舛添が必要とする「独裁者」とは自身のこと

2009-12-26 09:33:10 | Weblog

 独裁者の辞書には自身に対する「誠意」という言葉は存在しても、国民に対して、あるいは国民の生命に対して持つべき「誠意」なる言葉は存在しない

 国民のための政治ではなく、自身のための政治としているからなのは断るまでもない

 ゆえに「誠意」の有無は独裁者を規定するキーワードとなり得る


 国民的人気の高い政治家、自民党政権下で麻生を継ぐ総理大臣として最も支持を集めた前厚労相の舛添要一参院議員(61)が12月22日、都内で新刊「舛添メモ 厚労官僚との闘い752日」(小学館1260円)の出版記念講演を約150人の前で行ったとスポーツ報知記事――《舛添氏、閣僚の7割は民主党から選ぶ》(2009年12月23日06時02分)が伝えている。

 「仮に私が首相になったら閣僚の7割は民主党から選ぶ。自民党から欲しいのは3割だ」

 自身を首相になぞらえた発言だから、首相に意欲を示したということなのだろう。記事は、〈政界再編を視野に入れていることを示唆した。〉と解説している。さらに、〈鳩山内閣の支持率が急落しているにもかかわらず、自民党の支持率も一向に上がらぬ現状を嘆き、〉次のように発言したとしている。

 「誤解を恐れずに言うなら、今の自民党には小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要。(総選挙で)負けたという危機感がなさ過ぎる」

 政界再編を視野に小沢一郎にエールを送ったのか、あるいは自民党を批判し、評価を下げることで自身の評価を高める“受け”を狙ったのか。「Jcastニュース」によると、舛添の発言は次のようになっている。

 「自民党支持率は上がりません……いっぺん捨てた男のところへは戻りませんよ。今、自分が総理大臣になって、こいつなら優秀という内閣を作る。まあ7割は民主党から選びますよ」

そしてこの発言に対する自民党組織運動本部長石原伸晃議員の反応を伝えている。

 「そりゃ目立とうとしているだけだろう」

 いわば“受け”を狙ったのだろうと言っている。

 しかし、「小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要」とは穏やかではない。

 勿論、どう逆立ちしようが、どう逆立ちさせようが、独裁者と民主主義は相容れない対立概念だからだ。

 金融危機を受けた不況下の2008年末と2009年初に住いと食の機会を失った失業者救済を目的に東京・日比谷公園で「年越し派遣村」が開村、6月末に解散したが、当時厚労相だった舛添要一が「年越し派遣村」に集まった失業者を怠け者扱いした選挙演説を行って問題となった。

 「4000人分の求人を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」

 この発言に対して「年越し派遣村」元実行委員会有志が8月24日に舛添に対して抗議、翌25日の閣議後の記者会見で舛添は次のように釈明している。

 「(求人を始めた)初日はなしでその後、139人申し込みがあった。・・・・言い方が悪いとしたら気を付ける」

「(2カ所のうち)1カ所では初日はゼロと言っている。日本が豊かになった中で機会も能力も生かしていない人を怠け者と言った」――

 大体が「4000人分の求人」の中身自体が怪しい。2008年の年末に向けて派遣切りが拡大し、それが正社員のリストラにまで波及、2009年4月からの新卒新規採用者の内定取り消しにまで発展にしていた歪んだ雇用状況下で「4000人分の求人」が果して「4000人分」の就職につながる保証を備えた「4000人分の求人」だったろうか、極めて疑わしい。

 一度ブログにも書いたことだが、このことは12月4日の「レイバーネット」《派遣村 : 事実をねじ曲げた舛添発言の撤回と謝罪を求める》に載っている抗議文が証明している。

 〈応募をした村民は、ほとんど断られてしまっています。応募した会社から返ってきた返事は、「もう決まっちゃいました」「実は募集していないんです」「ハローワークから求人を出すよう言われて、ホントは募集してないんだけどお付き合いで求人を出しているだけなんです」といったものでした。〉――

 つまり派遣切り、正社員のリストラ、新卒者の内定取り消し等々の雇用状況に反する「4000人分の求人」だったわけである。

 「求人」の中身を問わずに申し込みがゼロだ、「初日はなしでその後、139人申し込みがあった」と求職者側を批判することも日本の政治家らしく合理的判断能力を欠いていて問題だが、この舛添発言を扱った「asahi.com」記事では舛添の釈明は――

 「怠け者発言は(民主党が復活を強く主張する)生活保護の母子家庭(への加算)の中で言ったつもりだ」

 このことに関しても以前当ブログで次のように書いた。

 〈例えこれがゴマカシの釈明でなかったとしても、中にはいるかもしれない怠け者の生活保護母子家庭を以ってすべての生活保護母子家庭を怠け者だとする“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性から全体を悪者視するもので、この少数の悪例を以って全体の例とする舛添のこの考え方は国家都合から個人それぞれであること、違いがあることを認めず、個人を常に全体として扱う一種の全体主義の思想傾向からきた糾弾であろう。

 “疑わしきは罰せず”は裁判に於いて裁判官や検察側が被告人に対して守るべき鉄則であるが、これを国家対国民の関係に置き換えた場合、国家の側が国民に対して守るべき鉄則となる。この鉄則に反して、国民に対して“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性を犯す合理的判断能力を欠いた政治家は信用できないと見た方が無難である。

 いつの日か舛添総理大臣が実現するかもしれない。自分の政策が思うようにいかなくなった場合、国民が「怠け者だから」とその責任を国民になすりつける可能性を大いに疑うことができる。“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性を体質としている上に新型インフルエンザの急激な感染拡大に、「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった。病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と国民に感染拡大の責任を既になすりつけているし、こういったことができる性格から容易に想像できる結末であろう。〉――

 以上見てきたように舛添の辞書には“誠意”なる言葉は存在しないように見えること、“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”全体主義的操作・処理からして既に独裁的意志を性格としていたことが分かる。

 最初に書いたように国民のための政治としていないからこそできる国民への責任転嫁であって、自身のための政治としていることからの“誠意”なる要素の不在であろう。

 舛添は年金記録問題でも彼特有の“誠意”を発揮している。

 2007年12月になって年金記録漏れ5000万件のうち1975万件の特定がコンピューター照合が困難、そのうちの945万件が紙台帳との照合でも特定困難の可能性があり、さらのそのうちの240万件が紙台帳からコンピューター入力の過程で名前のカナ変換の間違いによって別人化している可能性が明らかになった問題が生じたが、安倍改造内閣の厚労相就任の2007年8月28日の記者会見で桝添は、

 「公約の最後の1人、最後の1円まで確実にやるぞ、ということで取り組んでいきたい」

 と特大の“誠意”を見せたが、12月11日の記者会見ではその特大の“誠意”をさらに特大化させている。

 桝添「ここまでひどいというのは想定しておりませんでした。・・・・最初うまくいくかなあっと思って5合目ぐらいまでかなり順調でありました。そっから先、こうなったときに、こんなひどい岩山と言い、その、アイスバーンがあったのかっていう・・・・」

 桝添「無いものは無いってことを分かる作業を3月までやるってことですから、それを着実にやってます」(日テレ)

 桝添「3月末までにすべての問題を片付けると言った覚えはないんです」

 女性記者「じゃあ、それはいつまでですか?」

 桝添「エンドレスです。それでできないこともありますよ。恐らく他の方が大臣になってやられたって、あの、結果は同じだと思います。無いものは無い」――

 「公約の最後の1人、最後の1円まで確実にやるぞ」という照合作業が「無いものは無いってことを分かる作業」だったとは、これが国民に見せた特大・最大限の“誠意”だったわけである。

 もしも舛添が政治は国民のためにあるという姿勢を基本的に確固としていたなら、このような“誠意”を見せることはできなかったろう。権力欲や名誉欲などから自分のための政治としていて、国民のための政治としていないからこそ見せることができた“誠意”と言わざるを得ない。

 国民のための政治としていないということは個人は全体のためにあるとする全体主義を否応もなしに志向することになる。

 全体主義に則った自分のための政治となっているから、国民に対する責任をいとも簡単に回避ができる。

 自分のための政治となっているから、それを成功させるために独裁政治も厭わなくなる。独裁政治への衝動を常に抱えることになる。

 〈週刊文春(1989年10月)の連載「デーブ・スペクターのTOKYO裁判」で、中国天安門事件に関し舛添は「いや共産主義じゃなくとも、100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないとどこの国でもダメだってこと」〉と発言したと「Wikipedia」に出ているが、ここにあるのは強権政治家に対する視点のみで、殺される100万人の国民への視点がない、あるいは国家権力によって100万人も一度に殺されるということがどういうことなのかの視点が一切ない。これは国民のための政治としていないことの表れとしてある“視点”であろう。

 だからこそ、「どこの国でもダメだってこと」の条件として「100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないと」と、国民の側から見た成功の条件ではなく、国家の側から見た成功の条件とすることができる。

 独裁者肯定・国民否定の思想そのものであり、元からある独裁者肯定・国民否定の思想が言わせ、その思想とつながった「今の自民党には小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)独裁者が必要」の必然的発言であろう。

 当然、舛添自身のことを言った形容でなければならない。「今の自民党には小沢(一郎)さんよりももっとラジカルな(過激な)、この舛添みたいな独裁者が必要」と暗黙の内に示唆したのである。

 


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