層もあれば、双方向に向かわずに取り残されたままの国民・階層もなくならずに存在する。

 もし蓮舫がどのような政治・政策も全ての国民の利益を平等に代表することは不可能という戒めを頭に置くことができていたなら、「政治は結果責任」という大原則を否応もなしに強く意識することになって、街頭演説に対する聴衆の反応が如何に大きかろうと、常にその先の結果という責任を見据えなければならないのだから、街頭演説に反応する聴衆の熱意や感動に票への手応えを感じることはあっても、「政治というのは双方向なんだ」といった感動に安易に取り憑かれることはなかっただろう。

 要するに"政治は双方向"は「政治は結果責任」と比例し合う。結果責任を果たせば果たす程に"政治は双方向"に向かうが、否応もなしに限界を抱えることになる。だが、蓮舫は「政治は結果責任」に取り掛かりもしない遥か手前で聴衆の反応だけで"政治は双方向"を感じ取った。

その安易な感動は論理的思考力の欠如が素地となり、常に自分の考えは正しいとする自己正当化バイアスなくして成り立たないだろう。そして論理的思考力欠如と自己正当化バイアスが虚勢や強がりを生み出す。

 虚勢、強がりに過ぎないからこそ、その精神的余裕の無さが自身に対する東国原英夫やデーブ・スペクターなどの他者の批判を反論の必要性の選別という合理的判断を経ずに無闇反応してしまうことになる。人との繋がりが何らかの具体的な成果を生み出して、事実「達成感」として跳ね返っていたなら、そのことが与えてくれる精神的余裕は他人の批判を冷静に受け止めることになって、反論の必要性の選別なしにムダな反応を取ることはない。

 だが、反応しなくてもいい批判にムダに反応し、どうでもいいことに立腹している。

 テレビ業界や俳優業界では年齢の近い間柄では年上、年下に関係なしに「ちゃんづけ」で呼び合う習慣があるということを聞いたことがある。同じテレビの世界で育った関係から、「蓮ちゃん」と呼んだのかも知れない。例えそうでなくても、失礼な呼び方でなければ、「ちゃん」付けであってもいいわけで、問題は東国原英夫が親しい間柄でもないのに「蓮ちゃん」と呼んだり、生理的好悪に触れたことよりも、都知事選2024年7月7日投開票翌日のテレビ番組で、「僕は昔から友人なので厳しいことを言うが、蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う。批判する能力はあるが、首長は包含しないといけない部分があり、その能力に欠けている」と批判したことを、いわば敗因分析したとネット記事が紹介しているが、「批判する能力はあるが、首長として包含する能力に欠けている」とした点にこそ、政治家としての姿勢に深く関係することだから、どの点を指して言っているのか、「後学のために教えて下さい」と具体的説明を求めるべきだったろう。

 だが、そうではなかった。生理的な好悪は誰もが持つ感情であり、好悪を向ける対象に制限をかけることはできない。いわば蓮舫だけに限ったことではなく、小池百合子に対しても生理的に嫌いと捉える有権者は少なからず存在するだろうし、石丸幹二に対しても、東国原英夫本人に対しても生理的に嫌いという人物はそれ相応に確実に存在するだろうから、相対化し、お互い様のこととして取り上げるような問題ではないはずなのに蓮舫は相対化という手段を用いて流すことができずに拘ることになり、首長としての能力に欠けるといった肝心な点については何の反応も示さなかった。

 例えば、「私も東国原さんを生理的に受け付けない部分がありますから、お互い様なんだけど、首長としての能力に欠けるとご指摘くださったこと、具体的にご教示頂ければ、後学の参考になるんですがね」程度に軽くあしらうのが大人の態度と言うものだろう。

 大体が必要に応じて相対化できないこと自体が論理的思考力を欠いていることになる。結果、取り上げなくていい無視すべきことをインスタライブでわざわざ取り上げて、自身の人間の程度を低くしている。

 デーブ・スペクターの方は自身のXに、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」と投稿したという。蓮舫にヒステリーの気があると見たのだろうが、無視すべきをかなり気が触ったらしく、無視できなかった点にヒステリーの気があると見られても仕方がない理由が出てくる。

 周囲の自身への批判に絡めて「何にも曝さないと、公人になれないっていうのは矢っ張り凄い」とマスコミやその他が政治行為に関係のないプライベート空間にまで足を踏み込んで私生活まで世間の目に曝す行為を批判的に取り上げているが、政治家の方から選挙利用や票獲得を意図してマスコミへの露出を図ることもあるだろうし、マスコミに曝されてなんぼという側面を否応もなしに抱えてもいるのだから、物事にはプラスとマイナスの両面があるということを弁えることができずにプラス面だけを歓迎し、マイナス面には拒否反応で応えるという使い分けはご都合主義が過ぎる。

 大体がマスコミや個人が公共の電波やSNS等を使って否定・肯定の情報のうち何を曝すかは予期できないことで、曝らされることを恐れて、公人になることを諦めるか、曝らされることを予期して、公人になることを選択するかは自身の覚悟に関係する問題であって、政治家20年もやってきて今更のように言うのは批判に対する覚悟を持てていないからで、持てない理由は物事を総合的に見る目を欠いているからで、欠く原因はやはり何事も自分の主張は正しいとする自己正当化バイアスの網に絡め取られていて、自分の考えが正当性を持ち得ているかどうかを一歩踏みとどまって思慮するといった習慣がないからだろう。

 「自分の考えは常に正しい」とする自己正当化バイアスに取り憑かれると、論理的思考力が働かず、合理的思考力も麻痺することになる。

 「中日新聞」がデーブ・スペクターのXへの投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対して蓮舫が、「それはどういう意味かしら、デーブさん。私の闘いや私の姿勢を個人で笑うのはどうぞご自由に。もう数十年お会いしてませんが。私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」とリポスト、さらに自身のXに寄せられたフォロワーのコメントの中から、「物言う女を『ヒステリー』と呼び必死で矮小化したい男。言論の中身ではなく印象論でしか言いがかりをつけられない、使い古されたこの蔑視表現が、かつて多くの女性たちの口を塞ごうとしてきた」とする、いわばデーブ・スペクターの投稿に対する批判をリポストに添えたと記事は伝えていたが、デーブ・スペクターの「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」が蓮舫の支持者に対する存在否定であるなら、デーブ・スペクターは意図せずに蓮舫に対しても存在否定していることになるが、蓮舫が当選できるだけの支持者を集めることができなかったからこその(このことは蓮舫が自身に投票した支持者を裏切ったことになる事実を裏合わせしていることになる)両者に対する存在否定であって、当選できるだけの支持者を集めることができていたなら、存在否定は影を潜めるか、それでも存在否定が顔を覗かせることがあっても、蓮舫自身は軽く笑って無視できたはずだ。

 要するにデーブ・スペクターに存在否定を許した責任の一旦は自分自身になくもなかった。そのことを受け止めもせずに「私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」とするのは支持者の存在を利用した何がしかの自身の責任隠しとなる。そのためにただ単にデーブ・スペクターと同じ土俵に立った。

 蓮舫はまたデーブ・スペクターのX投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対する反論にフォロワーの、「言論の中身ではなく印象論でしか言いがかりをつけられない」人としているデーブ・スペクターに対する批判コメントを利用するのは、自身が東国原英夫のテレビ番組発言の後半部分を"言論の中身"で問題にすべきを問題とせずに前半部分のみに感情面で反応しただけなのだから、言論上の整合性が取れないことになるが、そのことに気づきさえしないのは、やはり自分は正しいとする自己正当化バイアスに絡め取られていて、合理的思考力が麻痺状態になっているとしか見えない。

 蓮舫は都知事選に立候補を決意した時点で、落選したら、悪意ある批判や口さがない噂を立てられるに違いないと前以って腹を括っていなかったのだろうか。

 それとも当選の自信しかなかったから、そこまで考えなかったのだろうか?例え当選したとしても、当選云々とは関係なしに自己正当化バイアスそのものはハンパなく取り憑いていることに変わりはないことになる。

 デーブ・スペクター自身が事実その通りに「物言う女を『ヒステリー』と呼び必死で矮小化したい男」だとしても、その"矮小化"を誘い込んだのはやはり当選できなかった自身の非力にもあるのだから(当選していたら、"矮小化"は影を潜めるし、アンチ蓮舫は唇を噛むことになるだろう)、その責任を言葉の端に置かない一方的な批判は自らの自己正当化バイアスのみへの拘りとなる。

 インスタライブに見る蓮舫のハンパない自己正当化バイアスは以下続く―― 

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