話題の超スーパームーンが見られると言う11月14日の関東は、あいにくの雨で見ることは出来なかった。でも、その前日の13日もそしてまたその前の11日も月は綺麗だった。
天空高く輝く小さな球体。
「月が綺麗ね。」と、そこに居た中学生に言ったら
「でも14日の月は見られそうもないんですよね。」と言った。
「そうね、雨模様みたいだし。だから今の月を見ればいいじゃない。」と言うと、賢い彼はそれは違うだろと言う顔をして「ああ」と短く言ったのだった。
確かに、ずれた事を言ったのは私。
だけれど今の月を見て美しいと感じないのかいとちょっと首をすくめたいような気持ちになりながら、小さな球体に送られながら夜道を帰ったのだった。
トップ画像は15日に撮ったもの。
「あなたはスーパームーンの翌日の月よ。」と言ったところで月は言うだろう。
「知るか、そんなの。」
月を見るのはずっと昔から好きだった。
だけどブログを始めたりツイッターを始めたりした頃から、月を見る事にさらに拘るようになったかもしれない。
「月が綺麗ね。」と言うと、誰かがそれに応えてくれるような気がするようになったからだと思う。
それでもあの月、この月などと覚えている事は稀である。
なぜなら彼、もしくは彼女はずっとそこに居て変わらない存在だからだ。
もし彼が(彼女?)
「俺、変わってみせるよ。」などと決意しようものなら、地球の上に暮らす私たちに相当のリスクがあるので、その決意はしないで貰いたいものだ。
などと、くだらない事を言うのが歳を取った証なのかも知れない。変わっていくのは地上でオロオロと暮らしている私たちばかりなのだ。
最近私は、人は秋に歳を取るものなのかなと感じるようになってきた。
100歳を余裕でクリアできそうに思えた義母に久しぶりに会ったら・・・、久しぶりと言っても2週間ぐらいなのだが、彼女が急速に老いていたのに不安を感じたのだった。私の母は83歳になるのだが、娘の欲目でつい最近まで70代前半に見えた。そうとうの欲目だが、それでも母はいつでも若く見えた。だけど、近頃急速に老いて、なんだか年相応になってきたように思う。
きっと私も同じなんだと思う。
久しぶりに会った人に心の中で、若ぶっているけれどこの人老けたわねなどと思われているかもしれない。
ああー。
ところで、スーパームーンの話に戻ろう。
次のスーパームーンは何と2018年の1月1日だそうだ。
これ、いい感じがするよね。日にち的にも。
天体ショーマニアのみならず、なんか心が動くような感じがするじゃないか。
そして今年並みの超スーパームーンは18年後の2034年らしい。
なんとかその月を見てみたいような気もするが、今世紀最も月が近づくのは36年後の2052年12月6日だって。
この36年という年月は
「運が悪くなければ見る事が出来る。」と言う人と、
「運がかなり良ければ見る事が出来る。」と言う人と、
「あのよ~、・・・」と悲しいけれど見る場所が、更に月に近づいてしまっている人たちに分かれてしまうと思う。
母や義母はどう考えても「あのよ~、」組。
私はと言うと、相当運が良くなければ見る事は叶いそうもない。
もしも見る事が出来たならば、私は月を見上げて言うだろうな。
「生きたなあ。」って。
今年のスーパームーンを見逃した人には、各地で撮られたその画像集があるので貼っておく。→ここ
天上には月、地上にはケーキ
人生は楽しい。