先日、台所にやって来たラッタ青年に
「今日は一日何をしていたのか。」と私は聞きました。
「そういうあなたは何をしたというのだ。」と言い返されたので、ふと家事以外のことは何もしていなくて、彼がリビングに来るたびに、PCの前にいたり、お昼寝をしていたり、テレビを見て泣いていたりしていたことを思いだしました。
で、私の一言。
「働いたら負けかと思って・・・。」
ラッタ青年は意味ありげに微笑み去っていきました。
このセリフは知っている人は知っている、とあるニート青年がインタビューの時にうっかり言ってしまったお言葉。
ネットの世界は怖い。
なぜか縁もゆかりのない私が知っていて、使われちゃうのだから。
そう思うと私もニート君の、・・アッ、間違えた、ルート君の「三顧の礼」とか「人はパンのみに生きるに非ず」の愛おしき新解釈を、嬉しげに公開したのは間違いだったのではないかと、しばし反省なんかしていたある日の出来事。
ケーキを食べようとしていた私に、
「これも食べなされ。甘いものの次にはこういうのが食べたくなるでしょ。」とおせんべをくれました。
「どうしたの、これ?」
「昨日学校の近くで献血したらくれたんだ。」
「偉いねぇ~。でもこれは君が得た物なんだから、君がお食べ。」
「いや、もう僕の分はは食べたからいいよ。」
あの、ちょっと、いったいこの会話はなんだって言うの。
「一杯の掛けそば」か?
と、母は不思議な感覚を感じながらケーキなどを食していたのであります。
その翌日、夕方から出かけるラッタ青年と昼食なんかを食べていた時、彼曰く。
「今日のヤツの昼飯、知ってる?カップラーメンだってよ。」
「ああ、学校で売っているらしいね。」
「そうじゃなくて、その出所知ってる?」
ちょっと中断。もちろんこんな風に書けば、予想はついてしまいますね。
ちなみに我が家の鉄のルール。
高校を出たら、小遣いなし。もちろん昼食代もなし。払ってあげるのは学費、教材費・定期代のみ。一緒に引き落とされてしまうから携帯代は免除。昼食を食べたかったら、智慧を使いなさいというのが、私の決めたルール。
そんな風に言ったら、子供たちは否応もなくバイトして自立の道を歩みだすのかと思いきや、そしてさらに、いつか「もう定期代はいりません。」ぐらいのことは言ってくれるのかと思いきや(「ラッタ君の定期代」で言っていましたよね。)、うちの子供たちは学校が遠いからとか接客業が嫌いだからとか言って、なかなかバイトに出て外貨を稼ごうとしません。
はっきり言って、「ボンボン太郎丸、次郎丸」でございます。
でもワタクシも鬼ではありませんので、食べ盛りの子供に昼食を我慢させるわけにも行きませんので、それなりの仕事を与えてお金を渡すと言う配慮はしているので、ご安心下さい。
それでもそんなルールがあるのは、我が家と言う温室の中のささやかな荒野と言う所でしょうか。
で、元に戻って・・・。
「献血してゲットしたぜって言っていたよ。」
「それじゃバイ・・ムニャムニャ?」
何がどうというわけではないのですが、何だかその後笑いが込み上げてきてしまいました。
これぞ「情けは人のためならず」だっちゃ
・・・ちょっと待てよ~!
たった今ルート君の部屋にご訪問。
「ネェネェ君さ、『情けは人のためならず』ってどういう意味か言ってみぃ」
「ええと、確か、半端な情けはそいつの為にならないからかけないほうが良いって言う意味じゃ・・」
ゲゲゲ、ヤッパシ~
「ブブー(ぶうぶうじゃないからね)、不正解。『ならず』は古文の断定の助動詞『なり』に否定の『ズ』が付いたんだよ。だから『情けは人のためなり』だったら『情けは人のためだ。』。それの否定だから『情けは人のためにではない』となって、おのずとその後ろに『めぐりめぐって己のためのものだ』と暗に意味が付随してくるのだよ。
世の情けと献血したけれど、それが自分の昼食代を助けたみたいに・・・」
「なるほど~」
アタシって、ちょっと嫌なお母さん?
でも、本当は
そこに献血車があったからと当たり前のように献血してきたと言うルート君を、本当に偉いなと思っているんです。
献血経験がありません。針が怖いし血も怖いからなんですが、いつか君を見習ってチャレンジするねと、心の中で呟いている母でした。
「今日は一日何をしていたのか。」と私は聞きました。
「そういうあなたは何をしたというのだ。」と言い返されたので、ふと家事以外のことは何もしていなくて、彼がリビングに来るたびに、PCの前にいたり、お昼寝をしていたり、テレビを見て泣いていたりしていたことを思いだしました。
で、私の一言。
「働いたら負けかと思って・・・。」
ラッタ青年は意味ありげに微笑み去っていきました。
このセリフは知っている人は知っている、とあるニート青年がインタビューの時にうっかり言ってしまったお言葉。
ネットの世界は怖い。
なぜか縁もゆかりのない私が知っていて、使われちゃうのだから。
そう思うと私もニート君の、・・アッ、間違えた、ルート君の「三顧の礼」とか「人はパンのみに生きるに非ず」の愛おしき新解釈を、嬉しげに公開したのは間違いだったのではないかと、しばし反省なんかしていたある日の出来事。
ケーキを食べようとしていた私に、
「これも食べなされ。甘いものの次にはこういうのが食べたくなるでしょ。」とおせんべをくれました。
「どうしたの、これ?」
「昨日学校の近くで献血したらくれたんだ。」
「偉いねぇ~。でもこれは君が得た物なんだから、君がお食べ。」
「いや、もう僕の分はは食べたからいいよ。」
あの、ちょっと、いったいこの会話はなんだって言うの。
「一杯の掛けそば」か?
と、母は不思議な感覚を感じながらケーキなどを食していたのであります。
その翌日、夕方から出かけるラッタ青年と昼食なんかを食べていた時、彼曰く。
「今日のヤツの昼飯、知ってる?カップラーメンだってよ。」
「ああ、学校で売っているらしいね。」
「そうじゃなくて、その出所知ってる?」
ちょっと中断。もちろんこんな風に書けば、予想はついてしまいますね。
ちなみに我が家の鉄のルール。
高校を出たら、小遣いなし。もちろん昼食代もなし。払ってあげるのは学費、教材費・定期代のみ。一緒に引き落とされてしまうから携帯代は免除。昼食を食べたかったら、智慧を使いなさいというのが、私の決めたルール。
そんな風に言ったら、子供たちは否応もなくバイトして自立の道を歩みだすのかと思いきや、そしてさらに、いつか「もう定期代はいりません。」ぐらいのことは言ってくれるのかと思いきや(「ラッタ君の定期代」で言っていましたよね。)、うちの子供たちは学校が遠いからとか接客業が嫌いだからとか言って、なかなかバイトに出て外貨を稼ごうとしません。
はっきり言って、「ボンボン太郎丸、次郎丸」でございます。
でもワタクシも鬼ではありませんので、食べ盛りの子供に昼食を我慢させるわけにも行きませんので、それなりの仕事を与えてお金を渡すと言う配慮はしているので、ご安心下さい。
それでもそんなルールがあるのは、我が家と言う温室の中のささやかな荒野と言う所でしょうか。
で、元に戻って・・・。
「献血してゲットしたぜって言っていたよ。」
「それじゃバイ・・ムニャムニャ?」
何がどうというわけではないのですが、何だかその後笑いが込み上げてきてしまいました。
これぞ「情けは人のためならず」だっちゃ
・・・ちょっと待てよ~!
たった今ルート君の部屋にご訪問。
「ネェネェ君さ、『情けは人のためならず』ってどういう意味か言ってみぃ」
「ええと、確か、半端な情けはそいつの為にならないからかけないほうが良いって言う意味じゃ・・」
ゲゲゲ、ヤッパシ~
「ブブー(ぶうぶうじゃないからね)、不正解。『ならず』は古文の断定の助動詞『なり』に否定の『ズ』が付いたんだよ。だから『情けは人のためなり』だったら『情けは人のためだ。』。それの否定だから『情けは人のためにではない』となって、おのずとその後ろに『めぐりめぐって己のためのものだ』と暗に意味が付随してくるのだよ。
世の情けと献血したけれど、それが自分の昼食代を助けたみたいに・・・」
「なるほど~」
アタシって、ちょっと嫌なお母さん?
でも、本当は
そこに献血車があったからと当たり前のように献血してきたと言うルート君を、本当に偉いなと思っているんです。
献血経験がありません。針が怖いし血も怖いからなんですが、いつか君を見習ってチャレンジするねと、心の中で呟いている母でした。