一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

長い1日③・9月17日のLPSA金曜サロン

2010-09-20 00:37:12 | LPSA金曜サロン
JR千駄ヶ谷駅構内で立ち食いそばを食う。券売機で食券を買うシステムだが、Suicaで「月見そば」(300円)のパネルに触れてしまった。チッ、「かけそば」(240円)で十分だったのに、うっかりした。玉子代60円は高いと思う。
JR駒込駅へ向かう。千駄ヶ谷から駒込へは、自宅から駒込に行くより時間がかかるが、LPSAが田町(芝浦)に移転すると、千駄ヶ谷から駒込への所要時間とほとんど変わらなくなる。まあ毎週スーパーサロンへは行かないから、自宅→千駄ヶ谷→田町、というルートは稀だろうが、「駒込サロン」が「金曜サロン」に変わっても、通いつづける理由のひとつにはなる。
午後3時半ごろ、LPSA金曜サロンに入る。今回を含めて、あと2回だ。きょうの担当は1部が藤森奈津子女流四段、2部が船戸陽子女流二段であった。
すでに藤森女流四段は4面指しをしている。さらに順番待ちの会員もいる。私の予定では2時少し過ぎに入室し、この時間にはもう藤森女流四段との指導対局が佳境に入っているはずだった。しかしその計画は根底から崩れ、船戸女流二段との指導対局は、もうむずかしい状況になっていた。
Tat氏の顔が久々に見える。2週間顔を見なかったから久しぶりだ。金曜サロンでは、レギュラー会員が2週間休むと、病気扱いされる。W氏の場合はもっと極端で、夕方になっても顔を見せないと、事故にでも遭ったのか? とみんなが心配する。
そのTat氏、自宅にあった女流棋士関係の本を持参して、私にくれるという。中を見たがかなりのレア物だったので、それはTat氏が持っていたほうがいい、と固辞した。
櫛田陽一手合い係が「女流棋士の本」を見ている。これは私も中井広恵女流六段から戴いたが、まだ中身はほとんど見ていない。私も覗きこむが、巻末の女流棋士名鑑が圧巻だ。いま指導中の藤森女流四段の顔写真が若い。さすがに美人である。
船戸女流二段の写真もある。櫛田手合い係の見立てでは「このころのほうがかわいい」だったが私の意見は逆で、船戸女流二段はいまのほうがはるかに美しく、魅力的だと思う。彼女は歳を重ねるにつれてイイ女になるタイプである。
中倉宏美女流二段の写真もしかり。彼女もいまのほうが垢ぬけた感じで、断然いい。
この本は2003年の発行で、第15回将棋ペンクラブ大賞一般部門佳作を受賞した名著だが、写真は必ずしもリアルタイムのものを載せていない。藤森女流四段は、2003年よりはるか前の写真だろう。生年月日を見ると、けっこうな数字で、櫛田手合い係と顔を見合わせてビックリする。
「藤森さん、来年は○歳ですか…」
「ええっ、そうなんですか!? 今年が2010年だから来年は…あ、そうか。これは驚きましたねえ」
「そんな歳には見えないよねえ」
「人生○年か…。でも若いですよねえ」
藤森女流四段は黙って将棋を指しているが、コメカミに青筋が立っている。この話題はもう終わりにしたほうがよい。
船戸女流二段が見えたようだ。直訴すれば藤森女流四段との指導対局を飛ばして船戸女流二段に教えていただくことはできる。しかし特別扱いは自分自身が許さない。藤森女流四段の指導対局席が空いたので、私はそこに座った。
このブログで何度も書いてきたが、私が金曜サロンで初めて教わった女流棋士は、藤森女流四段だった。当時はお互い「三段」。その後、どちらも実力でなしに昇段した。…と余計な一文を書いたが、もし藤森女流四段がいらっしゃらなかったら、私は金曜サロンに通うことはなかった。そう思うときょうの指導対局は感慨深い。最後の対局をじっくり楽しむ腹だったが、中盤で私に致命的な見落としがあり、54手で投了を余儀なくされた。
駒込最終局は残念な結果だったが、藤森女流四段にはあらためて御礼を申し上げます。
ところで藤森女流四段との指導対局のとき、気軽に話かけてくれた船戸女流二段。船戸女流二段もまた、私を金曜サロンの常連にしたおひとりである。今回も私のスケジュールを慮って、すでに4面指しだったのを、「(机を足して)6面指しにするから、指しましょう」と申し出てくれた。
たいへんありがたいことだが、会員はあまりいなかったし、この時間から6面指しは味がわるい。私も船戸女流二段と金曜サロンでの最後の将棋を指したかったが、丁重に辞退した。
将棋会館道場で指したアマ五段氏との終盤戦を、櫛田手合い係…否、六段に見ていただく。
念のためその局面の符号を以下に記す。

五段氏(後手):1三歩、3四歩、4二銀、4三歩、5二金、5三歩、6一金、6二王、6四歩、7二銀、7三歩、7七と、8一桂、8八竜、9一香、9三歩 持駒:角
一公(先手):1七歩、1九香、2九桂、3二竜、3七歩、3九銀、4七歩、4八玉、4九金、5四香、5七歩、5八桂、6五桂、6七歩、7六歩、8二角、8五歩、9六歩、9九香 持駒:金、銀、歩2
(58手目☖5二金打まで)

櫛田六段の解説によると、57手目☗3二竜と金を取る手に問題はなかったようだ。ただこのあと59手目☗9一角成と香を取った手が、☖6七とと替わった悪手だったらしい。
正解は単に☗5三香成。以下☖同銀☗同桂成☖同王に☗7一角成!が名手。☖同金は☗5四銀で後手王は即詰み。したがって後手は6二に合駒を打つか、盤上の金を上がるか寄るかだが、自玉はゼットなので、のちに☗7二馬と銀を取る手も見て、先手の明らかな勝ちだったという。
しかし☗7一角成は私の実力では発見できない。それを言うと櫛田六段は、
「☗7一角成はプロの手ですね。しかしこの手を指さないで寄せるとなると結構むずかしいか…うん、これは☗4一銀でも勝ちでしょう」
と言う。もし☖5一金引なら☗5二金とベタッと打って、あらかた寄り。
指されてみればなるほど、というか簡単な寄せである。しかしそれが私には見えなかった。まあ☖5三同王の局面だけを見れば☗7一角成の空成りは指せたかもしれないが、その前提には5三の地点での駒の精算があり、これを躊躇していた私には、やはり後手王を寄せる棋力がなかったということだ。
それにしても…と思う。植山悦行七段に検討に加わっていただいたときもそうだったが、感想戦でプロ棋士のアドバイスが入ると、簡単に勝敗が入れ替わるケースが頻繁にある。プロから見たら、私のようなヘボの感想戦は滑稽なやり取りに見えるんだろうな、とあらためて思った次第。
船戸女流二段が、再び「将棋指しましょう」と誘ってくれるが、遠慮する。
Sug氏としばらくおしゃべりをしたが、話すこともなくなったので、ちょっと早いが、四ツ谷に向かうことにした。
帰り際、櫛田手合い係に御礼を述べる。船戸女流二段にも述べる。船戸女流二段には、
「ペンクラブのみなさんによろしくお伝えください」
と伝言を承った。
LPSA駒込金曜サロン、残るはあと1回である。
(つづく)
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長い1日②・将棋会館道場にて

2010-09-19 00:41:26 | 将棋会館道場
藤田綾女流初段との指導対局が終わって、引き続き将棋会館道場で将棋。平日なのに小学生が何人かいる。奨励会は土・日曜に行われるので奨励会員ではない。では研修会員だろうか。分からない。
会館道場の傍らで藤田女流初段との将棋を思い出して棋譜をつけていると、手合い係嬢に私の名前を呼ばれた。
「(大沢さんの)飛車落ちでいいですか」
大駒落ちの手合いで申し訳ありません、というニュアンスが感じられた。しかしLPSA金曜サロンでは、このくらいの手合いはいつものことである。
1級の相手氏は穴熊に囲い、銀損の猛攻をかけてきたが、うまく受けて切らし、快勝した。
続いて中学生低学年と思しき少年と一局。学校のほうはいいのだろうか。段位を見ると「五段」とある。私は連盟道場と駒込サロンでは、駒込のほうが段位が厳しいと思っている。同じ段位ならば、私はサロンの会員のほうを「持つ」。しかし「中学生の(アマ)五段」となれば話は別だ。将来プロ棋士を目指しているかもしれず、私が容易に勝てる相手ではない。ともかく全力を尽くすのみである。
私の先手で☗7六歩。対して少年は王道の☖8四歩。以下☗2六歩☖8五歩☗2五歩☖3二金☗7八金☖8六歩☗同歩☖同飛☗2四歩☖同歩☗同飛☖2三歩☗2六飛☖8四飛☗9六歩、と進んだ。
長手順を書いたが、私はひねり飛車を目指している。と、ポンポン指し手を進めていた少年の手が、ここで止まってしまった。☖8六歩と垂らす手が利くかどうかの考慮だと思うが、私には少年がこの局面を初めて見て、どう指していいのか戸惑っているように見えた。いつぞや渡部愛アマ(LPSAツアー女子プロ)と同じ将棋を指したときも、似た反応だった。
かつて先手必勝の戦法があるとすれば、それは「ひねり飛車」と云われたものだったが、現在は廃れてしまった。現代の将棋界は情報化が進んでいるが、もし最新戦法以外の手を指されて硬直していたのだとしたら、それは地力がない証でもある。プロ棋界でそんなことはあるまいが、もし新人棋士にウイークポイントがあるとしたら、カギはそのあたりにありそうな気がする。
結局少年は☖8六歩と垂らした。以下は☗8五歩☖同飛☗7七桂☖8四飛☗8五歩☖2四飛と進む。☖8六歩のところで少考しただけあって、さすがの手順である。私は勢い☗2四同飛☖同歩☗8四飛と打ったが、ここで☖2五飛と打ち返されていたら、歩切れの私が苦しかったと思う。こうなると☖8六歩の存在も大きい。
しかし少年は☖7二銀。以下☗2四飛☖3四歩☗4八玉☖8九飛☗6五桂と進み、激しい攻め合いに突入した。このまま棋譜をダラダラ書いていると将棋が終わってしまうが、せっかくなので続けて記そう。
☗6五桂以下は☖8八角成☗同銀☖3三角☗2一飛成☖8八角成☗同金☖同飛成☗5八桂☖4二銀打☗1一竜☖8七歩成☗5六香☖5四歩☗1五角☖6二王☗5四香☖7七と☗8二角☖5三歩☗4二角成☖同銀☗4一竜、と進んだ。
角を切り、☗4一竜と回った手が詰めろ金取り。ここでこの将棋は勝ったと思った。少年はやむなく☖6四歩。王の懐を拡げてこの一手だが、イヤなところに逃げ道を開けられたとは思った。しかし☗3二金とボロッと金を取れては、依然として先手快調である。
少年、☖5二金。さすがにいい粘りだ。ここで私が間違える。以下、わずか14手で終わる。偶数手ということは、すなわち私が負けたということだ。もしここまで棋譜を並べた方がいらっしゃったら、ここで後手王を寄せる手を考えてください。
本譜は、☗9一角成☖6七と☗5三香成☖同銀☗同桂成☖同王☗5六香☖5四歩☗4一銀☖2七角!☗3八銀☖5八と☗同金☖6六桂 まで、72手で五段氏の勝ち。
☗9一角成と香を補充したが、一手を争う終盤でこの手は甘いと思いながら指してしまった。後手は☖6七とと一歩を補充しつつ先手玉に迫る。この交換は先手が大損だった。
5手後の☗5六香に☖5四歩がピッタリ。☗4一銀には☖2七角が逆転の一打で、ここは少年の手に力が入った。最後は☖8六に垂れていた歩で☗5八の桂を取られ、その桂を☖6六に打たれて投了した。何とも情けない投了図である。
「こちらがわるかったですよね」
と少年が言う。
「うん」
実際こちらがよかったのだから、否定はしない。短い感想戦をやったが、少年は☗8二角で☗2六角打!がいやだったという。これに☖3五金なら☗3六歩と催促し、☖2六金☗同角は王のラインが受けにくい。
私はまったく考えておらず、私は彼との才能の差を感じた。結果は残念だったが、私も気鋭の五段にここまで善戦できたのだから、佳とすべきだろう。
それにしても☖5二金での局面、後手王に何か寄せはなかったものだろうか。絶対あるはずだが、私には分からなかった。金曜サロンに行ったら、きょう登板の櫛田陽一六段にお聞きしよう、と思った。
窪田義行六段が現われる。昼休みの息抜きだろうか。窪田六段は物心両面から将棋ペンクラブを支援してくださる、数少ない棋士だ。ペンクラブの中でも窪田六段のファンは多い(はずだ)。
「窪田先生、きょうのペンクラブ大賞贈呈式は行かれますか」
「きょうはちょっと順位戦があるので…」
「ああっ、そ、それは行けませんね、し、失礼しました!!」
「いえいえ、行ってもいいんですけれども」
「いえいえいえいえ、そ、それは順位戦に集中していただかないと…」
そうか…昼休みだから道場に顔を見せたのに、私もつまらぬ質問をしたものである。
窪田六段とはそのほかにも二言三言話をさせていただいたが、内容を記すのは控える。
3局目は二段氏との香落ち。将棋を指していると、しばらくして窪田六段が、日本将棋連盟付で送られてきた「将棋ペン倶楽部」最新号を見せに来た。きょう事務所で受け取ったらしく、まだ封は開けられていない。しかしなんで私に見せに来たのか分からない。分からないが、なんとなく分かるような気がした。
二段氏との将棋を再開する。と、また窪田六段がいらした。
「ペンクラブ大賞受賞者の皆さま、会員の皆さまにくれぐれもよろしくお伝えください」
と丁重に言葉をいただく。礼儀正しい先生である。なんだか恐縮してしまう。
またまた二段氏との将棋を再開する。…ウワッ! また窪田六段がいらっしゃる。今度は便箋を私に見せる。
「手紙を書きましたので、これを関係者の方にお渡しください」
いま、わざわざ書いてくれたのだ。しかしそれを私にはくれず、また窪田六段は場を離れる。??
またまたまた二段氏との将棋を再開する。…ウワワッ!! ま、またもや窪田六段のおでましである。先ほどの便箋を入れた封筒に、糊づけしてきたのだ。
「ではこれを、関係者の方にお渡しください」
窪田ワールド全開である。私は、ヘヘーッ、とお預かりした。
ところで対局相手の二段氏、大の長考派で恐れ入った。名将戦の持ち時間(チェスクロック使用で2時間)と間違えてるんじゃないの? というくらい、のんびり考えている。しかも考える時間にメリハリがないから、さらに長く感じる。
形勢は駒得の下手が十分。しかし決めるとなると大変で、そこを模索しているらしい。だが有段者だったら、一連の読みはあるだろう。ところがこの二段氏、私の応手がその読みにない手だと、またその局面から新たに読み直しているふうなのだ。こっちは早いところカタをつけて駒込に向かいたいのだが、相手がこの姿勢だからどうしようもない。時間は刻々と過ぎていく。
今日中に終わるのだろうか、と半ば本気で心配したが、徐々に局面は終盤に入っていく。途中、ハッキリと私がわるい局面があったが、肝心なところで二段氏が寄せ損ねて、私が勝勢になった。しかしそこからもまた長く、終わったのは2時42分だった。この将棋、12時40分には始まっており、私は早指しだったから、二段氏がほとんど考えていたことになる。
連盟道場では原則的にチェスクロックを使用しないが、その弊害がモロに出た形だ。
ともかく想定外のできごとで、大幅に予定が狂った。これでは駒込で指導対局を2局も教えてもらうのは無理だ。私は諦めモードで、千駄ヶ谷駅に向かった。
(つづく)
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長い1日①・女流棋士スーパーサロン金曜日・藤田綾女流初段③

2010-09-18 14:22:29 | 女流棋士スーパーサロン
17日(金)は朝からスケジュールが詰まっていた。といっても仕事関連は一切なく、すべて将棋がらみである。以下にその予定を書いてみる。
まず午前10時から東京・将棋会館で、女流棋士スーパーサロンの藤田綾女流初段に指導対局を受ける。そのあとは会館道場で午後1時すぎまで対局。
JR千駄ヶ谷駅構内の立ち食いそば屋でかけそばを食し、駒込・金曜サロンへ向かう。いつもはやや遅れて入るのだが、今回は2時に入って、この日担当の藤森奈津子女流四段と船戸陽子女流二段に、早々に指導対局を受けたい。
6時ごろに退席し、取って返して四ツ谷へ向かい、7時開演の将棋ペンクラブ贈呈式に参加する。9時からの二次会も参加予定だ。なかなかハードである。

17日(金)は、午前2時すぎまでブログを書き、3時すぎに就寝。朝は8時30分ごろに起床し、スーツに着替えて将棋会館に向かった。
10時ちょっと前に将棋会館に入る。1階の売店カウンターに、16日発売の「NHK将棋講座」が置かれている。最新号の表紙は、10月からアシスタントになる山口恵梨子女流初段ではなく、棋譜読み上げの藤田女流初段である。
私はこれからその藤田女流初段に指導対局を受けるのだ。まさにタイムリーである。
とりあえず購入して2階へ向かう。前週は大山康晴賞授賞式があり、指導対局場が変更された。2階の道場で指導対局を受けるのは久しぶりになる。
受付を済ますと、奥の対局スペースに藤田女流初段がニコニコしながらちょこんと座っていた。ふんんわりした白い服を着ている。かわいい。この、思わず「かわいい」と思わせる女流棋士がLPSAにはいないのだ。
まだほかに対局者がいなかったので、私はカバンから「NHK将棋講座」を取り出し、図々しくもサインを所望した。念のためマジックは用意していた。藤田女流初段も快諾してくれ、「……も書きますか?」と聞かれたが、よく聞き取れなかった。藤田女流初段は
「悠然 女流初段 藤田 綾」
と書いてくれた。ありがたい。ちなみに表紙の撮影には、小1時間かかったそうである。雑誌づくりもたいへんである。
5月の将棋ペンクラブ関東交流会で安食総子女流初段にも「将棋講座」の表紙にサインをいただいたが、またお宝が増えた。
ここから、本来の目的の指導対局である。駒袋から駒を出すが、まだ誰も来ていないので、お互い大橋流で、一手一手時間をかけて並べる。藤田女流初段が王を置いたら私は玉、藤田女流初段が左金を置いたら私も左金、藤田女流初段右金、私右金…と、藤田女流初段が私の着手と呼吸を合わせてくれているかのようだ。モノスゴイ緊張だが、知己ではないので、さすがにもう軽口を言う余裕はない。
対局開始。なにしろテレビのレギュラーを持っている女流棋士だ。有名人と指していると思うと、さらにさらに緊張してしまう。
戦型は藤田女流初段の立石流四間飛車。藤田女流初段は振り飛車党だが、立石流は7月のマイナビ女子オープン一斉予選の渡部愛アマ戦でも起用しており、最近の「マイブーム」なのかもしれない。
やがて2人目の対局者が訪れる。藤田女流がキャスター付きの椅子をスーッと移動させると、スカートが見えた。ピンク系だ。ああピンク、素晴らしい。さすがに自然な着こなしである。コーディネートに無理がない。
藤田スマイルを拝見し、将棋誌の表紙にサインをいただき、ピンクのスカートも拝めた。指導対局の将棋はまだまだこれからだが、私は十分満足した。
とはいえ、将棋も頑張らなければならない。局面――。私は相手の誘いに乗らず、飛車先の歩は☗2六で止め、☗6六歩と角交換も拒否した。
藤田女流初段の棋風は軽快だと思う。藤田女流初段の飛車が横に動いたので、私はそれを目標に動く。私が☗4四歩と飛車の横利きを止め、藤田女流初段が☖8二王と寄った局面の符号を以下に記す。

上手・藤田女流初段:1一香、1四歩、2二角、2三歩、3二金、3三桂、4二銀、4五歩、5三歩、6一金、6三歩、7一銀、7三歩、8一桂、8二王、8三歩、8四飛、9一香、9四歩 持駒:歩
下手・一公:1七歩、1九香、2六歩、2八飛、2九桂、3六歩、4四歩、4七金、5五銀、5六歩、6五歩、6七銀、6九金、7六歩、7八玉、7九角、8七歩、8九桂、9六歩、9九香 持駒:なし

ここから☗3五歩☖1三角☗3四歩☖7九角成☗同金☖7二銀☗3七桂☖4六歩☗同金☖5七角と進んだ。
☗3五歩は、指す前から感触がわるいと感じていた。☗3四歩~☗3三歩成と桂得を確定しても、☖3三同銀で次に☖4四銀の活用を見せられるとおもしろくないからだ。しかしほかに指し手が思い浮かばなかった。
本譜は遊び気味の☖2二角と☗7九角が交換になり、下手は大損をした。局後の検討では、藤田女流初段は☗3五歩で☗6四歩がイヤだったそうだ。かりに☖同歩なら☗6六銀上と出て、次の☗7五銀を狙いにする。
☖5七角にも☗6六角と合わされると思ったそうだが、私は☗6八金と軟弱な手を指し、☖3九角成とされては下手敗勢となった。
最後は☗3六飛(打)に☖3三歩と冷静にフタをされ、戦意喪失で投了した。
ついでだから投了図も記しておこう。

上手・藤田女流初段:1一香、1四歩、1九飛、2三歩、3二金、3三歩、4二銀、5三歩、5九角、6一金、6三歩、7二銀、7三歩、8一桂、8二王、8四歩、9一香、9四歩 持駒:歩
下手・一公:1七歩、1八香、2五桂、2六歩、3六飛、4四歩、4五角、4六金、5五銀、5六歩、6五歩、6七銀、6八金、7六歩、7八玉、8七歩、8九桂、9六歩、9九香 持駒:桂、歩

☖3三歩に☗5八金は☖1八飛成があり、☗5九金と角を取れないのは不愉快なので、投了したというわけ。藤田女流初段も、この辺が投げ時ですね、というふうだったが、LPSAの女流棋士なら私の諦めのよさに、「エーッ!」と驚いたことだろう。
もっともいま冷静な目で見ると、変化の☖1八飛成には☗3八歩と凌ぎ、☖3四香☗同角☖同歩☗5九金なら、もう少し粘れたかもしれない。しかしまあ、私の敗勢は変わらないだろう。
とりあえず指導対局はオワリ。まだ10時50分である。しかし長い1日はここからだった。
(つづく)
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佐藤大五郎九段哀悼

2010-09-17 01:51:02 | 男性棋士
パソコンの各サイトで、佐藤大五郎九段が亡くなられた、との報を読んだ。
「佐藤九段」は将棋界にふたりいて、平成の佐藤(康光)九段が「緻密流」なら、昭和の佐藤(大五郎)九段は「薪割り流」だった。「薪割り」とは、その字のとおり、薪を割ることである。佐藤九段の体格がよく、その手つきが薪を割るように豪快だったのと、棋風もまた豪快だったのが、ニックネームの由来であろう。
私が将棋に本格的に夢中になったのは小学6年生だったか中学1年生だったかだったが、その頃オヤジに初めて買ってもらった棋書が、佐藤大五郎八段著の「やさしい詰将棋」(日本文芸社・650円)だった。
3手詰と5手詰が50題ずつ載っていて、私はそれを読みながら、そのまま両親とどこかへ遊びに行った記憶がある。3手詰のほうは、持駒があればそれを捨てるのがコツだと分かったので、わりとスラスラ解けた。しかし51問目からの5手詰は、たった2手増えただけなのに、急に難しい問題が多くなった。それでも私は脳に汗をかき、何とか解いていった。
ところがある局面で、パタッと頁をめくる手が止まった。どうやっても、どう考えても、解けないのだ。私は答えを見るのが悔しいので、オヤジに訊いてみた。するとオヤジはしばらく考えて、玉方の金を取ったあと、詰ましあげた。
げっ、相手の駒を取って詰ましてもいいの!?
私はオヤジに再び訊くと、オヤジは笑って、そりゃそうさ、と答えた。このとき私は、詰将棋は相手の駒を取って詰ましてもいいことを学習したのだった。
佐藤九段はA級経験者だが、タイトル戦は王位戦に1回挑戦しただけである。しかし著書はかなり出していて、その数年後の将棋専門誌で、「私は35冊も本を出してるんだ。これは全棋士の中でも○位なんだよ」と語っていたのを読んだ記憶がある。
晩年はだいぶ目を悪くされていたようで、平成8年3月に引退。同じ年には丸田祐三九段も引退したのだが、この年の竜王戦5組の残留決定戦で、ふたりは対戦している。昭和を代表する名棋士同士の対局だから、私は読売新聞が特選譜として載せてくれるのではないか、と淡い期待を抱いた。しかしやっぱり、無理だった。余談だが今年は有吉道夫九段が引退し、竜王戦での最終局が、新聞に掲載された。現在だったら、ふたりの将棋が載ったかもしれない。
ちなみに翌平成9年6月号の「将棋世界」別冊付録「全棋士出題思い出の一手PART1」では佐藤九段の出題があり、「近況、二年程前美浦に二軒目の家を建て妻と庭に植木や季節の花々を植え観賞し、また景色の良い村を散歩、妻の運転で町や村をドライブなど楽しんでいるこの頃です。持病も快調へ。」と書かれている。
引退後は、「将棋世界」での「懸賞必至問題」が印象に残っているが、こうしたおだやかな環境のなか、詰将棋や必至問題は生まれたのだ。
拙宅のトイレ脇にある家具の上には、平成13年12月号「将棋世界」付録の「まき割り流 詰め指南」が置いてある。タイトルから分かるとおり、佐藤九段の出題である。手数は5手から9手まで。「はしがき」には、「終盤力の強化に、また読みの訓練に、詰将棋は格好のトレーニング法である。」と記されている。
この付録を、トイレに入るとき、(オヤジと)私が退屈しのぎに(失礼)持って入るのだ。もう表紙も取れて、それをガムテープで補修しているという有様だが、しばらく経つと答えを忘れてしまうのでなかなか手放せず、現在も愛読しているのだ。
先日藤森奈津子女流四段らと飲んだ時、NHK杯トーナメント戦で佐藤九段が福崎文吾九段相手に必勝の将棋を落とし、苦い顔で扇子をあおいでいるところで番組が終了したんでした、という昔話をしたばかりだった。
そんな佐藤九段の生涯会心の一局は、若き中原誠七段相手に快勝した、B級1組順位戦での一局ではなかろうか。これは日本将棋連盟刊「無敵四間飛車」にも収録されているし、何年か前の「将棋世界」の別冊付録にも再録された。
ここで日本将棋連盟および朝日新聞社の許可を得ず、その全棋譜を以下に転載する。私なりの哀悼なので、黙認していただければ幸いである。

第24期B級1組順位戦
昭和44年10月21日 東京・将棋会館
先手・佐藤大五郎七段 後手・中原 誠棋聖(七段)
持ち時間:各6時間

☗7六歩☖8四歩☗7八銀☖3四歩☗6六歩☖6二銀☗6八飛☖4二玉☗4八玉☖3二玉☗3八玉☖1四歩☗1六歩☖5四歩☗6七銀☖4二銀☗5八金左☖5二金右☗2八玉☖7四歩
☗3八銀☖5三銀左☗4六歩☖4二金上☗7七角☖8五歩☗3六歩☖9四歩☗9六歩☖6四銀☗9七香☖7五歩☗7八飛☖7六歩☗同銀☖7二飛☗6五歩☖7七角成☗同飛☖5五銀
☗7五銀☖9九角☗7六飛☖8八角成☗7四銀☖8七馬☗7五飛☖8六馬☗7九飛☖7六歩☗8三角☖7一飛☗8二歩☖9三桂☗8一歩成☖同飛☗9四角成☖7五馬☗7三銀成☖同銀
☗7二馬☖3一飛☗7三馬☖8六歩☗5六歩☖6六銀☗6四歩☖6二銀☗8三馬☖7七歩成☗同桂☖6四歩☗7四歩☖8七歩成☗7三歩成☖7七と☗6二と☖同金☗5五歩☖6五歩
☗4七金☖7八歩☗8九飛☖8八歩☗6九飛☖6七と☗4五銀☖5七桂☗6三歩☖6九桂成☗6二歩成☖5七と☗3七金☖6七銀成☗3四銀☖3三歩☗9三馬☖5三馬☗2三銀不成☖同玉
☗7五馬☖2四銀☗5三馬☖同金☗4二角☖3二飛☗5三角成☖5八と☗4一銀☖2二飛☗3五桂
まで、111手で佐藤七段の勝ち。

消費時間:佐藤七段・5時間37分 中原棋聖・5時間29分

享年73歳。心よりご冥福をお祈りいたします。
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恨み節

2010-09-16 00:49:55 | プライベート
17日(金)は、東京・四谷で「第22回 将棋ペンクラブ大賞贈呈式」が開かれる。会場はJR四ツ谷駅の上智大学側を出てスグの「スクワール麹町」。午後6時半開場、7時開演である。会費は男性8,000円、女性6,000円。
贈呈式の内容は盛りだくさんだが、閉会が8時半とやや早い(注:実際は9時閉会予定とのこと)。二次会に重きを置いているのかもしれないが、ちょっと割高の感はある。まあ将棋ペンクラブもおカネがないし、やむを得ないのだろう。私も参加する。
なお参加については、会員でなくても可能である。もちろんプロ棋士の参加も大歓迎だが、会費もほかの参加者と同様、取る。なぜなら将棋ペンクラブは「文章と将棋を愛する者」の集まりであって、将棋の棋力は関係ないからだ。
「私はプロなんだから、会費は払わなくてもいいだろう」
などという無理攻めは、ここでは通用しない。

ところで昨年も書いたが、四ツ谷は私がサラリーマン(再就職時)だったころの最寄り駅で、この近辺にはいい思い出がまったくない。
というのは、この会社は社員数人の弱小広告代理店だったが、社長が年中仏頂面で仕事をしていて、みんなも黙々と仕事をするのみだった。社内に無駄話や笑いというものが一切なく、面白くもなんともない会社だったからだ。社内に流れるFM放送が、かえって静寂を際立たせた。
定時は午後6時だったか6時半だったか忘れたが、社長がつねに最後まで残って仕事をしているので社員は帰りづらく、私もどうでもいい仕事を見つけては、時間つぶしのようなことをやっていた。小腹がすいても近所にはコンビニすらなく、空腹は我慢するしかなかった。帰宅はいつも、9時とか10時だった。一度7時だか7時半ごろだかに退社したことがあったが、社長から「オッ」と言われた。もう帰るのか? という反応である。この時間まで会社にいれば十分だバカヤロ。
それなのにこの会社、給料は基本給だけで、営業手当や残業手当の類は一切出なかった。これ、いまなら裁判沙汰であろう。土曜や日曜の休日に、東京ビックサイトなどへ設営作業の手伝いに出向いても、おカネは1円も出なかった。自発的に手伝っている形だから、もちろん代休はない。
月曜日に出社しても、社長の「ご苦労さん」の一言もない。お中元やお歳暮を贈る習慣もなかったので、お得意様への贈り物は全部自腹だった。これではおカネがたまるわけがない。
そんな会社で唯一の救いといえば「夏季休暇」で、7月20日から9月10日までの5日間を、任意に取ることができた。この期間なら、休みを連続5日間とるもよし、週に1日ずつ5回取るのもよしと、自由だった。ここで私は毎年9月上旬に休みをまとめて取り、沖縄を旅行することにした。
9月になれば事前予約割引で飛行機代は安いし、暦は秋でもじゅうぶん沖縄の暑さを堪能できると思ったからだ。実際沖縄は楽しかった。それから夏の沖縄旅行が私の定番となった。ちなみにこの慣習は現在も続いており、沖縄にハマるキッカケを作ってくれた会社に、その点だけは感謝している。
それでもこんな有様だから、社員の入退社も激しかった。いつぞやの年は3ヶ月連続で社員が辞めたこともあった。中には神経をおかしくして辞めた者もいた。
ある年ジャニーズ系のイケメン社員が入社したが、こんな雰囲気だから、彼は私しかすがる人がいなかった。ある日、会社の帰りに珍しく喫茶店でおしゃべりをする機会があり、このときは社長の悪口を言い、大いに笑った。彼は「また…お願いします(誘ってください)」と言った。しかし私はこのときすでに人の心をなくしていたので、その後彼を誘うことはしなかった。その結果、彼は数ヶ月後、ノイローゼになって退職した。
私のどうでもいいサラリーマン生活の中で、唯一悔やまれるのが、彼への思いやりだった。早晩彼は辞める運命にあったろうが、先輩としてもっともっと彼にしてやれることがあったはずだ。それを私はしなかった。
それから何年か経ち、立ち食いそば屋「ゆで太郎」ができて、営業の帰りや残業時にもりそばを食べにいくのが唯一の楽しみになった。
ところでこの会社は、社長が前に勤務していた代理店から独立したものである。ある年、その代理店から3人ほど入社し、2人が役付きになった。うちひとりは社長より年上である。きっと前の代理店でリストラされたのだろうが、かつては自分の後輩だった男を、よく社長と呼べるものだと、私は心の中で冷笑したものだった。
そのほかに困ったこともあった。私以外はほとんどがヘビースモーカーで、室内はつねに煙がモコモコしていた。精神的苦痛に加え、肉体的苦痛が日常的に襲ってくる。こんな会社にいたら副流煙で肺をヤラれる、と私はマジでおののいた。
そんなある年、オヤジから相談を受けた。得意先から、オタクの長男はゆくゆくはどうするの? 跡は継がないの? 後継者がいないと仕事をあげないよ? というようなことを言われたというのだ。
オヤジは自営業者で、キツイ、キタナイ、キケンの3Kを地で行く仕事だった。職人だから定期昇給もない。オヤジも最初は私に好きな道を選ばせたかったようだが、得意先の意向には逆らえず、私に相談したというわけだ。
広告代理店の仕事は面白くなかったが、外出できる自由はあった。しかしオヤジの仕事に就くと、まず外には出られない。工場で、それこそ黙々と仕事をするだけだ。女性と知り合う機会は100%なくなり、私の婚期は遠のく。いや、結婚は諦めるしかない。それでも私は自営業を取った。オヤジを助けるという意味ではなく、いまの仕事にケリをつけかったからだ。
広告代理店の最終日は、とてもせいせした気分だった。苦痛だったこの仕事から、やっと解放されるのだ(3年前の5月、LPSA女流棋士が、女流棋士総会会場から出ていくときも、こんな感慨だったのではあるまいか)。最後のエレベーターに乗る時、そこにいた全社員が私を見送ってくれた。つねに私をイビッテいた上司(例の転職者だ)がまだ帰社していないのも、ありがたかった。
有給休暇はひどく少ないうえに、取れる雰囲気ではなかったので、退職時は15日ぶんの休暇が余った。言うまでもないが給料には替わらず、最後までおカネがたまらない会社だった。
自営業の肩書きになってからの私は、地味な仕事をひたすらこなした。基本的には周りに誰もいないところで、黙々と作業する。ラジオもかけなかったから、聞こえるのは自分が発する作業の音だけだ。しかしこんなものは、代理店のそれに比べたら、大したストレスではなかった。
仕事も午後6時にキッカリ終わった。給料は半分近くに減ったが、私は友人がおらず、支出がほとんどなかったので、貯金は毎月微増していった。
それから数年が経ち、女流棋界にLPSAができ、私はひょんなことから、金曜サロンに通うことになった。もし広告代理店務めを続けていたら、そういう展開にはなっていないはずで、これも運命といえようか。
しかし金曜サロンに通いだして、困ったことがあった。私はそこまでの数年間、女性とほとんど話さなかったので、女性に対しての免疫がなくなっていたのだ。
したがって女流棋士を前にして、私が今もまともに話ができないのは、その後遺症があるからなのである。

というわけで、私は代理店退社後も、JR中央線で四ツ谷駅を通るのさえイヤだった。
現在はその思いもだいぶ薄れてきて、四ツ谷アレルギーもなくなった。折しもJR四ツ谷駅は今年6月から、都内初の女性駅長が就任し、話題になった。
読売新聞東京版9月10日夕刊にも再び記事が出ているが、その女性駅長は白山弘子(しらやま・ひろこ)さん。平日はほぼ毎朝改札に立ち、乗客にあいさつをするという。17日の夕方にその駅長さんに会えるとは思わないが、いまから楽しみである。
コメント (2)
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