現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

村野藤吾の和室「きれいさび」

2012-02-14 23:36:40 | 村野藤吾
井上靖が「千代田生命」を評して「きれい寂び」と
表現している。

「きれい寂び」は 千利休によって磨かれた美だ。
千代田生命の外観は、まさに「利休鼠(ねずみ)」色。
晴れの日は陽光に照らされて輝き、雨に煙るグレイも
また美しい。

そして地下に築かれた和室。
「そこには、華やかさもあれば翳りもある。喜びも
あれば悲しみも、時には絶望感さえある」と。

さすが井上靖の表現は見事。
「ヒューマニズムの建築家」と言われながらも、村野の
建築は、人を寄せ付けない凛々しさがある。特に和室は
外から見るだけで、中に入るのを躊躇(ためら)わせる。

千代田生命在籍中、この和室に自由に出入りしたのは
私ぐらいだ。ここでは食事もできない緊張感があった。

「竹の間」の床柱。完成後、村の先生はその太さが、
気に召さなかった。「も少し細いのと取り替えるように」と。
これまた「云うは易く、行うは難し」。床柱を取り替える
だけでは済まない。天上も床の間の松の一枚板も、
網代も壁土も全部造り直しなのだ。

まさに、村野先生の建築に携わる者たちは、終始
「絶望感」との戦いだったのではないだろうか。




仕事の神様「村野藤吾」

2012-02-14 21:55:59 | 村野藤吾
「村野藤吾」の美意識、仕事への執念、生き様に、私は
深く感銘受け、「村野信奉者」の一人となった。

村野藤吾は、93歳で まだ「新高輪ホテル」の茶室、
「宝ヶ池プリンスホテル」「横浜プリンスホテル」
「都ホテル大阪」他数件の建設に携わっていた。
それだけでも驚異だ。

亡くなる前日、村野藤吾は宝塚の自邸におり、「新高輪
プリンスホテル」内の「茶寮 惠庵」について、送られて
きた図面を見て、「違うじゃないか」と激怒。すぐ、
飛行機の手配をさせ、東京に向かおうとした。その時、
興奮していて靴下も履けなかった。そこで頭に血が上った
のか、そのまま帰らぬ人となってしまったという。

1本の線も、1cmも妥協を許さない。新高輪の巨大な
岩などは、自ら鞍馬の山に登って、気にいった岩を
指差し「あれを」と。 “云うは易い”が、部下に
とっては、地権者との交渉、買付から切り出しまで、
大変な作業だ。

「興銀ビル」の赤い花崗岩などは、アメリカまで行って、
飛行機の窓からロッキー山脈を見下ろして、「あの岩を
そっくり東京へ運びなさい」と部下に指示したという。
千代田生命のエントランスホールの真っ白い大理石は
ユーゴスラビア産だ。まだ共産圏で国交も無い時代の
ことだ。あのような「真っ白」の大理石はもう入手でき
ないという。

村野にとって「不可能」は無いのだ。しぶる部下に
「君は、何のために金をもらっているのかね」と皮肉を
言ったそうな。

こんな人が上司だったら恐ろしい。今の人なら ストレスで
ノイローゼ、鬱病 続出だろう。だが「村野先生だから」
「神様だから」みな素直に従った。そんな“神様”の
ように崇められる建築家が 今の世にいるだろうか。
まさに“不世出”の「建築の神様」だった。

村野藤吾「日生と千代田」

2012-02-14 21:02:30 | 村野藤吾
「日生劇場」ビルは、日本生命が創業70周年を記念して
1959年(昭和34年)に着工、1963年(昭和38年) に竣工した。

このビルは、地下5階、地上8階建で、日本生命東京本店
としての「事務用」部分と、「劇場」部分という 全く
機能を異にするものが、一つの建物に二分して存在する。
構造的にも建築的な芸術の点からいっても、統一と調和を
与えることは、そう簡単な問題ではない。

劇場に来られる客と、仕事に向かう社員とでは、服装も
心づもりも異なる。そこで、1階部分を開放するという
ことにした。当時の日本では、商業的な採算性重視で、
一階を公共の場として開放するということは、前例に
乏しかった。「それを実現してくれたのは、ひとえに
社長(弘世氏)の理解と「生保会社」の特別な使命の賜物で
あった」。と村野氏は述べている。

このように、2つの相反する命題を、見事に解決する
ことが、村野藤吾の真骨頂だった。

「劇場」に窓は必要としないので、ガラスの窓は極力
少なくし、外壁を花崗岩で覆って、建物に重厚な風格を
与えた。

「日生劇場」は「演劇」用のホールなので、 音の拡散を
考えて、天井も壁も曲面の多いものにし、30分の1の模型を
作って、音の響きをテストし、何度も造りかえられた。

かくして、深海か宇宙を思わせる うねりの多い曲面に、
「アコヤ貝」が無数に嵌められ、来場者の目を見張らせる
劇場となったのである。

「日生劇場」は、「劇団四季」とタイアップして、小学生の
子供たちを多く招待してきた。多くの人が、子供の頃に、
この劇場で演劇を観、「日生」という名を心に刻んだ。
そのPR効果は果てしない。

「螺旋階段」は村野の真髄を現すものだが、細く繊細な
デザインは子供達が多く来場する際、危険ということで、
後日、ゴツイものに造りかえられてしまった。


千代田生命が「新本社ビル」を村野藤吾に依頼したのは
昭和35年だから、まさに「日生ビル」の建設のさ中で
あった。村野藤吾は、同時進行で千代田生命の建設にも
意欲を燃やしたのである。

日生ビルが、有楽町という商業地域の中の狭い空間に
建てられたのに対し、千代田は東京郊外の 3,000坪の
敷地に自由に設計できるのだ。

そして 千代田生命ビルは 日生から2年遅れて、昭和
40年に竣工した。こちらは、日生とは対照的に、直線的で
ガラスをふんだんに使ったオフィスビルとなった。

実は 村野藤吾は 千代田生命ビルにも日生と同じように
「劇場」を造ることを考えていた。それは、正面玄関前の
築山の下であった。地下部分だ。しかし余りにも予算を
オーバーするということで断念させられた。

だが、その試みは「新高輪プリンスホテル」で完成されて
いる。


消え行く「村野藤吾」の建築

2012-02-14 09:44:26 | 村野藤吾
「村野藤吾」で検索すると 24,000件もヒットする。
「知る人ぞ知る」で、建築に関心の無い人は知らない
だろうが、“村野藤吾信奉者”が、まだまだ多くいる
ということに、うれしく思う。

ところが、その項目の中で、「谷村美術館閉館」や
「大阪なんば新歌舞伎座」「小倉市民会館」 
「千里南センタービル・千里市民センター」
「米子市公会堂」などが取り壊しになるという記事。
身を切られる思いだ。

私は子供の頃「法隆寺は世界最古の木造建築」と
聞かされ、また、室町・鎌倉の寺院建築も現存して
いることから、火災にさえ遭わなければ、木造建築
でも1000年持つ。ましてコンクリートなら未来永久に
存続するものと思っていた。

法隆寺が世界遺産登録を申請した時、「千年の間に
柱も瓦も何度も補強され 取り替えられているので、
千年前の建物とはいえない」とフランス人の選考委員
から異議申立てがあったそうだ。

そういえば、姫路城の芯柱だって取り替えられている。
伊勢神宮など 20年ごとに 全とっかえだ。

現「目黒区役所」となっている「旧千代田生命ビル」の
写真もネットで見れた。それを見て、私は愕然となった。
「村野藤吾」の建築にかける理念は すべて踏みにじられて
いるではないか。目を覆いたくなった。私が、このブログで
書いてきたことは、もう今の「目黒区役所」では感じ取れ
ない。これが「建築物」の末路なのか。ああ無常。

村野藤吾が「千代田生命」に与えたもの

2012-02-14 09:01:14 | 村野藤吾
「村野藤吾」の建築は 300件ほどあるが、そのどれもが、
案内文には 必ず「村野藤吾の設計になる」と、建築家の
名前を誇らしげに紹介している。

「千代田生命」も「わが社で誇れるのは本社ビルだけだ」と
自嘲的に云われた時代もあった。

そもそも、千代田生命は、戦前は日生、第一と肩を並べる
大手だったが、戦後、住友、明治に抜かれ、昭和35年、
創業50周年を迎えた時には、5位に転落していた。

そこで、起死回生を目指して、村野藤吾に本社ビルの建設を
依頼したのだ。「どこよりも誇れる本社ビル」というのが、
社員の士気高揚になるはずだった。

だが、高度成長期、他社が合理化、効率化で突き進む中、
千代田ビルは、それとは真反対の、「ゆとり」と「癒し」の
ビルだった。社員の士気は上がるどころか「のんびり」
「ゆったり」の社風に染められて、千代田は業界8位に
まで転落した。

だが、高度成長期に翳りが見え始めた昭和60年(1985)年
前後、このビルは最も脚光を浴びることとなる。

「モウレツ、壮烈社員」から「人間性回復」「文化的、
快適生活」へと価値観の転換があり「千代田生命ビルは
それを 20年も先取りしていた」として、マスコミの
取材攻勢を受けることとなった。その時、私は広報部に
勤務していて、NHKはじめ、多くの週刊誌、建築雑誌の
取材や、見学者を受け入れ、鼻高々、最高に幸せな時代
だった。

だが 会社は、バブルの崩壊、不良資産の処理に汲々とし、
手段を選ばぬ悪あがきで、ますます首を絞め、にっちも
さっちも行かなくなって倒産した。

私が入社した昭和46年、本社ビルを案内してくれた当時の
担当者が「“ぜいたく過ぎる”という声もありますが、
保険会社にとって不動産は、(大地震などで) 万が一
保険金が支払えなくなった時に、これを売却して支払いに
充てるというための備えでもあるのです」と説明された。

その時 私は それが「有り得ない話」とは思えずに聞いて
いた。そして、それが現実になったのだ。