現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

吉田松陰は密航を企てた罪で処刑されたのか?

2012-02-19 20:11:20 | 幕末の留学生
「吉田松陰は密航を企てて捕らえられ 処刑された」と
一般には理解されているが、これも とんでもない。

吉田松陰は、嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の
来航の際、アメリカへの密航を頼むが断られて失敗。
幕府に自首するが、この時は助命されて、国元に送られ、
萩の野山獄に幽囚される。安政2年(1855年)には
親戚預かりの身となり出獄。安政3年(1858年)叔父が
開いていた松下村塾を手伝うカタチで引き継いだ。

これもわずか2年余。安政5年(1858年)幕府が
天皇の勅許を得ずに「日米修好通商条約」を結んだ
ことに 松陰は激怒し、老中「間部詮勝」の暗殺を
企てる。そのための武器弾薬の調達を 藩に願い出た
ことで、「危険人物」とされ、再び野山獄に繋がれる。

翌 安政6年(1859年)、幕府は「安政の大獄」で
捕らえた梅田雲浜との関係を問い質すために、吉田
松陰の江戸送致を命ずる。松陰は、尊王の思想を
厚く語る上で、老中の暗殺計画を企てたことまで
口ばしった。

「安政の大獄」の発端は、大老 井伊直弼が「日米修好
条約」を締結するに際して、朝廷の勅許を得ようと
したが、梅田雲敏ら「攘夷派」に阻止され、勅許を
得られぬまま、アメリカと「修好条約」を締結したこと。

これに尊皇攘夷派の公家や志士達が騒ぎだし、朝廷から
水戸藩に「修好条約の撤回」を求める「勅状」が出された>

そのことと「将軍継嗣問題」もからんで、井伊直弼と
水戸藩との対立が表面化した。それで尊皇攘夷派や
水戸派の一掃がなされたのだ。

吉田松陰は、梅田雲敏との接触も、「勅許の阻止」にも、
水戸藩とも関係が無かったが、「老中暗殺計画」を企てた
ことで、斬首刑に処された。享年29歳。

実行したわけではなく、ただ計画したというだけで
「死罪」になるとは 松陰自身も思っていなかった
ようだ。「安政の大獄」で、最後の処刑者となった
ことは、まことに惜しむべし。


会津藩は時代の最先端にいた

2012-02-19 18:39:33 | 会津藩のこと
最近になってようやく、会津藩が 1808年から明治維新の
1868年までの60年に渡って、樺太出兵、網走の経営、
江戸湾警備、そして京都守護職と、幕末動乱の火中に
ずっと身を置いていたことが明らかにされてきた。

私の中学の頃の「日本史」の教科書はひどいものだった。
「明治維新」のところでは、「会津藩はじめ、東北の
諸藩は、暗愚で、時代の流れが読めず、徳川に殉じようと、
官軍に抵抗して、鎮圧された」というような記載だった。

私は、怒り心頭、頭にきて、そのページを引き裂いて
しまった。

会津藩は、幕末まで京都守護職として幕府と朝廷の
接点におり、時代の流れを読んでいた。山川大蔵らを
ヨーロッパに派遣し、フランス人シュネルやアーネスト・
サトウを顧問として西欧の軍制を取り入れ、銃や大砲の
買い付けもしていた。
これは、タッチの差で新潟に上陸した官軍に分捕られて
しまった。会津の敗因はこの事にある。それまで、西郷や
大山巌、世羅修三らは、農民の寄せ集めの官軍が、
会津藩に勝てるのか、不安を抱いていたという。

白虎隊も 筒袖ダン袋の洋装にヤーゲル銃だったのだが、
これがドラマでは、刺し子の剣道着に、竹で編んだ
剣道の胴を突け、白黒ストライプの袴に火縄銃 という
のがお定まりのスタイル。会津藩兵は 鎧兜に刀槍という、
なんとも時代錯誤に描かれてきた。

これは、田宮虎彦の『落城』でもそうだ。『落城』は
東北の「黒菅藩」という架空の藩。あくまで“徳川の
恩顧に報いるため”、薩長に抗して、女子供まで
自決して全滅するというもの。あきらかに、戦国
時代までは「黒川」と呼ばれた「会津」をモデルに
している。東北人への偏見は、歴史学者も田宮寅彦と
同レベルの認識だったのだ。




       
       
       
   
       
       

会津藩の樺太出兵

2012-02-19 11:33:45 | 会津藩のこと
1792年、ロシアのラクスマンが 大黒屋光太夫を伴って
根室に来航。1804年、レザノフが長崎来航し、ともに
ロシア皇帝の親書を携え、日露の通商を求めてきた。
しかし、鎖国を祖法とする江戸幕府は、これを拒絶。

しからば「武力で」と、ロシアは 1806年と1807年、
数回に渡って択捉島や利尻島に上陸し、日本の会所や
番屋を焼き払い、食料や武器などを略奪する暴挙を
繰り返した。「文化露寇」

1807年(文化4年)、幕府は、津軽(弘前)藩・会津藩・
秋田藩・弘前藩・仙台藩などに 蝦夷地の警備を命じる。


津軽藩は、藩士100余名を知床半島西岸の斜里郡(現
北海道斜里町)に派遣したが、厳冬で、72名が死亡した。
津軽藩はこれを恥として、この事件を極秘にした。

会津藩は、翌1808年(文化5年)から1809年(文化6年)に
かけて 樺太への出兵を命じられ、総勢1558名が、宗谷岬や
利尻島、樺太に駐留した。
この時、間宮林蔵が樺太探検に来、会津藩がその手助けを
していたことは意外に知られていない。

この年、ロシアはナポレオンとの戦争が始まり、兵力を
西に引き揚げたため、日本近海への侵攻は一度も無かった。

それで、樺太警備の任が解かれ帰国することとなった。
だが、悲劇は樺太からの帰途に起こった。嵐に遭って
船が難破し、51名の死者が出た。私の母方の先祖も、
遭難して秋田に漂着。1カ月半かかって会津に戻っている。

牧原の本家には『会津藩唐太出陣絵巻』の写しが 伝わって
いた。子供の頃見たが、会津藩は陣屋でも、鎧や槍などの
武具を飾り、「関が原の合戦」さながらの いでたちだった。

1500名の藩士が 旅館も飲食店も無い、道無き道の原野の中を、
アイヌ伝いに、北海道の北端まで行き、そこから船で
樺太まで渡ったのだ。そして真冬の厳寒。海も凍って魚も
採れない。野菜は勿論無い。想像を絶する過酷な生活を
強いられたのだ。




会津藩の江戸湾警備

2012-02-19 11:33:27 | 会津藩のこと
この翌年 1810(文化7)年、会津藩は、今度は江戸湾の警備
を命ぜられ、三浦半島の観音崎、久里浜、城ケ島に砲台と
陣屋を築き、10年に及び 駐留する。

1811年(文化8年)には、松前藩が 測量のため千島列島を
訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニンら
8名を捕らえ抑留する事件が起きる。

その後1847(弘化4年)会津藩は、再度、江戸湾警備を命ぜられ、
房総半島の上総富津と竹岡に陣屋と砲台を構えて警備に就いた。

松平容保が18歳で会津藩主となった翌 嘉永六年(1853)、
アメリカのペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来る。
ペリーの江戸湾侵入を小船に乗って阻止したのは、会津藩
だったのだ。

ペリーが去った後、会津藩は 江戸湾内に「お台場」を築き、
その「品川第二砲台場」の防備に着任し、安政六年まで続いた。