森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

篤姫最終回「一本の道」

2008-12-17 10:16:35 | ドラマ (大河)

 オープニングの篤姫が歩く一本道が最終回バージョンで光りました。薩摩の片隅に生まれ、大奥最後の時に立ち会った女性の歩いてきた道。

  その篤姫最終回は、総集編のようにオールキャスト顔見世と言う感じでした。ただひたすらに一本の道を歩いてくれば、関わりあった人は数知れず。(そういえば出てこなかった人もいたような・・・・。どうせだから全部出せば良かったのに~、と言うのは無理な話でしたね。)

拡大時間といっても、ラストの短い間に再開と別れが繰り返されました。

小松帯刀、1870年死去、満年齢では34歳。ほぼ同じ齢の篤姫もまだ若いわけです。彼の死を知った篤姫の嘆きを見たときに、私は
「生きてさえいれば」と言う言葉を思い出してしまいました。

―生きてさえいれば、我らは同じ時代の同じ舟をこいでいる、同じ船頭。どんなに離れていても、会うことはなくても、想う心の血潮は行きつ戻りつ、通い合っている・・・。
でも、その想いは片方の死によって絶たれてしまうと、行き場がなくなってしまうじゃないですか。なんと切ないことでしょう。苦しいことでしょう。
この時代の「会う」は本当に一期一会。深き縁の親友の死を知っても、何か出来るわけでもなく篤姫は嘆くばかりでした。

泣けるシーンでした。

その帯刀臨終のシーンも、良かったです。
「居心地悪いと思いますが、二人で看病させて頂きます。」とお近様のセリフに笑ってしまいましたが、この時代、女はこのくらいの覚悟が必要なのだと思いました。この近は立場は違いますが、なにげにやっていることは篤姫と通じている所があるなと思いました。自分の生んでいない子供をしっかり教育し、育て上げるのですから。

受け止める女も凄いですが、子供を手放す女の決意も凄いです。

なかなかのシーンではあったのですが、なぜに演出様、あの帯刀さんのコロッとした死に方に、O.K出しちゃったのか、ちょっと悔やまれます。

いつものようにインパクトの強かった順と言うか、思いついた順に書いているので、物語の流れに沿ってはいません。

篤姫が江戸城を出たことで、いい事もありましたね。もちろん先週の帯刀さんとの再会もそうですが、もう二度と会えないと思っていた母と兄との再会。

「篤姫」は物語ですから、あった事なかった事が上手く織り込まれているわけですが、このことだけは本当にあったことなら良いのになと深く思いました。

兄は変わらずに兄でした。変わらなさがいいですね。岡田のよっちゃんは好きな役者さんです。どんなに離れて違った世界を生きてこようが、家族は家族、そんな空間が素敵でした。

 

 新政府に行き詰っていた大久保。帯刀が臨終間近に書いた手紙を読んでいる西郷。そこへやってきた大久保の
「薩摩は遠い。」
「東京が、遠いのさ。」と切り替えす西郷。二人の温度差を物の見事に描いていて引き付けられました。
だけど、二人の手には共通の帯刀からの手紙が。

音楽のみでセリフなし。

そして新政府に復活していく西郷さん。

このシーンは、どちらかと言うと女性的な〆の話が多い中で、ちょっとスパイスを与えてくれたシーンだったと思いました。

家達の婚約式の時、駆けつけてくれた滝山などと一緒に写真を撮りますが、夫などは
「これが最初の結婚式の集合写真一号だった、とかね。」と言っていました。ちょっと可能性がありかもね、とふと思ってしまいましたが、良く考えたら、この婚約式に駆けつけてきたって言うことが「お話」なんだって、あなた。

その他の篤姫のその後エピソードは省きますが、その篤姫は1883年に亡くなりました。満年齢では47歳。

なので1877年の西南戦争で西郷を、翌年の1878年の暗殺で大久保を見送らなければならなかったのです。西郷は1828年生まれですから49歳、1830年生まれの大久保は47歳だったわけです。人生50年の時代でしたね。

その中であの本寿院の元気さは、最後まで凄かったですね。この人は篤姫よりも長生きしそうだなと、我が家でも前から話題になっていましたが、彼女は1885年に亡くなりました。篤姫死後2年生きながらえ、本寿院は何を思いながら生きていたのだろうと、ふと思っても、あのキャラなので、きっと陽気にお酒を飲みながらみんなの思い出でも語ってくれていたのだろうとしか想像できません。しかもその思い出も悪口だったりして・・・(汗)
その本寿院は、上野谷中霊園で眠っています。やっぱり正室ではなかった彼女は、如何に家定生母と言えども徳川の菩提寺などに埋葬されなかったのかと、「ふーん」と言う想いでいましたら、その谷中霊園で眠る著名人の中に徳川慶喜の名前を見つけてしまいました。

 以下は、Wikipedia「徳川慶喜」からの抜粋です。
 

 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。これは孝明天皇の陵墓が質素であることに感動したためである(『川慶喜公伝』)。

 

 本寿院はあれほど慶喜を嫌っていたと言うのに、死してもご近所とはと思わず同情してしまいました。

 

思わず横道に逸れてしまいましたが、元の道に戻ります。私の道はどうも一本道ではないようで・・・


長々と薩摩の時代を描いたのは、彼らの人生の基盤を描いていたからでしょうか。それは篤姫のみならず尚五郎の西郷の大久保の煌いていた青春時代、出会った人々、限りなくあった好奇心に野心や展望。それらが 彼らの人生の基盤を作ったと言えるのだと思います。

この物語は、別に女性目線で明治維新を描いたものではありませんでしたね。

大奥最後に女帝などと言われても、女王と言う立場ではなく、国政に関与できたわけではなかったわけですし、下々を想って憂いていたようにも見えません(ドラマの中では)。「大奥」と言う狭い世界に君臨していた篤姫。

でも彼女は目の前の守るべき者、なさねばならぬことを、力の限り智慧を絞ってやり抜きました。結果的には江戸を火の手から守り、一生奉公と思って大奥で働いていた女達が路頭に迷うことから守りました。自分の役割を果たしたのです。

自分の人生の一本道をひたすら歩んだ篤姫でした。満足の人生だったと思います。

 

ずっとその人気を誇っていた「篤姫」の関東地区の最終回視聴率は28,7でした。最高視聴率は「無血開城」の29,2。
この人気は来年にも引き継がれるといいですね。

 

  

 

HPにて壁紙配布中です。

今年も終わってしまいましたね。
私の感想を読んでくださった皆様、今までありがとうございました。お世話になったサイトの皆様、ありがとうございました。

 

前の記事の答え①9回②は③おばちゃん

 

 

 

 

 

コメント (10)
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