現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

村野藤吾と丹下健三 (3) 「広島」

2012-02-13 21:48:56 | 村野藤吾
2006年(平成18年)、丹下健三の「広島平和記念資料館」と、
村野藤吾の「世界平和記念聖堂」がともに、戦後の建築としては
初めての重要文化財(建造物)指定となった。

広島の「原爆資料館(広島平和記念資料館)」は、1955年
丹下健三の設計。原爆ドームを取り壊すか、原爆の遺構として
保存するか、激論が交わされた中、平和公園一帯の整備も
含めて提案した丹下健三のスケールの大きさが世間の耳目を
集めた。

その前年、1954年「「世界平和記念聖堂」が完成している。
こちらは、広島カトリック教会がローマ教皇の承認を得て、
原爆被災者の慰霊のために「教会」の再建を志し、コンペを
行ったもの。

コンペには 177の応募があり、「丹下健三」の案が1位に
押されていた。しかし、この「丹下」案に審査員の一人だった
村野藤吾が異議を唱えた。それには、丹下の明らさまな
「モダニズム」に 施主のカトリック教会が難色を示した
ともいわれる。

その結果、「丹下案」を「2等」とし、「1等は該当無し」と
なった。そして、教会側の意向により?、審査員だった
村野藤吾に設計が任されることとなった。建築界の一大
スキャンダルだ。

その後、丹下健三は「平和記念資料館」のコンペで一等となる。
そして「世界平和記念聖堂」は村野藤吾が設計することとなり、
同時期に建設が進められた。宿命の対決だ。

この建設にあたっては、戦後のインフレ、貨幣価値の下落、
朝鮮戦争後の資材高騰、建設コストが跳ね上がり、村野は
施工にも困難を極めた。そして 村野は この建築の設計料を
受け取らなかったという。

広島での宿命のライバルの作品が共に「重要文化財」として
保存されることになったことに、ある種の運命的な感慨を
覚える。

村野藤吾と丹下健三 (2)

2012-02-13 20:44:17 | 村野藤吾
村野藤吾の「生誕100年祭」が、1991年(平成3年)、
建築界の御歴々を集めて、千代田生命で行われた。
私は、これに立ち会い、ビルの案内をかって出た。
千代田生命が、村野藤吾の代表的建築のひとつで
あることを内外に示す、絶好の機会だった。

そして そのパーティで、乾杯の音頭をとったのが、
宿命のライバル「丹下健三」だった。丹下健三は
その時 78歳。髪は黒々としていて若々しかったが、
鈴木都知事との癒着を取り沙汰されていて、心なしか
元気はなかった。そして「丹下健三の挨拶」も
私は記憶している。

「村野先生は 93歳まで、亡くなられた前日まで
元気にお仕事されていた。千代田生命ビルを完成
した時は 75歳。ますます油の乗った絶好調の時期
だった。私は、今78歳だが、皆から『もうやめろ、
やめろ』と云われてまして・・・・。 みなさんも、村野
先生を見習って、80、90まで元気に働いてください」

というようなお話だった。

丹下健三は、1913年(大正 2年)9月 4日 - 2005年(平成17年) 3月22日(92歳)
村野藤吾は、1891年(明治24年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日(93歳)

丹下健三は村野藤吾より22歳若い。共に90過ぎまで生きた。

丹下健三の葬儀は、自ら設計した「東京カテドラル聖マリア大聖堂」で行われた。
村野藤吾の葬儀は、大阪市中央区玉造にある「聖マリア大聖堂」。(ここは
細川ガラシア夫人のゆかりの地)。

東京と大阪と異なるが、共に「聖マリア大聖堂」というのが因縁を感じる。
ただし、丹下健三は、自ら設計した「聖マリア大聖堂」の地下墓地に
眠るが、村野藤吾の墓は京都南禅寺にある。いかにも、洋の東西、
時代、宗教をも超越した村野藤吾らしい。




村野藤吾と丹下健三 (1)

2012-02-13 20:39:28 | 村野藤吾
建築界の巨匠「村野藤吾」と「丹下健三」はよく比較される。

丹下健三は、赤坂・大津のプリンスホテル。村野藤吾は、箱根・
新高輪・京都宝ヶ池の各プリンスホテルを手がけた。同じプリンス
とは思えない、全く異なる二人のキャラが強烈に出ている。
私は「村野派」だ。

丹下健三は、1964年の東京オリンピックのために造られた
「国立屋内総合競技場」。そして目白の「東京カテドラル
聖マリア大聖堂」で、一躍有名になった。

そして1991年の新宿の「新都庁舎」。丹下は、34年前の1957年、
「旧東京都庁舎」も手がけている。ビルの前に「太田道灌」の
像があった。このビルは、外壁が「鉄とガラス」で構成され、
これぞ「現代建築、モダニズム」と絶賛されていた。

その時、村野藤吾は「あのようなものを造ってはいかん」と
批判的であった。私は千代田生命の不動産部勤務の時、何度か
都庁に行ったが、 都庁の職員は、書類を山積みにし、もう
フロアーも足の踏み場も無いほど、ゴミゴミ、メチャクチャ
な使い方をしていた。「建物は、そこに住む人、働く人の
心にまで影響する」というのが村野の持論だった。

そして 村野藤吾は、「自分ならこうする」とばかりに、
千代田生命ビルを、丹下の「旧都庁ビル」と同じく、「鉄と
ガラス」のビルとしながら、重厚で繊細、シンプルで華麗、
モダンでクラシックという、全く相反する価値観をすべて
包含する「ポスト・モダン」の美を完成させた。

丹下の「旧都庁舎」は、34年で壊され、新宿に超高層ビル
として新たに建設された。これには鈴木都知事との癒着が
噂された。赤坂プリンスも閉館となり 壊される。村野の
建築は、半世紀を経てますます輝きを増している。