2006年(平成18年)、丹下健三の「広島平和記念資料館」と、
村野藤吾の「世界平和記念聖堂」がともに、戦後の建築としては
初めての重要文化財(建造物)指定となった。
広島の「原爆資料館(広島平和記念資料館)」は、1955年
丹下健三の設計。原爆ドームを取り壊すか、原爆の遺構として
保存するか、激論が交わされた中、平和公園一帯の整備も
含めて提案した丹下健三のスケールの大きさが世間の耳目を
集めた。
その前年、1954年「「世界平和記念聖堂」が完成している。
こちらは、広島カトリック教会がローマ教皇の承認を得て、
原爆被災者の慰霊のために「教会」の再建を志し、コンペを
行ったもの。
コンペには 177の応募があり、「丹下健三」の案が1位に
押されていた。しかし、この「丹下」案に審査員の一人だった
村野藤吾が異議を唱えた。それには、丹下の明らさまな
「モダニズム」に 施主のカトリック教会が難色を示した
ともいわれる。
その結果、「丹下案」を「2等」とし、「1等は該当無し」と
なった。そして、教会側の意向により?、審査員だった
村野藤吾に設計が任されることとなった。建築界の一大
スキャンダルだ。
その後、丹下健三は「平和記念資料館」のコンペで一等となる。
そして「世界平和記念聖堂」は村野藤吾が設計することとなり、
同時期に建設が進められた。宿命の対決だ。
この建設にあたっては、戦後のインフレ、貨幣価値の下落、
朝鮮戦争後の資材高騰、建設コストが跳ね上がり、村野は
施工にも困難を極めた。そして 村野は この建築の設計料を
受け取らなかったという。
広島での宿命のライバルの作品が共に「重要文化財」として
保存されることになったことに、ある種の運命的な感慨を
覚える。
村野藤吾の「世界平和記念聖堂」がともに、戦後の建築としては
初めての重要文化財(建造物)指定となった。
広島の「原爆資料館(広島平和記念資料館)」は、1955年
丹下健三の設計。原爆ドームを取り壊すか、原爆の遺構として
保存するか、激論が交わされた中、平和公園一帯の整備も
含めて提案した丹下健三のスケールの大きさが世間の耳目を
集めた。
その前年、1954年「「世界平和記念聖堂」が完成している。
こちらは、広島カトリック教会がローマ教皇の承認を得て、
原爆被災者の慰霊のために「教会」の再建を志し、コンペを
行ったもの。
コンペには 177の応募があり、「丹下健三」の案が1位に
押されていた。しかし、この「丹下」案に審査員の一人だった
村野藤吾が異議を唱えた。それには、丹下の明らさまな
「モダニズム」に 施主のカトリック教会が難色を示した
ともいわれる。
その結果、「丹下案」を「2等」とし、「1等は該当無し」と
なった。そして、教会側の意向により?、審査員だった
村野藤吾に設計が任されることとなった。建築界の一大
スキャンダルだ。
その後、丹下健三は「平和記念資料館」のコンペで一等となる。
そして「世界平和記念聖堂」は村野藤吾が設計することとなり、
同時期に建設が進められた。宿命の対決だ。
この建設にあたっては、戦後のインフレ、貨幣価値の下落、
朝鮮戦争後の資材高騰、建設コストが跳ね上がり、村野は
施工にも困難を極めた。そして 村野は この建築の設計料を
受け取らなかったという。
広島での宿命のライバルの作品が共に「重要文化財」として
保存されることになったことに、ある種の運命的な感慨を
覚える。