舛添要一のカネの使い道は自己愛性パーソナリティ障害から発し、自己偉大性証明の表現なのか

2016-05-22 12:12:26 | 政治


 「自己愛性パーソナリティ障害」(自己愛性人格障害)とは、「ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害(人格障害)の一類型」だと「Wikipedia」に紹介されている。

 ありのままの自分とはかけ離れているにも関わらず、「自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならない」という強度の内的欲求を持った場合、自ずと自己が偉大であることの証明(=自己偉大性の証明)を何かで表現することになる。

 例えば事業を起こして成功して、何十億という資産を得た。成功という結果を得て、自分なりの偉大性の証明としてこれくらいの家に住んでもいいのではないのかと周囲から見ると目を見張るような豪邸を建てて住む。いわば豪邸は成功の一つの形、その証明であって、そこに住む自身の成功を、あるいは成功した自身そのものを豪邸によって表現させたことになる。

 但しこのような場合は事業の成功を原因として豪邸生活を結果としていることになって、あくまでも原因と結果が吊り合っている。

 だが、自身の職業で成功もしていないのに親のカネやあるいは借金で豪邸を建て、その豪邸や豪邸での生活を自己の偉大性を証明するための表現の一つとした場合、ありのままの自身の姿を受け入れることができずに自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在だと見せかけているに過ぎない、明らかに自己愛性パーソナリティ障害」(自己愛性人格障害)からの何ら根拠も何もない自己偉大性の証明ということになる。

 舛添要一の場合は自民党時代に厚労相を2年程務め、それなりの実績を残し、野党自民党の谷垣禎一総裁時代の2010年、「総理大臣を任せたい国会議員」の世論調査で鳩山首相8%、谷垣1%に対して舛添13%と堂々の1位の期待を掛けれれていたが、総裁選に立候補できず、その後自民党離党等を経て2014年2月9日投開票の都知事選に当選、都知事となったものの、何らかの職業や技能でそれなりの資産を得ているわけではない。

 このことは政治活動の主原資を親からの遺産でもないし、自身のカネでもないし、政党交付金に置いていることが証明してくれるが、政党交付金依存を5月20日付「毎日jp」記事が伝えている。

 2010年から2014年の政治資金収入。

 国からの政党交付金1億3400万円
 企業献金+個人献金約790万円
 政治資金パーティー券収入約1931万円

 記事は桝添の個人献金の少なさの比較として「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表の山本太郎参院議員の政治団体の2014年1年間に限った個人献金額約1978万円を挙げている。

 親の遺産を受け継いでいないことは、「Wikipedia」「舛添要一」が証明してくれる。

 〈「生い立ち」

 福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)に父・彌次郎、母・ユキノ(母は長野県駒ケ根市の小池家の出身)の長男として生まれた。4人の姉がいる。

 父は戦前、鞍手で炭鉱を経営するなど様々な事業を手がけ、昭和5年の若松市議会選挙に立憲民政党陣営から立候補したこともあった(次点で落選)。戦争で零落したものの、要一の幼少時は青果店を経営し、比較的裕福な家庭に育ったが、小学2年の時の火災をきっかけに父が病臥(要一が中2の時に死去)、家業も傾き、以後は貧困の中で苦学した。〉――

 だが、苦しい生活の中で勉学に励み、東大に合格、入学・卒業して、東京大学法学部政治学科助手や東京大学教養学部政治学助教授等を経て、国際政治学者として活躍、その後政治家の道に進むことになる。

 苦学して東大に入ったということだけで、かなりの自尊意識を持つに至ったとしても不思議はない。舛添要一が相当な自尊意識の持ち主であることは舛添要一の公式サイト「ますぞえ要一」に書いてあるプロフィールの中の一節が明らかにする。 

 「舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系」・・・・・

 この一節のあとに東大までの学歴やその学歴によって得た職業上の経歴が続く。

 いわば唯の家系・家柄ではない。舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系であって、東大卒や東大教養学部政治学助教授といった経歴も都知事としての現在の経歴もそれ相応の背景があるのだと、自らの出自と現在の経歴の双方を相互に価値づけて、暗に自己偉大性の証明としている。

 いわば生まれと言い、現在の東大やその他を経た経歴と言い、自分はただ者ではないぞと自己の偉大さを証明しているのと同じで、家系や学歴・経歴をその証明の表現としているということであって、その自尊意識は相当なものがあるはずだ。

 但し自己偉大性の証明の一つとしている自尊意識の元々の根拠としている「江戸時代から続く庄屋の家系」は個人性とは関係のない単なる格式に過ぎない。格式と個人性が常に一致して格式が優秀な個人性を保証するとなったなら、格式のない家からは優秀な個人性を持った人間は出ないことになる。

 格式が個人性と一致しなければ、その格式は単なる形式に堕す。

 東大入・卒等の経歴にしても、単なる格式に過ぎない。実質的には自己偉大性の証明とすることはできない。その経歴が人間の生存に役立つ何かを創造する力を発揮し得たとき初めて格式を抜け出し、学歴や経歴は実質性を獲得して優秀な個人性へと繋がって自己偉大性の証明の表現とし得る。

 発揮し得なければ、格式は唯の空虚な形式を表すだけとなる。

 要するに桝添は自身のサイトのプロフィールに「舛添家は江戸時代から続く庄屋の家系」だと紹介した時点で既に形式に自尊意識の根拠を置き、形式を以って自己偉大性証明の表現としたことになる。

 家系や学歴や経歴といった格式が個人性と結びつかないとき、それらは実質的には確かな有意義性を与えてくれないし、当然、自己偉大性証明の表現とはなり得ない。

 高い自尊意識を持ちながら、自尊意識の根拠としている形式が確かな有意義性を与えてくれないとき、人間は他の何かで自尊意識を満足させ、自己偉大性証明の表現としようとする。

 この記事の最初の方で、〈ありのままの自分とはかけ離れているにも関わらず、「自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならない」という強度の内的欲求を持った場合、自ずと自己が偉大であることの証明(=自己偉大性の証明)を何かで表現することになる〉と書いたが、このことの言い替えである。

 その何かが舛添要一にとってはそのカネの使い道に現れていると言うことのように思えて仕方がない。

 都民の税金でありながら、2015年にはパリとロンドン7日間の海外出張に総勢20名で5000万円もかけた豪勢さに自己存在の有意義性を見い出し、自己偉大性証明の表現としていたのではないのだろうか。

 正月の家族旅行の宿泊代16、7万円もするホテルに宿泊し、そこで会議も行ったからと政治活動費から支払っているが、自身のカネを節約するだけには見えない。

 人間はカネのかかる豪華なホテルに泊まると、誰しも偉い人間になった気がする。問題はその偉さが実質性を備えているかどうかである。備えてもいずに豪華なホテルに泊まることで自身の偉さの表現手段とし、そこに有意義性を見い出そうとする場合、高額なホテル宿泊代は自己愛性パーソナリティ障害から発した満たされない自己偉大性証明の表現で終わる。

 公用車で湯河原の別荘まで自身を送らせたのも、ガソリン代の節約だけではなく、後部座席に都知事として座ることで、湯河原に到着するまでの時間、自身の地位を特別なものと味わい、自己偉大性証明の表現としたかったからではないだろうか。

 

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