現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

村野藤吾の椅子

2012-02-11 23:44:44 | 村野藤吾
「建築をやるなら、まず椅子の設計をやりなさい」と
村野藤吾は云う。「住まいでも職場でも、人が長時間
留まるのは《椅子》の上。快適さを感じるのは椅子の
良し悪しだ」と。

村野藤吾は、各役員室、応接室、会議室、大会議室、
食堂や喫茶室の椅子まで、全部自身でデザインされた。

大会議室の椅子など、肘掛や脚の部分がアールを描き、
実に繊細。今にも折れそうに か細い。すぐ壊れや
しないかと誰もが心配した。

村野藤吾はいう「繊細で華奢(きゃしゃ)なものこそ、
大切に扱われ、長持ちするのだ」と。

なるほど、小学校の椅子など頑丈に作られているが、
扱いも乱暴になり、すぐ壊される。すぐ壊れそうな
ものは、丁寧に大事に扱おうとする心が働くものだ。

大会議室の椅子は、平成5年まで30年使われていた。
私が名古屋に転勤になる直前、さすが、ニスも剥げ、
布の部分もほつれが目だってきたので、全部廃棄し
取り替えられることとなった。

新しい椅子は、村野の設計した会議室にはそぐわない 
がっしりした色気もないものだった。

村野藤吾のデザインした椅子が廃棄処分されると知って、
私は2脚もらい受けた。それが今2脚、私の部屋に
鎮座ましましている。村野藤吾の遺品だ。

村野藤吾の意匠が次々と壊され、無くなっていくのを
私は断腸の思いで見聞きし、千代田生命と決別したので
ある。

千代田生命ビルへのいざない

2012-02-11 21:50:16 | 村野藤吾
私は昭和23年生まれた時から中目黒の隣りの祐天寺に
住んでいた。駒沢通りは「開成道路」と言われ、
当時としては道幅が広く、子供の頃は横断するのも
怖かった。

祐天寺のお寺から先、目黒川に向かって急な下り坂に
なっていた。そこに「アメリカン・スクール」が
あった。昭和27年まで、日本はアメリカに占領されて
いたのだから、アメリカ兵の子供達も多く通っていた。
ジュディ・オングも通っていたそうな。

アメリカでは、今でもそうだが、スクールバスは
追い抜いてはいけない交通ルールがある。駒沢通りは
アメリカンスクールのスクールバスや子弟の送迎の
外車で、よく渋滞していた。その交通渋滞を改正
するため、占領解除後、警察からの要請もあって、
アメリカンスクールは立川に移転することとなり、
土地の買い手を求めていた。

昭和35年、私は慶応の中等部にはいり、毎日、
アメリカンスクールの前を通って三田まで通っていた。

やがて、建物の取り壊しが始まり、巨大なビルが
形となって現れた。私はてっきり「アメリカン・
スクール」が校舎を建て直しているのだと思っていた。



千代田生命ビルのコンセプト

2012-02-11 21:13:56 | 村野藤吾
千代田生命中目黒本社ビルは、昭和35年、千代田生命
創業50周年を記念しての一大事業として企画された。
時の社長「門野雄吉」は、千代田生命の創業者「門野
幾之進」の息子。お坊ちゃん育ちのボンボンだった。

海外の保険会社を視察して、郊外の広々とした所に建つ
美しいビルを見て、わが社も、都心から郊外に本社を
移そうと提案した。

その建築を、当時、日本生命の「日生劇場」を建てて
注目を集めていた「村野藤吾」に依頼することとなった。

そのことで、日本生命に照会したところ、日生の担当者は
「大変なことになりますよ」と忠告してくれたが、当時、
千代田の担当者は その意味が判らなかったという。

この時、村野藤吾は すでに70歳を越えていた。
土地は、目黒区の「アメリカンスクール」が立川に
移転するため売却を望んでいるとの情報を得て、
大成建設の子会社有楽土地がその周旋に当たった。

村野藤吾は、アメリカンスクールを視察し、高低差の
ある敷地をどう生かして建てるか、構想を描いた。

①千代田としては、業界に誇れる高層ビルが欲しい。

(当時、住友生命が、新宿をはじめ各地に高層ビルを
建てていた)

②「日生劇場」は劇場だから窓の無い暗室だった。
千代田ビルはオフィスだから、できるだけ陽光を
とりいれる外壁にしたい。

③だが、住宅地である。周囲の住民にとって「鉄と
ガラス、コンクリートの壁」を造ってはいけない。
光を跳ね返す建物ではなく、光を吸収する建物に
したい。

(当時、丹下健三が、毎日新聞社ビルや旧都庁ビルなど
鉄とガラスの外壁で、これぞ「モダン建築」と絶賛
されていた。それに村野は異議を唱えたのだ)

そして、何より、保険会社は「人々のライフ(生活)」を
守る会社である。平和がシンボル。周囲の住民の
憩いの場になるような、平和で温かいぬくもりを
感じる空間にしなければならない。

さて、それから1年半の間、設計は遅々と進まず、
千代田の担当者はやきもきしていた。その頃、
村野藤吾は、秘かに、粘土で50分の一の模型を
作らせていた。一片が2mもある巨大な粘土細工が
現出していたのだ。



村野藤吾の「遊び心」

2012-02-11 20:27:05 | 村野藤吾
「車のハンドルにもアクセルにも“遊び”があるように、
“無駄”と思えるものも、人生には大切でしょ」と。

高度成長期、合理主義、機能主義全盛の時代に、村野藤吾は、
あえて“必要の無い空間”を随所に作った。

広い庭、築山、池、噴水、茶室、テラス、エントランス、
建物の中のプール。すべて贅沢すぎるほどの空間。当時の
千代田生命の担当者は「こんなもの必要なかった」と
嘆いたそうだが、その“無駄”な部分こそ大切なものだった。

その最たるものは、全フロアーの外に設けられたバルコニー。
でもこれが、ビルの改修工事の時には、真価を発揮した。
普通のビルなら、全館を覆う櫓(やぐら)を組むところだが、
当ビルは、通常勤務を妨げることなく、バルコニーを足場
にして配線などの工事ができたのだ。

エントランスの外側の装飾も、普段は見えない所なので
必要無いものなのだが、ある位置から、それが覗き見えた
時の感動は一入(ひとしお)なのだ。

築山の一画には、コンクリートの打ちっ放しがあり、
鉄筋が突き出たままになっている。他がすべて完璧に
美しく処理されているのに、ここだけ、手抜きしたかの
ような部分だ。ところが、数年、10年経って、鉄の錆びが
雨水で流れ、縦じわのシミができた。これが遠目には
「滝」のように見えるのだ。千代田を訪れたことのある人が、
よく「築山には“滝”も流れてましたね」と云われるが、
実はコンクリートの壁なのだ、数年後、10年後、50年後を
見通しての村野藤吾の計算された“遊び心”に驚かされる。


“遊び心”といえば、新高輪プリンスホテルの大宴会場の
照明器具。なんと、女性のカラフルなショーツ(パンテイ)で
飾られていた。村野藤吾 93歳の“色気”だ。“オカマ”の
御用達の有名店に、いい年をした社員が、女性のショーツを
買いに行かされたのだ。さすが、今は取り外されている。




村野藤吾のこだわり「北の部屋」

2012-02-11 17:31:16 | 村野藤吾
特別のお客を迎える「貴賓室」は 北側に造られた。
普通常識では、南に面した日当たりの良い、明るい
部屋を「応接室」にする。庭園も見渡せるような
所だ。

それが「北側」とは。村野藤吾は、「陽の当たる
部屋は、太陽の動きに左右される。陽が廻れば
まぶしくてカーテンを閉めたり開けたり。

北側なら、一日中、晴れの日も雨の日も、天気や
時間に左右されずに、一定の重厚さを醸し出せる。

そして、村野は、床の絨毯に仕掛けをほどこした。
窓辺は明るく、部屋の奥ほどグレイを濃く、グラディ
エーションにしてあるのだ。


こうすることで、北側なのに、陽が差しているかの
ような情景になる。このように、各部屋の絨毯の
模様まで、すべて村野藤吾自身がデザインし、
特注なのだ。

庭に面していない北側の部屋ということは、特に
VIPを迎えた時など、外から覗かれないという
効果もあった。


村野藤吾「トイレのこだわり」

2012-02-11 17:15:41 | 村野藤吾
「千代田生命本社ビル」のご案内をしよう。
まずは「トイレ」の話から。

トイレに入ると、各個室の扉が 45度に整然と
開いていることに注目。各扉が半開きで止まる
ように蝶番(ちょうつがい)に仕掛けがなされて
いるのだ。

こうすることで、「使用中」か否か歴然。
いちいちノックする必要はない。戸の外側に
ノブ(取手)も要らない。

そして「おまる」の位置が前後逆になっている。
普通「和式」は、入ってそのまま奥の方を向いて
しゃがむ。すると万が一、戸が開いたりすると、
突き出したお尻が丸見えになってしまう。

一般の常識を破って、村野は、「おまる」の
前後を逆にし、戸の方に振り向いてしゃがむ
ようにした。洋式と同じだ。これだと、戸が
開いても「きん隠し」もあって 恥ずかしい所を
見られる心配は無い。

村野の「ヒューマニズム」は、トイレを利用する
際の心理にまで、細かく配慮されていたのだ。

村野藤吾は語っている。「一人前の大工になるには
まず“便所”。そして“階段”をやれ。便所は
一番の安らぎの場だから」と。

不可能を可能にする魔術師「村野藤吾」

2012-02-11 09:35:49 | 村野藤吾
「村野藤吾」は 建築界の魔術師。

千代田生命ビルについて云えば、目黒の住宅街の中に
オフィスビルを建てるのだ。住宅地だから、高さ制限が
あって高層ビルは建てられない。

住民から見れば、目の前に壁が立ちふさがるような
ビルは甚だ迷惑。施主の千代田生命側からは、各社が
高層ビルを競い合う中、高くて立派な建物が欲しい。

こんな二律相反する要求に、普通の建築家はサジを
投げることだろう。

それを村野藤吾は見事にクリアさせたのだ。村野は、
建築基準法に違反せずに、住宅地に本館9階、別館
11階の中高層ビルを建てたのだ。「建築法上は千代田
生命ビルは地上4階建」と 説明すると、皆驚く。
目の前にあるのは9階と11階の建物なのだから。

謎解きは、敷地の高低差。村野は、西側の高い部分を
一階正面入り口とした。そこから下のフロアーは
「地階」なのだ。

では7階から上は?。驚くなかれ、上3フロアーは
「搭屋」。「搭屋」も同じデザインの外壁とすることで、
9階建てのビルに見せている。別館については、上
5フロアーが「搭屋」となる。玄関入口付近では
4階建ての低層ビルに見え、別館の下から見上げれば
11階建ての中高層ビル。

見る位置によって 大きくも見せ、小さくも見せる。
そんな仕掛けが随所に隠されているのだ。そんな
謎解きを一冊の本にしたいと思っているが、これも
期限無し。