先日、「無印ニッポン」と言う本を読んだ。
「20世紀消費社会の終焉」という、サブタイトルに興味を引いたからだ。
この本の作者のひとりである三浦展さんは、「下流社会」という本や「シンプル族の反乱」と言った著書がある。
本の内容については、実際手にとって読んでいただきたいと思うのだが、その中で気になったことがある。
それは「モノを買わない人たちが、多くなりつつある」という指摘だ。
「シンプル族の反乱」へと繋がっていく内容だと思うのだが、この「モノを買わない人たち」の登場によって、大きく市場が変わってきているという指摘だ。
本の中に取り上げられていたのは、「モノに対する価値観の変化」と言うコトだけではなく、既に十分な程モノを買っており、クローゼットの中にはモノが溢れ返っている現実があると言う指摘である。
確かに、指摘されているとおり「モノが溢れ返っている人たち」という層は確実にある。
そしてそのような人たちの多くは、経済的に豊かでいわゆる「勝ち組」と呼ばれる人たちが中心だ。
「勝ち組」というほどではないにしても、生活に追われているような人たちではない。
一方「(モノを)買いたいのに、買えない」という人たちが、増えつつあると言う指摘もある。
例えば、クルマの購入者だ。
実はここ10年くらいの間で、クルマの購入台数と言うのは、年々下がってきている。
その10年間に生まれたのは、「経済的格差」だ。
いわゆる「負け組」と呼ばれる人たちの出現だ。
多くの人は「欲しいのだが、経済的理由で買えない」という状況にある。
特に若年層で顕著な「クルマ離れ」は、経済的理由によるモノではないのか?という指摘もあるようだ。
個人的な見方なのだが、「持てる人たちは、消費に対して消極的になりつつあり。欲しくても持てない人たちが急激に増え始めている」という「2層化の消費意識」なのではないだろうか?
もちろん「買えない人」の中には、最初から「(どうせ買えないのなだから)買いたいとは思わない」という諦めの意識もあるとは思う。
ただ、「持てる人たちの消極的な消費行動」というのは、あくまでも「物質的消費行動」を差しており、「精神的満足度の高いモノ・コト」に対する購入は、以前より重視するようになってきているのでは?と言うコトだ。
「モノを買えない」のか「モノを買わない」のか、その違いは余りにも大きい。
そして一つの方向から、市場を見る危険性も同時に感じるのである。
「20世紀消費社会の終焉」という、サブタイトルに興味を引いたからだ。
この本の作者のひとりである三浦展さんは、「下流社会」という本や「シンプル族の反乱」と言った著書がある。
本の内容については、実際手にとって読んでいただきたいと思うのだが、その中で気になったことがある。
それは「モノを買わない人たちが、多くなりつつある」という指摘だ。
「シンプル族の反乱」へと繋がっていく内容だと思うのだが、この「モノを買わない人たち」の登場によって、大きく市場が変わってきているという指摘だ。
本の中に取り上げられていたのは、「モノに対する価値観の変化」と言うコトだけではなく、既に十分な程モノを買っており、クローゼットの中にはモノが溢れ返っている現実があると言う指摘である。
確かに、指摘されているとおり「モノが溢れ返っている人たち」という層は確実にある。
そしてそのような人たちの多くは、経済的に豊かでいわゆる「勝ち組」と呼ばれる人たちが中心だ。
「勝ち組」というほどではないにしても、生活に追われているような人たちではない。
一方「(モノを)買いたいのに、買えない」という人たちが、増えつつあると言う指摘もある。
例えば、クルマの購入者だ。
実はここ10年くらいの間で、クルマの購入台数と言うのは、年々下がってきている。
その10年間に生まれたのは、「経済的格差」だ。
いわゆる「負け組」と呼ばれる人たちの出現だ。
多くの人は「欲しいのだが、経済的理由で買えない」という状況にある。
特に若年層で顕著な「クルマ離れ」は、経済的理由によるモノではないのか?という指摘もあるようだ。
個人的な見方なのだが、「持てる人たちは、消費に対して消極的になりつつあり。欲しくても持てない人たちが急激に増え始めている」という「2層化の消費意識」なのではないだろうか?
もちろん「買えない人」の中には、最初から「(どうせ買えないのなだから)買いたいとは思わない」という諦めの意識もあるとは思う。
ただ、「持てる人たちの消極的な消費行動」というのは、あくまでも「物質的消費行動」を差しており、「精神的満足度の高いモノ・コト」に対する購入は、以前より重視するようになってきているのでは?と言うコトだ。
「モノを買えない」のか「モノを買わない」のか、その違いは余りにも大きい。
そして一つの方向から、市場を見る危険性も同時に感じるのである。