安倍晋三の積極的平和主義も地球儀を俯瞰する外交も見えない戦没者追悼式式辞

2014-08-16 07:44:23 | Weblog

 
 安倍晋三の今年2014年8月15日の全国戦没者追悼式式辞が第1次安倍内閣を含めて歴代首相が触れてきたアジア諸国への加害と反省の言葉、それに「不戦の誓い」が抜け落ちていると話題になっている。

 但し今回は「平和への誓いを新たにする日です」と言っているから、文言上、あくまでも文言上、不戦への決意は弱められることになるが、「平和への誓い」イコール「不戦の誓い」だと言えないことはない。

 言葉通り「不戦の誓い」を掲げた場合、安倍晋三は集団的自衛権行使で戦争をする国へと変貌を成し遂げようとしているのだから、実際に戦争した場合、後から戦没者追悼式式辞でウソをついたと非難を受けることになる。それを前以て避けるために「不戦の誓い」から「平和への誓い」へと変えたと見るべきだろう。

 例え戦争をして、「平和への誓い」を破ったのではないかと批判されても、「平和のための戦争だ」と言い抜けることができる。

 だとしても、2007年の第1次安倍内閣の式辞で述べた「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します」とした加害と反省の言葉の抜け落ちは見過ごしてもいいだろうか。

 確かに戦没者追悼式は日本人の戦没者を相手とした式典であって、日本と戦って亡くなったアジアや欧米の戦没者を相手とした式典ではない。具体的な追悼対象者は第2次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人となっている。日本人の戦没者と日本の国に思いを馳せるのみで役目を果たすことができる。

 昨年と今年の安倍晋三の式辞はそういった内容となっていて、十分に役目を果たしたことになる。そしてその思いの馳せは次の言葉に要約されている。

 「戦没者の皆様の貴い犠牲の上に今、私たちが享受する平和と繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません」――

 例え現在、「平和と繁栄」を享受していたとしても、サイパン陥落を受けて米軍の投降勧告に応じずにバンザイクリフから海に身を投じた約1万人の日本軍兵士と民間人の戦没者、あるいは極寒のシベリアに抑留されて飢えと重労働に耐え切れずに亡くなった戦没者、あるいは引き揚げの途中で敵軍に殺されたり、飢えで亡くなったりして帰国を果たすことができずに亡くなった民間の戦没者、その他その他の戦没者やその在り様を直接見るなり、伝え聞くなりして身近で知り得ていた近親者たちの戦没者たちに対する記憶、あるいは引き揚げの途中で日本軍から子どもは足手纏いだからと毒入りの牛乳を手渡されて我が子に飲ませることになった親たちや満足な食糧もなく飢えに苦しめられながら兎に角も戦争を生き抜いて帰国を果たすことができた等々の戦争という時代を兵士として、あるいは一般人としてやっとの思いで乗り越えてきた国民の戦争に対する記憶は苦悩や後悔や疚しさや済まなさといった感情を帯びて折に触れて思い出すことになって、現在の「平和と繁栄」が記憶の遮断や末梢に役立つわけでもないはずだ。

 逆に現在が平和であればある程、あるいは繁栄の時代であればある程、そのような時代を生きることができている自分を、生きることができなかった戦没者に対しての済まなさを却って募らせるということもあるだろう。我が子を幼いうちに亡くしてしまった母親が時折り自分が満足な暮らしの中で生きていることに済まなさを感じるように。

 このような折に触れた記憶の甦えりは戦争を生き延びた日本の兵士や日本の民間人や日本の戦没者の近親者だけではなく、日本が始めた戦争を戦ったり、戦争に協力させられて生き延びた外国の兵士や外国の民間人、あるいは敢え無く戦没した外国の兵士や外国の民間人の在り様を直接見るなり、伝え聞くなりして身近で知り得ていた外国の近親者にしても、同じ感情作用として働くはずだ。

 日本の全国戦没者追悼式だからと言って、日本が始めた戦争である以上、日本人の戦没者と日本の国の将来に思いを馳せればいいというわけにはいかないということである。

 もしそれのみで良しとするなら、余りにも独善的に過ぎる。余りにも一国主義的平和志向に陥ることになる。

 多くの外国の国民が兵士として、あるいは民間人として相互に関わった日本の戦没者であり、日本の帰還兵士、日本の帰還民間人である。そして外国に於いても、多くの戦没者を出した。

 その一例を3年半前の古い番組だが、2011年2月27日放送NHK「証言記録 市民たちの戦争『“朝鮮人軍夫”の沖縄戦』」を参考に挙げてみる。

 戦争末期、アメリカ軍の日本本土上陸を沖縄で阻止するために日本軍は沖縄に大量の兵力・武器・弾薬・爆弾を送り込んだ。その武器や爆弾を船から荷揚げして背負って基地まで運搬する多くの軍夫を日本の植民地だった朝鮮半島で募集、沖縄に連れてきた。中には貧しさ故に生活のために自分から応じた者もいたが、畑で働いてきたとき、「飛行場で働くだけだ」と日本兵と朝鮮人警官に騙されて連れて来られた者もいたと番組は伝えている。

 番組の舞台は沖縄本島から船で約1時間の、1945年3月にアメリカ軍が最初に上陸した阿嘉島(あかしま)となっている。そこに連れて行かれて過酷な労働を強いられた環境下、生き延びて現在韓国で生活している元朝鮮人軍夫の証言から、どのような状況に置かれていたか、番組は歴史の再現を試みる。

 基地を整えたあと、大量の火薬を積んでアメリカ艦船に体当りする特攻用の小型ボート仕立ての船艇を隠す壕掘りや、その船艇を壕から波打ち際までロープで引っ張り出して、また壕に戻して隠す訓練等の危険な重労働を強いられた朝鮮人軍夫のかなりの者が命を落としていった。

 食糧不足によって満足に食事が与えられなかったことからの栄養不良も原因していた。いわば朝鮮人軍夫は人間扱いされなかった。その最も象徴的な出来事が些細な罪での銃殺刑となって現れる。

 当時阿嘉島青年団員の垣花武一さんの証言「我々が銀飯(ぎんめし)を食うとき、あの人たち(朝鮮人軍夫)はおかゆ。我々がおかゆに変わるときは、あの人たちは雑炊とか粗末な食事。量も半分くらい。だから、あれですよ。あの壕掘りとか重労働に耐えられなかったと思うんですよ。そういう食料で」

 日本軍はアメリカの阿嘉島上陸に対して殆ど満足に抵抗できす、特攻用の船艇も壕に隠してあったのを見つけられて、使わずじまいのまま火をつけて焼かれてしまう。朝鮮人軍夫はアメリカ軍の攻撃を逃れるために空腹のままだったのだろう、武器・弾薬を背負って山に逃れる。

 朝鮮人軍夫証言「日本兵は食事を取るのに、私たちには何もくれませんでした。あまりにも空腹で民間人の作った稲や芋をこっそりと食べていました。ポケットの稲が(軍人に)見つかった人がいました。13人ぐらいが見つかって、手を縛られ、銃殺されることになったのです」

 数人の朝鮮人軍夫の仲間が銃殺場所まで連れて行かれ、一列に並ばされた13人の幅相当の穴を掘るよう命ぜられ、掘ったあと、目の前で13人が一斉に銃で撃たれる。

 朝鮮人軍夫証言「銃殺は唯死ぬのではなく、凄くもがいてから倒れるんです。見ている私たちも言葉が出ない程辛かった」

 銃殺された仲間の撃たれる直前の言葉。

 「故郷で白米を供えて自分を供養してくれ」

 満腹の白米を望みながら、思いだけで果たすことができなかった食べ物への執着が言わせた遺言であろう。

 餓死を選ぶか、ちょっとした盗みを働いて飢えを凌ぐか、その瀬戸際に立たされて、ちょっとした盗みを働いただけで銃殺刑に処すことのできる日本軍兵士の残酷な懲罰意志は見事である。その残酷さに13人の朝鮮人軍夫はいとも簡単に犠牲となった。

 番組はその最初の方で戦時中日本軍が纏め、現在韓国の政府記録保存所に保管されている『船舶軍(沖縄)留守名簿』をカメラで写して、主に海上の任務についていた部隊に所属していた朝鮮半島出身者約2900人の名前が記されていると紹介していたが、番組の最後でそのような朝鮮人軍夫のうち、その半数が日本で亡くなったとされているが、正確な数字は分からないと解説していた。

 番組が取り上げていた朝鮮人軍夫は揚陸艦や上陸用舟艇等の船舶兵器を扱っていた海上任務の船舶軍(陸軍船舶部隊)ではなく、陸地任務の部隊所属のような体裁で放送していたから、インターネットで調べると、約1~2万人という記述を見つけることができた。

 《沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から― 》林博史・関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第8号/1987年4月)
 
 〈また当時,約1万余あるいは2万人ほどが沖縄にいたとみられる朝鮮人の軍夫や従軍慰安婦は多くが戦死したと思われるが,その数は概数すらもわかっていない。〉――

 いずれにしても日本政府も日本軍も満足に記録していなかった。

 多分、従軍慰安婦強制連行と同様に、「政府発見の資料『船舶軍(沖縄)留守名簿』からは約2900人の名前を見つけることができるが、1~2万人という記述は見当たらないし、政府発見の他の資料は見当たらないことから、2900人が妥当な人数に思える」と、従軍慰安婦強制連行と同様の論理で最小限に収めてしまうに違いない。

 番組は、戦後犠牲者の多くは靖国神社に祀られたが、日本国籍が失われたために軍人や軍属に対する遺族年金や恩給は一切支給されていないと解説している。

 かくまでに人間扱いをされてこなかった。

 飢えと重労働の残酷な環境下に置かれたのは沖縄の朝鮮人軍夫ばかりではなく、他の土地に送られた朝鮮人軍夫や炭鉱や銅山に送り込まれて、満足な食事を与えられずに過酷な重労働を強いられた朝鮮人や中国人も同じであったろう。

 こう見てくると、常識的には全国戦没者追悼式が日本人の戦没者と戦没者の近親者、さらに日本の国に思いを馳せることのみで良しとすることも、あるいは日本国民が現在、「平和と繁栄」を享受できているからと良しとすることもできず、決して看過できない外国の戦没者の在り様や、それら戦没者の在り様を直接見るなり、伝え聞くなりして身近で知り得ていた外国の近親者たちの思いや感情であるはずだ。

 だが、安倍晋三は式辞で日本の戦争に関わらせた外国の戦没者と戦没者の近親者の在り様に無頓着なまま、日本人の戦没者と戦没者の近親者、さらに日本の国に思いを馳せることのみで良しとした。

 このことは安倍晋三本人が掲げる「地球儀を俯瞰する外交」、さらには「積極的平和主義」がどこからも見えてこない、その宗旨に反する戦前の日本の戦争に関わる自らの思想ということにならないだろうか。


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