昭和41年に「千代田生命ビル」は完成するのだが、
それが「千代田生命」と知ったのは、実は昭和45年、
大学4年、就職活動で「採用広告」を見た時だった。
アメリカンスクールは戦前からあり、近くには
アメリカの大使館もあったらしく、戦時中、東京
大空襲でも、この一画には焼夷弾が落とされなかった。
(アメリカ軍の情報収集力はすごいものだ)。
だから、私の家も含め、この辺一帯は、戦前からの
古い木造住宅が密集していた。
そこに突如「近代的なビル」が建つ。周囲の景色と
どう調和させるかが課題だった。
「光を跳ね返すようなガラスの壁や、重圧的な
コンクリートの壁は創りたくない。むしろ光を吸収
するようなビルにしたい」と村野藤吾は考えた。
当時、丹下健三の「鉄とガラス」の建物や、コンクリートの
打ちっ放しが「現代建築」としてもてはやされていた。
村野は「あんなものを造ってはいけない」と秘かに思っていた。
千代田生命ビルは、本体は、鉄とガラスの建物なのだ。
それを、巾1mほどのバルコニーを設け、その外面に、
巾1m 間隔で「柱」を立てることとした。
その柱をコンクリートで作れば、重すぎる。やがて
ヒビ割れや シミが出き、汚くなる。
村野藤吾は、その柱をアルミの鋳物で造ることにした。
「そんなことはできない」とアルミ専門業者は断ってきた。
そこで「古河鉄工」にやらせることにした。鉄工業者は
表面をきれいに磨きあげて、サンプルを出してきた。
村野藤吾は、その溶接部分の凸凹を見て「これだよ」と。
そして、鋳型に砂をまぶして、表面をあえてザラザラに
したのだ。そして、その厚みを何mmにしたらよいか。
総重量を支えきれるのか、薄ければやがて穴が開く。
厚ければ総重量が重くなる。何度も研究開発を重ねて
1700本ものアルミのルーバー(柱)ができた。
だが、人間の目は“節穴”ではない。中が空洞であることを
見抜く。そこで、一階など、手が触れるところのルーバー
には、3分の1ほどの高さまで、砂を入れるよう指示した。
当時は海辺の砂だ。「塩分が含まれていて、金属を腐食させる」と
部下が異議を唱えると、村野藤吾は、「ならば、砂を全部
煮沸して塩分を除くように」と。
こうして、コンクリートのようで重さを感じさせない。
金属のようで光沢のない、世界で初めての「アルキャスト」が
現出したのだ。
全体を緑ががったダークグリーンに加工されたアルミの柱は、
壮観であり、圧巻であるが、それでいて光を吸収する優しい
美を讃えていた。
人は「肌触(はだざわ)りの建築」と評した。また、竣工当時、
このビルは「新しさを感じない」とも。
ヨーロッパのクラシックなビルのようであり「復古調」と
評された。だが、5O年、半世紀を経ても、このビルは
「古さを感じさせない」。まさに、村野藤吾の芸術は、
洋の東西、過去と現在、時空を超越した「モダニズム」
なのだ。
それが「千代田生命」と知ったのは、実は昭和45年、
大学4年、就職活動で「採用広告」を見た時だった。
アメリカンスクールは戦前からあり、近くには
アメリカの大使館もあったらしく、戦時中、東京
大空襲でも、この一画には焼夷弾が落とされなかった。
(アメリカ軍の情報収集力はすごいものだ)。
だから、私の家も含め、この辺一帯は、戦前からの
古い木造住宅が密集していた。
そこに突如「近代的なビル」が建つ。周囲の景色と
どう調和させるかが課題だった。
「光を跳ね返すようなガラスの壁や、重圧的な
コンクリートの壁は創りたくない。むしろ光を吸収
するようなビルにしたい」と村野藤吾は考えた。
当時、丹下健三の「鉄とガラス」の建物や、コンクリートの
打ちっ放しが「現代建築」としてもてはやされていた。
村野は「あんなものを造ってはいけない」と秘かに思っていた。
千代田生命ビルは、本体は、鉄とガラスの建物なのだ。
それを、巾1mほどのバルコニーを設け、その外面に、
巾1m 間隔で「柱」を立てることとした。
その柱をコンクリートで作れば、重すぎる。やがて
ヒビ割れや シミが出き、汚くなる。
村野藤吾は、その柱をアルミの鋳物で造ることにした。
「そんなことはできない」とアルミ専門業者は断ってきた。
そこで「古河鉄工」にやらせることにした。鉄工業者は
表面をきれいに磨きあげて、サンプルを出してきた。
村野藤吾は、その溶接部分の凸凹を見て「これだよ」と。
そして、鋳型に砂をまぶして、表面をあえてザラザラに
したのだ。そして、その厚みを何mmにしたらよいか。
総重量を支えきれるのか、薄ければやがて穴が開く。
厚ければ総重量が重くなる。何度も研究開発を重ねて
1700本ものアルミのルーバー(柱)ができた。
だが、人間の目は“節穴”ではない。中が空洞であることを
見抜く。そこで、一階など、手が触れるところのルーバー
には、3分の1ほどの高さまで、砂を入れるよう指示した。
当時は海辺の砂だ。「塩分が含まれていて、金属を腐食させる」と
部下が異議を唱えると、村野藤吾は、「ならば、砂を全部
煮沸して塩分を除くように」と。
こうして、コンクリートのようで重さを感じさせない。
金属のようで光沢のない、世界で初めての「アルキャスト」が
現出したのだ。
全体を緑ががったダークグリーンに加工されたアルミの柱は、
壮観であり、圧巻であるが、それでいて光を吸収する優しい
美を讃えていた。
人は「肌触(はだざわ)りの建築」と評した。また、竣工当時、
このビルは「新しさを感じない」とも。
ヨーロッパのクラシックなビルのようであり「復古調」と
評された。だが、5O年、半世紀を経ても、このビルは
「古さを感じさせない」。まさに、村野藤吾の芸術は、
洋の東西、過去と現在、時空を超越した「モダニズム」
なのだ。