■青空に映える椛と金閣
禅寺としては世界で最も知名度が高いものの禅寺らしくない禅寺という印象の鹿苑寺です。
鹿苑寺の始まりは応永4年こと西暦1397年に遡るという、ただこの地に寺院西園寺が開かれたのは西暦1225年、鎌倉時代です。当時へ池の海上航路を継承し莫大な富を得ていた藤原家の傍流西園寺家は、朝廷行事の資金拠出により京都での影響力を高めていました。
西園寺は、関東執奏として幕府と朝廷の仲介と云う重責に在り幕府と京都を結んでいました。ただここで転機となる出来事が、鎌倉幕府の滅亡です。この際に当主西園寺公宗は幕府を滅ぼし建武の親政を進める後醍醐天皇の暗殺を画策、実行前に発覚し処刑されます。
藤原家の傍流でもありますので西園寺家は廃絶する事は避けられたのですが北山の一帯は莫大な財産と共に1335年に没収され、しかし西園寺そのものは半世紀以上荒れ地の様に放置されました、ここを応永4年こと西暦1397年、足利義満が朝廷から得る事で歴史が動く。
三代将軍足利義満、北山殿という別荘となるのですが、応永4年が一応ここ鹿苑寺の歴史の始まりとしています、この頃既に足利義持に将軍職を譲って四代将軍の将軍宣下を経ているのですが、北山殿から院政のような影響力を行使し始めます、違う意味で凄いと思う。
足利義満は大陸との間で日本国王を自称し、実のところ大陸に対して卑下した外交政策はあまり好きにはなれないのですが、日明貿易により莫大な財力を手にします、その勢いで朝廷から当地を得たという、なにか中国との貿易で成金となるとここを手にするのですね。
北山殿であって鹿苑寺となるのは更に後の応永27年で西暦ですと1420年となります。足利義満は影響力は大きかったものの寿命には勝てず没する直前に北山殿を禅寺とするよう遺言を残しまして、足利義満の法号鹿苑院殿に因み、ここは禅寺の鹿苑寺となるのです。
寺院の中でも考えてみますと方丈庭園などはいちおう垣根越しにみることは許されているのだけれども、思い返すとこの寺院は、建物の中を公開している部分が殆どない、金閣の一層が開放構造故に外から見えるのと、あとは茶室の一部を外から見えるのと。この位か。
衣笠山を借景に風景として金閣寺は知っているのだけれども、おちついて考えると寺院としての金閣寺をほとんど真面目に見てこなかったのだなあ、こう思いつつ、しかし、金閣寺なんて何度も見たものよ、ときざな風をふかしていた自分をお恥ずかしいと少し省みる。
集合写真禁止、集合写真を禁止します、こういう看板が金閣の前に幾つも並んでいまして、これはコロナ前にはなかったところです、いやコロナの最中には密集そのものが禁止されていたところですが、そしてここで集合写真を撮影する団体や修学旅行生も居ない。
コロナ対策は密集回避なのでしょうけれども、この集合写真禁止は、なるほど威力がありますね、格段にこのあたりの人口密度が減ったように思える。いや非常に少ない、そして各国観光客の国内受け入れ再開ののちにも、それほど混雑していない、実感します。
カメラが貴重だった時代、といいますか平成初期までは集合写真には一応大きな意味があったのかもしれませんがいまはクラウドのように繋がる時代、修学旅行でも友人と友人とその友人たちを結ぶ如く多くの仲間の写真をつなげてゆけば一枚でなくとも全員が結ぶ。
金閣寺の金閣、それでも皆さん此処を中心に見ているのですよね、仕方ない所ではあるのですが方丈庭園など、いやいっそ当地に在った七重塔などを再建することができたならば、もう少し広い視野で鹿苑寺を眺める事が出来るのかもしれない、そんな事を思いましたね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
禅寺としては世界で最も知名度が高いものの禅寺らしくない禅寺という印象の鹿苑寺です。
鹿苑寺の始まりは応永4年こと西暦1397年に遡るという、ただこの地に寺院西園寺が開かれたのは西暦1225年、鎌倉時代です。当時へ池の海上航路を継承し莫大な富を得ていた藤原家の傍流西園寺家は、朝廷行事の資金拠出により京都での影響力を高めていました。
西園寺は、関東執奏として幕府と朝廷の仲介と云う重責に在り幕府と京都を結んでいました。ただここで転機となる出来事が、鎌倉幕府の滅亡です。この際に当主西園寺公宗は幕府を滅ぼし建武の親政を進める後醍醐天皇の暗殺を画策、実行前に発覚し処刑されます。
藤原家の傍流でもありますので西園寺家は廃絶する事は避けられたのですが北山の一帯は莫大な財産と共に1335年に没収され、しかし西園寺そのものは半世紀以上荒れ地の様に放置されました、ここを応永4年こと西暦1397年、足利義満が朝廷から得る事で歴史が動く。
三代将軍足利義満、北山殿という別荘となるのですが、応永4年が一応ここ鹿苑寺の歴史の始まりとしています、この頃既に足利義持に将軍職を譲って四代将軍の将軍宣下を経ているのですが、北山殿から院政のような影響力を行使し始めます、違う意味で凄いと思う。
足利義満は大陸との間で日本国王を自称し、実のところ大陸に対して卑下した外交政策はあまり好きにはなれないのですが、日明貿易により莫大な財力を手にします、その勢いで朝廷から当地を得たという、なにか中国との貿易で成金となるとここを手にするのですね。
北山殿であって鹿苑寺となるのは更に後の応永27年で西暦ですと1420年となります。足利義満は影響力は大きかったものの寿命には勝てず没する直前に北山殿を禅寺とするよう遺言を残しまして、足利義満の法号鹿苑院殿に因み、ここは禅寺の鹿苑寺となるのです。
寺院の中でも考えてみますと方丈庭園などはいちおう垣根越しにみることは許されているのだけれども、思い返すとこの寺院は、建物の中を公開している部分が殆どない、金閣の一層が開放構造故に外から見えるのと、あとは茶室の一部を外から見えるのと。この位か。
衣笠山を借景に風景として金閣寺は知っているのだけれども、おちついて考えると寺院としての金閣寺をほとんど真面目に見てこなかったのだなあ、こう思いつつ、しかし、金閣寺なんて何度も見たものよ、ときざな風をふかしていた自分をお恥ずかしいと少し省みる。
集合写真禁止、集合写真を禁止します、こういう看板が金閣の前に幾つも並んでいまして、これはコロナ前にはなかったところです、いやコロナの最中には密集そのものが禁止されていたところですが、そしてここで集合写真を撮影する団体や修学旅行生も居ない。
コロナ対策は密集回避なのでしょうけれども、この集合写真禁止は、なるほど威力がありますね、格段にこのあたりの人口密度が減ったように思える。いや非常に少ない、そして各国観光客の国内受け入れ再開ののちにも、それほど混雑していない、実感します。
カメラが貴重だった時代、といいますか平成初期までは集合写真には一応大きな意味があったのかもしれませんがいまはクラウドのように繋がる時代、修学旅行でも友人と友人とその友人たちを結ぶ如く多くの仲間の写真をつなげてゆけば一枚でなくとも全員が結ぶ。
金閣寺の金閣、それでも皆さん此処を中心に見ているのですよね、仕方ない所ではあるのですが方丈庭園など、いやいっそ当地に在った七重塔などを再建することができたならば、もう少し広い視野で鹿苑寺を眺める事が出来るのかもしれない、そんな事を思いましたね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)