夫婦別姓反対派主張の日本の伝統的な家族の在り方・伝統的家族観を守るは男尊女卑の権威主義を核のところで擁護する思想

2021-01-11 11:00:54 | 政治
 2020年12月半ば前後のマスコミ記事によると、菅内閣は選択的夫婦別姓導入に前向きな第5次「男女共同参画基本計画」案を作成、自民党に提示したが、自民党は賛成派と反対派が激しく対立、菅内閣は計画案を3回も修正し、最終的に選択的夫婦別姓に関わる文言を削除した修正案で自民党内が纏まり、その修正案を閣議決定するに至ったと報じていた。

 この経緯は選択的夫婦別姓に関しては菅内閣は善玉、自民党は悪玉に映る。だが、菅内閣が善玉役を演じ、自民党が悪玉役(ヒール役)を引き受けることで、菅内閣に差し障りが生じないように選択的夫婦別姓の文言削除を成功させたと見ることもできる。

 5次「男女共同参画基本計画」を閣議決定したのは2021年12月25日。この日を遡ること1ヶ月半余の2020年11月6日参議院予算委員会での共産党小池晃の菅義偉に対する追及を見ると、なる程なと頷いて貰えるかもしれない。

 小池晃は最初は法相の上川陽子に対して2001年11月当時、自民党議員有志の立場で選択的夫婦別姓制度導入に向けた民法改正について早急かつ徹底した党内議論を進めること、速やかに今臨時国会に当該問題についての閣法が上程され、審議に付されることという提案を党三役に申し入れを行ったことに併せて、2008年1月の財団法人市川房枝記念会出版部発行の「女性展望」に「私も選択的夫婦別姓については賛成で、そのために議員として活動してきました」、政治家としての信念はと聞かれて、「言行一致、つまり、言ったことには自分で責任を持つことが大切だと考えています」と答えているが、ならば選択的夫婦別姓導入を「言行一致」でやったらどうかと追及。

 対する答弁。

 上川陽子「私の個人として、政治家としてのこれまでの意見については、先生今御紹介をして頂いたとおりであります。

 この問題については、それぞれ家族の在り方についての考え方について様々な意見があるということで、世論調査におきましてもその意見の幅が表れているというところも確かであります。

 今回、第5次男女共同参画基本計画の中に、こうしたことについての調査を、意見的な、パブリックコメントでありますとかヒアリング等に応じて、特に若い世代の皆さんに聴取をしているということも事実でございます。

 そういう意味で、国会が非常に大事な役割を果たしていくというふうに思っておりまして、そうした動向も踏まえまして検討に当たってまいりたいというふうに思っております」

 要するに上川陽子は内閣の一員である法相の意見と政治家個人としての意見を別物に扱っていて、法相という立場上、世論調査に現れている家族の在り方についての様々な意見を考慮の内に入れなければならないといった趣旨の答弁をしている。至極尤もな答弁ではあるが、いつの世論調査なのか明らかにしていない。

 小池晃の前に質問に立った矢田わか子に対しては上川陽子は「希望すれば結婚前の姓を名のれる選択的夫婦別氏制度の導入の問題は、我が国の家族の在り方に深く関わる事柄であると考えております。直近の平成29年(2017)の世論調査の結果を見ましても、いまだ国民の意見が分かれている状況にございます」と、選択的夫婦別姓導入に関しての昨今の状況変化を無視して3年前の世論調査を持ち出すペテンを働かせている。
 
 このペテンにまずいと気づいたから、小池晃についてはいつの日付か分からない世論調査とする新たペテンを働かせたのだろう。

 朝日新聞社2020年1月25、26日実施の全国世論調査(電話)では選択的夫婦別姓「賛成」69%、「反対」24%。自民支持層「賛成」63%、「反対」31%。このように1年前に賛成が反対を大きく上回る状況となっていたにも関わらず、3年前の世論調査を持ち出して、「いまだ国民の意見が分かれている状況にございます」とヌケヌケと言うことができるペテンは流石である。

 2020年12月12日毎日新聞と社会調査研究センター実施全国世論調査ではる選択的夫婦別姓導入「賛成」49%、「反対」24%、「どちらとも言えない」27%。夫婦別姓が認められた場合の対応、「夫婦で同じ名字を選ぶ」64%、「夫婦で別々の名字を選ぶ」14%、「わからない」22%。

 例え夫婦同姓選択が64%と大きく上回ったとしても、夫婦別姓を認める意識が3年前と違って、国民の間に大きく浸透していることを示している。

 小池晃は上川陽子に対してと同じように続いて菅義偉に対しても過去の選択的夫婦別姓に関わる姿勢を取り上げている。

 小池晃「総理、総理もこの2001年の自民党有志議員の申入れに名前を連ねていらっしゃることを覚えていらっしゃいますか。覚えていらっしゃいますか」

 菅義偉「確かそうだったと思います」

 小池晃「それだけではない。2006年3月14日の読売新聞。自民党内で別姓導入に理解を示す菅義偉衆議院議員は、『例外制でも駄目ならもう無理という雰囲気になってしまった、しかし、不便さや苦痛を感じている人がいる以上、解決を考えるのは政治の責任だ』

 別姓導入を求めてきた方が総理になり、法務大臣になったんですよ。政治の責任を言行一致で果たすべきときではありませんか。総理、どうですか」

菅義偉「夫婦の氏の問題は、我が国の家族の在り方に深く関わる事柄であり、国民の間に様々な意見があり、政府として、引き続き、国民各層の意見を幅広く聞くとともに、国会における議論の動向を注視しながら対応を検討してまいりたいというふうに思います。

 ただ、私は、政治家としてそうしたことを申し上げてきたことには責任があると思います」

 小池晃が菅義偉のかつての発言として伝えている「例外制」とはネットで調べてみると、夫婦は同じ氏を名乗るという現在の制度を原則としつつ、家庭裁判所に許可を得た場合のみ別姓を例外的に認める考え方のことだそうで、この考え方で法案を纏め、議員立法で通すことを目的として2002年7月16日に自民党内でグループを発足させたが、立法に至るまでに自民党内を纏めることができず、法案提出は見送られたという。

 法案提出が見送りに対して菅義偉が2006年3月14日の読売新聞にインタビューで発言したのか、単に発言が取り上げられたのか、「例外制でも駄目ならもう無理という雰囲気になってしまった」云々の言葉が紹介されたということなのだろう。

 「夫婦の氏の問題は、我が国の家族の在り方に深く関わる事柄」であることは菅義偉の発言を待つまでもなく、別姓導入反対派は古くから同様のことに反対の根拠を置いてきた。「我が国の家族の在り方に深く関わる事柄」だから、下手に手を付けてはいけないというタブーに祭り上げてきた。

 但し菅義偉自身は「我が国の家族の在り方」に深く関係するものの、過去に於いて政治家個人としては別姓導入に理解を示していたと言うことは「我が国の家族の在り方」よりも選択的夫婦別姓導入を優先させる姿勢でいたとことを示す。だが、「国民の間に様々な意見がある」を現在の姿勢としているということは、この文言も夫婦別姓反対派が便宜的に頻繁に使っていることから、選択的夫婦別姓導入よりも「我が国の家族の在り方」を優先させるニュアンスの発言となる。

 当然、国会に於いて、あるいは与党内に於いて「我が国の家族の在り方」を重視する勢力が優位にある情勢に対して「国会における議論の動向を注視しながら対応を検討したい」は選択的夫婦別姓導入に距離を置く発言となる。つまりかつては個人的立場から理解を示していた選択的夫婦別姓導入であるにも関わらず、小池晃に「別姓導入を求めてきた方が総理になり、法務大臣(上川陽子のこと)になったんですよ。政治の責任を言行一致で果たすべきときではありませんか。総理、どうですか」と促されたものの、首相となったことが導入に向けて手に入れたリーダーシップ発揮のチャンスだとは捉えていなかったことになる。

 要するに2020年11月6日の参議院予算委員会の時点で菅義偉がチャンスだ捉えていなかったことが菅内閣が一旦は選択的夫婦別姓導入に前向きな第5次「男女共同参画基本計画」案を作成していながら、自民党の抵抗に遭って前向きな箇所を削除、削除したままの修正案で2021年12月25日に閣議決定したという経緯を踏むことになった。

 当然、菅義偉が選択的夫婦別姓導入に向けてリーダーシップを発揮するチャンスと最初から見ていなかったのだから、導入に前向きな文言を削除させた自民党側が単純に悪玉と割り切ることはできないばかりか、文言を削除させられた側の菅内閣が単純に善玉と看做すこととができなくなって、最初に触れたように菅内閣が善玉役を演じ、自民党が悪玉役(ヒール役)を引き受けることで、菅内閣に差し障りが生じないようにそれぞれの役割を演じたと見ることができるとしたことがあながち的外れだとは言えなくなる。

 ただ確かに言えることは第5次「男女共同参画基本計画」案に一旦は導入に前向きな文言を入れたのだから、菅義偉にはその文言どおりに持っていくだけのリーダーシップは発揮できなかったということである。もし最初からリーダーシップを発揮する気はなかったということなら、かつては夫婦別姓導入に理解を示していたとする姿勢をウソにすることになる。

 選択的夫婦別姓導入反対派の先ず第一の理由は既に挙げたように伝統的な家族の在り方・伝統的な家族観と深く関わる問題だとすることで、暗に簡単には壊すことはできない夫婦同姓制度だとしている点にある。

 安倍晋三もこの考え方に立つ答弁を行っている。2019年10月8日の安倍晋三の所信表明に対する立憲民主党長浜博行の質問に対する答弁。

 安倍晋三「夫婦の別氏の問題については、家族の在り方と深く関わる問題であり、国民の間に様々な意見があることから、この対応についてはSDGsの議論とは別に慎重な検討が必要と考えております」

 「SDGs」とは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だそうで、「貧困ゼロ」、「飢餓ゼロ」「不平等ゼロ」、「平和と公正さの平等の実現」、「公平・平等で高質な教育機会の実現」などの17の目標の中に「ジェンダー(社会的性差)解消と社会的に男女平等であることの実現」を掲げているという。

 もう一つの反対理由。家族の一体感の喪失とその喪失による子どもへの影響。「夫婦の姓が違うと、子どもが混乱する」という言葉を使っている。この点について山谷えり子が朝日新聞の「インタビュー」(asahi.com/2020年12月12日 16時30分)に答えている。

 ――選択的夫婦別姓制度の導入の是非をどう考えていますか。

 山谷えり子「導入に慎重な立場です。社会の基礎単位は家族だと思っています。選択的夫婦別姓というのは、ようするにファミリーネームの廃止。氏が、個人を意味するものに変化する。家族が、社会の基礎単位ではなくて、個人の寄り集まったものみたいに変化していく可能性は大きいのではないでしょうか。色々なギクシャクも予想される部分もあるし、子どもは混乱すると思いますね」

 確かに選択的夫婦別姓制度は氏に意味を置かず、個人に意味を置く。個人に意味を置いた男女が夫婦となれば、従来のように氏に意味を置いたのとは異なる家族を形成し、子どもができれば、その子どもを加えた家族という形を取る。そしてそのような家族が社会の基礎単位となる点に於いて従来と何も変わらない。

 「色々なギクシャクも予想される部分もある」と言っていることは家族の一体感の喪失を指しているが、夫婦同姓であったとしても、「ギクシャク」している夫婦、家族はいくらでも存在する。要するに氏の問題でも、姓の問題でもなく、個人対個人の問題である。

 氏、あるいは姓が、現実が物語っているように夫婦、あるいは家族のカスガイの役割を果たすわけではない。カスガイの役割を果たすのは夫が妻を、妻が夫を個人的に尊敬できる存在であるかどうかの意思であって、相手に対しての個人的尊敬の意思を失えば、家庭内別居、離婚という破局となって現れる。

 この破局は当然のことながら、氏や姓が防いでくれるわけではない。子どもが父親か母親に対して個人的な尊敬を失うことになれば、反抗という形で現れる。反抗が最悪、父親殺し・母親殺しという形で現れてしまう例もあるはずだ。中には個人的に尊敬できない父親・母親を反面教師として社会的に人間的な成長を遂げていく子どもも存在するはずだ。

 夫婦別姓に於いても然り。氏や姓に意味を置かず、個人に意味を置いた男女関係・夫婦関係にしても、親子関係にしても、相手に対する個人的尊敬が男女・夫婦の一体感を生み、持続させ、親の姓が異なっていても、父親と子の、母親と子の一体感を育んでいく。個人的尊敬という要素さえ手に入れることができれば、子どもが混乱するどのような要素があると言うのだろうか。子どもができなく血の繋がっていない子どもを自分の子どともして引き取り、育てる父親・母親にしても、その子に対する個人的尊敬の気持ちが持てなければ、逆に引き取られた子が引き取られて以降感覚的に、そして物心ついて以降、実感的に父親・母親に対して個人的尊敬の気持ちを持つことができさえすれば、血の繋がりは問題ではなくなる。

 要するに山谷えり子は古い人間にふさわしく、氏や姓といった形式に価値を置いて、中身の人間の在り様に価値を見ないでいる。

 安倍内閣で総務相を務めていた安倍晋三の秘蔵っ子右翼高市早苗が自身の「サイト」に2020年12月1日付で自民党の法務部会(奥野信亮部会長)に対して『婚姻前の氏の通称使用に関する法律案』を提出したことを報告している。選択的夫婦別姓の法律化に反対しているがゆえの婚姻前の氏の通称使用を認める法制定に向けた動きである。氏の通称使用の法律化によって選択的夫婦別姓の法律化を葬り去ろうとする魂胆を前提としているはずだ。

 法案の概要と通称使用に関わる自身の主張や別姓に関わる経緯等を載せているが、主張のところをピックアップしてみる。

 「高市早苗Column」

 夫婦同氏制度は、旧民法の施行された明治31年に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたものです。

 氏は、家族の呼称として意義があり、現行民法の下においても、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ、その呼称を一つに定めることには合理性があります。

 そして、夫婦親子が同じ氏であることは、家族という一つの集団を構成する一員であることを、対外的に公示し、識別する機能を有しています。
 
 各種手当や相続をはじめ、戸籍を基に運用される多くの法制度も存在します。

 特に、婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦の共同親権に服することを示すために、子が夫婦双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義があります。
  
 「戸籍上も夫婦別氏」となってしまうと、「子供の氏」は両親のどちらかと異なることとなり、婚姻届や出生届の提出前に、子供の氏を両親が奪い合うようなトラブルも想定されます。
 
 (『夫婦別氏法案(民法の一部を改正する法律案)』が平成14年に自民党法務部会で審査された)当時も「兄弟姉妹の氏が異なることは、子に対して悪影響がある」という世論調査結果を受けて、「複数の子の氏は統一する」こととされていましたが、これでは「家名を絶やさない」という別氏推進派の希望も叶わない上、婚姻届提出時、出生届提出時、成人後など、子の氏が度々変更される可能性があります。

 私は、「子供の氏の安定性」は、損なわれてはならないと考えます。

 また、夫婦親子別氏の御家族に対して、「第三者が神経質にならなければならない煩雑さ」も懸念しています。

 仮に民法改正が実現したとして、経過措置期間中に別氏に移行した夫婦や親子を認識していなければ、例えば年賀状の宛名書きでも、相手に対して大変な失礼をしでかすことになります。

 結婚披露宴に招かれて「ご両家の皆様に、お慶びを申し上げます」と祝辞を申し上げてしまった場合、新郎と新婦のご両親が別氏を選択していたなら、「ご4家の皆様」と言わなければ失礼にあたります。

 今や殆どの専門職(士業・師業)など国家資格においても、届出により、戸籍氏名と婚姻前の氏を併記することが認められており、マイナンバーカードでも同様です。

 総務大臣在任中には、『公職選挙法』を所管する立場から、議員の当選証書も併記を可能にしました。

 先ずは、婚姻前の氏の通称使用が可能な場面を増やすことによって、婚姻に伴う氏の変更による社会生活上の不便を解消し、我が国の優れた「戸籍制度」や「ファミリーネーム」は守り抜きたいと考えます。

 議員立法の場合、党内で法案を審査していただけるか否かは、内閣提出法案の数や国会日程など様々な事情を勘案しながら、政調会長や法務部会長が判断して下さることだと思いますので、先行きは見えませんが、私の法案は、今後の議論の叩き台にはなると思います。

 「氏は、家族の呼称として意義がある」と言っているが、一般的に氏で家族を呼称した場合、その多くが夫を家族の代表と見做して、妻を夫の次に置いた意識の元の呼称となる。例え夫が婿入りして妻の氏を名乗っていることを知っていたとしても、妻が家庭内に於いても、家庭外に於いても余程の実権を握っていない限り、夫を家族の代表と看做す意識で家族というものを認識することになる。

 夫婦別姓であっても、一つの家族を構成する。その家族を認識する際、夫婦別姓であると知った以降は必要に応じて夫の氏で認識したり、妻の氏で認識することになるだろうが、夫の氏で認識する場合は夫をより個人としての存在で見ることになり、妻の氏で認識する場合は妻を夫の付属物でも、従属物でもなく、より個人としての存在で見ることになって、個人対個人の独立した人間関係で認識せざるを得なくなり、日本国憲法第3章国民の権利及び義務に於ける〈すべて国民は、個人として尊重される。〉の第13条に近づくことになるのだから、どこに不都合があるのだろうか。

 例えばママ友同士が氏(名字)で呼び合っていた関係が名前で呼び合う関係に進む場合があるが、個人的により親しくなった関係となったことの証明以外に何ものでもないはずだ。氏よりも個人により価値を置くという点で夫にとっても、妻にとっても、夫婦別姓は意義のある制度となる可能性を孕んでいる。勿論、子どもがどちらの氏を選んだとしても、夫と妻が相互に個人対個人の独立した人間関係を築いていれば、夫も妻も子どもに対して選んだ氏の関係物ではなく、個人対個人の関係性で子どもを捉えることになるだろう。

 兎角日本人は個人よりも集団に価値を置く。どこそこの有名大学を出たと評価することも集団に価値を置いているからで、勤めている会社の規模で評価を違えているのも集団に価値を置いているからで、その集団の一員であることを自己に対する評価とする。どのような大学を出ようと、どのような会社に勤めうよと、自分という個人に価値を置いて自らを自律させる例が少ない。

 当然、「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ、その呼称を一つに定めることには合理性がある」としても、その「集団単位」そのものの中身の構成員が相互に独立した個人としての関係を築けていなければ、その集団は意味がない。「その呼称を一つに定めることには合理性がある」としていること自体にしても、その「合理性」は単なる便宜的なものと化す。

 また、「夫婦親子が同じ氏であることは、家族という一つの集団を構成する一員であることを、対外的に公示し、識別する機能を有する」にしても、内部の構成員が相互に独立した個人の関係を築いていない、単に「集団」を主体とした「対外的公示・識別」であるなら、さして意味のある「公示・識別」とはならない。

 「婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦の共同親権に服することを示すために、子が夫婦双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義があります」

 夫と妻同士、夫・妻と子供同士が相互に個人対個人の独立した人間関係を築けていなければ、「夫婦間の子が夫婦の共同親権に服すること」は単なる夫婦間の関係物に成り下がるだけである。

 「『戸籍上も夫婦別氏』となってしまうと、『子供の氏』は両親のどちらかと異なることとなり、婚姻届や出生届の提出前に、子供の氏を両親が奪い合うようなトラブルも想定されます」は国家権力が国民を愚民扱いするのに似て、夫や妻の理性や良識を疑ってかかっていることになる。

 夫婦別姓は夫・妻・子ども共に相互に個人対個人の独立した人間関係を築くことによって始まるから、子どもが主体的に氏を選択できる年齢になるまでは夫か妻の氏を仮の氏と定めて、その年令に達したなら、子ども自身が主体的に選択して、本氏とするよう法律に規定したなら、「子供の氏を両親が奪い合うようなトラブル」も起きないし、子どもが混乱することもない。却って子供の自律心・自立心が幼い頃から育まれることになる。

 「『夫婦別氏法案(民法の一部を改正する法律案)』が平成14年に自民党法務部会で審査された)当時も「兄弟姉妹の氏が異なることは、子に対して悪影響がある」という世論調査結果を受けて、「複数の子の氏は統一する」こととされていましたが、これでは『家名を絶やさない』という別氏推進派の希望も叶わない上、婚姻届提出時、出生届提出時、成人後など、子の氏が度々変更される可能性があります。

 私は、『子供の氏の安定性』は、損なわれてはならないと考えます」

 兄弟姉妹の氏が例え異なったとしても、尊重されるべき価値は兄弟姉妹が相互に独立した個人として存在することができているかどうかであって、同じ氏であっても、独立した個人として存在できていなければ、いわば氏に単に所属しているだけなら、同じ氏であることは意味を成さないし、氏という集団の一員であるという意味しか持たないことになる。

 「夫婦親子別氏の御家族に対して、『第三者が神経質にならなければならない煩雑さ』も懸念しています」と言っていることは氏ではなく、名前で呼び合う習慣を身につければ解決する。欧米の映画では初対面同士のどちらが呼びかけようとして、「ミスター・・・」と口にすると、相手がファーストネームを口にして、「ファーストネームで読んでくれ」と申し出ると、親しい関係になっていなくても、お互いがファーストネームで呼び会う関係に持っていくシーンをよく見かける。

 あるいは会社の重役がお抱え運転手をファーストネームで呼び、お抱え運転手も重役をファーストネームで呼ぶという映画のシーンに出会ったことがある。

 年賀状の宛名書きにしても、夫婦別姓と決めて結婚した際に結婚の案内状に夫婦別姓であることを告げておけば、迷うことはない。案内状を出さない相手から一つの氏で夫婦双方に年賀状が届いた場合は返書に夫婦別姓であることを告げれば、何の問題があるだろうか。

 要するに高市早苗の夫婦別姓に対する懸念は戦前右翼の血を引く高市らしく、集団の中で個人個人が独立した関係を持ってそれぞれに能力を発揮し、その総合性に価値を置くよりも、集団を個人よりも上の価値に置いて、すべての個人がそれぞれの能力を集団に捧げ、そのことによって集団と個人が一体関係を築くことにより価値を置いていることから発生している。結果、集団主義は個人が独立した存在であることを忌避する。

 大体が夫婦別姓反対派の政治家は日本の伝統的な家族の在り方・伝統的家族観の正体を何だと思っているのだろうか。

 日本の伝統的な家族の在り方は男尊女卑の権威主義が歴史的にも文化的にも支えてきた。このような男尊女卑の権威主義が夫は妻を従え、妻は夫に従う上下関係・序列を作り出し、それが家族だという考え方が伝統的家族観となった。

 夫を上の価値に起き、妻を下の価値に置くこの権威主義は妻に育児・子育て、家事・洗濯は任せっ放しで、自分は何もしないという形で現在も残っている。この任せっ放しは夫と妻が相互に独立した個人を築くことができていない社会的未成熟から来ているはずである。日本の伝統的な家族の在り方や伝統的家族観を守るということは伝統的な男尊女卑の権威主義を核のところで擁護することに通じる。

 また集団主義は権威主義が持つ序列・階級を骨組みとして成り立っているゆえに前者は後者を入れ子構造の関係に置いている。

 夫婦別姓は夫・妻・子どもそれぞれを相互に独立した関係に導く機会となり、そのような関係を確固と築くことができたとき、夫が妻に何でも任せっ放しにするのではなく、妻が夫に何でも任せっ放しにされるのではなく、子どもが何でも親に頼りっ放しになるのではなく、相互に協力し合う関係で家族というものを成り立たせる関係に進むはずである。

 夫婦別姓はいいことづくめではないか。戦前右翼の血を引いていない限り、選択的夫婦別姓制度を忌避する理由などどこにもない。


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