なんでだか、最終回の感想は書く事になっているのです。大河の感想を、そんなこんなで一年で二三回しか書かない時があったとしても、10年ドラマを見続けて10年感想を書いてきました。〈たぶん〉
その最終回の感想を書くとき、時々
「終わってホッとしました。」と言う言葉を使うものもありました。
大河を見る事は好きでも、時には辛く感じるドラマ展開もあったからです。〈はっきり言って「江」と「天地人」ですけれど。ファンだった方すみません。〉
でもこの「花燃ゆ」は、なんでしょうか。なーんにもない。
ホッともしないし、終わった感もないです。来週またやりますと言われたら、そうかなと思ってまた見ます。
こういうのを惰性の法則と言うのでしょうか。
この「花燃ゆ」、始まった時から途中までは本当に好きでした。世間的な評価などは私には関係がありません。登場人物もみなイキイキとして、それらを見続け見届けるものとしてのヒロインも立ち位置がはっきりしていました。
松陰の妹なんて、かなり特異な立場だと思いますが、それでも歴史の中では無名に近い者としての幕末を生きると言う大河に期待しました。
伊勢谷松陰は魅力的でした。
若い松陰は、それなりに未熟。大人の目から見ると、天才と狂気の人は紙一重。
「あんたの兄さんに殺される。」と文の友達は、自分の兄が感化されることを恐れます。
そして一人、時代からも普通の人たちからも飛び出てしまっている松陰と言う家族を持つ者たちの、そこには優しく暖かい家族の毎日がありました。
松陰をこんな風に描くなんて、やっぱり「花燃ゆ」は面白いと思っていたのです。
だけれどその松陰が居なくなった後、「花燃ゆ」は失速してしまいました。
裏ではライターさんの交代劇があったとか。
ベテランさんが〈準備不足のまま〉ピンチヒッターとして頑張ったとか。
でもそんな裏の事情なんかを、本来は知る必要なんかないんじゃないですか、私たち。
どうのような事が裏で起きていたとしても、レベル下げずに良いドラマを見させ続けて頂きたかったです。
だいたい、途中で「新」なんかをつけて、巻き返しみたいな決意を感じさせたのも頂けない。巻き返すぞという決意は、裏でやってくださいよ。巻き込むなと思いました。
大奥編からシナリオが変。
それに気がついたのは、父が病で倒れた時に美和が奥を去って戻らないかもしれないと言う時に、姫が
「ほんとうにのう、よくぞのう、やってくれました。」と心を込めて言うのですが、なまじ姫の演技が上手なものだから、その時美和のよくぞやった事なんかちっとも思い浮かばなくて、ライターさんのみではなくても演出にも不満がわきました。
シナリオが変だったのは、もっと前からだったのかも知れませんが、気がついたのがそこからだったわけで、思い返すと、みんなが久坂久坂と言う割には、彼がそこまでみんなに慕われる下地を感じる事も出来なかった事を思い出してしまいました。
高杉の大事なエピソードも切っちゃうし、作り手さんたちは、本当にこのドラマを愛してるのかと思ってしまったのは本音です。
久坂を失って、家名も失って、椋梨には足蹴にされて、それ、武士の妻なら一生の恥辱。忘れるわけがないのです。彼が言った言葉だってその後の彼女の原動力になったのではないかと思うのですが。
「女なんかに何が出来るんだ。おのれの無力を知れ。」と椋梨は言ったのです。
だから美和は出来る所で出来る事をしに行ったのだと思います。
家を再興させるチャンスを狙うために。
だからどんなことでもした。
養子に取った息子と別れる所でも、「継がせる家がないのです。短い間でも母と呼んでくれたのに本当に申し訳ない。でも母は母なりに戦います。あなたも勉学の道に励んであなたの戦いをするのですよ。」とか涙ポイントを作る事が出来たと思います。
そして奥に上がった美和を助けたものは、兄の傍で学び続けた教育だった・・・・。
と言う展開になってれば、群馬に行っていきなり女子教育に萌えた美和さんの行動にも説得力が出たと思います。
椋梨が失脚して久坂家が再興した時、いろいろなドラマを作る事が出来たと思います。しょせんこの「花燃ゆ」はほとんどがフィクションなんですから。だけれどこれ以上、私の妄想が暴走しても仕方がないですものね。まったくもって意味のない事です。
少々の不満を抱えながらも見続けていたのは、感動とは無縁になってしまったドラマですが、単純化された歴史絵巻もそれなりに面白かったし〈歴史大河ファンには怒りを買っていましたが〉、群馬篇になってからはいち地方の歴史を垣間見るのも楽しかったからです。
今まではシルクと言うと、貿易の中心になった私の故郷の横浜を連想していました。それを作っていた所に思いを馳せることなどはあまりなかったことです。
群馬篇になってからはきっと群馬では視聴率も上がったのではないかと思います。
群馬篇の三田佳子さん、凄く良かったです。この人は二回の大河の主役を演じましたが、命削ったと言っていました。大河のヒロインって大変なんですね。その三田さんがヒロインだった「花の乱」は、やはり視聴率は最悪で評判もイマイチだったらしいのですが、私にとっては最高のお宝大河です。毎回見終わった後にぼんやりと余韻に浸っていました。
チョー余談ですが、もしもネット社会の今、この作品がリアルで流れていたら、私は影響されて違う感想になってしまったのでしょうか。とてもそうは思えません。せいぜいツイッターに「佐野さんだけ、現代劇のようなセリフの言い回し。違和感バリバリ。でも萬屋錦之助と萬歳に挟まれてよく頑張ってると思う。」と書き込む程度だと思います。
その三田さん、やっぱり演技が上手いなと思いました。最終回の美和たちとの別れのシーンを凄く助けていましたよね。
萩では兄が松下村塾を引き継いで子供たちに勉強を教えていました。その妻は
「ご飯ですよ~。」とかつて美和がやっていたようにおにぎりを結んでやって来ます。
母はいつものようにお風呂を焚いています。
動乱の時が去って、静かな時代が来ていました。
ここまで生き抜いた人が勝ったのだと私は思いました。
いや、勝ち負けなどはないのですよ。ただ無名な者は無名なりの時代の使命があったのだと思うのです。
萩に戻って来た楫取と美和。
ラスト5分はちょっと感動しました。
過ぎていった松下村塾のみんな。彼らは時代の渦に飲み込まれ、ほとんどが鬼籍の人になってしまいました。でもみんなの顔がイキイキと輝いていました。
松陰の「一粒の籾(もみ)となり、種となる」と言う言葉を胸に霧の中に、未来に美和はまた歩いていくのです。
彼女は松陰の妹。紛れまない事実で、まったく世間には知られていなかったけれど、久坂の妻でもありそれなりの波乱万丈ぶり。だから大河の主役として取り上げられたのだから、松陰亡き後も常に彼の言葉とともにドラマがあったならば、もっと感動できたかもしれません。
と言いましても、打ち震えるような美しさだと思ったオープニングで松陰の言葉は毎回歌われていたんですよね。
だけど言っては何だけれど、歌詞、まったく聞こえてきませんでした。いつも素敵な音として聴いていました。
それでもう終わりなのでちゃんと調べようと思いました。
歌詞はHPに載っています。リンクしても数か月したら消えてしまうので、HPのよくある質問のページにありますよ。
元なるものは、留魂録の「愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々」から、その歌は出来ていたのですね。
意味は「愚かな私を友として大事に思ってくれる人がいるとしたら、私の友についても、私と同様に大事に思って欲しい」 というもの。
ああ、すっきりした。
遅すぎましたね、もう終わってしまいました。
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