現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

古い木造住宅密集地に近代ビルの現出

2012-02-12 10:17:39 | 村野藤吾
昭和41年に「千代田生命ビル」は完成するのだが、
それが「千代田生命」と知ったのは、実は昭和45年、
大学4年、就職活動で「採用広告」を見た時だった。

アメリカンスクールは戦前からあり、近くには
アメリカの大使館もあったらしく、戦時中、東京
大空襲でも、この一画には焼夷弾が落とされなかった。
(アメリカ軍の情報収集力はすごいものだ)。

だから、私の家も含め、この辺一帯は、戦前からの
古い木造住宅が密集していた。

そこに突如「近代的なビル」が建つ。周囲の景色と
どう調和させるかが課題だった。

「光を跳ね返すようなガラスの壁や、重圧的な
コンクリートの壁は創りたくない。むしろ光を吸収
するようなビルにしたい」と村野藤吾は考えた。

当時、丹下健三の「鉄とガラス」の建物や、コンクリートの
打ちっ放しが「現代建築」としてもてはやされていた。
村野は「あんなものを造ってはいけない」と秘かに思っていた。

千代田生命ビルは、本体は、鉄とガラスの建物なのだ。
それを、巾1mほどのバルコニーを設け、その外面に、
巾1m 間隔で「柱」を立てることとした。

その柱をコンクリートで作れば、重すぎる。やがて
ヒビ割れや シミが出き、汚くなる。

村野藤吾は、その柱をアルミの鋳物で造ることにした。
「そんなことはできない」とアルミ専門業者は断ってきた。
そこで「古河鉄工」にやらせることにした。鉄工業者は
表面をきれいに磨きあげて、サンプルを出してきた。

村野藤吾は、その溶接部分の凸凹を見て「これだよ」と。
そして、鋳型に砂をまぶして、表面をあえてザラザラに
したのだ。そして、その厚みを何mmにしたらよいか。
総重量を支えきれるのか、薄ければやがて穴が開く。
厚ければ総重量が重くなる。何度も研究開発を重ねて
1700本ものアルミのルーバー(柱)ができた。

だが、人間の目は“節穴”ではない。中が空洞であることを
見抜く。そこで、一階など、手が触れるところのルーバー
には、3分の1ほどの高さまで、砂を入れるよう指示した。
当時は海辺の砂だ。「塩分が含まれていて、金属を腐食させる」と
部下が異議を唱えると、村野藤吾は、「ならば、砂を全部
煮沸して塩分を除くように」と。


こうして、コンクリートのようで重さを感じさせない。
金属のようで光沢のない、世界で初めての「アルキャスト」が
現出したのだ。
全体を緑ががったダークグリーンに加工されたアルミの柱は、
壮観であり、圧巻であるが、それでいて光を吸収する優しい
美を讃えていた。

人は「肌触(はだざわ)りの建築」と評した。また、竣工当時、
このビルは「新しさを感じない」とも。

ヨーロッパのクラシックなビルのようであり「復古調」と
評された。だが、5O年、半世紀を経ても、このビルは
「古さを感じさせない」。まさに、村野藤吾の芸術は、
洋の東西、過去と現在、時空を超越した「モダニズム」
なのだ。




村野藤吾の伝説

2012-02-12 08:54:33 | 村野藤吾
千代田生命ビルの建築を請け負った時、村野藤吾はすでに70歳。
それから5年。ようやく全容が完成しつつあった。先生75歳。

木1本、石ひとつの配置も、村野先生は御自ら決められた。
決して他人任せにしない。地下に設けられた茶室の坪庭に
自然石が置かれている。5、60cmほどの石だが、実は1m以上
もの大きな石が埋まっていて、地面から出ている部分は
“氷山の一角”なのだ。

このさりげない石ひとつにも逸話がある。村野藤吾は、
しばらく考えこんで「ここに」と指示した。地下の狭い
空間で、石工が苦労して、石を埋めた。

すると 一週間ほどして、先生は また 坪庭を眺め、
「あの石を5cm 右にずらすように」と。云うは易く、
行うは難しだ。また土を掘り起こして、埋め直し。

妥協を許さない“師”だった。また「村野先生」だから、
誰もが素直に指示に従ったという。


別館最上階の「ヘリ」の部分にも逸話がある。
村野藤吾は、下から33mも上を見上げて「僕はあそこは
5cmと指示したはずだ。出すぎている」と、不満を漏らされ、
足場を上っていこうとされた。先生は75歳のご高齢。
「お怪我でもされたら」と現場主任は真っ青。
「先生、私が上って見てきます」と。

そして最上階まで上って確認すると、先生のおっしゃる
通り、2cmオーバーしている。その主任は「先生の
おっしゃる通りでした」という意味で、両手で円を作って
合図した。すると先生は「そうか? 指示通り(5cm)か、
おかしいな」と不満ながら、指示通りならば仕方がないと、
直しは あきらめられた。

現場主任は、ホッとした。今さら直しようがなかった
からだ。


村野藤吾のナチュラリズム(自然主義)

2012-02-12 08:09:13 | 村野藤吾
村野は 日本家屋でも、ホテルでも、正門から玄関までの演出に
こだわった。

千代田生命も、正門から建物の正面玄関まで、ゆるいカーブの
スロープになっている。右手には木々が植えてあり、枝葉の
間からビルが見え隠れする。

その玄関前の木立だが、これまた逸話がある。
村野藤吾は、この玄関前の木々を「武蔵野の森」と定めた。
そして、自ら、東京の西に広がる多摩丘陵を散策し、気に
入った林を見つけると、地主と交渉し、そっくり買い上げ、
その木々が元在った通りに移植することを部下に命じた。

つまり、まず、木と木のそれぞれの位置を測量し、元あった
通りの配置で、千代田生命の玄関前に移植させたのだ。
植木職人や造園家の恣意がはいらない、自然のままの森を
現出させたのだ。

千代田生命を訪れ、帰る人は、建物の中から玄関に向かうと、
玄関部分が長四角の額縁のようになっていて、あたかも
「武蔵野の森」の絵画を見るような清清しい気分になるのだ。

ついでに、玄関前の長い庇(ひさし)を支える数本の柱だが、
これまた「木」のように、裾はカーブを描き、上が先細りの
ステンレスの円柱で、それぞれ太さが違う。つまり金属の
ポールだが、林のように配置されているのだ。

1本1本手作りで、当時の技術では、先細りの円筒を
造るのは大変な苦労をしたそうだ。

この数本の円柱の配置もまた 逸話がある。弟子たちはど
うしても幾何学的に配置してしまう。何度図面を描いても
村野は承服しなかった。そこで弟子たちは、図面上に
「おはじき」を投げて、散らばったところに立てることに
したら、ようやく先生の了解が得られたという。こうした
伝説的な話は数限りない。