今日発売の「週刊新潮」が、川崎の中学1年生が殺害された事件の主犯格と思われる少年について、実名報道をしている。
この実名報道の前には、名大の女子生徒による殺害事件も同様に実名報道をしていた。
事件の背景となる部分は随分違うが、「未成年者の実名報道」という点では、共通している。
今回、日弁連が未成年者の実名報道に対して、遺憾であると声明を発表している。
確かに、未成年であれば殺人者といえども少年法により、保護される立場にある。
将来のことを考え、更生の機会を失わないようにという配慮のためだ。
日弁連が「遺憾である」という声明を発表した背景には、そのようなことがあるということは多くの人が理解されていることだろう。
その一方で、ネットの世界ではどちらの事件でも、相当早い時期から「実名と顔写真」が公開されていた。
名大生の場合、twitterで様々なつぶやきという「跡」があったために、その拡散は早かった。
川崎の事件でも、事件発覚当初からネット上では「コイツが犯人!」という実名と顔写真がSNSで公開され、「拡散希望」という言葉とともに、ネット上では「実名報道」以上の状況になっていた。
いわゆる「私刑」と呼ばれる、ネット上で実名と顔写真を公開することで、社会から抹殺するということが行われていた。
おそらく新潮社の言い分としては、建前として「社会に大きな影響を与えた事件なので、たとえ犯人が少年であっても実名放蕩をすることによって、社会全体に対して問題の提起をするためだった」ということだろうし、本音の部分では「販売部数(=購買部数)を増やしたい」というところもあったのでは?と、感じている。
というのもメディアがこのような事件を流し続けていると、受け手となる生活者は「いったいどんな犯人なのだろう?」という、興味が少なからず起きてくるからだ。
もう一つの本音があるとすれば「ネットで公開されてしまっていることを、紙メディアである雑誌ではなぜダメなのか?」ということだろう。
ただ、考えなくてはならないのは同じ「情報ツール」である雑誌とネットの本質的な違いだ。
「週刊新潮」を購入する人たちというのは、おそらく大人がほとんどだろう。
一方、ネットの世界は、大人も子供も関係がない。
「情報の信頼度」と言えば、雑誌だと思うのだが最近では「マスゴミ」とも揶揄され、その信頼が揺らぎ始めている。
とってかわったのが、ネットからの情報になるのだが上述した通り、「信頼度の高い情報なのか?」というと、決して信頼度の高い情報ではない。少なくとも、ネット情報よりも信頼度や正確性という点ではまだまだ雑誌などの旧メディアのほうが、高いはずだ。
しかし、ネット上の情報を信用する人も多く、特に若年層は「大人が作ったメディア(=新聞や雑誌)」に対する、信頼度は低く、自分たちが共感しやすいネット上の情報のほうに信頼性を置いている。
ネット上の情報を規制する、というのは難しいばかりではなく、ネットの強みである「自由さ」ということを束縛しかねない。
そう考えると、「大人が作ったメディア」が、ネット上の不確かな情報をけん制しつつ、丁寧な裏付けのある情報をルールに基づいて発信する、ということが今のところ一番大切なのではないだろうか?
一つ気になるのは、名大生のときの実名報道に対して日弁連がこのような「遺憾である」、という声明を発表したという報道がないことだ。
確かに名大生の起こした事件は「サイコ的要素」が高く、一般性(?)のあるような事件ではなかったかもしれない。
しかし、未成年者の犯人の実名報道という点では、同じだ。
このような態度の違いに、不信感と判断の基準がわからなくなる要素もあるのではないだろうか。